言語化の限界
動きを言葉で捉えることの困難について、ドイツ出身の哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の経験を参照しながら考えてみましょう。1940年代に東北帝国大学に滞在していたヘリゲルは、6年間にわたって弓術を学びました。指示したのは弓聖と呼ばれた達人、阿波研造(1880-1939)です。ヘリゲルの著した『日本の弓術』には以下のような描写があります。
「放れ」を待つことができないのは、ヘリゲルが自身から離れていないからだと言う阿波研造。弓を引くのは目的に対する手段のはずだと考えるヘリゲルは、この説明に納得がいきません。的に当てるために弓を引くのではないかというヘリゲルに、阿波は声を上げて答えます。弓の道には目的も意図もない。的に射当てるために矢の放れを習得することを目指す限り、「放れ」は成功しない。そのために正しく待つこと。自分自身と自分のもの一切を捨て去ること。ヘリゲルがなお、意図しながら意図しないようにすることの不可解を表すと、阿波は、そんなことを尋ねた弟子は今までいない。だから自分は正しい答えを知らないと応えます――。
ヘリゲルの違和感は、一連の動きに対する阿波の言語記述的な説明が整合性を持たないことに起因しています。そこには、ヘリゲルの母語であるドイツ語を含めたラテン系の言語が、日本語とは違って、主語の線引きをより強く求めることも影響しているでしょう。「私が弓を引くこと」「的に当てるために弓を引くこと」を否定する阿波の態度は、主体と客体、能動と受動、目的と手段といった論理を用いることの拒絶に他なりません。そしてそれは私の経験した「投げられまいとしながら自らを投げる」という体感とも通底しているように思われます。
アンリ・ベルクソン(1859-1941)の思考は、こうした体感と言語のアンビバレントを考える一つの足掛かりになるかもしれません。