■ 葛飾区&江戸川区探訪
東京都遺跡地図には、古墳の他にも「塚」が数多くプロットされている。勿論その大部分は中世〜近世にかけて造られた経塚や富士塚等であるが、中には「性格不詳」「時期不詳」と良く分からないものや、名前だけ「◯◯塚古墳」と古墳である可能性を臭わせている塚もある。要するに、コレと言った遺物が知られていない上に未調査のため、古墳なのか別の目的で造られた塚なのかハッキリしない物件なのである。

先週迄とはうってかわって朝からどんよりとした曇天であったが、本日はそうした「塚」の内、葛飾区と江戸川区に残る古墳の可能性がありそうな物件を巡ってみた。

●鹿見塚

車で環七を飛ばし、京葉道路を左折。まずは江戸川区の篠崎公園のそばにある、同区鹿骨3丁目の鹿見塚へ。
この鹿見塚はこのあたりの地名である「鹿骨」の起源となった場所で、古くから地元では「古墳ではないか?」と言われているそうである。

現在、隣の葛飾区内からは、柴又と立石からそれぞれ古墳跡が見つかっている。葛飾区〜江戸川区は、奈良時代の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」で知られる大嶋郷に比定されている。大嶋郷は「嶋俣里」「仲村里」「甲和里」の3つの里から構成されており、それぞれ、葛飾区柴又周辺、葛飾区立石〜奥戸周辺、江戸川区小岩周辺にあたるのではないかと考えられているのだが、つまり、今の所、嶋俣里と仲村里の範囲からは、古墳が見つかっているのに対し、甲和里からは見つかっていないということになる。
江戸川区内からも上小岩遺跡をはじめ、古墳時代の集落遺構が幾つか発見されている。柴又や立石同様に、集落があるのであれば、古墳があってもおかしくはない訳で、そんな江戸川区において、最も古墳である可能性が濃厚なのが、この鹿見塚であると言えよう。
鹿見塚

現在塚上には鹿見塚神社が祀られているが、ご覧の通り、非常に小さな神社である。ただ、神社敷地に隣接する土地も元は塚の一部であったように思われるので、元々の規模はもっと大きかったのであろう。
塚の様子

塚と言っても削られたのか埋没しているのか、現状では高さは殆どないのだが、参道から社殿に向けて僅かに盛り上がっている。
鹿見塚碑

「鹿骨発祥の地鹿見塚」と彫られている。地元の有志によって建てられたようだ。
説明板

「この鹿見塚のあるあたりは昔から鹿骨発祥の地といわれている。伝説によるとこの地は昔戦国時代の頃、興亡のはげしい世の中を離れ、安住の地を求めて石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓し住みついた所といわれる。ある日のこと日頃尊崇している鹿島大神が、常陸の国から大和の奈良に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。
昭和四十二年八月氏子中によって碑が建てられた。台座はコンクリート三段組で高さ九八・碑石は高さ八一・幅五二・厚さが一三(単位センチメートル)あり表面に「鹿骨発祥の地・鹿見塚」と刻まれている。鹿見塚神社は昭和四十八年に再建築されたものである。
昭和五十二年十一月 江戸川区教育委員会」とある。
塚上からの眺め

一番小高くなっている社殿裏手から外を眺めてみると、道路からそれなりに比高があることが分かる。
西から

社殿の裏手に向けて、徐々に高まっていっているのが分かる。社殿裏手あたりが元々のマウンドの頂上だとすると、マウンドの北側半分と西側がざっくり削られてしまっているようだ。
北から

神社敷地の東側も建物で削られており、現状は元々あった塚のごく一部が残されているに過ぎないことが分かる。

●半田稲荷神社

次は篠崎公園前から柴又街道を北上し、葛飾区東金町4丁目の半田稲荷神社へ向かう。
ここは遺跡地図で葛飾区の18番として登録されており、遺跡名は特につけられていないのだが、「低地微高地 塚? [中?]」となっている。塚なのかどうかもハッキリしない上、時代も中世のものなのかどうかハッキリはしていないようだ。

このように、今一つ掴みどころのない遺跡なのであるが、聞く所によると、境内には「狐穴」という横穴があるという。横穴式石室が「狐穴」と呼ばれることは良くある(実際に狐が巣をかけることが多かったのだろう)ので、柴又八幡神社古墳のように、石室の一部が露出しているのかもしれないと思い、足を運んでみた。
半田稲荷神社

東側に江戸川(太日川)を臨み、北側に水元公園(旧入間川流路跡)を臨むという立地で、古墳時代はこの2つの河川に北〜東〜南を囲まれた半島状の自然堤防上に立地している。尾張徳川家から庇護され、多くの歌舞伎役者が参拝していたことで知られている。
神泉跡

湧水は枯れているそうだが、遺構が境内に保存されていた。泉をとりまく柵には寄進者の名が刻まれており、市川団十郎や尾上菊五郎といった歌舞伎役者の名もある。
塚?

社殿左手の稲荷祠の左手から背後にかけてが盛り上がっており、この祠は塚を切り開いた跡に祀られているようにも見える。新宿区西早稲田の水稲荷神社裏手にある冨塚古墳と似たような雰囲気であった。
狐穴

稲荷祠へ続く参道の左手に、噂の狐穴があった。期待に反して溶岩等で比較的新しい時代に造られたもののようであった。元々富士塚でもあったのだろうか?
別角度から

塚上の薮から、今まさに飛び出してきたような狐の石像が可愛らしい。このあたりは溶岩を積み上げて造られているようで、富士塚跡地っぽい。
狐穴クローズアップ

ご覧のように溶岩を積み上げて造られており、古墳の石室跡ではないようだ。大きさも小さく、仔狐位しか出入りできそうにない。
稲荷祠

鳥居を潜り、祠の前に出ると大小様々なお狐様達がお出迎え。何となく楽しげな光景であった。葛飾区による説明板によると、祠の前の一対の狐は、狐の石像としては区内最古のものなのだそうだ。
稲荷祠左手の様子

ご覧のように塚跡のような地形になっている。狐穴は石室跡ではなかったものの、時期不詳の塚ということなので、もしかすると古墳跡なのかも知れない。ただ、これだけ削られている割には特に遺物は知られていないらしい。
稲荷祠右手の様子

稲荷祠の背後から右手、更に右手の社殿裏にかけて塚状の高まりが続いていた。塚の南側を削った跡に、社殿と稲荷祠を建てたような印象である。
塚状地形を裏手から

裏手(北側)は公園になっており、元々塚だったとすると、南側だけでなく、北側も削られていることになる。これだけ削られて、特に遺物が出ていないという点が古墳と見るには弱く、区としても「中世の塚か?」と推定するより他にないのだろう。

●三ツ池古墳

半田稲荷から国道6号を南下。古墳時代の集落跡が見つかっている新宿地区から左手の住宅地に入って暫く進むと、葛飾区の10番として遺跡地図にプロットされている、三ツ池古墳のある理昌院そばに出る。

この三ツ池古墳、古墳という名がついているものの、時代区分は奈良時代となっている。再終末期の古墳なのか?と思いきや、遺跡地図には古墳マークではなく、塚マークでプロットされている。要するに古墳とは言われているものの、付近からは奈良時代の遺物しか出ていないということのようだ。まあ、再終末期の古墳になると、火葬骨を骨蔵器に入れて埋葬するだけという形もあるので、もしかすると本当に8世紀代の古墳なのかも知れない。
理昌院墓地から該当地付近

地図には現存マークでプロットされているのだが、該当地は塀の向こうで、良く分からなかった。Google Earthで確認するとどうも建物の下敷きになっているっぽいのだが、多少なりとも残っているのだろうか?
聞明寺墓地から

隣接する聞明寺の墓地からも覗いてみたが、この場所から、上の写真で棕櫚の木が生えているあたりに向けて若干地形が高まっているような印象で、もしかすると聞明寺の裏庭(棕櫚の木のある所)に多少墳丘が残っていたりするのかも知れない。

●奥戸三丁目の塚

最後に立石様や南蔵院古墳、立石熊野神社古墳がある立石から中川(古利根川)を渡った対岸にあたる奥戸三丁目にある塚を見学する。
ここは遺跡名はついていないものの、葛飾区の23番遺跡「低地微高地 塚 [不]」として遺跡地図にもプロットされている。対岸に古墳跡があり、奥戸地区からは古墳時代の集落跡(鬼塚遺跡)が見つかっていることから、古墳である可能性も考えられる物件である。

ただ、古墳時代の集落跡が見つかった鬼塚遺跡内にある、一見円墳状の塚である鬼塚は、調査の結果中世塚であることが判明しており、これを考えるとこの塚も同種の中世塚である疑いも出てくる。
奥戸三丁目の塚

奥戸3−12の住宅地の最奥部に人目を避けるように佇んでいる。周囲は全て住宅で取り囲まれており、通りからその存在を見通すのは難しい。このブロックの中心部分がちょっとした広場状になっており、そこに建つ民家の裏手に円墳状の塚が残っていた。
目測で高さ1.8m程度、径10m程度の小型の円墳状である。民家敷地(写真左手〜手前)とマウンドの間が凹んでおり、周堀跡のようにも見えるのだが、民家敷地側を盛土したためにこうなっただけとも考えられる。
民家庭先にあった奇石

マウンド前に建っている民家の庭先に男根状の石がおかれていた。元々塚上かその前あたりに神社か何かがあった名残なのだろうか? この場所は住宅密集地のド真ん中に、ここだけぽっかりと空間があき、2軒の家がポツンと建っているだけというちょっと変わった雰囲気であり、塚があることからしても、神社跡地なのかも知れない。

江戸川区や葛飾区というと、北区や板橋区等の都内の台地上の地域と比べると元々古墳や塚の数はとても少ない印象の場所なのだが、4カ所まわって、一応3カ所、見た目にそれと分かる場所が見られたというのは実に優秀な成績である。古墳かどうかは不明としても、こうした塚が残っているのは大したものだと思う。

今日は時間の関係で寄ってこられなかったが、いつも仕事で通っている江戸川区内の道沿いにもう1カ所、塚上に鎮座する稲荷社があるのを知っている。探せばまだ他にもありそうな気もするので、地誌や郷土史本でもう一調べして、再度この地域を巡ってみようと思う。

投稿者 Toyofusa : 2007年12月22日 21:44 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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