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2007年12月16日 旧入間川流域の古墳
 ■ 花畑・大鷲神社&竹の塚・竹塚神社
午前中の蓮沼・大塚山に続き、午後は毛長川流域の「古墳かも知れない物件」を見に足立区へ。

足立区内の毛長川流域の古墳&古墳跡は、考古学系の文献や郷土史本の類で知ることが出来たものに関しては、既に一通り巡り終えている(写真を撮ってない所は何カ所かある)のだが、最近、『江戸名所図会』等の江戸時代の地誌類や神社の社伝等に踏み込むようになってから、もう何カ所か「古墳かも?」と思える物件が浮上してきている。
本日はその内の大物2件を訪ねてみた。

●大鷲神社

最初は花畑の大鷲神社である。
毛長川と綾瀬川との合流点を見下ろす小高い丘の上に鎮座する神社で、「酉の市」発祥の神社としても有名である。
今日「酉の市」と言うと、浅草寺(鷲神社)の酉の市がまず第一に想起されるが、これは花畑大鷲神社が祭礼の際に、鶏を浅草寺に放生していたことを契機に浅草に伝わったものであるとされている。これは2つの点で興味深い。

まず第一に、大鷲神社は全国各地に存在しているが、これは古代豪族・土師氏と深い関係を有する神社であるとされている。と言っても「土師=はじ」が「鷲=わし」に訛ったのだろうという朧げな理由なのであるが、浅草寺が土師真知という土師氏の豪族によって創建された寺であるとされている点が見逃せない。

第二に、どちらも古墳群が存在した地であるという点である。花畑大鷲神社のすぐ西側には毛長川流域A群に分類されている白山塚古墳と一本松古墳の2基の円墳が存在していた。更に西方には古墳流用と考えられる花畑浅間神社の富士塚があり、江戸期の文献を見ると、かつては他にも幾つかの塚が大鷲神社周辺に存在していたようである。
一方、浅草寺には住職の居宅である伝法院に残存する石棺が出たとされる、浅草寺本堂裏手にあった熊谷稲荷の塚(江戸期の文献では秋葉社が乗っている)をはじめ、調査によって確定して訳ではないものの、弁天山や蛇塚、待乳山等、古墳と考えられる塚が存在している。

かつての毛長川(旧入間川)の流路は、現在の綾瀬川との合流点から更に東方に伸びており、葛飾区の水元公園の西方で中川と合流し、更に水元公園の東方で太日川(現江戸川)と合流し、デルタ地帯を形成しつつ東京湾に流れ込んでいたことが分かっている。水元公園内に残る流路跡は、古くは旧入間川のものなのだ!
従って、浅草と花畑は中川(古利根川)を用いた水運で連結されている地であり、大鷲神社が祭礼で鶏を浅草に放つという風習は、こうした古くからの地縁に基づくものなのではないかと考えられるのだ。

その一つの傍証として、日本武尊伝承が挙げられるだろう。浅草のある台東区から隅田川対岸の江東区にかけては、鳥越神社や吾嬬神社をはじめ、日本武尊に関する伝承が多い。例えば江東区立花の地名は、日本武尊の妻、弟橘姫に由来するものだし、吾嬬神社はその姫の遺品を葬った塚であるとされている。そして大鷲神社の祭神は日本武尊であり、日本武尊の東征に対する報恩のしるしとして祠を祀ったのがその創建であるとされているのである。
更に日本武尊伝承は大田区や品川区の東京湾沿岸地域にも多く分布しており、あたかも大田区→品川区→台東&江東区→足立区と東京湾から古利根川を遡って花畑に至る水上交通ルートの存在を暗示しているかのようである。これは東海地方産のS字口縁台付甕の分布状況とも重なる部分があり、これが東京湾から河川を介して内陸に向かう水上交通路によって伝播したと考えられていることと同様なのかも知れない。

そんな土師氏や日本武尊との関わりが推察される大鷲神社の江戸時代の様子が、『江戸名所図会』に描かれている。それはどう見ても大きな円墳状のマウンドに乗っているようにしか見えず、近辺に古墳が存在していたことからして、ここもまた古墳なのではないか? という気がしてならないのである。
『江戸名所図会』鷲大明神社

多くの人が行き交い、当時の「酉の市」の盛況振りが伺える。賭場や遊郭まで臨時に設営されたそうで、江戸市中のみならず、遠方からも多くの人々が訪れたという。
大鷲神社社殿拡大

どう見ても円墳状のマウンドの上に鎮座しているようにしか見えない。周辺は旧入間川の氾濫土による微高地が延々と広がる土地であるので、自然地形とも思えず、人為的に盛土されたものである可能性が高いのではないだろうか? 手前に見える「弁天」と書かれたマウンドももしかすると小型の円墳を流用したものなのかも知れない。
現在の参道

周辺はすっかり宅地開発されてしまっているものの、参道の規模は江戸時代から変わらない様子であった。
木々に囲まれた長い参道を進むと、右手に新設された神園が現れ、その先に小高い丘の上に鎮座する社殿が見えてくる。
大鷲神社社殿

江戸時代の絵図と比べ、土台部分が整形されてはいるものの、社殿のサイズから推測すると、驚いたことにマウンドの径と高さ自体は大きくは変わっていないようである。
説明板

ここでは源義光(八幡太郎義家の弟)が戦勝を祈願したという由緒しか語られていないが、前述の通り、日本武尊の東征にまつわる創建の由緒が別にある。先週の鳥越神社に関する記事で触れた通り、元々は日本武尊に関する伝承であったものが、時代が下るにつれ、その時々の武将の話しにすり替わっていくという私の推測を裏付けているようである。
マウンド上の様子

江戸時代の絵図と同様、かなり広々としている。もしこれが古墳だとすると、かなりの規模のものである。径50mはある感じである。
マウンド上から麓を見下ろす

現状で高さは1.8〜2m程度で、径の割に低く、かなり薄べったい印象である。元が古墳なら相当削られている筈で、それだけ削られていれば遺物の一つ二つは知られていそうなものだが、特にそういう話しはないようである。
マウンド東側の様子

側面が石垣で整形されてはいるものの、特に大きく削られている訳ではなく、全体としては旧状を留めているようであった。『江戸名所図会』で描かれた姿とは全く様子が変わってしまっている場所が殆どである中、これは非常に貴重な例であろう。まさか身近にこのような場所が残っていたとは、驚きである。
マウンド北側の様子

こちらも石垣で直線的に整形されているが、裾部の列石が緩くカーブを描いており、元は円形のマウンドであったことが伺えた。
マウンド西側の様子

マウンドの周囲は『江戸名所図会』の図同様に平坦地が取り囲んでおり、一周することができる。この平坦地は周堀跡であるようにも思えるのだが、どうだろうか?
倉庫

『江戸名所図会』で「弁天」と記された小さなマウンドがあったあたりは倉庫になっていた。若干小高くなっているのはその名残りか? ここももしかすると古墳跡なのかも知れない。
築山

江戸時代は社殿に向かって左手に弁天社が乗るマウンドと池が描かれているが、現在は参道を挟んだ反対側に池と築山が設けられていた。ただ、江戸時代の図でもこの場所には鳥居が2つと祠が描かれており、当時からの高まりを再加工したものかも知れない。現在は頂上付近から滝が池に流れるように細工されている。
尚、大鷲神社一帯は「大鷲神社境内遺跡」として遺跡登録されており、過去に縄文及び弥生土器片が採集されていることから、東京低地でも最も早い段階で陸化した場所であると考えられている。近辺に古墳が所在したことから、縄文〜弥生〜古墳時代の遺構が存在することが予測されているのであるが、1991年に神社敷地北側に隣接する道路と公園で行った所、通常この界隈で遺跡が検出される自然堤防の高位面を示す黄褐色シルト層は検出されず、低湿地であったことを示す青色シルト層が検出されただけで、遺構遺物は見つからなかった。報告書では近代以降に受けた撹乱の影響を考えているが、遺跡はより標高が高い南(神社敷地内)か西の方にあるのではないかとしている。

今の所、神社敷地内での調査はなされていないようであるが、本日訪ねてみた所、参道入口の南側の工場が取り壊されており、整地工事が行われていた。この工事に伴う調査がなされたかどうかは分からないが、何か新たな発見に繋がるのかも知れない。

●竹塚神社

大鷲神社の次は、竹の塚駅東口にある竹塚神社へ。
竹の塚駅西口から北に500m程歩くと白旗塚古墳が現存しているが、江戸時代に描かれた『日光道中分間延絵図』を見ると、白旗塚周辺には他に5基の円墳らしき塚が描かれている。また、『新編武蔵風土記稿』竹塚村の項にも「駒形耕地」に小さい塚が幾つかあるという記述が見え、これは東武線の東側にあたる。また、竹の塚の南に隣接する六月町にある炎天寺には人物埴輪の頭部が保存されていることから、かつては竹の塚駅東口方面にも古墳が存在していたことが伺えるのである。

そんな古墳群地帯に鎮座する竹塚神社は、社伝によれば、源頼義(義家、義光の父)が奥州征伐の際に陣を敷いた場所であるとされ、明治の頃迄は境内にその遺構とされる環濠が残っていたのだそうである。
大鷲神社の所で述べたように、源頼義奥州征伐云々は後世に変形を受けたものであり、元々は日本武尊が東征の際に陣所としていたという話しだったのだろうと思う。ま、それもまた伝説であり、とうてい事実とは考えられない(日本武尊が実在したかどうかもハッキリとしていない)ものではある。
いずれにせよ、武将が陣所としたという伝承は環濠の存在から捻り出されたものであるこは容易に想像できる。しかし、この立地で環濠となると、それは防御の為の堀ではなく、古墳の周掘の名残りと見るべきではないだろうか?
竹塚神社

竹の塚駅東口、イトーヨーカドー前に鎮座している。周囲の道路や宅地と比べると敷地全体がやや小高くなっている。
由緒書

明治時代迄環濠が残っており、源頼義が宿陣した際の遺構であると考えられていた旨が記されている。社殿は墳丘上に鎮座しており、環濠は周堀なのではないだろうか?
竹塚神社社殿

玉垣で画された社殿一帯は参道側よりも若干小高くなっており、墳丘上に建てられた名残りが感じられなくもない雰囲気であった。やはり古墳跡地か?
社殿周辺の様子

環濠はどうやら埋められてしまったようで、現在は確認できない。どの位置にどの程度の規模のものが存在していたのだろうか?
南東から境内遠景

現状はとても古墳のようには見えないが、道路と比べて敷地が若干小高くなっているのが分かる。現存する古墳からそう離れていない場所で正体不明の環濠があったとなると、古墳跡かと勘繰りたくなる。
竹塚神社の向かいにBook Offがあったので、何かCDの出物でもないかと思い、物色。
メタル系は寂しい限りの在庫状況であったが、それでもドイツのメタルバンド・Grave Digger=墓堀人の未入手日本盤アルバムと同じくドイツのRAGEのベスト盤(何故か新品)を発見! 私は日本盤が出る迄我慢できない性格なので、まずは輸入盤を買ってしまうのであるが、結局日本盤もボーナストラックが気になって買ってしまう場合が多い。買い逃した場合は、こうして中古屋で探す羽目になる訳で、だったら最初っからちょっと我慢して日本盤だけ買うようにした方が何かと宜しいのは分かっているのだが、「Heavy Metal is Dead!!!!」と叫ばれて久しい昨今、日本盤が出ない場合も珍しくないので、当面この悪習はやむことがないのだろうと思う。

あと、SLAYERの新譜"Christ Illusion"の日本盤も売られていた。これは既に輸入盤と日本盤と2枚持ってるから買わないけど、この辺の中古屋ではまず見かけない品である。鋼鉄CDの数は少ないが、並んでいるのは珍しいものばかりと、充実しているんだかしていないんだか、良く分からないBook Off 竹の塚店であった。

●白旗塚古墳

本日の予定は竹塚神社をもって終了であるが、折角ここ迄来たので、駅の反対側にある白旗塚古墳に寄っていくことにする。以前は車で来た場合、ちょっと離れた所にある伊興遺跡公園の駐車場に停めて、エッチラオッチラ歩いて来なくてはならなかったのだが、昨年、間近にコインパーキングが出来たので、非常に車で行き易くなった。
白旗塚古墳

特に以前と何も変わった様子のない、径12m、高2.5mの円墳である。公園化されているのだが、何故か未調査のままである。何故か周囲に水堀が巡らされ、橋にも門が設けられており、墳丘に立ち入れないようになっている。この古墳には強烈な祟りの伝承が少なくとも2ヴァージョン伝わっているのだが、それを恐れているのだろうか?
白旗塚古墳スタンプ

以前は「白旗塚古墳ポストカード」があったのだが、昨年からそれに変わってご覧のようなスタンプが設置された。どうやら「史跡巡りポストカード集め」から「史跡巡りスタンプラリー」に企画変更になったようだ。古墳スタンプは意外とありそうで無いので、訪れた際には是非バシバシ押しまくって頂きたい。

投稿者 Toyofusa : 2007年12月16日 00:31 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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