今日も3週連続で小春日和。家でゴロゴロするには勿体ない陽気である。
今年は週末の度に天候がすぐれないというパターンが多く、平日、仕事で外をまわりながら、「暢気に働いてる場合じゃね〜!」と思うことも度々であったので、週末の度に好天続きというのは本当に嬉しい。
しかも、今日は寝坊せず、予定通りに起きることができた。そこで、先週寝坊のために断念した、代官山〜恵比寿界隈の古墳&古墳跡を巡るべく、倅を連れて家を出た。
ちょっと前迄、鳩ヶ谷から恵比寿というと割と遠いというか、行くのが面倒臭いというイメージがあったのだが、最近は最寄りの赤羽駅から埼京線で1本という手軽さである。まあ、埼京線は新宿止まりの電車も多いのだが、乗り継ぎが良ければ、自宅から1時間足らずで到着し、今日も大体それ位で恵比寿駅につくことができた。
恵比寿〜代官山あたりの台地上は、今でこそ現存する古墳は少ないが、江戸時代の地誌類を読むと、かつては多くの古墳と見られる塚が築かれていた場所であることが分かる。東京都の遺跡地図を見ると、渋谷川を挟んで左右の台地上に古墳及び古墳跡がプロットされている。その内、渋谷川の右岸にあたる代官山〜恵比寿界隈には、現存2基、古墳跡3基の計5基が存在している。今日はこれらの古墳&古墳跡を巡ってみる。 |
●福昌寺石棺仏
関西からの移入物なので、この地の古墳群とは直接関係はないのだが、恵比寿駅東側の福昌寺に古墳の石棺の蓋に仏像を彫刻した石棺仏があるそうなので、最初にこれを見学してみた。 |
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石棺仏
「♪私のぉ〜お墓のふーたに〜彫らないでください〜」
と聞こえてきそうな感じで、確かに家型石棺の蓋の裏側に仏像が刻まれている。石棺仏は関西に多く見られ、関東ではこの福昌寺のものと埼玉県深谷市の岡林寺のものと2例しか知られていないらしい。 |
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説明板
和歌山県から持ち込まれたものとされるが、石材は兵庫県加西市近傍のものであるようで、元々はそのあたりの古墳に用いられていた石棺であると推察される。加西市は石棺仏のメッカで、数多くの石棺仏が現存している。また、『播磨風土記』にその築造の由来が記された玉丘古墳があることでも知られている。 |
●加計塚古墳跡
続いて、恵比寿駅近傍の古墳跡を訪ねてみる。
まずは福昌寺から渋谷川を渡った南方にある加計塚古墳跡である。 |
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加計塚小学校
現在この界隈の地名は「恵比寿四丁目」となってしまっているが、バス停や小学校の名前等に旧地名を留めている。古墳跡はこの小学校の校舎裏手に所在するらしい。 |
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加計塚古墳跡地
東京都遺跡地図では加計塚小学校校舎の裏手にプロットされており、そこを覗いてみると台地縁のいかにも古墳がありそうな立地であった。残念ながら、地表にはそれと分かる痕跡は残っていないようだった。 |
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景丘公園
加計塚小学校に隣接する公園は、「景丘公園」という名であった。「カケ(カゲ)オカ」にある塚だから「カケヅカ」と呼ばれたのだろうか? |
●渋谷塚古墳跡
次は加計塚跡から恵比寿駅を挟んだ反対側、ほぼ真西に位置する渋谷塚跡である。遺跡台帳では円墳とされている。この古墳については、今詳細を調べている所なのだが、恐らくその名称はこの地を支配した武士である渋谷氏とその伝承に由来するものと思われる。 |
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渋谷塚古墳跡地
丁度台地上の平坦面が、渋谷川沿いの低地に向かって下る斜面に移行するあたりであり、この地形が旧来のものであるのならば、所謂山寄せ式の円墳であったと思われ、概ね7世紀頃の終末期古墳であったのかも知れない。 |
●福徳稲荷古墳跡
渋谷塚跡から北(恵比寿駅方面)にちょっと歩くと、線路沿いに小さな稲荷社が見えてくる。これが福徳稲荷で、かつては円墳上に祀られていたらしい。 |
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福徳稲荷古墳跡地
渋谷塚同様、台地平坦面から斜面に移行するあたりに所在している。現状はまったく古墳のようには見えず、墳丘は削平されしまったようだ。 |
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境内の様子
遺跡地図ではこの神社境内から背後の宅地あたりにかけて円墳マークがプロットされている。神社背後の宅地は神社敷地よりも高くなっており、恐らくそのあたりに墳丘が存在していたのであろう。 |
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境内の様子2
境内は狭く、現状はとても小さな稲荷社なのであるが、「渋谷次郎史跡」と刻まれた石碑があった。ここも渋谷塚同様に渋谷氏伝承と関わりのある場所のようだ。狭い境内の両側には寄進者の名が刻まれた石柱がズラっと並んでおり、地元の人々から篤く祀られていることが伺われる。 |
●猿楽塚古墳北塚
恵比寿駅周辺の古墳跡地を一通り見終え、次に代官山駅近くの猿楽塚へと向かう。恵比寿と代官山は非常に近く、福徳稲荷から西に10分少々歩くだけで猿楽塚に至ることができる。と言っても、恵比寿駅前の中古カメラ屋で私が使っている古ライカ用の革ケースの出物を見つけてしまったので、買おうかどうか暫く悩んでしまったりしていたので、実際には30分近くかかってしまったが。都内の古墳見物は何かと便利な反面、こうした誘惑が多いのが困ったものである。
さて、代官山というと、10年程前に今の妻と渋谷から東急東横線に乗って代官山に向かっていた際に、同乗していた二人組の若い外国人女性が歌っていた「代官山の歌」が思い出されてならない。
ま、歌といっても延々と、
「♪だーいかんやぁまっ、♪だーいかんやぁまっ、♪だーいかんやぁまっっ」
と次第にトーンをあげつつ合唱し、これ以上高い声が出ない!という所まで繰り返した所で、二人呼吸をあわせて
「だいかんやぁーまぁ〜〜!!!」
とシメるだけの、どーしようもないものなのだが、私達を含め、乗り合わせていた人々は、その余りのどーしようもなさと、そんな歌を車中で、公衆の面前で、堂々と且つ楽しげに歌ってしまう彼女達の脳天気さとに吹き出すのを堪えるのに必死だったのであった。あれ以来、耳について離れず、代官山に来る度に思い出してしまう。 |
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猿楽塚の立地
猿楽塚はヒルサイドテラスという施設に取り込まれているため、イマイチ地形が掴みづらいのだが、ヒルサイドテラスはご覧のような崖縁に建てられており、従って猿楽塚も台地縁辺に築かれた古墳であることが分かる。尚、この崖下の低地には目黒川が流れており、先に見た恵比寿駅周辺の古墳が渋谷川を見下ろすような立地であったのに対し、猿楽塚は目黒川を見下ろすような立地となっている。 |
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東から
通り沿いにヒルサイドテラスを左手に見つつ進んでいくと、建物の切れ間にこんもりとした林が見えてくる。これが南北に2基並んでいる内の北塚とされるものである。径20mと割と大き目の墳丘が、半ば建物に取り込まれるように残っているのが面白い。 |
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南から
墳頂には猿楽神社が祀られており、墳丘南裾に鳥居と参道入口が設けられており、説明板もここに立てられている。径20mと聞くと、割と小さ目な円墳のイメージであるが、建物に囲まれたちょっとした空間にドカっと存在しているせいか、こうしてみると中々大きな墳丘が残っているように見えた。 |
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西から
代官山の商業地の中にこうして古墳が残っているということ自体、中々に奇異な風景である。代官山だけあって、古墳をとりかこむ壁や、墳丘の土留めも心なしかオシャレな感じがする。恐らく都内の古墳としてはもっともファッショナブルな装いの物件であると思われる。墳丘北側裾は完全には削られずに、タイル等で固められつつ建物に取り込まれているのが分かる。 |
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墳丘北側の様子
墳丘北側はタイルに固められて通路となっている部分を経て、奥に見える建物内へと続いているようである。こうして完全には削り取らず、建物と融合するかのように加工されたのは、史跡指定されているのと、恐らくこの土地の地主が墳頂の神社を祀った家であるからだと思われる。 |
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墳頂の様子
墳頂の平坦面は少なく、多少削平して社殿の為の敷地を確保した雰囲気であり、横穴式石室が採用されたことにより、墳頂平坦面が減少する傾向にある6〜7世紀台の古墳とする推定は妥当な所のように思えた。埴輪は出ていないようなので、埴輪消滅後の7世紀台のものであろうか? |
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墳頂からの眺め
現存高5mと割と背の高い方で、墳頂からの眺めもそれを反映してかなりの高低差を感じるものとなっている。周囲を建物に囲まれているため、見晴らしは良くないが、もし建物がなければ、台地縁という立地もあって、かなり遠く迄見通せるものと思われる。物見台として用いられたする伝承もあるが、それも納得である。 |
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説明板
鳥居の脇に、渋谷区教育委員会による説明板が立てられていた。その昔は、南北に並ぶ2基の古墳の間を鎌倉街道が通っていたそうである。このあたりに渋谷氏伝承が多く生じているのも、この鎌倉街道がこの地を通っていたことに起因するのだろう。 |
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猿楽神社縁起
「古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は、江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等にも見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。六〜七世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほとんど湮滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和五十一年三月十六日に、渋谷区指定文化財第五号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、二月十八日、十一月十八日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成十四年十一月十八日 朝倉徳道 撰」とある。 |
●猿楽塚古墳南塚
遺跡地図や現地説明板によると、猿楽塚は南北に2基並んで現存していることになっており、上で見た北塚のすぐ南側にもう1基、小さい方の古墳がある筈である。ざっと見回してみた所、南側はヒルサイドテラス等の建物があるばかりで、全くそれらしいものは見られなかったが、ヒルサイドテラスと、北塚の西側にあるマンションの間の谷状になっている部分にそれらしいマウンドがあった。
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南塚?
遺跡地図にプロットされている地点より若干西寄りである気がするが、日本家屋の裏手にそれらしいマウンドが見られた。個人宅の敷地のようで、立入りることは出来ず、垣根の木々によって見通しが悪いのだが、確かに遺跡台帳にあるような径12m程の円墳のように見えた。 |
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裾は石垣が施されており、一部家屋で切られていたりと、多少は変形しているようであるが、もしこれが南塚だとすると、こちらも北塚同様に割と良く残っているようである。北塚側からだと垣根の木に阻まれて良く見えないのだが、今にして思えば、この場所を見下ろすように建っているヒルサイドテラス内の店舗の中から覗けば、良く見えたのではないかと思う。 |
石棺仏から猿楽塚迄、一通り見終えた時点で午後1時。古墳巡り的にはこのまま目黒方面に向かうか、渋谷川左岸の広尾方面を流すかしたい所ではある。で、広尾まで行くのであれば、メタラーとしては六本木のハードロックカフェで昼食をとるというのも魅力的ではある。が、そもそも恵比寿〜代官山行きを思い立ったのは渋谷に用事があったからなので、その用事を済ませるべく、代官山駅から「代官山の歌」を脳内でグルグルさせつつ東急線に乗り、渋谷へ。
渋谷で2軒ばかり店を巡って買い物を済ませた後、別な買い物をするために上野へ移動。ついでに上野駅駅ビル1Fにあるハードロックカフェで久々に昼食をとることとした。
私はいつもハンバーガーを頼むのだが、英国発祥のアメリカンレストランであるこの店、世界共通のレシピで調理しているだけあって、ハンバーガーもアメリカンサイズである。何しろ間に挟まっているハンバーグが1枚180gというボリュームである。
学生時代、語学研修で一月程滞在したニュージーランドで、ホストファミリーに連れられて訪れたマクドナルドで出されたハンバーガーの大きさに衝撃を受けた(事前に話しは聞いていたが)ものだが、大体それと同じ位。小1の倅の顔程もあるハンバーガーがフライドポテトの海に浮いているという風情なのである。
私はダブルバーガー(肉だけで180g×2=320gだ!)、倅はチーズバーガーを注文。
その辺のハンバーガーショップでハンバーガーを2〜3個食べても、「今日はこの辺にしといてやるか!」という気分にしかならないのだが、流石の私もここのハンバーガーを食べると、向こう4〜5年はハンバーガーはもう結構!という心持ちになるのであった(ま、数ヶ月後にはまた行くのだが)。
そんな大きなハンバーガー&フライドポテトを倅がペロっと食べてしまったのには、渋谷に古墳が残っている以上の衝撃を受けた。子供って、好きなものは、本当に幾らでも食べるのね。 |
投稿者 Toyofusa : 2007年12月09日 01:12
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