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2007年12月01日 東京都の古墳
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先週末に続き、本日も中々の小春日和。 当初予定としては、8時頃家を出て、まずは代官山&恵比寿の古墳&古墳跡を巡り、戻りがてら以前から気になっていた西早稲田の円墳跡?と穴八幡神社の横穴を見てから、息子と約束していた王子の飛鳥山公園で日没迄遊ぶというコースを考えていた。 が、息子に起こされて時計を見ると、既に午前9時をまわっていた。寝坊だ。 今から出て、ある程度飛鳥山で息子を遊ばせるとなると、代官山&恵比寿か西早稲田のどちらかをカットしないといけない。そこで今日の所は都電で王子と直結している西早稲田界隈を巡ることとし、代官山&恵比寿はまた次の機会にということにした。 東京都の遺跡台帳を見ると、新宿区内には古墳単独での遺跡登録はなされておらず、一見しただけでは区内に古墳は無いように見受けられるのだが、良く見ると新宿区の49番・下戸塚遺跡の遺跡概要の中に古墳時代のものとして、「竪穴式住居跡 土坑 方形周溝墓 円墳」と、円墳の記載がある。遺跡地図でその範囲を確認すると、都電荒川線早稲田駅のあるあたりの新目白通りの南側から、早稲田大学キャンパスの北西側にかけてのあたりである。 ざっと調べてみた所、現在、この遺跡範囲内に円墳は残っていないようなのだが、この遺跡範囲の南東側、98番・西早稲田一丁目遺跡と60番・穴八幡神社遺跡との間位の所に、かつて都内では最大にして最古の富士塚として江戸&東京名所となっていた「高田富士」があった。この富士塚はこの界隈の鎮守であった水稲荷神社社殿の背後にあった「富塚」という古墳と思われる塚の上に増築する型で構築されていたと伝えられているのだ。 十条のお富士山古墳や駒込の富士神社古墳等、都内には古墳を流用して富士塚とした例が幾つかあるが、この高田富士もそうした古墳の一つであったようだ。 しかし残念ながら、この高田富士は早稲田大学のキャンパス拡大に伴い、1965年に削平。水稲荷神社もこの地を去り、北西の甘楽園内に遷座することとなってしまったのだが、聞く所によると、この遷座に伴い富士塚も新しい境内に移築されたのだそうだ。上述の通り、高田富士は古墳流用の富士塚と考えられるので、当然その盛土の何割かは古墳の墳丘由来のものである筈である。従って移築された新高田富士の盛土には土台となった富塚古墳のものも含まれているものと思われる。まあ、ここまで来ると最早古墳とは言えないが、古墳を流用して富士塚を造り、それを壊して、更にその土を利用して新しい富士塚を築いているとなると、これはこれで「古墳カス」とは言える訳で、古墳ファンなら一見の価値はあるだろう。 尚、この富士塚を削平した際、土台となった富塚から石室が出てきた他、埴輪等の遺物も出土したと伝えられている。これらの遺物は現在の水稲荷神社社殿裏にある「富塚」に祀られているという。どうやら富士塚だけでなく、富塚古墳もまた新しい神社境内に移築されているようで、石室も復元されているようなのである。どうも元々富塚前に鎮座していたからという水稲荷神社側の意向で移築したらしい、つまり、遷座の後も「富塚前の水稲荷神社」という体裁を守るという意向で移築したらしいので、学術的に正確に復元されているのかどうか気になる所だが、こういう型で古墳が移築されるというのも珍しい。 その他、近隣には横穴簿説もある穴八幡神社の横穴が残っているとされている他、『江戸名所図会』等の江戸期の地誌には、往時、この辺り一帯には「百八塚」と呼ばれる多くの塚があったと記されており、かなりの規模の古墳群が所在した可能性が推察されるという土地であり、興味深い。 |
●富塚古墳
地下鉄で王子に出て、都電荒川線に乗り、終点の早稲田で下車。 まずは駅から近い水稲荷神社境内の移築富塚古墳&石室と移築富士塚(上述の通り、古墳墳丘の封土を流用)を見学。 |
石室は明らかに移設されたもののようだが、墳丘自体はどうも元々この場所にあったもののように思える。神社の方が不在だったので、真相を聞くことが出来なかったのが残念である。いずれ日を改めて再訪し、神社の宮司さんに真相を聞いてみたい。 |
●高田富士
参道を戻り、次は先程チラっと見えた移築富士塚へ。 前述の通り、元々は現在の早稲田大学構内にあった冨塚古墳の上に増築されていた富士塚であり、その盛土の何割かは古墳由来のものであると思われる。先に見たように、富塚は社殿裏に移築?されていたので、水稲荷神社遷座に伴い、かつての古墳跡は、土台の古墳部分と増築された富士塚部分に2分割されてこの地に移転したことになる。つまり、一つの古墳が遷座によって2つに分裂した訳で、そこはかとなく面白い。 |
●穴八幡神社横穴
現在の水稲荷神社の南、旧鎮座地の西側の台地上に「穴八幡」といういかにも古墳チックな名前の神社が鎮座している。 神社の由緒によれば、寛永13年(1636)、徳川幕府の御持弓頭であった松平直次がこの地に的場を築き,射芸の守護神として京都の岩清水八幡を勧請したのが始まりだという。この八幡神社を管理する別当寺である放生寺を建てるために、境内南側の崖を削った所、横穴が現れ、その横穴内から金銅の阿弥陀像が発見されたそうで、それを以来「穴八幡宮」と呼ばれるようになったそうだ。 立地、そして何がしかの宝物が出たという伝承からして、古くからこの横穴は古墳時代の横穴墓ではないか?と言われているが、東京都の遺跡台帳には縄文時代の遺跡としては登録されている(新宿区60番)が、横穴墓としての登録はなされていない。 |
南側の参道から 台地の上に立派な丹塗りの門が聳えており、牛込36町の総鎮守であった風格を漂わせている。この左手の崖面に横穴が開口しているとガイドブック等には書かれている。 | |
横穴推定位置 穴八幡神社境内と別当時の放生寺の境の崖面に、社名の由来となった横穴が所在している筈であるが、残念ながらその箇所は工事中で、横穴を見ることは出来なかった。 |
●富塚跡地 先程見てきた富塚&高田富士が元々あった場所に、新宿区による説明板があるとのことなので、最後に跡地を見ておくことにした。跡地はすぐに分かったものの、説明板を探し出すのにちょっと苦労した。 |
●渋沢邸内築山
早稲田界隈の古墳関連物件を一通り見終えたので(探せばまだ他にも色々ありそうだが)、再び都電に乗り込み、王子の飛鳥山へ。賞味期限偽装問題が発覚したばかりのマクドナルドなら空いているだろうと思い、麓のマクドナルド王子店で昼食をとることにしたのだが、全くそんなことは関係ないようで、いつもと違わぬ混み様であった。
手早く昼食を済ませた後に、約束通り、日没迄飛鳥山公園で遊ぶことにする。 遊具が設置されているエリアに入ると径32mの円墳である飛鳥山1号墳が嫌でも眼に入る。 息子がそこら辺の子供達と一緒になって公園で遊んでいる間、暇になった私は、下草が枯れ、見学し易くなった園内の古墳を見て時間を潰すことにした。 園内には上述の飛鳥山1号墳が現存している他、博物館建設に伴う調査で2号墳、3号墳の2基の円墳跡が見つかっている。これを総称して「飛鳥山古墳群」と呼ぶが、園内には他にも2カ所、古墳ではないか? と言われている場所がある。 一つは公園の北端にある「地主山」と呼ばれているマウンドで、過去に発掘した際に焼土層が出ただけで、古墳特有の遺物は見つかっていないそうで、古墳説には否定的な意見が強いようである。現在公園の北端に行っても明瞭なマウンドがある訳ではなく、既に削平されてしまったのかもしれない。 もう一つは1号墳の南側にある四阿の建つマウンドで、これ迄、渋沢邸庭園の築山だと思われていたのだが、同様に築山だと考えられていた1号墳が古墳であることが判明したため、このマウンドも古墳ではないかと考えられるようになってきている。まずはこの四阿の建つマウンドから、旧渋沢庭園内を散策してみる。 |
●飛鳥山1号墳
続いて北側に近接する飛鳥山1号墳へ。 これも以前は庭園の築山だと思われていたが、発掘調査の結果、横穴式石室や副葬品類が検出され、7世紀築造の径32mの円墳であると判明した。 |
南西から 飛鳥山には子供の頃から数えきれない程遊びに来ているが、こうして考えてみると、古墳もあり、博物館もあり、子供用の遊具もありと、今の私にとっても最高のロケーションである。 | |
南西から 下草が無くなり、以前撮影した時よりも断然見学し易くなっている。墳丘への出入りも自由で、登り放題なのも、この界隈の古墳としては貴重である。 |
投稿者 Toyofusa : 2007年12月01日 23:58
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