■ 西早稲田&飛鳥山
先週末に続き、本日も中々の小春日和。
当初予定としては、8時頃家を出て、まずは代官山&恵比寿の古墳&古墳跡を巡り、戻りがてら以前から気になっていた西早稲田の円墳跡?と穴八幡神社の横穴を見てから、息子と約束していた王子の飛鳥山公園で日没迄遊ぶというコースを考えていた。
が、息子に起こされて時計を見ると、既に午前9時をまわっていた。寝坊だ。
今から出て、ある程度飛鳥山で息子を遊ばせるとなると、代官山&恵比寿か西早稲田のどちらかをカットしないといけない。そこで今日の所は都電で王子と直結している西早稲田界隈を巡ることとし、代官山&恵比寿はまた次の機会にということにした。

東京都の遺跡台帳を見ると、新宿区内には古墳単独での遺跡登録はなされておらず、一見しただけでは区内に古墳は無いように見受けられるのだが、良く見ると新宿区の49番・下戸塚遺跡の遺跡概要の中に古墳時代のものとして、「竪穴式住居跡 土坑 方形周溝墓 円墳」と、円墳の記載がある。遺跡地図でその範囲を確認すると、都電荒川線早稲田駅のあるあたりの新目白通りの南側から、早稲田大学キャンパスの北西側にかけてのあたりである。

ざっと調べてみた所、現在、この遺跡範囲内に円墳は残っていないようなのだが、この遺跡範囲の南東側、98番・西早稲田一丁目遺跡と60番・穴八幡神社遺跡との間位の所に、かつて都内では最大にして最古の富士塚として江戸&東京名所となっていた「高田富士」があった。この富士塚はこの界隈の鎮守であった水稲荷神社社殿の背後にあった「富塚」という古墳と思われる塚の上に増築する型で構築されていたと伝えられているのだ。
十条のお富士山古墳や駒込の富士神社古墳等、都内には古墳を流用して富士塚とした例が幾つかあるが、この高田富士もそうした古墳の一つであったようだ。
しかし残念ながら、この高田富士は早稲田大学のキャンパス拡大に伴い、1965年に削平。水稲荷神社もこの地を去り、北西の甘楽園内に遷座することとなってしまったのだが、聞く所によると、この遷座に伴い富士塚も新しい境内に移築されたのだそうだ。上述の通り、高田富士は古墳流用の富士塚と考えられるので、当然その盛土の何割かは古墳の墳丘由来のものである筈である。従って移築された新高田富士の盛土には土台となった富塚古墳のものも含まれているものと思われる。まあ、ここまで来ると最早古墳とは言えないが、古墳を流用して富士塚を造り、それを壊して、更にその土を利用して新しい富士塚を築いているとなると、これはこれで「古墳カス」とは言える訳で、古墳ファンなら一見の価値はあるだろう。

尚、この富士塚を削平した際、土台となった富塚から石室が出てきた他、埴輪等の遺物も出土したと伝えられている。これらの遺物は現在の水稲荷神社社殿裏にある「富塚」に祀られているという。どうやら富士塚だけでなく、富塚古墳もまた新しい神社境内に移築されているようで、石室も復元されているようなのである。どうも元々富塚前に鎮座していたからという水稲荷神社側の意向で移築したらしい、つまり、遷座の後も「富塚前の水稲荷神社」という体裁を守るという意向で移築したらしいので、学術的に正確に復元されているのかどうか気になる所だが、こういう型で古墳が移築されるというのも珍しい。

その他、近隣には横穴簿説もある穴八幡神社の横穴が残っているとされている他、『江戸名所図会』等の江戸期の地誌には、往時、この辺り一帯には「百八塚」と呼ばれる多くの塚があったと記されており、かなりの規模の古墳群が所在した可能性が推察されるという土地であり、興味深い。

●富塚古墳

地下鉄で王子に出て、都電荒川線に乗り、終点の早稲田で下車。
まずは駅から近い水稲荷神社境内の移築富塚古墳&石室と移築富士塚(上述の通り、古墳墳丘の封土を流用)を見学。
甘楽園の乗る台地

都電の早稲田駅で下車し、線路沿いに少し戻って最初の交差点を左折すると右手前方に甘楽園が乗る台地が見えてくる。この甘楽園の南側(写真右奥)には水稲荷神社が鎮座しており、その社殿の裏手に旧態を再現する型で富塚古墳が復元されているという。
堀部安兵衛仇討の碑

台地沿いに南下すると水稲荷神社参道が見えてくる。この参道に入ってすぐの所に「高田馬場の仇討ち」に赤穂藩士・堀部安兵衛が助太刀に入ったことを記した石碑が建っていた。思えばもうじき「忠臣蔵」シーズンである。
高田富士

石碑のある所から後ろに振り返ると、木立の向こうに古墳状の盛土の山が見えた。これは「高田富士」として知られる富士塚である。上述の通り、古墳の残りカスと言える物件である。
水稲荷神社

元々は現在の早稲田大学構内の9号館から、その南側の寳泉寺(この神社の別当寺)墓地のあたりにかけて鎮座していたが、キャンパス拡大により、1965年にこの地に遷座したそうだ。これに伴って社殿背後に存在した富塚とその上に増築されていた富士塚も現敷地内に移設されたと言われている。
水稲荷神社説明板

昔懐かしい板に墨書きの説明板。それもその筈、1952年製で「区」の字が旧字体のヴィンテージ説明板である。文字が掠れていて読みにくいが、「文亀元年(1501)上杉朝良の祀る所と伝へる。冨塚の前に鎮座する。榎稲荷また水稲荷と称する。大榎の枝股に天水を湛える。旱天にも涸れず眼病に効験ありと云われた。昭和二十七年新宿区役所」とある。遷座したのが1965年だから、この説明板も移築されたものである。
富塚古墳表示板

社殿の裏手に回り込むと崖縁に確かに塚状のものがあり、そこには神社によってこのような表示がなされていた。この冨塚が戸塚となって、この辺りの旧村名の由来になったとある。
北側から

これが移築された富塚古墳である。が、戦後に移築されたにしては、塚上に大きな木が生えているし、何よりも社殿でL字型に切り取られているのは何故か? 移築ならもっとそれっぽい形状にしそうなものだが...。写真中央に石室が開口しているのが見える。
富塚古墳石室

移築物ではあるが、都内でこんな立派な横穴式石室に出会えるとは思っても見なかった。これは羨門か玄門だと思われるが、自然石で構成されており、これを見る限り、富塚古墳は6世紀台のものであったと思われる。周囲には元々富士塚に使用されていたと思われる溶岩が配置されている。
石室内部の様子

石室内部には小さな鳥居と様々な狐の人形が祀られていた。
しかし良くみると、石室の側壁は溶岩だし、天井石も移築時に追加されたもののようだ。
また、奥に扉が見えるので、その奥が玄室だとすると、これは羨道部分を再現したもののようだ。と、なると上の写真に見えている石組は羨門か。
羨門〜羨道〜玄室と一応は横穴式石室の体裁にはなっており、ある程度はオリジナルに忠実に造られているのかも知れないが、見た所、オリジナルの石材は羨門を構成する3点のみのようで、残りはかつて冨塚上に築かれていた富士塚に用いられていたと思われる溶岩が使われている。
聞く所によると、この扉の奥には富塚古墳を崩した際に得られた出土品(埴輪等が出たらしい)が納められているとのことである。
もう一つの石室?

この復元というか再構築石室の西側にもご覧のような石室残骸風な箇所があった。すぐ近くに水神社が祀られていたので、これはその神池として造られたものであろうか?
墳頂の様子

これは最高所に祀られている稲荷祠で、周囲には動きのある姿をした狐の石像が配置されている。他にも墳丘上には幾つかの祠が祀られていた。
南から

前述のように、移築された古墳にしては、社殿に切られたような型になっているのが解せない。もしかしたら、元々この場所に所在した別な古墳に、富塚古墳の石室及びその上に増築されていた富士塚の石材を追加して「ニュー富塚」として再利用したのだろうか?
石室は明らかに移設されたもののようだが、墳丘自体はどうも元々この場所にあったもののように思える。神社の方が不在だったので、真相を聞くことが出来なかったのが残念である。いずれ日を改めて再訪し、神社の宮司さんに真相を聞いてみたい。

●高田富士

参道を戻り、次は先程チラっと見えた移築富士塚へ。
前述の通り、元々は現在の早稲田大学構内にあった冨塚古墳の上に増築されていた富士塚であり、その盛土の何割かは古墳由来のものであると思われる。先に見たように、富塚は社殿裏に移築?されていたので、水稲荷神社遷座に伴い、かつての古墳跡は、土台の古墳部分と増築された富士塚部分に2分割されてこの地に移転したことになる。つまり、一つの古墳が遷座によって2つに分裂した訳で、そこはかとなく面白い。
東から

富士塚には毎年7月20日前後の「お山開き」の時以外、立ち入ることが出来ない。仕方ないので隣接する甘楽園内から観察。かつては都内最大最古と言われた富士塚であるが、移築されても尚、そこそこの規模を維持しているようだ。
北から

木立が多く、引き位置からの観察は難しかった。この富士塚を崩した際に埴輪片等が出土したと言われているので、この富士塚の盛土内にもそうした古墳由来の遺物が混じっているのではないかと思われる。
南から

富士塚の麓には浅間神社の祠が祀られていた。来年のお山開きの際には是非この古墳カスに登山してみたい。
東側の通りから

東側の通りからも僅かに富士塚の姿を見ることが出来た。切り通しの崖縁に移築されており、頂上からの眺めは高所恐怖症の私には、かなりヤバいものになりそうだ。今から来年に備えて覚悟を決めておかねばなるまい。

●穴八幡神社横穴

現在の水稲荷神社の南、旧鎮座地の西側の台地上に「穴八幡」といういかにも古墳チックな名前の神社が鎮座している。
神社の由緒によれば、寛永13年(1636)、徳川幕府の御持弓頭であった松平直次がこの地に的場を築き,射芸の守護神として京都の岩清水八幡を勧請したのが始まりだという。この八幡神社を管理する別当寺である放生寺を建てるために、境内南側の崖を削った所、横穴が現れ、その横穴内から金銅の阿弥陀像が発見されたそうで、それを以来「穴八幡宮」と呼ばれるようになったそうだ。

立地、そして何がしかの宝物が出たという伝承からして、古くからこの横穴は古墳時代の横穴墓ではないか?と言われているが、東京都の遺跡台帳には縄文時代の遺跡としては登録されている(新宿区60番)が、横穴墓としての登録はなされていない。
南側の参道から

台地の上に立派な丹塗りの門が聳えており、牛込36町の総鎮守であった風格を漂わせている。この左手の崖面に横穴が開口しているとガイドブック等には書かれている。
横穴推定位置

穴八幡神社境内と別当時の放生寺の境の崖面に、社名の由来となった横穴が所在している筈であるが、残念ながらその箇所は工事中で、横穴を見ることは出来なかった。

●富塚跡地

先程見てきた富塚&高田富士が元々あった場所に、新宿区による説明板があるとのことなので、最後に跡地を見ておくことにした。跡地はすぐに分かったものの、説明板を探し出すのにちょっと苦労した。
富塚跡地説明板所在地

説明板は早稲田大学9号館から西側の通りに出る通路沿いにあった。但しこの掲示板のある位置に富塚&高田富士があった訳ではない。
富塚跡説明板

新宿区教育委員会による説明板。富塚が古墳であること、富塚がこの界隈の旧村名である戸塚村の名の由来になったこと、百八塚と呼ばれる程多くの塚があったこと等が記されている。
富塚古墳跡地

手前に見えている白い建物が早稲田大学の9号館で、まだ高田富士がこの地にあった1948年撮影の航空写真と現在の航空写真を重ね合わせてみると、この建物が建っている場所から右手の寳泉寺墓地のあたりにかけてが水稲荷神社の元社地であり、冨塚及び高田富士は写真奥に見える別の建物のあたりに所在したようだ。

●渋沢邸内築山

早稲田界隈の古墳関連物件を一通り見終えたので(探せばまだ他にも色々ありそうだが)、再び都電に乗り込み、王子の飛鳥山へ。賞味期限偽装問題が発覚したばかりのマクドナルドなら空いているだろうと思い、麓のマクドナルド王子店で昼食をとることにしたのだが、全くそんなことは関係ないようで、いつもと違わぬ混み様であった。

手早く昼食を済ませた後に、約束通り、日没迄飛鳥山公園で遊ぶことにする。
遊具が設置されているエリアに入ると径32mの円墳である飛鳥山1号墳が嫌でも眼に入る。
息子がそこら辺の子供達と一緒になって公園で遊んでいる間、暇になった私は、下草が枯れ、見学し易くなった園内の古墳を見て時間を潰すことにした。

園内には上述の飛鳥山1号墳が現存している他、博物館建設に伴う調査で2号墳、3号墳の2基の円墳跡が見つかっている。これを総称して「飛鳥山古墳群」と呼ぶが、園内には他にも2カ所、古墳ではないか? と言われている場所がある。
一つは公園の北端にある「地主山」と呼ばれているマウンドで、過去に発掘した際に焼土層が出ただけで、古墳特有の遺物は見つかっていないそうで、古墳説には否定的な意見が強いようである。現在公園の北端に行っても明瞭なマウンドがある訳ではなく、既に削平されてしまったのかもしれない。
もう一つは1号墳の南側にある四阿の建つマウンドで、これ迄、渋沢邸庭園の築山だと思われていたのだが、同様に築山だと考えられていた1号墳が古墳であることが判明したため、このマウンドも古墳ではないかと考えられるようになってきている。まずはこの四阿の建つマウンドから、旧渋沢庭園内を散策してみる。
西から

こちらから見ると高さは余り感じられないが、四阿のある辺りが小高くなっているのが分かる。学生の頃、ガールフレンドと一緒に何度か来たこともあるのだが、当時この四阿はホームレスの家と化していて、近づける雰囲気では無かった。
南から

こちらから見ると墳丘状の地形が良く分かる。1号墳と比べると低平な感じであるが、大きさは同じ位で、形状も円墳であるように見える。
南東から

1号墳は横穴式石室を有する7世紀台の古墳であり、このマウンドも古墳だとすると同時期のものだろうか? 墳頂は渋沢邸庭園造園時に削平されたらしく、今の四阿を建てる際にも特にコレと言った遺物は見つかっていないようである。
東から

こちらから見ると奇麗な円錐形であるが、北西側がタイルで固められている。
北から

タイルで2段に整形されており、何となく葺石を張り巡らせた2段築成の円墳チックである。墳丘西側は地面との比高が余りなく、これは墳頂部が削平されている為かと思われるが、元々東側に下る緩斜面上に築造されているせいもあるかと思う。

●飛鳥山1号墳

続いて北側に近接する飛鳥山1号墳へ。
これも以前は庭園の築山だと思われていたが、発掘調査の結果、横穴式石室や副葬品類が検出され、7世紀築造の径32mの円墳であると判明した。
南西から

飛鳥山には子供の頃から数えきれない程遊びに来ているが、こうして考えてみると、古墳もあり、博物館もあり、子供用の遊具もありと、今の私にとっても最高のロケーションである。
南西から

下草が無くなり、以前撮影した時よりも断然見学し易くなっている。墳丘への出入りも自由で、登り放題なのも、この界隈の古墳としては貴重である。

投稿者 Toyofusa : 2007年12月01日 23:58 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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