■ 新旧上円下方墳
 最近、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『風土記』等の奈良時代の史書や地誌を読み返している。当たり前のことではあるが、随所に古墳に関する記述があり、中には現存する古墳についての記事もあったりするので読んでいて中々楽しい。ただ、前方後円墳を盛んに築造していた頃の古墳関係の記事となると、当時既に相当記憶が薄れていたのか、半ば伝説のような形になっていたりして、埴輪の出現時期等、考古学上の知見と必ずしも一致しない部分も多々ある。
 一方、これらの文献が編纂された8世紀前半は、まだ畿内でも地方でもかろうじて「古墳」と呼べる高塚式の墳墓を築造していた時代である。考古学者の森浩一氏が提唱する、所謂「終末期古墳」の更に終末にあたる時代であり、前方後円墳の話題に比べると、例えば646年の薄葬令における墳丘や石室サイズの規定等、現実味のある記事が多くなってくる。

 「終末期古墳」というと、前方後円墳が造られなくなり、代わりに、八角墳、上八角下方墳、上円下方墳等、幾何学的な形状の墳形が登場してくるのが特徴である。ま、普通の円墳も相変わらずポコポコと造られてはいる。私が住む埼玉県南には7世紀台の終末期の円墳が多く、先日見てきた大宮の側ヶ谷戸古墳群の東側の群等は、凝灰岩の切石積の横穴式石室を有するまさにこの時期の古墳なのであるが、やはり「終末期古墳」と言えば、多角形墳や上円下方墳といった斬新な形状の古墳であろう。
 円墳は割と沢山見てきたので、今度はこうした斬新な形状の古墳をじっくり見てみたいと思い立った。
 上円下方墳と言えば、以前妻の実家に遊びに行った際に何回か足を運んだ熊谷の宮塚古墳や、川越の天王山古墳がある。また、川越へ行く途上には、最近八角墳の可能性が指摘されている、朝霞の八塚古墳があったりするのだが、本日は比較的近い距離に上円下方墳と八角墳が残り、1300年の時を越え、今でも築造され続けている上円下方墳もある東京都西部・多摩地区へ足を伸ばしてみることにした。

 カメラと地図を整えて、午前10時半に車に乗り込み、首都高→中央道と進み、まずは「新しい」上円下方墳群が眠る八王子へと向かう。

多摩/武蔵御陵入口

先帝陛下と大正帝、そして両帝の皇后様の御陵が丘陵の一角に鎮座されている。その御陵は全て上円下方墳として築かれている。
昭和天皇武蔵野陵


激動の「昭和」の正に象徴と言える昭和帝の御陵。4基ある御陵の中で一番見通しが良く、国民と直接触れ合う機会の多かった先帝陛下のお姿が偲ばれる。
墳形は下方部3段、上円部2段の上円下方墳である。
墳丘規模は下方部1辺27m、上円部径15m、墳丘高10.5m。
香淳皇后武蔵野東陵

昭和生まれの私にとって、天皇陛下と言えば昭和天皇。皇后陛下と言えば、このお方であった。
墳形、規模は他の3基とほぼ同じとされているが、武蔵野陵よりも低い位置にあり、下方部の各段の高さが均等になっているせいか、若干低平な印象を受ける。上円部の葺石は全て多摩川の川原石であると言われている。
大正天皇多摩陵

基底部の方形土段が高く、4基の中では一番威厳に満ちた御姿である。基底部土段が手前側に突き出る形になっているので、こちらから見ると前方後円墳のようにも見える。
墳丘自体は上円部2段、下方部3段で、規模は武蔵野陵と同じらしい。
明治天皇陵を築造する際、当時上円下方墳であると考えられていた天智天皇陵を参考にしたため、この墳形となったようだ。もし当時上八角下方墳であると分かっていたら、上八角下方墳が採用されたのであろうか?
貞明皇后多摩東陵

4基の御陵は全て、丘陵の南斜面をコ字形に削平して平坦地を作り、その上に墳丘が築造されている。航空写真を見ると墳丘後方に後背丘陵との間に区画溝があるようであり、こうした築造様式は7〜8世紀の終末期古墳に用いられたものと全く同じである。
各地の復元古墳を見るとどうしても感じてしまう安っぽさが微塵も感じられないのは、コンクリ等を使わず、きちんと石を葺いているからだろうか? 今は草木が生えた小山のようになっている各地の古墳も、築造当時はこのような威厳に満ちた姿だったのであろう。

多摩御陵、武蔵御陵を参拝してみてとにかく感じたのは、天皇陵の威厳である。
まあ、警備の警察官がいたり、墳丘に草木が生えておらず、しっかりと管理されているせいもあるのかも知れないが、とにかくその辺の古墳を見学するのとはちょっと違った印象である。
正直な所、古墳を見て回っている時に、それが古代の貴人の墓だと知っていても、今現在神社になっていたりしても、余り威厳を感じたり、畏敬の念が沸き起こってはこないので、墳丘を見上げてこうした感覚に囚われるとは、ちょっと意外な経験であった。古墳時代の人達もこうした畏敬の念をもって墳丘を見上げていたのだろうか?
当時の人の感覚の本当の所はさすがに分からないが、なんとなく古代人の感覚を追体験できたような気がした次第である。

そして、草木に覆われていない墳丘は、山野に埋もれている古墳の築造当時の姿を想起させた。古墳というとどうしても草木に覆われた小山の印象があるが、築造当時はこの御陵のような美しい葺石に覆われた姿だった筈である。古墳のビジュアル面における葺石の役割を再認識すると共に、葺石を持たない場合が多い埼玉の前方後円墳は、当時においてちょっとショボい存在だったんじゃないか? という気がしてきた。

多摩/武蔵御陵を後にして、今度は1300年前の上円下方墳・武蔵府中熊野神社古墳に向かう。
甲州街道を新宿方面に進むと、左手の道路際に熊野神社の社殿と「熊野神社古墳」の看板がデカデカと見えてくるので分かり易い。

武蔵府中熊野神社古墳

残念ながら、墳丘は一般公開に向けて整備中であった。
発掘調査の結果、7世紀中葉頃の径32mの上円下方墳であることが判明している。
墳頂を覗き見る

墳丘は全面に養生シートがかけられており、凡その形状が伺い知れるだけであった。裾部分に下方部の葺石と思われるものが露出している箇所があり、興味を惹かれた。公開されるのが楽しみである。
説明板

文字中心で、墳丘や石室の実測図でもあればマシな方という、非常に味気ない説明板が多い中、フルカラーのいかにも「今風」な説明板である。斜めに入った「国史跡!」の文字も、古墳説明板とは思えないデザインセンスを感じさせる。紙だけど。

この説明板及び手持ちの調査報告書によれば、上円部1段、下方部2段の3段築成の上円下方墳で、墳丘規模は、下方部1段目が一辺32m、高さ0.5m。2段目が一辺23m、高さ2.2m。3段目が径16m、高さ2.1mである。墳丘高は全体で約4.4mと先程参拝してきた多摩陵や武蔵野陵の半分以下であるが、平面サイズはこちらの方が一回り大きい。各段には葺石が設備されていたことが判明しており、築造当時の姿は武蔵野陵の高さを半分にしたような雰囲気だったのだろう。

墳丘が余り良く見えなかったせいもあるかと思うが、この説明板が一番印象に残った。墳丘の図解も斜め上から見たCGを使うあたりが垢抜けているし、全体的に見易くセンスも良いと思う。埼玉の古墳案内板もこれ位凝ってみてもいいんじゃないかと思う。それに何よりも「武蔵府中熊野神社古墳」のフォントと、斜めに入った「国史跡!」の文字に、この古墳にかける担当者の意気込みが感じられて面白い。
熊野神社古墳は一般公開されてから、付近の高倉古墳群や御嶽塚古墳群と併せて、じっくりと見学してみたい。

熊野神社古墳は八王子から新宿方面に甲州街道を走ると、甲州街道と川崎街道との交差点の左手前に所在するのだが、この川崎街道を右折すると、今の所、都内唯一の八角形墳とされる稲荷塚古墳の近くに出られる。
関東では最近、埼玉、群馬、茨城でも続々と八角形墳が検出されており、関心が集まっている。
埼玉では前述の朝霞の八塚古墳の他、熊谷の籠原駅近くで見つかった籠原裏古墳群でも2基の八角形墳と思しき古墳跡が検出されているが、この稲荷塚古墳程残りが良いものはない。

稲荷塚古墳
南側から。

多摩市内の台地端の緩斜面上に築造されている。現在墳丘上には恋路稲荷というロマンチックな名前の神社が祀られているのだが、この「恋路」とは「国府路」(こうじ)の転訛であると言われている。府中の武蔵国府と都筑郡衙を結ぶ官道がこの傍を通っていたのだろうか?
東側から。

東側は遊具が置かれた公園になっている。
南に向かって下る緩い斜面上に墳丘が築造されているのが分かる。
北から

東と北は若干削られているらしく、現状は方墳のような見た目になっているが、南側から見ると円墳のように見え、八角形が崩れたものと言われれば、そのような気もする。
墳頂からの眺め

南側の谷間を望む。
多分この谷間に稲荷塚の被葬者が率いる集落があったのだろう。
足元に見えているタイルは、以前は公開されていた石室が埋まっている場所で、石室の形状を異なる色のタイルで表示している。
説明板

7世紀前半に和田古墳群の一基として築造されたとある。この古墳の傍に臼井塚と呼ばれる古墳が存在したらしい。葺石の積み方の関係で裾部にそのような角が生じただけで、本質的には円墳なのではないかとも言われているが、ここでは八角形墳としての復元図が示されている。本当に八角形墳であるのなら、大王墓に八角形墳が採用される前の地方における存在例として、その起源や大王墓への採用の経緯を考える上で重要な古墳である。

投稿者 Toyofusa : 2007年10月20日 22:35 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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