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2007年10月14日 旧入間川流域の古墳
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天気予報によると本日は昼頃から雨とのことだったので、外出せずに高稲荷古墳の模型でも作ろうかと考えていた。しかし昼食を済ませて外を見てみると、雨どころか薄日が差しているではないか...。 今から出かけてそれなりに楽しめる場所となると限られてくる。倅と今期最後のクワガタ樹液採集に浦和の秋ヶ瀬公園にでも行こうか? という話しになったのだが、そこであることを思い出した。 秋ヶ瀬公園は大久保古墳群のすぐそばにある公園である。観音塚や天神山がある河川敷とは地続きで、羽倉橋から南側が公園化されているといった感じである。付近に住んでいる方によるとこの公園内にも幾つかの塚があるということで、確かに何カ所かにそのような場所もあるのだが、昔からの塚なのか、公園化に伴って造られた築山なのかハッキリしない。 一方、天神山から少し北に行った旧塚本村のあたりにも幾つかの塚状になった場所があるそうだ。 こちらは発掘調査で円墳跡が見つかった外東遺跡と天神山の丁度中間位の場所であり、もしかしたら古墳跡もあるのではないかと以前より気になっていた場所である。どうせ秋ヶ瀬に行くのであれば、そのついでにその場所を見ておこうと思い立ち、久しぶりに大久保古墳群を散策してみることにした。 聞く所によると、塚本の提外にある薬師堂と八幡社は共に塚の上に祀られているそうである。 地図によっては「外東」と表記されていることもあるこの場所は、旧塚本村が荒川縁に持っていた持添新田だった場所で、「大久保古墳群は足立郡司の墓域か?」でも触れた、足立家先祖の墓所があるとされる八貫野と呼ばれる場所の内である。 天神山や観音塚のあるあたりも大都市近郊とは思えぬ鄙びた光景であるが、その北側に流れる川を越えると、どこぞの山奥にでも迷い込んだかのような、のどかな田園風景が広がっているのだ。 天神山のあたりにはまだ人家もあったりするのだが、この辺りは元々持添新田だったため、農作業小屋はあるものの、民家はない。今でも昔同様に、堤防の向こう側の本村にある自宅からここに通って農作業をしているのだろう。恐らく江戸時代に開墾された当時と風景はさほど変わっていないのではないかと思われる。 そんな田園地帯のあぜ道に「薬師堂のマキ」という小さな案内板が立てられている。その指し示す方向をみると、水田の向こう側に一段小高くなった自然堤防と思われる竹薮に覆われた微高地が見える。この竹薮の向こう側に薬師堂があるらしい。 |
薬師堂 水田よりも一段高くなっている微高地上に更に盛土された上に建てられている。境内の槙の大木は市指定の天然記念物である。土台の土盛りはざっと観察した所方形であるようだが、写真左手に続く薮の中にも高まりが続いているようだった。 | |
盛土の様子 この竹薮自体が水田よりも小高くなっているのだが、そこに更に盛土されている様子がお分かり頂けるだろうか? |
この薬師堂と農道を挟んだ反対側に八幡社がある。 農道脇に石造の鳥居が建てられているのですぐに分かる。 鳥居を潜り、あぜ道兼用の参道を進むと昼尚暗い竹薮となり、その行き止まりに八幡神を祀った石祠を乗せた小さな塚が見えてくる。 この八幡社は江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』塚本村の項にも記されており、江戸時代からこの場所で祀られて続けてきたようだ。 |
薬師堂、八幡社共に古墳跡かどうか、見た目だけでは判然としないが、周囲の竹薮の中には良く目を凝らすと他にも自然堤防上に盛土されたと思しき塚状の地形が散見された。 ただ、この辺りの土地は水害対策として、家や作業小屋は「水塚」と呼ばれる人工の高台の上に築かれるし、畑も同様に盛土の上に造られているので、こうした水塚や畑の跡地であるのかも知れないが、付近に古墳が現存していることを考えると、中には古墳を流用したものもあるのかも知れない。 また、外東遺跡から墳丘を失った円墳跡が見つかっていることから、墳丘の封土を水塚や畑の造成に利用した可能性もあるだろう。 |
八幡社参道脇の高まり ショベルカーがあるので最近盛られたものかとも思ったが、奥の方にそれなりに大きな木が生えているので、昔からの地形であるようだ。形状は割と大きく低平な円墳状である。 | |
堤防から薬師堂方面に農道を進むと右手に見えてくるこの薮の中にも高まりが見られた。他にも何カ所か現役で畑に利用されていたり、空き地になっているような箇所もあった。 |
投稿者 Toyofusa : 2007年10月14日 23:04
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