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「今茲に石工酒井亀泉より故陸軍歩兵上等兵足立幸太郎の殉難碑文を嘱せり。其の父龍蔵来て曰く、六十七代の旧家なり。其の先祖の墓は足立郡大宮の西南一里許、五堰(ごせき)と云ふ所にあり、千貫樋より進む半里なり。他人此の兆域に入れば神の祟ありと伝ふ云々。予之を聞て感ずる所あり。故に其の碑文の冒頭に 足立氏之先出于足立郡司世居武蔵国 と記したり。夫れ足立郡大宮の官弊大社を勧請したる武蔵国造の当時を思ふに、信州鳥居峠は此の大社の華表ありし所なりとの伝へあり。関東の総鎮守は大宮駅の氷川神社なること今尚然り。其の国造の子孫足立氏の墳域大宮の附近にあるは当然のことなり。武芝の兆域なるや又足立某歴代の墳墓なるや尚探求する所あらんとす。」(織田完之『平将門故績考』碑文協会 1907 P100)
酒井亀泉とは「井亀泉」の屋号で知られる、当時の東京ではかなり有名な石工である。その亀泉から、事故か何かで殉職した足立幸太郎という陸軍上等兵の殉難碑の碑文を考えてくれ、と頼まれたらしい。
その際、亀泉が幸太郎の父・龍蔵から聞いた話しを織田完之に伝えたのが上の逸話である。
足立龍蔵の談によると足立家は67代続いた旧家であり、大宮の南西4km程の所にある五堰という所に先祖の墓所があり、そこは他人が入ると神の祟りがあるとされているそうである。
この「五堰」というのは、千貫樋の近くであるとされているので、現在のさいたま市桜区五関、『新編武蔵風土記稿』でいう所の五関村のことであろう。
『新編武蔵風土記稿』五関村の項には、村内の小名として千貫樋を挙げている。
「千貫樋 下大久保村界なる鴨川に架せる石橋の名にて、今は土地の呼名となれり。相伝ふ、古ここに樋を設んとて銭千貫文を費したれど、地の理あしくして成らず。故に其名を残せりと云へり。」(『新編武蔵風土記稿 足立郡之二十』内務省地理局 1884)
これは現在の埼玉大学の西南あたりで鴨川にかかっていた橋のようで、今でもその近くに「千貫樋公園」がある。
この五関とその周辺の大久保地区には大久保古墳群が分布しており、五関字中島には大久保4号墳、3号墳が知られている。従って、足立龍蔵氏の言う先祖の墓とは、これらの古墳を指している可能性がある。
足立氏と言えば、鎌倉御家人の足立遠元の足立氏の一族であると思われるが、この足立氏は武蔵国造の子孫で足立郡司の武蔵武芝の後裔であるという説が古くから唱えられている。また、龍蔵氏が足立家は67代続いた旧家であるとしていることからしても、少なくとも龍蔵氏の家では、天穂日命〜兄多毛比命〜丈部直(武蔵宿禰)不破麻呂〜武蔵武芝〜足立氏という、神代にまで遡る武蔵国造の系譜に連なっていると考えていたか、そういう系図が伝わっていたものと推察される。
こうした足立氏の出自を武蔵国造一族に求める説に基づいて、織田氏は「其の国造の子孫足立氏の墳域大宮の附近にあるは当然のことなり。」としているのだ。また、ここで「墳域」という語を使っていることからも、単なる墓でなく、高塚式のものを想定していることが分かる。
足立氏の出自の真相はともかくとして、大久保古墳群に足立郡司乃至は武蔵国造一族の墓所説が伝わっていたとは興味深い。
では、「部外者が立ち入ると祟られる足立家先祖の墓」とは具体的にどの古墳を指しているのだろうか?
前述の通り、五関地内には大久保3号墳、4号墳の2基の古墳が知られているが、龍蔵氏の言によれば、千貫樋から半里(約2km)程度の所にあるそうなので、これでは近過ぎる。千貫樋があったと思われる鴨川縁から1kmも離れていない。しかしこの2基の古墳がある場所も五関村の村外れなので、ここより遠いとなると別の村に入ってしまう。そこで改めて『新編武蔵風土記稿』で五関村の範囲を確かめてみると、
「五関村も江戸よりの里数前村に異ならず。水判土庄の唱あり。戸数六十軒余。東は鴨川を隔て領家神田の二村に隣りて、西は塚本村にて、南は下大久保村、北は宿村なり。東西三町余、南北十四町許なり。用水は鴨川の水を引、或は天水を待て耕植せり。当村正保のころは御料所及び小笠原七左衛門が知る所なりしに、寛文のころ頃御料の地を津金又十郎に賜はりしが、後上りて御料に復せり。よりて今は御料所と七左衛門が子孫大次郎知行せり。検地は寛文年中改めありしといふ。当村にも又八貫野の新田をも持添とせり。」(『新編武蔵風土記稿 足立郡之二十』内務省地理局 1884)
と、「八貫野」という所に持添新田を有していたことが分かった。
この八貫野は五関の北西にあたる荒川の水除堤の外の河川敷のことで、鴨川から2kmは離れていないが、1,5km程度の距離はあるので「半里」と表現しても差し支えないだろう。
八貫野は荒川左岸提外の河川敷なのだが、古墳時代は旧入間川の右岸であった。
現在その辺りに現存する古墳はないのだが、発掘調査で外東1号墳が検出されている。また、やや南に下ると天神山古墳、観音塚古墳が現存しており、現荒川河道を含めた提外にもかつてはより多くの古墳が存在したことが推測されている。従って、足立家先祖の墓とされる古墳はこの八貫野にあった五関村の飛地内に所在していた可能性が高い。
投稿者 Toyofusa : 2007年10月05日 12:09
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