朝起きてみると昨日とは打って変わって雨天であった。ただ午後から晴れないまでも雨はあがるとのことである。
当初予定としては、八潮の八條殿社古墳を皮切りに、国道4号線を北上しつつ埼玉東部の古墳を見学するつもりだったが、午後からでかけるとなるとそんなに遠く迄は行けそうもないので、若干予定を変更し、八潮と越谷の古墳と塚を巡ってみることにした。
◯清浄院 開山塚(越谷市大松60)
新編武蔵風土記稿埼玉郡新方領大松村の項に
「清浄院 浄土宗芝増上寺末栄広山浄土寺と号す。寺領十二石の御朱印は慶安元年九月十七日賜ふ。本尊阿弥陀を安ず。立像にて長三尺許。恵心の作といへり。開山堅真宝徳元年七月二十八日示寂す。当寺の東少許を隔て開山塚と云あり。そこより掘出せし古碑に嘉禄元年の文字見えたり。是起立の人の碑ならんと云。」
と清浄院境内に開山を埋葬した塚があるとの記述がある。
古墳に後代この種の説話が付与されることは良くある話しなので、この塚も古墳であるか、この由緒が正しいとしても、既存の古墳を開山の墓地に転用したものではないか?という気がしたので、見学してきた。
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清浄院。
越谷市東部の中川傍の田園地帯の只中に所在している。
『新編武蔵風土記稿』の記述通り、本堂裏の東側(写真右手)に開山塚が現存している。 |
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開山塚。
復元円墳のごとく奇麗に整備されている。
開山の墓ということで、大切にされているのだろう。 |
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別角度から。
見た目は2段築成の円墳といった雰囲気。
説明板によると径は東西13.5m、南北13m、高さ1.8mとある。
見た目もサイズも埼玉県南に多い典型的な小円墳だ!
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説明板。
昭和49年の発掘調査で人間の歯4本、銅銭1枚、鉄クギが出土したとある。
別の資料によれば、銅銭は唐銭だったらしく、これらの品の周囲の土は脂肪分を吸って黒く変色していたそうである。
これらのことから誰かを埋葬した塚であることは間違いないが、古墳特有の埋葬主体が見つかっていないことから、古墳というよりは、寺伝通りの開山の墓地というのが正解な気がする。
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「よく原型が保たれた円墳である」と書いてあるが、まあ、円形の墳墓という意味では確かに円墳なんだろうけど、寺伝通りに古墳ではないとなると何と呼ぶべきか...。「新墳」というほど新しくはないし、「中古墳」というのもちょっと違うよな...。やっぱ「中世墳」が妥当?
◯大聖寺 大相模不動堂(越谷市相模町6-442)
これも『新編武蔵風土記稿』を読んで気になった物件。
本文中には特に塚とか古墳とかは書かれていないのであるが、掲載されている境内図に怪しい塚状地形が2カ所掲載されていたので、これが残っていないかどうか、見学してきた。
元荒川右岸の自然堤防上に所在している。
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大聖寺(大相模不動堂)仁王門。
寺伝によると天平勝宝2年(750)の創建と言われる古刹である。
本尊は奈良東大寺初代の別当良弁僧正作と言われる不動明王像。
628年創建と言われる浅草寺境内に古墳が所在していたことから、期待が膨らむ。
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『新編武蔵風土記稿』の「大聖寺境内図」。
不動堂に向かって右手の池端に1つと不動堂裏手に1つ、計2カ所の塚状地形が描かれている。
不動堂裏手のは円墳っぽいが、池端にあるものは前方後円墳のようにも見えなくもない。
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仁王門を潜り、長目の参道を進むと右手に弁天池と若干小高くなった場所に立つ鐘楼が目に入った。
仁王門との位置関係、手前に池を伴うことから、この鐘楼の土台部分が境内図に描かれた塚状地形と見て間違いなかろう。
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弁天池を巡る柵に恐ろしい注意書きが...。
他所からこの池に生物を持ち込んでも、水の原因で死んでしまうそうである。
さすがは県内屈指の古刹。多くの神社仏閣で放置プレイされていることの多い弁天池ですら、この霊威である!
この弁天池は境内図にある通り、半ば塚状地形を巡るようになっており、周掘の跡っぽく思える。
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鐘楼土台を別角度から
現状は高さ1m程度で、江戸時代の境内図に描かれた状態からは大分削られてしまっているようだ。
もし古墳だったのであれば、何がしかの遺物遺構が検出されていて然るべきなのだが、特にそういった話しはないようである。
ただ、寺域のスグ裏手が元荒川という立地からして、古墳かどうかは別としても人工的に盛られたものである可能性は高いように思われる。
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不動堂。江戸時代の境内図と比べ、こちらはかなり立派になっている。
この裏手に円墳状の地形があった筈なのであるが、現状は住宅地となっている。
ただ、不動堂裏手と住宅地の間に竹薮があるので、もしかするとそこに痕跡程度は残っているのかも知れない。
次回寺の人に聞いてみようと思う。
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塩野博著『埼玉の古墳 北埼玉、南埼玉、北葛飾編』によれば、この大相模不動堂がある現相模町(旧大相模村大字東方)で古墳の石室と思われる遺構が田中から見つかったことがあるそうだ。今となっては詳細な場所等は不明となっており検証不能なようだが、かつてこの地に古墳が存在していたのであれば、大聖寺境内の塚状地形も古墳の成れの果てなのかも知れない。
また、東隣の見田方からは古墳時代後期の集落遺構である見田方遺跡が発見されている。
人が住んでいたなら、その周辺に古墳が築かれていたとしてもおかしくはない。
◯八條殿社古墳(八潮市大字八条406)
越谷から八潮に入り、八潮市内唯一の古墳とされる八條殿社古墳へ向かう。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡八条領八條村の項に、
「八條殿社 塚上ニ社ヲ建。内ニ神体トテ古碑二基ヲ置。一ハ弘安七年。一ハ慶安四年五月二十七日宗源禅門ト彫レリ。是尋常ノ古碑ニテ当社ニ預リシモノニハアラズ。一説ニ月輪太政大臣兼実ノ三男八條左大臣義輔罪アリテ当国ニ左遷シ此地ニテ逝セシカハ其霊ヲ祀シト。此説覚束ナシ。義輔系図ニハ良輔ニ作ル。当所ノ地名ニヨリテ此人ノ事を付会セシナラン。又当国七党系図ニ出タル在名此辺ニ多く残タレバ村名の條ノスル所七党系図八條五郎光平等カ家号ヲ付会セシモ知ベカラズ。サレド塚上ヲ平ケル所ヨリ石槨ノ著シ様古墳ナルコト知ラル。」
とあり、かつて石槨(石室又は石棺)が検出されたことが記されている。
このことから、この塚が古墳である可能性が高いのだが、明治に入って八條殿社が廃社(恐らく小社合祀令による)となってから、出土遺物等は散逸してしまい、現状では確認することができないようである。
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八條殿社古墳遠景。
中川(古利根川)右岸の自然堤防上に立地している。
毛長川流域の古墳群から間近と言って良い距離に所在しているが、こちらは石室を有していたらしいのが興味深い。
最近は古墳群を河川流域単位で把握することが多いが、これもそうした把握法が有効な一例かも知れない。 |
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墳丘南側から。
2基の石灯籠と八潮市教育委員会による説明板が設置されている。
手前は畑になっており、西側は家屋になっている。
この辺り一帯は中世の武士居館跡でもあり、周囲の水路は掘の名残とされている。
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説明板。
「明治42年廃社」とあるから、やはり小社合祀令によって、近くの八幡神社に合祀されたようだ。
もし古墳だとすると1基だけでなく、毛長川流域のように群集墳を形成していたのかも知れない。
八幡神社は現状塚上にあるようにはなっていないが、これももしかしたら元々は古墳上に建てられていたのかも知れない。
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墳丘東側に見られる溝状の窪地
写真中央から左側が墳丘で、写真では判別しずらいが、その右側に溝状の窪地がある。
武士居館に伴う空掘跡と言われているようだが、墳丘を巡るように続いているので、周掘跡の可能性もあろう。 |
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墳頂の様子
2基の石灯籠の間から墳丘へ入ることが出来る。
説明板でも「度重なる発掘で原型を留めていない」とあるが、確かに現状は塚と呼ぶのもどうかと思う程の僅かな高まりが残っているに過ぎない。石槨が出たとあるので、その残骸でも残っていないかと見回してみたが、特にそれらしいものは見られなかった。 |
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墳頂から北側を望む
北側には東側から続くように、溝状の窪地が巡っている。
武家屋敷の空掘というよりは、やはりこれは周掘跡ではないだろうか? |
この八條殿社古墳から中川を下った足立区大谷田にも「大谷田古墳」と呼ばれるある塚があった。
古墳と呼ばれてはいるが、まだ発掘調査等で古墳と断言できるものが見つかっている訳ではないようだ。
また、八潮市八条のすぐ上流側にある草加市柿木町には狐の嫁入り伝説のある「塞塚」と呼ばれる塚があった。
横穴式石室を有する古墳には、実際に狐が巣として利用していたためか、「狐塚」と呼ばれたり、狐にまつわる伝承が伝わっていることが多いので、或はこの塚もそうした古墳だったのかも知れない。
八条の西隣の草加市青柳にも「まるぼっち」と呼ばれる塚と円形の池の伝承が残っている。伝承によるとかつてこの池から丸木舟が出土したことがあるそうだ。草加市内には丸木舟伝承が他にも幾つか伝わっており、実際に綾瀬川から縄文時代の丸木舟が出土したことがあるのだが、塚が伴うまるぼっちの丸木舟は、ことによると古墳の船型木棺であったかも知れない。
何一つ古墳である確証がある訳ではないが、こうした近隣の塚の伝承を集めてみると、中川の最下流域右岸に古墳群が形成されており、八條殿社古墳はその中の一基であったように思えてくる。
◯西袋陣屋(八潮市西袋638)
知人から八潮の西袋にも古墳っぽいものがあると聞いたので、最後にここも見学してきた。
ここも陣屋跡と八條殿社古墳跡と似たような立地だが、こちらは公園としてその遺構が一部保存されている。
西袋地区は綾瀬川右岸の自然堤防上に立地しており、その西は谷塚古墳群のある草加市瀬崎町と接しており、南は毛長川を挟んで、白山塚古墳や一本松塚古墳のある足立区花畑という立地である。
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西袋陣屋公園。
これは櫓台の跡らしい。
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公園内にはこのように土塁も保存されている。
この界隈で保存されている城館跡となると、川口市赤山の赤山陣屋位しかないと思っていたので、ちょっと嬉しい新発見である。
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公園に隣接する駐車場の一角に、祠を乗せた塚があった。
これが知人の言う「古墳っぽいもの」であろう。
陣屋跡ということで、櫓台跡とか、土塁の一部という可能性もあるが、埼玉の高坂には前方後円墳を土塁に取り込んでいる例もあるし、上の八條殿社古墳の例もあるので何とも言えない。
ただ、公園整備に先立って発掘調査を行った筈で、特に古墳関連の遺物が見つかっていないとなると、やはり古墳ではなく、陣屋跡に伴う遺構と考えるのが妥当なようだ。
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塚を別角度から
毛長川流域のA群(右岸、足立区花畑)、E群(左岸、草加市南部)から程近く、毛長川と綾瀬川の合流点に近いという立地からして、この辺りの自然堤防は毛長川(旧入間川)と綾瀬川の氾濫によって形成されたものであろう。
特に草加市南部の谷塚古墳群が所在する谷塚〜瀬崎町から続く自然堤防上という立地から、これが古墳だとすると毛長川流域に形成された古墳群の一つと捉えることも出来そうだが、残念ながらその可能性は低そうだ。
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投稿者 Toyofusa : 2007年09月29日 17:43
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