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今週末は天気も良く、気温も高いということだったので、温泉旅行を兼ねて遠くの古墳でも見に行こうかと思っていたのだが、クレーム対応で急遽出社。午前中にとりあえずやるべき作業は終わる予定であったので、遠出は諦めて、午後から家族で浅草界隈に出かけることにする。
妻は最近サイクリングに凝っており、チャリで芝川(旧入間川)→荒川放水路→隅田川と川沿いに浅草迄走ってくるそうなので、私は倅を連れて職場に行き、予定通り仕事を片付けてから12時ちょい過ぎに王子を出発。1時前に浅草・雷門前に到着。
土曜ということもあり、雷門前は混雑気味。しかも聞こえてくる言葉は英語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語と国際色豊。日本語も標準語は店の呼び込み位で、周囲から聞こえてくるのは関西弁等の方言が多い。東京近郊に住んでいると普段は余り意識しないのだが、浅草が都内屈指の観光スポットであることを改めて実感した次第である。
やや遅れて妻も雷門に到着。
まずは腹ごしらえをしたいというので、伝法院裏手の妻オススメの煮込み屋にて、牛スジ煮込み丼を食す。
小さな店なので店内は既に満員。店先の路地に置かれたテーブルで食べたのだが、外で食べるのが全く苦にならないというか、むしろそれで丁度良い位の本日の陽気である。
注文するとスグに出てくるのもこの手の店の良い所である。白米の上に牛スジの煮込みがドッサリ載って500円也。
妻は「コラーゲン、コラーゲン」と呪文を唱えながら食べていたが、そういうことは置いといて旨い。ただ5歳の倅には不評で(当たり前か)、倅が残した分も妻と分けて食べたので満腹。なんだかこれからあちこち歩き回るのが億劫な気分になってきたが、それでは何をしに浅草くんだりまでやってきたのか訳わからないので、まずは浅草寺境内を目指す。
浅草寺境内には淡島社跡等、他にも「古墳跡かも」とアタリをつけていた場所があるのだが、予想以上に人出が多く落ち着いて見学できそうもないので、本日はパス。通常非公開の伝法院内にある古墳の石棺らしき物も申し込めば見せてもらえることが分かったので、次回、これの見学とあわせてチェックしてみることにして、一旦宝蔵門から外に出て、鳥居博士が「前方後円墳」であろうと推定しておられた弁天山へと向かう。
宝蔵門を出てスグに左に曲がると弁天山が見えてくるのだが、敷地的には境内と一体になっているにも関わらず、ここにはそれほど観光客もおらず、というか、墳丘上には誰もいない。
弁天山の墳丘上には砂利が多く敷き詰められていた。後で訪れる待乳山もその基底部は砂利山だと言われており、このことから待乳山は武蔵野台地から切り離された洪積台地の残丘=自然地形であろうとされているようである。弁天山の砂利も最近撒かれたものではなく、元からのものだとすると、弁天山もそうした残丘の一つなのだろうか?
それとも待乳山付近の砂利混じりの土を造って積み上げたものか?
自然地形だとしても、その上に盛土して古墳を築造する例も多いので、これをもって一概に弁天山は古墳ではないとは言えないと思うが、もしそうした自然の残丘上に盛土して古墳を築いたのであれば、この界隈の古墳の中では初期に築かれたものであるのかも知れない。
さて、弁天山の南側の池を埋め立てた跡は児童公園になっている。
弁天山を見学している間、倅をここで遊ばせていたのだが、「そろそろ次に行こう」と言っても「もっとここで遊ぶ!」の一点張りである。しかも妻は「そろそろ帰って夕飯の支度をする」とのことで、ここで撤退。妻に倅を託して私は古墳巡りという手が使えなくなってしまったので、どうにかこうにか倅を説得して、待乳山聖天を目指す。
しかし、ここで思わぬ伏兵が現れた。
隅田川沿いに待乳山へ行こうとしたのだが、川沿いの公園内に児童遊具が充実した一角があったのだ。
当然倅は「ここで遊ぶ!」と言い出したので、仕方なく暫く遊ばせることにする。再び倅を説得して移動を開始する迄、トイレだのジュースだの手洗いだの何だのかんだので結局1時間近くとられてしまった。
そんなこんなで、弁天山から1時間ちょいかけてようやっと待乳山に到着。ここも鳥居博士が『武蔵野及其周囲』で「前方後円墳であろう」としている場所である。
待乳山は「眞土山」とも書く。周囲の地質と異なり、土で出来ている山ということで、いかにも人工の盛土であることを想起させる名前だし、古墳と関係の深い古代豪族・土師氏の伝承が伝わっている点、前方後円形の外観を有している点等、いかにも怪しい場所であるが、『台東区史』では古墳ではなく、自然地形の丘であろうとしている。確かにこれ迄、古墳に由来するような遺物の出土は知られていないのだが、伝承によればその昔、待乳山から「金の龍」が出たことがあるそうである。浅草寺の山号「金龍山」はこれに由来しているのだが、これは金銅装の馬具や冠の一部等、古墳の副葬品ではないのだろうか? 例えば馬具のF字鏡板等は、それ単独で見れば龍っぽく見えないこともない。あくまでも伝承上のことであり、しかも出てきたのは「金の龍」という今一つ掴み所の無いものではあるが、こうした特別な物が出たという伝承が伝わっていることもまた、古墳説を補強する材料の一つではないかと思う。
待乳山の次は、東にちょっと歩いた所にある通称「お富士さん」と呼ばれる浅間神社に向かう。
が、しかし、待乳山の西側が児童公園になっていたため、ここでも倅を遊ばせるために足止めをくらう。
今回は30分位で切り上げて頂き、通りを東に進むと、小高い土台の上に鎮座している浅間神社が見えてきた。
小学校と警察署の真ん前である。
浅間神社を後にして、最後に駿馬塚跡地を見て帰ることにする。
『江戸名所図会』では小さな円墳のように描かれており、明治時代に陶棺が出たことから、古墳の可能性が高い物件である。墳丘は既に削平されているらしいが、跡地に石碑が残っていると聞いていたのだが、該当地附近にはマンションが建てられており跡形も無くなっていた。もしかしたら事前に調べておいた住所が間違っていたのかも知れないので、ここも次回探訪時に聞き込みをする等してみるつもりである。
ここで時計をみると午後4時30分。浅草東北方の橋場や対岸の立花、牛島等、他にも見ておきたい場所はあるのだが、時間的にちょっと厳しそうなので、本日はここ迄。浅草寺周辺のものしか見られなかったが、それでも古墳と思しき塚、しかも前方後円墳らしきものを目にすることができた。もっとも、弁天山も待乳山も過去に何度か行ったことはあるので、「古墳かも知れないという視点で」目にすることが出来たという次第であるが、改めてそういう視点で見てみると、浅草とは非常に興味深い土地である。もしこれらの塚が古墳であることが確認されれば、浅草寺のような古代寺院との関わり、土師氏伝承との関わり等、東京の古代史を考える上で新たな材料を提供してくれることになるだろう。未見の物件を含め、また時間を作って再訪してみるつもりである。
投稿者 Toyofusa : 2007年03月04日 00:21
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