■ 浅草寺縁起に見る古墳の影

浅草寺と言えば東京を代表する古刹であるが、具体的にどれ位古いのかは、恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。
幾つかの古墳本や鳥居博士の著作に触発されて、浅草寺周辺の古墳について調べる過程でそれを知ることが出来たのであるが、寺伝によれば推古天皇36年(628年)とのことである。

まあ、寺伝というのは大抵はオボロゲなもので、話し半分どころか何の確証もない場合が多いのであるが、浅草寺は一味違う。戦後、戦災で焼けた本堂や五重塔を再建する際の発掘調査で奈良〜平安時代の遺構が検出されたのだ。須恵器の仏具や和同開珎が出土しており、奈良時代には既に寺院として機能していたらしい。寺伝が伝える草創の時期とは尚100年の差があるが、ある程度近い年代の遺構が出ているとなれば別段フカしている訳でもないのかも知れない。縄文晩期や弥生時代の遺物も見つかっているそうなので、浅草は東京低地の中でも割合に早い時期から陸化していたと思われ、今後の調査でより古い時代の寺院遺構が見つかる可能性はあるだろう。

このように、浅草寺の寺伝は100%ではないにしろ、草創当時、即ち7世紀前半代の出来事が伝えられている可能性がある。7世紀前半と言えば、まだ古墳が造られている最中だし、関東ではギリギリ前方後円墳も築造されている時期である。何か古墳に関する手がかりとなる記述でもないだろうかと、浅草寺の寺伝を詳しく見てみることにした。
寺伝の概略は様々な書物やウェブサイトに記されているが、ここはやはり浅草寺のオフィシャルなものを参照したい所である。何かそういうものがないかと探してみると、少々古い本だが、『南無観世音 金竜山縁起正伝』(金竜山縁起編修会編 芳林堂 1912)という本を見つけた。「金竜山縁起編修会編」だし「正伝」とあるからには、これが浅草寺公式のものであろう。

同書には浅草寺の始まりについて、次のように書かれている。

人皇三十四代推古天皇の御宇三十六戊子年三月十八日癸丑の朝、碧空雲消えて蒼溟に風静かなり 爰に土師眞中知(はじのまつち)といへる人その家臣檜前濱成武成(ひのくまのはまなり・たけなり)といへる二人の兄弟を随へ一葉の扁舟に棹し江戸浦に出でて釣を垂れ網を引く業をなしけるに 宮戸川(往昔は駒形堂の地前は宮戸川と云ひて海に近いかりける由舊記に見ゆ)の河口にして 覚へず観自在尊の霊像のみ網にかかり放魚はさらに獲ざりしかば 爰に蜑のたく縄くり返しまた異浦にうら伝ふといへども七浦の浦ごとにさながら同じ観音大士の霊像のみかかり給へり 依て主従三人の者はうち驚き機縁の浅からざるを思ふにつけ信心ふかく催されて その尊容を拝し奉るに 寳冠瓔珞蕩々として金色荘厳篤々たり 左の御手に蓮華を持たし 右の御手には無畏を施し給ふ 五彩の瑞雲たなびき渡り 四華の露香ばしく 数行の涙止め難かりき 三人のもの霊像を抱きまつりて急ぎ磯邊に上陸し 直ちに草を結びて形ばかりの蘆の丸屋をつくり 心ばかりはすみ田川濁りにそまぬ蓮の臺とぞなしたりける(同書PP18-19)

この観音像は金色の5.5cm程の小さなものらしく、現在も本尊として現存しているらしいが、「秘仏」のため公開はされていない。これを調べられれば寺伝のウラをとれるのではないかと思うのだが、秘仏とあれば仕方がない。そもそも東京大空襲で本堂が焼けた際、無事に済んだのであろうか? まあ、7回場所を変えて網を投げても、その都度網にかかって現れるような仏様だから、米軍の爆撃程度でやられることはなかろう。

また、隅田川流域には、戦争寺以外にも川から見つかった仏像を本尊とした寺院の伝説が多い。足立区〜荒川区の「千住」という地名も、隅田川から千手観音像が見つかったことに由来するという伝承がある。他にも足立区や北区の隅田川沿いには、川から見つかった仏像の話しだとか、流木から仏像を造った話しが多く伝わっているが、大抵は浅草寺縁起が伝える時代よりは新しい時代の出来事だとされている。
浅草寺の伝承が最も古い時代だとされていることから考えると、隅田川流域のこの手の話しの元ネタは浅草寺の伝承で、これが次第にその土地土地の伝承に変化していったとも考えられるが、こうした話しが広まる契機として、隅田川から仏像が見つかったことはあったのかも知れない。それも一度だけでなく、複数回。流木を加工して仏像を造った話しを加味すると、完成品だけでなく、未完成の品も流れてきたのではなかろうか?
例えば、その昔、隅田川/入間川の上流の方に仏師が住んでいて、気に入らない出来の仏像をその職人気質から、

「こんなモノは、こうだっ!」

とばかりに隅田川に投げ捨てていた。それが時折下流の人に拾われて、上のような伝説が生まれることになったのかも知れない。

閑話休題。628年創建という古さもさることながら、その創建に関与したとされる古代豪族の名が出てくるのが興味深い。関東の寺院には鎌倉〜戦国時代頃の武将によって創建されたとされるものが多いので、これは異色と言える。しかも埴輪&古墳職人の土師氏である。土師氏のような古墳の造営や祭祀に関わった豪族は、古墳造営が下火になってからは、その技術を寺院建築や仏像の作成に振り向けるようになったと言われており、7世紀代の寺院の創建に土師氏が関わっていたとする浅草寺縁起は、その点でもリアリティのある話しと言えよう。
この浅草の豪族、土師眞中知について、同書は次のように記している。

抑も此の土師臣眞中知といへるは 都にてやんごとなき職司を有せるものなり しかど故ありて武蔵なる今の地に流浪(或書には故ありて左遷の身となり云云とあり)し來りける 日本紀に云へり垂仁天皇三十一年野見宿禰に始て土師臣の姓を賜ふと 野見宿禰は天穂日命第十四世の裔にして眞中知も土師臣の姓を冒すものなれば其遠孫なるおと言ふまでもなし 又其姓名より推すときは素より常人にはあらざること亦た明らかなり
 土師眞中知の事に就き思出草に説あり
縁起に土師眞中知とあるは眞は直の誤ならん 又眞人の人の字の欠たるならんという説あれども 皆憶測にして土師の氏に直及び眞人の姓あることをきかず 土師氏は連或は宿禰の姓なり 眞中知は三字の名にしていにしへには多くあることなり 眞を姓とするゆえに中知をナカトモとよみたるはいかにも後めきたる訓なり 余林祭酒(林大学頭を指す)の蔵せられし紫の一本の古本を見しに 眞中知にマツウチと仮字をふりあり 之によりて考れば今のマツチ山は彼眞中知の舊宅の地か、もしくは墳墓の地なるべし まつち山は本龍院の縁起にも此寺推古帝五年に創立せりとあれば眞中知の謫せられし時に當れるににたり 余はこの説を賛襄す云々
 又夢跡集にも「ある人の云く」として
土師眞人中知の陵は金龍山なる今の眞人山(まちやま)と云う云々(同書PP19-20)

寺伝に直接記されている訳ではないが、江戸時代の国学者・林大学頭の説として、浅草寺そばの待乳山の名は土師眞中知に由来し、しかもその墳墓ではないかというものが紹介されている。
埴輪を造った野見宿禰の子孫で、古墳の造営や祭祀に深く関わったとされる土師氏+墳墓。古墳の影がちらちらと見えてくるようではないか。
また、野見宿禰と言えば相撲が強かったのでも有名で、両国の国技館のそばには相撲協会によって「野見宿禰神社」が祀られている。そもそも浅草から程近い両国の地に国技館が建てられたのは、もしかするとここに土師氏伝承が伝わっていたからなのかも知れない。

一方、土師眞中知の家臣とされる、檜前濱成・武成兄弟について、同書は次のように記している。

土師眞中知の家臣といへる檜前濱成武成の兄弟二人は主なる人の武蔵なる僻陬の地に流浪するに至りしを悲み 元来忠義無二、操節金鉄のますら雄なりければ其跡をしたひつつ當国へは來られるなり
 親選姓氏録に檜前舎人連と云々 檜前ヒノクマと訓む、さるを前を熊と改めし者鮮からず 続日本紀に檜前舎人直由加麻呂武蔵国加美郡の人にして土師氏と祖を同するとあり
 又延喜式兵部省諸国馬牛の牧の中にも武蔵国檜前馬牧とあり是等によるときは濱成武成も此国の人ならんか
(同書P20)

延喜式に見える「檜前馬牧」を浅草寺の伝承からこの地に比定しているのが興味深い。
浅草寺の東側には今も「馬道通り」があるが、江戸時代迄ここに馬市が立ったことは『江戸名所図会』等の江戸期の文献から知ることが出来る。また、隅田川対岸の本所・牛島の地名は古代の牛牧に由来するとされている。これらが本当に古代官牧に由来するものであるならば、これまた凄い話しだが、「延喜式」の記述にインスパイヤされて、檜前濱成・武成の人名共々捻り出されたものではないか? という疑念は拭いきれない。「眞中知」という名が林大学頭も言っているように、非常に古風な印象を与えるものであるのに対し、「濱成・武成」は平安以降の武士や公家の名前のような印象を受け、とってつけた感は否めない。

名前はともかくとして、この地に土師氏とその同族である檜前氏の伝承がセットで存在しており、古代寺院や古代官牧の存在が伝えられているのは面白い。寺院は発掘調査である程度寺伝を裏付けるような遺構が検出されているので、もし官牧も実在していたならば、寺院や牧場は一朝一夕に出来るものではないから、浅草は相当古くから開けていた土地であったと考えられるし、古代寺院や官牧を造り、運営できた技術の土台としての古墳築造の技術とその成果である古墳の存在は、むしろ当然とも言えるのではないかと思う。
このように、私は浅草寺縁起に古墳存在の影を見る訳であるが、果たして待乳山や弁天山が古墳であるのかどうか、解明される日が一日も早く来ることを祈る次第である。

投稿者 Toyofusa : 2007年02月27日 22:22 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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