■ 草加市谷塚古墳群探訪

旧入間川の下流部・現在の毛長川流域の古墳は、その立地によって、下流部左岸自然堤防上の草加市谷塚古墳群、中〜下流部右岸自然堤防上の足立区伊興古墳群、上流部左岸・台地際の鳩ヶ谷〜川口市新郷古墳群の3つに大別される。この内、新郷古墳群と伊興古墳群は発掘調査によって検出された遺構や、表採されたり、伝えられてきた遺物等からある程度、群を構成した古墳の内容について伺い知ることが出来るが、谷塚古墳群に関しては発掘調査で確認されたのは蜻蛉古墳一基のみで、他に表採されたり、伝えられてきた埴輪や副葬品類はなく、ただ『新編武蔵風土記稿』のような古記録から、かつては多くの古墳が存在したらしいと推定されているに過ぎない。
勿論、新郷や伊興の古墳群についても、古記録等から推測される古墳の数に比べれば、遺構や遺物によってその内容を多少なりとも伺い知ることが出来る古墳の数は大変少ないのであるが、こうした傾向が一番顕著なのが谷塚古墳群であると言えよう。

しかも谷塚古墳群も、他の群の例に漏れず、古墳や古墳と推定される塚の殆どは未調査のまま削平されてしまい、今となってはその塚跡の正確な所在地も良く分からなくなってしまっている。当サイトの谷塚古墳群の項に跡地写真がないのはその為であり、今でも色々と調べてはいるのだが、中々場所を特定できないでいる。しかし、こうした塚の全てが削平されてしまったかというとそうでもないらしく、『草加市史 通史編上巻』(草加市史編纂委員会 1997)には次のような記述がある。

本市内では氷川町に御殿稲荷古墳とよばれる小さな塚が近年まで存在し、また、毛長川の自然堤防上にも古墳と思われる塚が現在も一基残っているが、それらは未だ古墳と確認されたわけではなかった。

また、『草加の歴史』(草加市教育委員会 1963)には、

谷塚という名の意味を考えてみると、谷は低湿地を意味するので、水田をつくるのに適していたこの地にムラがつくられ、ムラの豪族ほどではないにしても、有力な人々が多くの塚をつくったのであろう。この地区には、現在塚らしいものはほとんどみられず、瀬崎町に小さな塚が1つ残っているのみである。もっと詳しく調査すれば塚のあとらしいものもないわけではないが、塚といえるものは、江戸末期のころまでに掘りくずされてなくなってしまった。

と記されている。『草加市史』で「一基残っている」とされているので、恐らくこの瀬崎町の塚は同じものを指しているのだろう。従って、瀬崎町には1997年の時点ではまだ古墳らしい塚が一基残っていたことになり、これは現存する可能性が高い。そこで最近はこの現存するらしい塚の所在地等について調べを進めているのであるが、机上の調査では中々埒が開かないので、直接現地に赴いて地元の人に聞いてみるのが早道であろうと思い、出かけてみることにした。また、調査の過程で知り得た他の「古墳かも知れない物件」も合わせて巡ってみた。

草加市は鳩ヶ谷から直線距離で10kmあるかないかと、至近距離と言っても差し支えない場所である。車なら30分とかからないが、駐車場が駅前にも余りないような所なので、路駐取締りが厳しい昨今、これはちょっとリスキーである。ベストは自転車なのだが、我が愛車のタイヤはボロボロで、現在乗用に耐えない状態である。タイヤを交換したい所なのだが、26×2×1+1/2というちょっと特殊なサイズのタイヤ故、未だに入手できないでいるのだ。


我が愛車「瑞典号」
スウェーデン製のオフロード車で、ペダルを反転させてブレーキをかけるタイプなので、慣れると両手がフリーになって便利。クソ重い代わりに頑丈で、フレームは一生物なのだが、タイヤのサイズが特殊過ぎるというのは盲点であった。リアカー用のタイヤが代用できるらしいので、一度試してみるつもり。

自転車が使えないとなると、バスか電車ということになる。
目的地の瀬崎町は東武伊勢崎線谷塚駅の東口一帯なのだが、鳩ヶ谷から谷塚駅行きのバスは出ていない。
一駅北側の草加駅行きならあるが、本数が少なく、1本逃すと時間帯によっては1時間程待たねばならないのが難である。
電車はその点、本数は十分なのだが、埼玉高速鉄道線で東川口駅→JR武蔵野線で南越谷→東武伊勢崎線で谷塚駅と、大きく迂回するルートとなり、直線距離で10kmもないような場所へ行くのに2回も乗り換えねばならない理不尽さである。運賃も計 610円と、JRなら相当遠く迄行けそうな額をたかだか「隣の隣の市」に行くのに支払わねばならないのだ。
そこで、事前にバスの時刻表を調べておいて、バスで草加駅迄行くことにしたのだが、見事に寝坊してしまった。
結局、計610円を支払って、昼過ぎに谷塚駅東口に降り立ったのであった。

最初の目的地は浅間神社である。
実は瀬崎には以前一度足を運んだことがあり、「塚」について地元の人に聞いてみたことがあるのだが、その時教えられたのがここである。確かに小高くなった所に社殿が建てられているが、市史がいう塚とは別物であろう。


瀬崎町の鎮守・浅間神社

道路と比べてみても小高くなっている。これは社殿築造時の盛り土ではなく、草加市HP等によると元々小高くなっていた丘の上に社殿を建てたと推定されているようだ。浅間神社の性格からして、富士山を連想させるような丘の上をその鎮座地として選ぶのは当然なので、やはり元々小高くなっていた土地であると考えて間違いなかろう。
社殿裏(西側)から

毛長川沿岸の自然堤防上であり、元々小高くなっていたとなると自然地形とは考えにくく、社殿築造時に盛ったものではないとしても人工の土盛りである可能性が高い。この社地の東南方には『新編武蔵風土記稿』に刀や曲玉、人骨の出土が記録されている「加賀屋敷」の古塚跡地と推定されている場所があり、これを考えるとこの社殿の土台も古墳である可能性があるかも知れない。
社殿裏の富士塚

社殿裏には、ひょうたん池を埋め立てた広場を挟んで富士塚が築かれている。溶岩等を用いた登山可の富士塚で、十条富士を小さくしたような雰囲気である。この富士塚も周囲よりも小高くなっている土地の中央部分に建てられており、円墳を崩した跡に建てられたように見えなくもない。

浅間神社とその周辺にて、土地の人にこの界隈の「塚」について聞いてみたが、富士塚以外の情報は得られず。どうもこの辺で「塚」と言えば、この富士塚以外には思い当たるものはないようである。もしかして市史のいう塚とはこの富士塚のことなのであろうか? 今回は他の塚を見に行くことにしているので寄っている時間はないのだが、やはり一度、図書館か郷土資料館に行って聞いてみるのが確実そうである。

瀬崎の塚については、今度郷土資料館で聞いてみるとして、本日はこれまでの調査で知り得たもう一つの塚状物件を見に行ってみることにする。谷塚駅を挟んだ反対側、谷塚駅西口の北西1.5km程の所に「兎田」という所があるのだが、『埼玉ふるさと散歩<草加市>』(中島清治著 さきたま出版会 1994)によれば、

この県道川口・草加線を越えて草加南高校に突き当たり、北東方面にクランク状に約四〇〇メートルほど道なりに進むと、稲荷神社がある。通称うさぎ田稲荷と呼んでいる。昔、この辺りに野兎がいたという説と、旧谷塚村の飛び地であるという地理的な観点からの二説がある。見事な朱塗りの木造両部鳥居をくぐり、正面の石段を上る。社殿は約1.5メートルの円墳の上に建てられている。人工的に造られたものか、往古の塚の跡かは定かではない。(同書P119)

と、いかにも怪しげな神社があるそうである。グーグルアースで該当地点を見てみると、今でも田か畑の中にポツンと円墳状の地形がみてとれ、現存していることを確認できた。毛長川左岸の自然堤防上という立地だが、流路からは1km程離れているので水害対策の盛土とも思えず、古墳流用の期待が膨らむ物件である。


兎田稲荷神社

畑の中にポツリと盛り上がったいかにもな雰囲気の場所である。
大きさは径15m程度と余り大きくはなく、高さもないので低平な印象で、北区の四本木稲荷古墳や板橋区の小豆沢観音塚古墳を彷彿とさせる。
木の生えっぷりからして、最近盛られたものではないことは明らかだが、これだけ周囲が耕作されていたり、墳頂部を削平して社殿を建てていると思われる割に、特に古墳関係の出土品が知られていない点が弱い。
正面から見た兎田稲荷

鳥居が『埼玉ふるさと散歩』の記述と異なるので、1994年以降にリニューアルされたようである。尚、この神社は『新編武蔵風土記稿』に記載はあるが、特に塚上にあるとは書かれていないので、それ以後に盛土されたとも考えられる。

稲荷社のすぐ西隣には最近建てられたと思われる住宅が迫っているが、この建設にあたっても特に遺物が出なかったとなると、古墳ではないのかも知れないが、建設に先立って発掘調査が行われたかどうかは不明である。この点も次回郷土資料館で確認してみたいと思うが、見た目や立地からすると非常に怪しげな物件である。

草加市内にはこの他にも、雷神様、まるぼっち、塞塚(狐塚)といった塚や塚状の地形があったそうである。
雷神様は毛長川流域であるが、まるぼっちや塞塚は綾瀬川や中川流域であり、もしかしたらその方面にも古墳が築造されていた可能性がある。特にまるぼっちには「丸木舟が埋まっている」という伝説があるのが興味深い。草加市金明町の綾瀬川からは縄文時代の丸木舟が見つかっているのだが、縄文時代からの伝承とも思えず、一度掘り出した丸木舟を再び埋めたというような事が過去にあったのかも知れない。また、まるぼっちが塚状の場所であったということを考えれば、古墳の舟型木棺であった可能性も考えられるように思う。
塞塚には「狐の嫁入り」伝説があり、横穴式石室を持つ古墳に「狐塚」の名称や狐に関する伝説が多く見られることから、これも同様の古墳であったかも知れない。
これらも場所の特定が出来次第、跡地を見に出かけてみたい。

投稿者 Toyofusa : 2007年02月25日 19:34 Twitterにポスト Tumblrにポスト

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