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杉村春子
幼時に両親が死んだため広島市の建築資材卸し商の養女にもらわれる。父が家の近くの寿座の株主だった関係で小さいときから母につれられて寿座に出入りし、歌舞伎から新派、文楽、フシ劇など片端から見つくし、松井須磨子の『復活』、アンナ・パヴロワの『瀕死の白鳥』なども見る。小学校一年生のとき学芸会で『私の人形』を独唱して賞められ、寿座で三浦環の『お蝶夫人』を聴くにおよび、声楽家に憧れる。五年生のとき父と死別するが、母の愛を一身にうけ、わがままいっぱいに育てられ、私立の名門校・山中高等女学校へ入学したとき、母にねだり、当時は個人の家庭ではほとんど持っていなかったピアノを八百円という大金を投じさせて買ってもらう。まもなく自分が養女であることを知ってショックを受けるが、いらい自分の将来を真剣に考えるようになり、声楽家志望の決意を固め、24年に猛反対する母を納得させて東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の受験に上京する。不合格となり、再び母を口説いて東京に留まり、予備校のような音楽学校に通い翌25年、再度挑戦するが失敗、広島市へもどる。同年、女学校時代の音楽の教師が勤めていた広島女学院を病気退職することになり、教え子のよしみで推薦され、広島女学院の音楽の代用教員となる。先輩の教師に築地小劇場の話を聞き、それだけで新劇に憧れるうち26年9月末、その築地小劇場が広島市へ来演、寿座でアンドレーエフ作『横っ面をはられる彼』、ゲーリング作『海戦』、バーナード・ショウ作『馬盗坊』、小山内薫・作『息子』を日替わりで上演。これを見て新劇女優への夢をかきたてられ、翌27年3月、広島女学院を退職、母には音楽の勉強をしたいからと偽り4月に上京、築地小劇場へ研究生として入る。研究生募集の時期でなく、土方与志に特別にテストをしてもらい、広島なまりがひど過ぎるから三年間、黙って勉強できるならという条件で採用されたが、4月15日からの第六十一回公演『何が彼女をさうさせたか』改題『彼女』(藤森成吉・作)に音楽教師の前歴を買われて天使園のオルガン弾きの役で初舞台。もちろん台詞はなく、客席に背を向けて賛美歌を弾くだけで、これと舞台の隅で下駄の鼻緒をつくっている老婆の役を演じた。同年5月のエフレイノフ作『心の劇場』でM2の妻に対する概念の役を途中で病気になった滝蓮子の代役で演じ、はじめて台詞を言う。二カ月後、娘が女優になったことを知り、大成させようと母が広島市の家をたたんで上京。この実の親以上によくできた養母は戦後の48年、奈良県の疎開先で他界した。舞台ではその後、ロマショーホ作『空気饅頭』27のヤーシャ、チェーホフ作『伯父ワーニャ』の年よりの乳母マリーナ、イプセン作『ノラ』の村瀬幸子のノラの乳母、『ペエルギュント』の山本安英のソルベイジの母、ヴェデキント作『春のめざめ』28の山本安英のヴェンドラの姉など、小さな役だが次次と出演。しかし築地小劇場は29年3月、彼女も同宿人のひとりで出たゴーリキー作『夜の宿』を最後に分裂。残留組の劇団築地小劇場に加わったが、これまた翌年解散。まだ一人前の女優になっていなかったので、たまに新築地劇団や劇団新東京などに頼まれて出演するていどの失意の生活が続く。32年、オリエンタル映画社のトーキー「浪子」に水谷八重子を助演して映画に初出演。33年、慶応義塾大学医学部の学生で五歳下の長広岸郎と結婚。この前後、友田恭助、田村秋子夫妻が劇団新東京を解散後、32年2月に結成した築地座に加えられ、田村秋子を目標に精進。小山祐士・作『瀬戸内海の子供ら』35のハイカラ堂の奥さん、内村直也・作『秋水嶺』35の山口の妻の朝鮮人、岸田国士・作『牛山ホテル』の石倉やすなどで、ようやく脇役として認められる。36年2月、築地座が解散。37年9月、友田、田村夫妻が岩田豊雄、岸田国士、久保田万太郎らと創立した文学座へ田村に誘われて参加。しかし、この前後、友田が応召、戦死したため田村が出演を取りやめ、同年11月末の有楽座での旗上げ公演は挫折。この11月、松竹大船の島津保次郎監督「浅草の灯」37(浜本浩・原作)に出演を請われ、浅草のオペラ一座のプリマドンナ松島摩梨枝の役で高峰三枝子と共演、美声も聴かせて二度目の映画出演をした。 文学座は38年1月、勉強会や試演で出直すが、彼女は第一回勉強会の久保田万太郎・作『四月尽』でおつね、ジュール・ルナール作『別れも愉し』38でブランシュを主演、第一回試演のクウルトリーヌ作『我が家の平和』38では徳川夢声と夫婦役で共演。以後、試演ではパニョル作『マリウス』改題『蒼海亭』のファニー、真船豊・作『太陽の子』39の桐山絹子、試演を公演と正式に称した最初のイプセン作『野鴨』のギイナ、パニョル作『ファニー』40のファニーと次々に大役を演じ、太平洋戦争下もほとんど唯一の新劇団として公演を続けた文学座の中心女優として活躍。42年5月、『富島松五郎伝』に松五郎役の丸山定夫と吉岡大尉夫人の役で共演中、夫を肺結核で失うが、41年に文学座へ入った森本薫が彼女のために書きおろした45年4月初演の『女の一生』の布引けいは、上演記録七百回余という彼女の当たり役となり、この戦時下、杉村春子時代というべき最初のエポックをつくった。この間、東京発声映画の豊田四郎監督に招かれ、農民文学の伊藤永之介・原作「鴬」38で田舎町の警察署でもぐりの産婆として取り調べを受けている最中、かつぎ込まれた旅の女の赤児を取り上げるはめになる好人物の中年女を演じ、この好演が買われて、愛国婦人会の創立者である婦人運動家の半生を描いた「奥村五百子」40では題名役を主演。続いて女医・小川正子の癩患者救済の体験記を原作にしたヒューマニズムと詩情ゆたかな名作「小島の春」40では療養所入りをかたくなに拒む菅井一郎ふんする癩患者の妻と癩患者の女の二役を痛切に演じ、さらに「大日向村」40、「わが愛の記」41にも出演。「小島の春」はベスト・テン一位に選出され、戦前における豊田四郎の名作群に大きく貢献した。このほか戦前には新興キネマの「嵐の中の乙女」41、日活多摩川の「次郎物語」41、東宝の「南海の花束」42、「間諜海の薔薇」45、大映の「山参道」42(島耕二監督)、「海の虎」45、松竹の「激流」、「陸軍」44(木下恵介監督)などに助演。日活の「海の母」42、東宝の「母の地図」42(島津保次郎監督)、大映の「雛鷲の母」44では母親役で主演、リアルで情感ゆたかな演技で映画にも見事な軌跡を描いた。 46年3月、文学座は東劇で和田勝一・作『河』をもって戦後初の公演を行い、彼女は三津田健ふんする詩人・清水信太郎の妻・夏子を演じて活動を再開、帝劇での有島武郎・作『或る女』では葉子を主演したが、この公演中の同年10月6日、彼女が心の師としてきた森本薫が三十四歳で病死するという悲運に見まわれ、さらに戦後の社会、思想状況の変化による苦難を経験するが、そのなかで劇団活動の再興につとめ、48年3月には『女の一生』で戦後復活第一回の47年度芸術院賞を受賞する。49年2月、田村秋子・作、主演の『姫岩』稽古に入る前、紫斑性ロイマチスという難病にとりつかれ、女優生命を危ぶまれたが、亡夫の後輩で彼女のファンだった慶大医学部の外科助手・石山季彦の献身的な治療で回復。岸田国士の新作『速水女塾』49の八坂登美子の役で再起。翌50年、十歳下の石山と結婚する。舞台ではその後、福田恆存・作『キティ颱風』50の大村咲子、森本薫・作『華々しき一族』50の諏訪と大役を演じ続け、50年8月のシモン・ギャンチョン作『娼婦マヤ』のベラでヒットを飛ばし、チェーホフ作『ワーニャ伯父さん』51のエレーナ、エドモン・ロスタン作『シラノ・ド・ベルジュラック』51のロクサアヌを経て53年3月のテネシー・ウイリアムズ作、川口一郎・演出の『欲望という名の電車』のブランチで再びヒットを飛ばす。さらに飯沢匡・作『二号』54の御園とく、シェイクスピア作『ハムレット』55の王妃ガートルードを経て三島由紀夫が彼女のために書きおろした56年11月の『鹿鳴館』の伯爵夫人・影山朝子では一まわりも二まわりも大きな演技を見せ、第二の開花期を迎えた。芥川比呂志と組んだ『マクベス』58のマクベス夫人、三島由紀夫・作『熱帯樹』60の律子、『十日の菊』62の奥山菊、テネシー・ウイリアムズ作『地獄のオルフェウス』62のレディ・トーランスなどに意欲的に取り組み、チェーホフ作『三人姉妹』64のオーリガ、『かもめ』65のアルカーヂナ、水上勉・作『山襞』66の瀬村たね、『海鳴』67の半沢りん、久保栄・作『五稜郭血書』69の居留地お留、有吉佐和子・作『華岡青洲の妻』70の青洲の母・於継、有吉佐和子・作『ふるあめりかに袖はぬらさじ』72の芸者お園、水木洋子・作『おさい権三』73のおさい、大西信行・脚色『怪談牡丹燈篭』74のお峯、お米の二役などで広範な観客を堪能させた。またこの間、56年4月にはアジア連帯委員会の文化使節としてインド、エジプト、ソ連、中国などを歴訪、60年9月からは訪中新劇団の副団長として『女の一生』をもって中国各都市を巡演。63年1月の芥川比呂志ら二十九名の脱退、同年12月の三島由紀夫・作『喜びの琴』上演中止に端を発した賀原夏子ら十四名の脱退という文学座創立いらいの危機をも乗り越え、すぐれた若手を次々と育てながら大車輪の活躍を見せた。ただし、『欲望という名の電車』北海道巡演中の66年7月6日、夫・石山季彦(医学博士)と死別した。