GHQが置かれた第一生命ビル

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 終戦を迎えると、在留朝鮮人たちはわれ先にと各地の引き揚げ港に殺到した。この朝鮮への帰還事業を一手に引き受けたのが、共産主義者の組織となった「在日本朝鮮人連盟」だった。彼らは全国の鉄道網を押さえ、意のままに切符を発券、発売するようになる。

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【写真3枚】下関駅前に開かれた「朝鮮式闇市」

「在日本朝鮮人連盟」(朝連)の共産主義者たちは、混乱を極めた敗戦後の日本で潤沢な資金と強固なネットワークを持ち、列島を縦横無尽に駆け回っていた。

 朝連秋田県本部の創設メンバーで、日本共産党の細胞としても活動した李又鳳は、こう回想している。

「警察だろうが、テキ屋・ヤクザだろうがこわいものはなかった。あの一時期、解放された朝鮮人は、皆な生き生きして最高の高潮のときであった」(『在日一世が語る 日帝36年間 朝鮮民族に涙の乾く日はなかった』「在日一世が語る」出版会)

 前回でも触れたが、ハーバード大学のエドワード・ワグナー教授はその資金力について、「もっとも重要な一財源は朝鮮人引揚である」(『日本における朝鮮少数民族』)と述べている。また同じく前回で紹介した田駿『朝総連研究』で分類した財源でも、帰国者関係は3項目ある。

GHQが置かれた第一生命ビル

 朝連は占領下の日本で、GHQとの協力を深め、朝鮮人の引き揚げ業務を取り仕切った。ではその実態はいかなるものだったのか。

朝鮮半島の労務動員者の早期帰還支援へ

 終戦当時、日本には約240万人の朝鮮人がいた。日本政府は、玉音放送から1週間後の1945年8月22日、各省次官会議で「戦争終結に伴う工場事業場従業者の応急措置」を定めた。さらに同日、運輸省で「朝鮮帰還運輸問題打合会」を開催して徴用解除の方針を決め、朝鮮半島の労務動員者の早期帰還支援に取り掛かった。そして9月1日には、「関釜連絡船による復員軍人・軍属、労務者の計画輸送」を発表する。

 政府は、計画的な送還に向け組織的対応を図るため、日本への引き揚げ者と朝鮮などへの送還者に1元的に対応する「引揚援護局」を主要港に設置した。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7援護局(11月24日厚生省告示第126号)がそれである。

 また港は、山口県仙崎港(朝鮮人)、福岡県博多港(朝鮮人および華北中国人)、鹿児島港(華中中国人)、広島県呉港(華北中国人)が指定されたが、実際には佐世保、小樽、室蘭、函館などの港も使用された。

1日千人の朝鮮人輸送計画

 政府は、仙崎と博多で1日千人の朝鮮人輸送計画を立てていた。朝鮮半島では、米軍が9月9日に京城(現ソウル)に入り、朝鮮総督府の行政権を接収して軍政を敷いた。そして9月23日から朝鮮内日本人の引き揚げと在日朝鮮人の受け入れ業務を行うことになった。

 この時、日本政府が業務委託したのが、日朝融和団体である中央興生会と東亜交通公社、県の統制会などである(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』)。

 政府は輸送計画の立案から現場の指揮権までを、権藤嘉郎(権逸)や中央興生会の手に委ねた。

 政府の計画輸送が発表された9月1日、早くも中央興生会は各府県の興生会支部に通達を出し、業務に着手した。9月28日に厚生省が出した「終戦に伴う内地在住朝鮮人及台湾人の処遇に関する応急措置の件」(厚生省発健第152号)によると、朝鮮人帰還に伴う移動や援護は興生会が行い、興生会の発行する「計画輸送証明書」を携行した朝鮮人が優先的に帰還できることになっていた。

混乱する引き揚げ地

 だが、現場は混乱を極めた。朝鮮人は「計画輸送証明書」による優先順位を無視し、われ先に、と引き揚げ港に殺到したからである。

 9月14日の「読売報知」には、下関に3万人を超える朝鮮人が押し寄せた様子が記されている。

「足もとから鳥がたつやうに帰鮮を急ぐ者が多くそれが全国から雪崩を打つて渡鮮基地下関に蝟集しはじめすでに三万人を突破しようとしてゐる、関釜連絡船は航行停止中と知りながら下関まで押しかけてくる帰鮮者はなほ日とともに激増し、さきほど来漸く関釜連絡船二隻の隔日就航をみたが、この程度の船腹では到底激増する帰鮮者を消化しきれるはずがなく、このため朝鮮人の数は一日一日膨張の一途をたどつてゐる」

 下関は釜山へ向かう関釜連絡船の乗船港だったが、関門海峡に機雷や沈没船があったため、日本海側の仙崎港が引き揚げ乗船港となっていた。多くの朝鮮人たちは一度下関に集まり、それから仙崎に向かった。

 下関は空襲で町の6割を焼失した。政府は、現地の興生会館を計画輸送の収容先として用意したが、津波のように押し寄せてくる帰還者に対応しきれなかった。

「下関滞留朝鮮人ニ関スル情報」(鈴木久美「在日朝鮮人の帰還援護事業の推移―下関・仙崎の事例から」『在日朝鮮人史研究』緑蔭書房)によれば、帰還者は下関桟橋駅待合室(約5千人)、駅待合室(約300人)、下関興生会館(約600人)、在日本朝鮮人連盟倉庫内(約400人)、波止場付近上場(約300人)、疎開し空家となっている建物(約400人)、知人宅(約3千人)、桟橋駅待合室下のガード下にホームレスのようにごろ寝(約8千人)で、分散して船待ちをしていたという。

闇船を手配する朝鮮人ブローカーが暗躍

 彼らは食糧をほとんど携行しておらず、配給があっても到着前に食べてしまい、下関警察署には配給の要求が相次いだ。また燃料が不足し、下関駅では構内に滞留していた朝鮮人が駅構内の建具を壊して炊事の燃料にした。このため建物が倒壊、就寝中の朝鮮人2名が死亡している。

 港では闇船を手配する朝鮮人ブローカーが横行した。船を待つ間、朝鮮人たちは闇市で商いを始め、揉め事が多発した。

 もちろん、そうした混乱は下関だけではなかった。朝連の腕章を巻いて京都府西舞鶴の埠頭に立った崔碩義はその光景を次のように描写している。

「乗船予定者がみんな船に乗り移るクライマックスの頃に達すると、どこからともなく現れた横着で無法な帰国希望者が、わあっと群れをなしてタラップに殺到し始める。(略)船体の前と後ろの方でロープなどにしがみついて甲板に這い上がっている勇敢な若者の姿も見られる。こういう連中は風呂敷包み一つの単身者なのである。もはや、このような状態になると船客名簿どころか、危険が一杯だ。やがて定員の数倍もの乗客を詰め込んだ船は大歓声のうちに汽笛をならして出航していく」(「八・一五解放前後の舞鶴の思い出」『在日朝鮮人史研究』)

業務を朝連が奪取

 こうした中で、興生会による引き揚げは2カ月ほどで頓挫する。

「十月二十五日以来、輸送統制のため、地方興生会または事業主が発行にあたっていた『計画輸送証明書』は、十一月十三日午前零時から各地方長官が発行し、各鉄道局をブロックとする大幅の輸送計画をたて輸送人員を割り当て、帰鮮者の計画輸送証明制度を強化した」(引揚援護庁編『引揚援護の記録』クレス出版)

 そもそも興生会は、10月16日の朝連結成を境に、急速に求心力を失っていた。そしてその業務を朝連が奪っていく。

「ことに大阪地区の朝連は自分たちで引揚計画をたて、それを管理した」(ワグナー・同前)

 朝連は船舶の処置を自分たちに委ねることを運輸省と船会社に要求、官憲と協力し、大阪やその他の港に朝鮮人を輸送する特別列車を仕立てる計画を立てた。

 そして朝連は次々と地方の興生会支部を訪れ、事務所や備品の明け渡しと、事業、資金の引き継ぎを要求した。朝連幹部には土木請負師の顔役たちがそろっていたから、力ずくという場面もあったようである。

 結局、興生会は政府に引き揚げ業務を委託されながらも、実務を遂行することなく、11月15日に組織を解散した。政府は興生会の名称を日鮮協会と変更して再出発を試みさせたが、それもわずか3カ月で立ち行かなくなった。そして以後、引き揚げ業務を朝連が行うのである。

巨大な利権を手にした朝連

 当初、引き揚げ者は政府とGHQがリストを作り興生会に渡していたが、朝連は独自にリストを作成した。引き揚げによって連盟員が減少することを恐れて、

「朝連が引揚特権喪失者リストを作成し、もし、朝連が希望すれば、自己の親しいものの引揚を延期し、その代わりに無関係なものを呼び出すことができた」(ワグナー・同前)

 というのである。

 この引き揚げ業務によって、朝連は巨大な利権を手にした。それは全国の朝鮮人たちを引き揚げ港まで運ぶ鉄道乗車券の販売である。そしてさらに朝鮮人帰還に当たって、博多、仙崎までの荷物輸送業務も引き受けることになった。人を多く運ぶため携行品が制限されたからである。

 当時、日本共産党宮城県委員会委員長であった遠藤忠夫は、

「日本人は切符を入手するのが困難でしたが、朝鮮人は戦勝国といったらおかしいが、団体交渉で切符をうまく買ったんです」(「証言3 宮城県共産党と仙台の在日朝鮮人社会――高橋正美さんと遠藤忠夫さんのお話〈地域社会における在日朝鮮人とGHQ〉」「東西南北別冊01」和光大学リポジトリ)

 と発言している。これに応じてイ・ヒョンナンも、

「宮城県でも、帰りたい人はみんな仙台の朝連の窓口に行ってキップをもらいました」(同前)

 と答えている。つまり朝連が鉄道乗車券を発券、発売していたのである。ただし、運輸省とどんな取り決めになっていたかはわからない。

闇市で売られる米の買い付けに使われた鉄道乗車券

 連合軍総司令部(GHQ)と日本政府の連絡役である終戦連絡中央事務局は、朝鮮人の乗車券問題について善処を図るよう何度もGHQに訴えている。

「中国人、台湾人及び朝鮮人はこの特典的地位を利用し、鉄道の混雑を無視して、指定席或いは車両全部を要求して日本人乗客を脅迫し或いは追い出す傾向がある。更に、それら非日本人に取得された上記の乗車券の多くが闇市で再販売或いは闇市商品を集めるための旅行に使用された」(「中国人・台湾人及び朝鮮人の鉄道輸送妨害に対する取り締まりの件」1946年2月4日 CLO No.538)

 そしてその一例として、

「一九四六年一月十七日上野駅で、本来日本人引揚者のために設定された客車四両が朝鮮人たちに強制的に接収され、闇市の米を購入するために秋田行きに利用された」(同)

 と、記している。

 鉄道乗車券は、闇市で売られる米の買い付けに不可欠だった。朝鮮人は朝連が発行する鉄道乗車券を使い、農村と都市の闇市を往復した。当時、米は統制品で、食糧管理法で厳しく規制されていたが、配給の米だけではとうてい庶民の胃袋を満たすことはできず、闇米が大量に流通していた。

 冒頭に登場した朝連秋田本部の李又鳳は、

「秋田には米があるというので、大阪、京都、名古屋、東京あたりから集団で買い出しにくる者がどっと増えてきた。(略)米は高い値で売れるのでヤミ米が横行する。(略)一人で五俵も、六俵も買い入れると、集団できているので百俵単位になる。これを汽車に乗せて大移動となる。このヤミ米の取り締まりが警察によって行われるのだが、関西、名古屋、東京方面から集団でくる朝鮮人には大館の警察の力ではなんともしようがない」(李又鳳・同前)

横暴を極めた朝鮮人

 朝鮮人の鉄道利用は横暴を極めた。北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の金興坤も言う。

「我同胞が、どこから出してくるのかさまざまな生活必需品を、駅待合室が我商店のごとくにして商売している。また皆が長い列をつくってキップを買い求めているのに、無理やり列の前に入って、キップを買い占めては高い値で売り捌く。駅員が注意すれば『この四等国民、何言ってるんだ』と暴力を振るう。駅長がいうには、鉄道で給料を出すから、我が同盟から取締員をだしてほしいとのことであった。時どき人をやって取締はしたが、金はもらわなかった」(「怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史」「季刊人間雑誌」草風館)

「帰国者返戻金」の獲得

 こうした朝鮮人に手を焼いていたGHQは、ついに1946年9月30日、次のような通達を出す。

「1.あらゆる朝鮮人団体の発行する国鉄無料乗車券を拒否するよう運輸省に指令することを指示する

 2.さらに、朝鮮人団体が発行する全ての乗車券を提示者から取り上げ破棄することを指示すること」(「朝鮮人連盟が発行する鉄道旅行乗車券の禁止」SCAPIN 1239)

 この鉄道関係では、もう一つ、朝連の財源となったものがある。

 日本政府は朝鮮人の帰還費用を無償にする方針を1945年11月にGHQに伝え、12月12日から朝鮮人の帰還に関わる費用はすべて無料になった。加えて、それまで自費で帰郷した朝鮮人についても、遡って運賃の払い戻しをすることを約束した。

 そこで朝連は、8月15日より12月11日までに帰還した朝鮮人の運賃の払い戻しを、個人に代わって国に代理請求したのである。これが、朝連の財源として田駿が分類した「帰国者運賃返戻分」である。

 1946年1月21日、終戦連絡中央事務局はGHQに対し、在日朝鮮人連盟から鉄道運賃の払い戻し要求が来たことについて、

「一九四五年八月十五日に遡及して有効であるか」

「(有効であるなら)朝鮮人の利益を代表する法的立場がない朝鮮人の組織の中の一つの組織でしかない、上述の『在日本朝鮮人連盟』が返済を受けることが許可されるべきかどうか、朝鮮人送還者の日本人雇用主によって鉄道運賃が支払われた場合、払戻しを朝鮮人にするべきかどうか」(「朝鮮人が負担した鉄道事業」CLO No.313)

 と、問い合わせている。

GHQの判断は

 これに対しGHQは、1946年1月31日に、「払戻しを行なう場合は個人に対して行なわれるべきである。但し適当な権限を委任されて個人の代理人として行動する法的証拠を有する団体に対してはこの限りではない」(「朝鮮人が負担した鉄道運賃」SCAPIN 685)

 と回答した。つまり「個人が代理人として認める組織や団体には支払う」という判断である。

 また日本人雇用主が払っている場合については、

「日本政府と当該雇用主との間で解決すべき問題である」(同)

 最終的に政府はどのように対応したのだろうか?

 田駿の『朝総連研究』には、

「朝連中央は、日本厚生省と運輸省に対し『帰国朝鮮人仮払い運賃の還払請求陳情書』を一九四六年四月に提出した」

 とあり、彼は推定金額も出している。政府は支払いに応じたものと考えられる。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年4月21日号 掲載