外務省は4月8日、ミハイル・ガルージン駐日ロシア大使を招致し、外交官8人の国外退去を通告

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 日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。公安畑を十数年歩き、数年前に退職。昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、ソ連の大物スパイ、レフチェンコについて聞いた。

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 ロシア軍のウクライナ侵攻に対し、外務省は4月8日、ミハイル・ガルージン駐日ロシア大使を招致し、外交官8人の国外退去を通告。4月20日、外交官は家族を伴って、ロシアの用意したチャーター機で帰国した。彼らはいずれも、日本国内で諜報活動を行っていた可能性がある。つまり、スパイと疑われる外交官だ。

外務省は4月8日、ミハイル・ガルージン駐日ロシア大使を招致し、外交官8人の国外退去を通告

 戦後、世間の注目を集めたロシアのスパイと言えば、真っ先に名前が浮かぶのが1979年10月にアメリカに亡命したソ連国家保安委員会(KGB)のスタニスラス・レフチェンコである。日本で積極的な諜報活動を行い、なんと200人もの日本人協力者を作り上げたのだ。

 1982年7月、レフチェンコが米下院情報特別委員会で日本国内での諜報活動について証言した。その内容が同年12月、日本で伝えられると、国内に衝撃が走った。

 当時の朝日新聞(1982年12月10付夕刊)は、「KGBの対日工作証言 米議会で元スパイ 日本人200人が協力 自・社の有力政治家も」という見出しで報じている。さらにその翌日、「200人に金を払った レフチェンコ氏が記者会見」と会見の様子を報じた。

『警視庁公安部外事課』(光文社)

「リアル・エージェント」

 レフチェンコはモスクワ大学付属のアジア・アフリカ研究所の学生となり、6年間日本語、日本の歴史、日本経済、日本文学を学んだ。大学院では日本の平和運動の歴史に関する論文を執筆している。大学院卒業後KGBに入り、1970年、大阪万国博覧会でKGB高官の通訳として来日している。

 1975年2月、KGB東京代表部に赴任。任務はスパイ工作で、日本の政界や財界、マスコミ関係者と接触し、日本の世論や政策が親ソ的になるよう活動していた。

 アメリカ亡命後の1981年8月、ソ連軍事裁判所で重反逆罪による死刑を宣告されたが、1989年、アメリカ国籍を取得した。

 話を日本での活動に戻せば、レフチェンコは日本人の協力者をコードネームで呼んでいたという。

 協力者として名指しされたのは、「ギャバー」と呼ばれた勝間田清一(元日本社会党委員長)、「フーバー」こと石田博英(元労働大臣)、「カント」こと山根卓二(サンケイ新聞編集局次長)など9名だったが、いずれも「事実無根」として疑惑を否定している。

「レフチェンコがコードネームで呼んだ協力者の中で、『リアル・エージェント』と呼ばれるKGBの完全なコントロール下にあった協力者は 7、8人いたそうです」

 と解説するのは、勝丸氏。

「日本からアメリカに亡命するまでわずか5年程の間に、レフチェンコ一人の力でこれだけの協力者をつくるのはまず無理でしょう。旧ソ連は、太平洋戦争後シベリアに抑留した日本人の中から、知的レベルが高くて協力的な日本人を選び、30人以上をスパイに仕立てていました。前任者から彼らを引き継いだり、新たな協力者を紹介してもらったりしたようです。政治家や大手新聞社の記者、大学教授、財界人、外務省職員、内閣情報調査室の職員など、その職業は多岐に渡っていました」

公安捜査員が極秘裏に面会

 レフチェンコは具体的にスパイ工作の内容も証言している。1976年1月、周恩来中国首相が亡くなった時、サンケイ新聞(1月23日付)が周首相の遺言を掲載した。当時、これはKGBが提供したものだったと報道されている。また、外務省の協力者がレフチェンコに秘密公電を大量に提供していたとも語った。

 勝丸氏によると、実は1983年3月、警察庁警備局外事課と警視庁公安部外事1課から2人の捜査員を渡米させ、極秘裏にレフチェンコに事情聴取をしたという。

「FBIが間に入って、レフチェンコと面会する場を設けてくれたのです。2人の公安捜査員は当初、レフチェンコが口を閉ざすのではないかと思っていたそうですが、日本人協力者について饒舌に語ったそうです。非常に聡明で洗練された人物だったといいます」

 2人の公安捜査員が驚いたのは、協力者が日本人だけではなかったことだ。

「当時は冷戦時代でしたから、アメリカ人はソ連人に対してかなりの警戒心を抱いていました。ところがレフチェンコは、日本でアメリカ人を含む他の外国人の人脈を築いていたのです。アメリカ人も取り込むなんて、すごいスパイだと思いましたね。米軍関係者というより、パーティーなどの社交の場でアメリカ人や他の外国人と親しくなって情報を収集していました」

 もっとも、アメリカ人の人脈を築いたことがアダとなった。本国から二重スパイの容疑をかけられていたのだ。

「KGBで彼の後ろ盾だった幹部が失脚したこともあり、このままでは未来はないと思いアメリカへの亡命を決意したんです。元々彼は、アメリカに憧れていたこともあったそうです」

 今回追放された8人の中にレフチェンコのようなスパイはいたのだろうか。

デイリー新潮編集部