各地の朝連本支部が未払い賃金を回収して回った。写真は大阪本部

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 近年、韓国で訴訟が相次いだ朝鮮人徴用工の「未払い賃金」問題。日本の炭鉱や軍需産業で働いていた朝鮮人たちの賃金は、どうなったのか。政府は各企業に対し、未払い賃金や貯金などを政府機関に供託するよう要請していた。だが、例外措置があったのである。

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【写真4枚】労働省労働基準局給与課がまとめた調査報告書

 ここに労働省労働基準局給与課が作成した「帰国朝鮮人労務者に対する未払賃金債務等に関する調査集計」(1953年7月20日)という資料がある。

 1946年、日本政府は朝鮮人労務者を雇っていた事業者に対し、終戦時の未払い賃金や債務などの供託を義務付けたが、これはその調査報告書である。

 報告書の数字は何度か書き替えられているが、これは最終版と思しきもので、前の数字は件数、後の数字は金額を表している。「1」の供託分は、政府が、各地に作った供託局や司法事務局に供託されたものだが、ここで注目すべきは「3」である。「第三者」に対し、未払い賃金などが引き渡されていたのだ。

各地の朝連本支部が未払い賃金を回収して回った。写真は大阪本部

 該当箇所を見ると、各事業所が第三者に引き渡した、帰国朝鮮人労務者への未払い賃金や退職積立金、退職慰労金、預金、厚生年金脱退金などが詳しく書き込まれている。

 記載された事業所は23都府県57カ所。炭鉱、鉱山が22カ所あり、他に機械工場や建設業、運送業などもある。

 そしてその引き渡し先の項目に並んでいるのは、ほとんどが在日本朝鮮人連盟(朝連)の各地支部なのである。引渡時期は1945年11月12日が最初で、1947年3月1日が最後だ。

債務の内訳

未払い賃金に関する調査記録

 詳しくは掲載の表を参照いただきたいが、例えば、宮城県の三菱鉱業細倉鉱業所は、1945年12月28日から翌年2月26日にかけ、3回に分けて朝連栗原支部に計5万3159円17銭を支払っている。債権者数は643名。債務の内訳は「不明」とある。

 栃木県の古河鉱業は、1945年12月14日に、朝連足尾支部に49万5217円72銭を支払った。その内訳は、預金2万3767円72銭、退職慰労金35万3250円、特別慰謝料(2項目あり)8万円、1万4200円、贈与金2万4千円とあり、2751名の債権者がいたことがわかる。

帰国朝鮮人労務者に対する未払賃金債務等に関する調査集計

 茨城県の日立製作所水戸工場は、朝連那珂支部委員長に退職積立金9万円を引き渡している。日にちの記載はない。

 三重県の石原産業(紀州鉱山)は、その債務の内訳が最も詳しく、別居手当金、家族手当金、延長手当金、基本補給金、徴用解除手当金、酒肴料、厚生年金脱退金、退職積立金、鉱夫貯金、国債貯金、死亡者負傷者慰労金など21項目が並び、1946年6月26日に朝連大阪本部住吉支部、11月28日には朝連三重県木ノ本支部に、合わせて48万8530円44銭を引き渡している。

朝鮮人労務者の未払金要求に関する国側の資料

 この資料は全県を網羅しておらず、内訳にもばらつきがあるため、全体を示すものではない。おそらくは、調査に応じた企業の申告に基づいて作成されたものであろう。

『朝総連研究』(高麗大学校亜細亜問題研究所)で、朝連の資金源を分析した田駿はこう書いている。

「朝連は日本当局に対し、または日本経営主に対して帰国者に対する退職金、旅費、慰労金等の金品を要求した。(中略)その実数を知ることはできない。ただ証拠として残っているものとして、一九四六年三月末まで朝連中央労働部長名義となった各処に対する請求額は四千三百六十六万円であり、その中で受領されたものは三百五十九万円であった」

 金額はこれよりかなり少ないが、労働省の「調査集計」はまさに、田駿が書いた朝鮮人労務者の未払金要求に関する国側の資料なのである。

朝連の要求

 実は朝連が労働部長名で各企業に宛てて、未払い賃金や債権の回収を要求した文書の雛形が残っている。大阪市中之島中央公会堂で行われた朝連の第3回全国大会(1946年10月)で、韓徳銖(後の朝鮮総聯初代議長)が行った発表を、『朝鮮人強制連行の記録』の著者・朴慶植がまとめた「総務部経過報告」の中にある。

 それは「強制労働者、使用主に対する覚書」と題され、このように始まる。

「日本帝国主義侵略戦争の全期間中を通じて、わが朝鮮民衆に犠牲を強要する惨虐な搾取的労務雇傭条件によって奴隷的苦境に呻吟した朝鮮労働者は栄光なる聯合国の勝利によって祖国再建と、侵略者日本帝国主義の壊滅によって屈辱的奴隷状態から解放され、民族的国際的人格として自由平等の権利を奪還したのである」

 戦後の朝鮮人労働者をこのように位置付けた上で、

「貴社が使役した朝鮮労働者に関してこの新事態の観点で従来の待遇と将来の処遇方法に対して在日本朝鮮人の一切の利益を代表とする本聯盟は深甚なる関心を持ってきた。元来、わが同胞労働者の過半数が素朴で無知文盲であるのを奇貨として劣悪な労働条件の強制と給与金品の不正横領によって物質的にはもちろん精神的に心身を侵蝕し、また敗戦後、窮迫した飢寒状態に対して何等誠意ある対策が無いだけでなく日本政府の欺瞞的政策だがその対策指示までだと、労働者の無知を利用して責任回避を企図する非人道的暴虐行為は戦争犯罪的ミリタリズムの厳然とした実例でなく何であろう。(略)本聯盟は貴社のこうした罪悪的暴状と背徳的行為の責任を徹底的に追究し“ポツダム”宣言によって保障された朝鮮人の福利と権威を擁護する栄光ある権利を再確認するものである。ここに本聯盟は貴社に対して急速に別記条件に対する回答を要求すると同時に即時誠意ある履行を要求するものである。この要求条件を完全に履行し、貴社が人道的、社会的、道徳的信義を天下に表明することを確信するのである」

死亡者、傷病者への賠償、債務の履行を要求

 その別記条件とは以下である。

「何某殿

要求条件(強制労働者の例)

A.綜合的情報の提供

一、朝鮮人労働者の過去五個年間の年度別使 人員数、就労場所、現在人員の本籍、氏名、年齢及び家族の氏名年齢

二、給与金、支給金、食糧、住宅、衛生その他処遇に関する状況

三、死亡、傷病、行方不明、帰国別、本籍地、氏名、年齢、原因、日時、処置その他の処遇状況」

 こうした情報を提出させると同時に、死亡者、傷病者、帰国者への賠償、債務の履行を求めた。

 まず死亡者については、

「一、死亡者一人に対して遺族扶助料金壱万円以上支給すること

二、会社所定の各種慰労金、弔慰金、香花料、見舞金の支給及び法による埋葬料、遺族年金の代払」

 傷病者には、

「一、片足又は片手不具者に対しては五千円以上支給すること

二、手指又は足指を傷失した者に対しては壱千円以上支給すること

三、その他は程度に応じ、各々相当額の慰藉料を支給すること

四、公傷見舞金等所定の見舞金、手当金、慰労金を鄭重な見舞状を付けて送付すること

五、法令による給付金、障碍年金、障碍手当金、共済会からの交付金を即時代払

六、以後要治療者に対しては会社の負担と責任で完全な治療を施すこと」

帰国者に対しての要求

 そして帰国者に対しては、こう要求している。

「一、退職金、特別退職金、慰労金の最大限支給(労務者一人当たり勤続年数一年に対して壱千円式)

二、厚生年金、天引き貯金等の即時代払

三、八月十五日終戦から帰国日(乗船後三日間)までの賃金(一日当たり八円式)、諸手当(補給金、特別補給金を含む)の支払い

四、帰国日までの衣食住の改善保障及び途中の食糧は○○駅出発日から十日間分を調達して各一人に交付を(一人一日当たり主食米穀五合式及び充分な副食品)会社で負担すること

五、帰国者が乗船する時まで会社から引率者を付けて諸般に便利を図ること

六、被服一式支給(帽子、内外衣一着ずつ、靴又は地下足袋、手袋各一点、靴下三足)

E.行方不明者の待遇

 前各項を適用し適切妥当な措置を講じること」

「後は全て朝連に任せろ」

 非常に細かく規定してある。「調査集計」の内訳には「酒肴料」「帰国に対する手当」という項目もあったが、ここに列挙した要求に応じたものだと考えられる。

 そして「附記」として、

「死亡者、行方不明者及び既帰国者に対する支払いは在日本朝鮮人聯盟中央総本部に委託し、各人の本籍地、遺家族又は本人に伝達することを一任すること」

 とある。つまりは、後は全て朝連に任せろ、ということだ。

 この雛形に基づき全国の支部が活動を繰り広げた結果、

「件数 三四〇件

 関係人員数 四万三三一四名 

 解決金額 二六八七万六八四四円」

 を回収したことも報告されている。これは労働省の「調査集計」とも田駿の著作とも一致しないが、当事者の記録であるから、この時点の数字としては信頼に足るものであろう。ちなみに日銀の企業物価指数で現在の金額に換算すると、約800倍の215億円以上になる。

釜石製鉄所の対応

 こうした朝連の回収作業を記す事業所側の資料がある。旧日本製鉄釜石製鉄所の業務部労務課長を務めていた林泰の回顧録である。

 朝鮮人労務者の送還を担当していた林は当時をこう振り返る。

「戦時中に朝鮮人を徴用していて……その労務者と家族、この人たち八百人位いたんだけど、終戦と同時に、一夜にして戦勝国民のように威張りだした。(略)その頃、所内は朝鮮人からの要望、対応に大変な騒ぎです。彼らは、朝鮮人連盟という組織を各県ごとに結成して、岩手では盛岡に県支部があって、県庁内をわがもの顔にのし歩き、食糧事情が極端に悪いとき、白米はもちろんのこと酒などの食糧をはじめ、ガソリンの特配を受けるなど、ずいぶん威張っていたんじゃないですか」(『林泰回顧談』私家版)

 そこへ朝連盛岡支部の本部長、外交部長が訪ねてきて、こう要求したのだという。

「日本はわれわれが嫌がるのを徴用し、連行して強制労働をさせた。そのうち故国に帰ろうと逃亡した仲間がずいぶんいた筈だ。この逃亡前まで働いた分の未払い賃金があるだろう。それを調査の上、われわれに全額払って貰いたい。さらに公傷者に関することだが、指一本のケガに千円、腕一本一万円、死亡五万円。名前と補償金額を計算してわれわれに差出せ」(同)

 金額は違うが、朝連の雛形に沿った要求である。そして彼らはこうも言ったという。

「いずれ、県本部は領事館になる筈であり、われわれがそれまでこの全額を受取り、保管する」(同)

おびえて頼りにならない役人

 林はこう回想する。

「製鉄所だけでなく、こういう要求を、彼らは県内のあちこちでやり出した。もっとも小さな鉱山で彼らに対して強引な使役をしたところもあったらしいね。

 外交部長というのが、立派な腕章をつけており、額に向こう傷があって、その上、話すときには、持って来た手錠まで眼の前に出してね、脅迫するわけですよ。凄かった。

『日本人は……われわれ朝鮮人を強制労働させたんだぞ』

 このようにして、県内のあちこちで金を出させたそうで……ついに大橋の日鐵鉱山でも、当時の金で三十万円位出したのですよ。

 だから、東北でもっとも大きな企業の釜鐵に金を出させなかったら『話にもならん』とそう思ってるわけです。

 額?たしか百何十万円か……を要求したね」(同)

 だが、林はそれを拒絶した。

「『日鐵は公傷者に対する慰労金は日本人も徴用労務者も、全部同一の規則、同一の規準で支払っている。朝鮮人なるがゆえに差別して払っていたわけではないから、そういうことはできない』

 若かったんだな、僕はそう言った。

 だが、それでも彼らはあきらめずに毎月、一、二回は団体交渉にきた」(同)

 林は県に相談するが、「役人はおびえていて頼りにならない」。

「そこで、日鐵本社や労働省……いや当時はまだ内務省だったかな。いろいろ相談の上、結局、裁判所に何十万円だったか供託したんだが、それが日本での供託金第一号だった」(同)

組織を潰すための策略

 未払い賃金をめぐっては、朝連以外の組織も目をつけ、争奪戦が行われていた。北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の創立メンバーで、共産党でも活躍した金興坤が「怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史」(「季刊人間雑誌」草風館)に記している。

 帰国する同胞を援護するという触れ込みで、「朝鮮建国準備委員会」という団体が北海道にやってきた。彼らは、金から炭鉱の使用者や朝鮮人組織、そこで働いていた朝鮮人の情報などを聞き出した上で、

「夕張、美唄をはじめ歌志内、赤平など大小の鉱山を訪問した。が、同胞を訪ねるのではなく会社側の事務所を訪ねては、死亡者、逃避者その他の労働賃金、傷病者手当金、保険金など、さまざまな名目で取れるだけ金を会社側から取り、同時に旧協和会系幹部から多額の寄付金を集めていた」

 金はだまされたのである。その上、

「我同盟関係者の欠点を探し集め、統一同盟はアカだのギャングだのと司令部に密告したため、安先浩委員長はじめ、強制連行で連れてこられた家族のいない幹部八名が強制送還されてしまった。一時期に八名もの幹部を失った我統一同盟は、まったく手足をもがれたのと同様であった」(同)

 金は、一連の動きは、組織を潰すための策略だったと考えている。

回収した賃金の行方

 さて、朝連は回収した未払い賃金などのお金を、帰還していった労働者に届けたのだろうか。

 朝連の集計だけでも4万3314名もいる。しかも社会は混乱し、その後、朝鮮半島は分断されてしまうから、容易なことではない。

 当時のことを知る人々を訪ねて歩いたが、なかなか明解な回答はいただけなかった。その中で、

「帰郷した同胞にお金を返金しようにも居所がわからなかったので朝連に留保され、一部政治活動に運用したのであろう」

 と、かつて在日本朝鮮人連盟支部と共産党支部を掛け持ちしていた人物が語った。

 返還されたと考える朝連関係者も研究者もおらず、記録もない。それどころか田駿は『朝総連研究』でこうも書いているのだ。

「帰国者の不動産を管理するという名目でその権利書を引継ぎ委任され、これを処分して朝連財政に投入した。ここには帰国者の寄付的心情も多少は含まれていたことは見てとれるが、その額は巨額に達した」

 公安調査庁の坪井豊吉も、帰国していった同胞の財産を朝連が管理処分したことについて法務研究報告書で触れている。

 戦前から長年日本で暮らした朝鮮人は、多くの財産を日本に残したことだろう。それを管理し、資金としたのも朝連だった。そして彼らの活動と一体化していた日本共産党をも支えたのである。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年5月5・12日号 掲載