津田塾探訪
津田塾探訪 #3 - 星野あい記念図書館
完成までの道のり
二代目塾長・星野あい~受け継がれた情熱
図書館設立の資金調達に尽力したのが、図書館の名前にもなっている、星野あい初代学長(二代目塾長)です。1884年に横浜に生まれた星野あいは、横浜フェリス女学院を経て女子英学塾に編入し、梅子のもとで学びました。彼女は「先生はあいまいなこと、ぐずぐずしたことが嫌いな性でしたので、英作文でも抽象的な論議だけではだめで、具体的な描き方が必要でした」と、当時の梅子の厳しい授業を語っています。
卒業後は梅子の指示で、静岡英和女学校にて教鞭をとったのち2度の留学も経験しました。2度目の留学から帰ってきた星野に梅子は、余命短い自分の後継者として彼女に女子英学塾を任せたいという思いをつづった手紙を渡したそうです。「あまり規模を大きくしないこと、あくまでも堅実にやってゆくこと、万事よろしく頼む」——梅子が2度にわたり星野を留学させたのも、自分の後継者として彼女を育てるためだったのかもしれません。1929年、梅子の逝去をもって、星野は初代学長(二代目塾長)に就任しました。「女子英学塾を『真の大学』に」という梅子の願いは、こうして星野学長に受け継がれました。
梅子の意志を継いだ星野学長は、理科学科の開設、大学への昇格など、女子英学塾が「真の大学」をめざし津田塾大学へと成長していく過程に尽力されました。そのひとつが図書館建設のための募金活動です。
当時60代も半ばを過ぎていたにもかかわらず、東京近郊だけではなく関西、名古屋にまで学長自ら足を運び、訪問した商社や事業所の数は三百数十余にも上るといいます。まさに「募金行脚」でした。後に著書『小伝』のなかで、「週3回、ときには4回、小平の林の奥から都心に出かけ、1日5、6からときには10に及ぶ商社を訪問してまいりました」と、当時のことを語り、その苦労を「雲をつかむような塩梅」と表しています。
このような星野学長への感謝と敬意を表し、図書館は1973年「星野あい記念図書館」と名付けられたのでした。
古き良き雰囲気の漂うハーツホン・ホールとは対照的に、その外観は総ガラス張りで明るく近代的。1954年の完成時、初めてこの図書館を目にした卒業生は「津田もモダンになりましたね」とつぶやいたといいます。
入口を入ったすぐ横に、南閲覧室が広がります。さんさんと陽射しが差し込むガラス張りの作りに加え、2階は吹き抜けになっており、開放的な空間です。学生の利用も多く、自然光を浴びながら教科書を広げています。
津田梅子資料室
津田梅子資料室は階段を上がった2階に位置しています。津田梅子をはじめとする本学の関係者の資料や写真を保存・展示しています。2000年に現在の場所に移り、学内のあちこちに保存されていた資料がここに集められました。
さらに、現在展示コーナーでは「海を渡る 津田梅子の誕生」と題して、誕生から女性として日本で初めて留学し帰国するまでの梅子を紹介しています。留学時の使節団の写真や、6歳でアメリカに旅立った当時の梅子が着用していた着物など、本学所蔵の貴重な資料が展示されています。こちらの企画は津田梅子生誕150周年を記念して2015年9月30日まで開催されていますので、この機会にぜひお立ち寄りください。
1階から5階は開架式の書庫です。人文・社会科学系が中心的ではありますが、和書、洋書ともに幅広い分野の本を揃えています。図書数約400,000冊、雑誌は3,500タイトル以上、新聞は30タイトル以上を所蔵しており、大学の規模は大きくはありませんが、図書館の充実ぶりは、多くの先生方が感心していらっしゃるほどです。
1階の閲覧室ほどの広さはありませんが、5階にも閲覧・学習スペースがあります。実はここ、図書館利用案内には載っていない、穴場スポット。1階の机が学生でいっぱいのときでもこちらは比較的空いているので、ゆったりと勉強に取り組むことができます。まだ足を踏み入れていない学生のみなさんにおすすめです。
TAC図書館
第二次世界大戦時、星野あい学長は、「戦いがはげしくなればなるほど、忘れられ、無視されてゆく文化のともしびをたとえ細々とでも保ち続けるのが、実戦に参加しないで、学ぶことをゆるされている者に残された大事なつとめである」と説き、戦時下でも学生と学生の学ぶ環境を守り続けました。そんな星野学長の名と信念を受け継ぐ、星野あい記念図書館。学長の名のもとに、今日も学生の学びを支えてくれています。