問題集やドリルのような教材、あれって大体最後のほうのページに答えが載ってるじゃないですか。
・・・人生も、ページをめくっていけば、最期のほうに、答えが載ってるのかな。
語るほどのことを考えていなかった
なんだか深そうで別に深くもないことをふと思い付いてしまったので言ってみただけです。出来心だったんです。特に深く考えてないので語ることが正直もうありません。
しかし一言で終わらせるにはなんとも勿体ないという貧乏性な気持ちが沸々と。ええい、なし崩し的に書くような軽いテーマではないことを重々承知の上で、それでもなんとか捻り出して話を広げてみましょう。
人生の答えってなんだ?
そもそも人生の答えってなんでしょうね?学校の勉強と違い世の中には解答が無い問題なんてざらにあるわけで、人生の答えに解の一意性が成り立つかどうかなんて誰にも分かりません。いや、まあ、人生の答えの定義次第ではありますけど、結局は解なしという結論に辿り着きそうな気もします。
まずもって答えとは問題あってのものであり、答えを考える前にそもそも人生の問題を設定しなければいけないでしょう。
さて、人生の問題。はて、何を問題とすればいいのか。人生とは人の生きている一生・生涯のことを指すわけで、頭の悪い感じに記述すればこの範囲です。
(なんだこの頭の悪い式)
人生の問題とは上の式のように生まれてから死ぬまでの全ての範囲を総括した問題でなければいけません。つまり死した後の評価や死ぬ前に達成した成果といったものは"人生の問題"ではなくもっと狭い範囲の別の問題ということになります。例えば何をして生きるかというのは人生全体の問題ではなく青年期以降の生き方の問題であり、何を世界に残すかということもまた同様に人生全体の問題かと言えば範囲が狭いでしょう。
何をして生きるか、何を世界に残すか、ということも『私』という函数(ファンクション)が出力した結果ではあり、人生の一部ではあります。しかし人生の問題はもっと大きな範囲、生まれてから死ぬまでの全体で見る必要があると考えます。そうでなければ”人生”の問題とは言えないでしょう。
(『私』というファンクションに関する疑問はこちら)
つまるところ、人生の問題を一言で言い表すのであれば、『私』という函数、その形をどうするかということです。もう少し言葉を重ねて言えば、生まれてから死ぬまでの間に存在する『私は』どうありたいか、ということが人生の問題です。
どう人から思われたい、どういう人間に成りたい、どういう風に変わりたい、どういう結果を成し遂げたい、というような経過の部分や出力結果ではなく、生まれてから死ぬまでの全期間を通した『私』がどうありたいかが問われている問題であり、それを出力する『私』という函数の形こそが問われている部分です。
【問題】『貴方』はどうありたいですか?その答えを求めよ。
この問題の配点はー・・・高いのか低いのかさっぱり分からないです。
答えが見つかるのは結局
人生の問題を『私』はどうありたいかだと定義した場合、答えは当然人それぞれになるのですが、何よりどうにもならないのは未来のことなんて誰にも分からないということです。この問題に答えるためには生まれてから死ぬまでの範囲を把握する必要があり、それが真に分かり得るのは死ぬその時です。たとえ問題を設定できたからといって未来という名の無数の変数が未知かつ不確定である以上、今の生きている私たちがその答えに辿り着けることはありません。
つまり、まさに最初に述べた通りで、人生の答えは最後のほうまでページをめくらなければ分からないということですね。
・・・あれ、思った以上に話が広がらないどころかあっという間に収束してしまいました。
余談
人生の答えは死ぬまで分からないという結論になりました。あまり話は広がらなかったです。しかしこれはまた別の問題に対する答えにはなるかもしれません。
それはどう生きるべきかという問題です。人はどう生きるべきか、という単純な問いに対してあれこれ難しいことを考える必要はなく、人生の問題が『私』はどうありたいかである以上、自然体でありたいようにある、生きたいように生きることが正しいという答えが導き出せます。まあ、それは人の在り方を阻害しない範囲ではあると思いますが、好きに生きることこそが人生の答え探しとして正しい姿勢なのでしょう。