ウクライナ侵攻と“幻の熊本県民歌”の教訓 評論家・近現代史研究者 辻田真佐憲 【くまにち論壇】
熊本日日新聞 | 2022年05月17日 12:23
ロシアのウクライナ侵攻で、プロパガンダ(政治宣伝)に注目が集まっている。いまツイッターなどを開くと、すぐに激戦や虐殺を伝える刺激的な映像が見つかって、怒りや涙を誘わないではおかない。今回ウクライナが欧米の支援をたくみに引き出しているのも、情報発信のうまさと無関係ではない。今般の戦争が「SNS戦争」とも呼ばれるゆえんだ。
プロパガンダは第1次世界大戦をきっかけに広まった。国家のすべてが動員される総力戦の時代には、前線の兵士がいかにがんばっても、後方の国民がやる気をなくすと工場も鉄道も動かなくなり、たちまち敗北に追い込まれてしまう。実際、ドイツもロシアも革命の発生により、戦争の継続が困難になった。
そのため、自国民には「あと一息だ」と励まし、敵国民には「悲惨な目にあうぞ」と脅し、そして中立国民には「味方になってくれ」と働きかけることが重要になったのである。その手段は、時代に応じて、ビラ、ポスター、ラジオ、テレビ、映画、漫画など多岐にわたる。
ヒトラーは『わが闘争』でプロパガンダの鉄則をつぎのようにまとめている。インテリではなく大衆を相手にせよ。知性ではなく感情に訴えよ。メッセージは複雑ではなくできるだけ単純にせよ。客観性を捨てて主観的・一方的に発信せよ。いまもそのまま通用しそうで空恐ろしい。
戦前の日本でも、プロパガンダは「思想戦」として受け入れられた。1937年、日中戦争が勃発すると、内閣情報部が設置され、戦意高揚のキャンペーンが展開された。
そのとき作られた国民歌に「愛国行進曲」(見よ東海の空あけて)がある。森友学園問題のとき、同園の幼児園児が歌わされていた軍歌のひとつだ。というと押し付けがましいイメージをもつかもしれないが、制作にあたっては、歌詞とメロディーが懸賞金つきで公募された。このように射幸心を煽[あお]ることで、一般国民にも国策について自発的に考えさせようと工夫されたのである。
同様の試みはあちこちで行われた。内閣情報部の初代部長だった横溝光暉は、太平洋戦争下の1942年、熊本県知事に就任すると、今度は県民歌の制定を企図。メロディーは県下の唱歌教師より募集された。こうして翌年できたのが、南北朝時代、不利な南朝側にあえて与[くみ]した肥後の豪族・菊池氏の忠義をたたえた「菊池尽忠の歌」だった(出田聡明作詞、丹後正作曲、呉泰次郎曲修正)。
「むらさき霞[かす]む鞍岳に/あしたあかねの雲消えて/旭日燦[さん]とかゞやけば/咲ききはまりて麓べの/菊池の川に影うつす/満山にほふ桜花」
以下、16番におよび、最後は「祖先に承[う]けし純忠の/まこと尽[つく]さんとき到る」と締めくくられる。
菊池氏の忠義心は「菊池精神」として戦時中、とくに地元熊本で盛んに称揚された。この歌も、横溝が「菊池武士が足並みを揃[そろ]えてタツタツタツタツと行くような調子のメロデーで、非常にいい歌」「合唱しているうちに自然と涙が潸然[さんぜん]として出てきた」(横溝「談話速記録」より)と回顧するように、当時の悲壮感が伝わってくる。もちろん、戦後はすぐ廃されたため、菊池三代をまつる菊池神社(菊池市)の歴史館にもレコードなど資料は残っておらず、現在では“幻の県民歌”となっている。
このようにプロパガンダは、手を替え品を替え身近なところに迫ってくる。全国民向けの茫洋[ぼうよう]とした愛国歌とは異なり、地元密着のそれは、日々の生活や風景と結びつくだけに、祖先のように戦おうという単純なメッセージであっても、ときに肺腑[はいふ]をえぐるかのような効果をもたらす。
それゆえ、歴史の教訓を知るわれわれは、ウクライナ侵攻をめぐる刺激的な情報にも一歩距離をとるべきではないか。侵略された被害者に同情するなというのではない。支援するにしても、理性的にやるべきだと言いたいのである。それは、ヒトラーのいうプロパガンダの鉄則の逆を行くことだ。すなわち、知的な態度を重んじ、感情に流されず、複雑さを厭[いと]わず、客観性を気にかけること。歴史は動員のためのスローガンではなく、熱狂を抑えるための冷却材でなければならない。
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