肉体と精神

このblogでは無想剣(夕雲流、無住心剣術)を紹介しています。

 

無想剣。

1つは流派ではありません。

術、技や型の名称でもありません。

 

剣を追求した先にある答え

と言う表現が最も適切かもしれません。

 

私の狭い範囲の経験で言えば

武道の多くは身体的能力(筋力や体格)、

スポーツ経験の有無でかなり左右されます。

 

獲物を相手の体に当てる、

と言う稽古をすると著明に結果が現れます。

武道の経験が無くても、バトミントン選手などが

片手剣を使うと、少なくとも当てる・避けるという事では

武道家を大きく上回る結果も出る例があります。

 

すると、型や術はスポーツの前に通用しない

可能性が出てしまいます。

 

あの動き(バドミントン)では人は斬れない

と言うように歩みを止めてしまう事が

術、型や流派・流儀への拘りと言う部分でしょうか?

 

そして以前にも書いたことですが、

武道家は

「武道とはスポーツよりも上位である。」

 

このように考えてしまう事で、無想・本心から

遠ざかってしまいがちになります。

 

無想剣。

術の稽古も無く、型も無い。

素振りや柄の持ち方の形もない。

  

精神の剣である理由です。

 

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