ある「現代武術家」先生のコラムから
一部を引用ならびに紹介をします。
かなり辛口です。
(引用)
「武道に対してどんな価値観を持とうと、その人の勝手ですけど、
それを平気で他人に押し付けてくる奴には閉口します。」
かなり強い表現です。
これをさらに映画「猿の惑星」で説明を加えておりました。
猿の惑星がどんな映画かは、グーグル先生にお聞きください。
この映画では猿が
「人間とは如何に下等動物であるか」
を説明(証明)するシーンがあります。
不時着をした主人公(人間)に対して猿が
「おい人間。猿十七条憲法を言え。」
当然ながら主人公は猿十七条憲法がわかりません。
主人公が黙っていると、猿は
「ほら見てみろ。
人間は誰でも知っている猿十七条憲法も知らない下等動物だ。」
しかし、猿は人為的に「飛行」すると言う
知識/技術がありません。
主人公が紙飛行機を飛ばすと、猿たちは驚きます。
何か1点だけを以って、
「俺様のほうが上の立場である。」
これは主観的な考えです。
武道に当てはめてみると、
正拳突きを知らない武道家は恥でしょうか??
正拳突きを知らない空手家であれば恥かもしれません。
しかし柔道家であれば恥でも間違いでもありません。
その逆で背負い投げを知らない空手家も恥でも無知でもないわけです。
天狗芸術論。
これは同じような事を猿ではなく
「天狗」に例えた江戸時代のコラムです。
天芸術論で一番重要な個所は、四章の天狗界とは何か?
を説明した部分でしょうか。
天狗界は、猿の惑星と同じような世界です。
さらに天狗とは何か?
鼻が高く、翼があり、鋭い嘴や爪を持ち
人よりも優れた存在です。
猿の惑星の猿も、
人間よりも身体能力が高く、文化的な生活をしています。
しかし、その優れた(と思う)部分が
天狗自身を苦しめることになっています。
天狗芸術論で伝えるべき部分は、
一言で言えば「客観視」です。
何かの武道に慣れてくると武道の全てを
知った気になります。
そして自分と価値観が異なる相手に対して
「おい、猿十七条憲法を言ってみろ!」
猿十七条憲法を知らなくても、
恥でも無知でも下等でもないわけです。
実例を上げれば
「俺はエイ・・・ナントカ流の何段・免許皆伝だ。
お前はナントカ流の段位を持ってないだろう!!」
つまりナントカ流の段位の数値が高い方が
武道の本質に近い、
という主観に陥ります。
しかし、その「お免状」が武道の本質であるという保証は
何処にも明記されておりません。
あくまでもナントカ流の中では、と言う限定されたお話です。
そしてナントカ流は偉い!!
自身がそう思うだけなら他に害はないのですが、
そのナントカ流を他人に押し付けてしまいがちです。
この「現代武術家」先生の締めくくりの言葉に
あるように
「自分自身がこれだ!」
と思う武道を選択することが重要になります。
この「コレだ!」
と言う武道を始めていき、真実の追求を行っていくと
いわゆる「無想の閃き」が表れてきます。