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『林檎の花』第①~⑤編

by 春野 夏樹

第一編

 

 せめてあと一度だけでも、もう一度だけでも触れていたかった。絶望に打ちひしがれていた私に、君がさしてくれた一本の傘。その不器用な笑顔に、心惹かれたあの雨の日。

 私はきっと弱かった。最後の最後まで弱かった。君に寄り添い歩いたあの日。私の頬から静かに零れ落ちたのは、冷たい雨なんかじゃなかった。

 もっと写真、撮っておけば良かったね。

 私は、昔から実家近くの植物園が好きだった。君はそこで花や樹木の世話をして働いていた。

 初めて君と会話をしたとき、私たちは客と職員の関係だった。

「いつも来てくれてありがとうございます」

 後ろを振り返ると、如雨露を片手に持ち、タオルを首に巻いた男の人が立っていた。

「ええ。この空間、落ち着くんです」

 ここにはよく来ていたが、職員の人に話しかけられるなんてことは一度もなかった。君は私の顔を覚えてくれていた。私はなんとなく、この人ともう少し話がしたいと思った。

「あの、私も手伝っていいですか?」

「え?」

「やっぱり、だめですか?」

「いやいや、いいですよ。じゃあ、水やりお願いしていいですか」

 彼は私に右手の如雨露を差し出した。

「ありがとうございます!」

 私は花への水やり。彼は、植物のすっかり枯れてしまった部分の剪定と摘み取りを始めた。

 フクジュソウ、カタクリ、ミズバショウ、ハクモクレン。私たちは花や木について語り合った。彼はここにある花の名前や特徴を教えてくれた。初めて聞くことばかりで。でもとても面白くて。私は、この植物園が好きな理由や、家でも花を育てていることを話した。

「そっか、だからそんなに水やり上手いんだ」

「えっ、水やりに上手いとかあるんですか?」

「あるんですよ。加減が命ですからね」

「そうなんですか」

 私たちは、ゆっくりと植物園を回って歩いた。

「これでいったんは終わりです。ありがとうございました」

「いえ、こっちのセリフです。楽しかったです」

「また来てくださいね」

「はい!」

 この植物園が私にとって、一番心の落ち着く場所だった。私は、その日から毎日、仕事帰りにこの植物園に通い続けたのだった。

 私は職場で嫌がらせを受け続け、毎日を必死に耐え抜いていた。アパレル企業のファッションデザイナー。もともと人に勧められて、成り行きで始めた仕事だったけれど。自分の発案したデザインの売り上げが良かったり、上司に褒められたりすると、とても嬉しかった。

 だけど、業績が良くなるにつれ、同僚の私に対するいじめはエスカレートしていった。

「あ、ゴメンね高田さーん? あなたの分だけお茶淹れてなかったわね。悪いけど自分で用意してくれる?」

「は、はい……」

 こんなの軽いほうだった。自分のアイデアを何度も盗まれて発表され、デスクの引き出しを開ければ、デザイン帳をペンでめちゃくちゃに塗りつぶされていた。

 私は、最近までいじめられる理由がわからなかった。でも、ある日聞いてしまったのだ。

「神代(かみしろ)課長、ついに彼女と別れたって言ってたよ」

「まじ? 今がチャンスじゃん」

「あームカつく! アイツさえいなくなれば平和だってのに」

「死ねばいいのに高田さん」

「本当、存在が私たちの邪魔してるって自覚ないのかしら?」

 えっ……。

 息が苦しくなっていき、そのまま窒息してしまいそうな気持ちだった。私は、ルックスの良く人気のある課長から気に入られ、その嫉妬が私への攻撃に直結していたのだ。

 その日から、私は課長とのやり取りのたびに、冷たく痛い視線を感じるようになった。いじめも止むどころか、勢いは増す一方で、今にも倒れてしまいそうだった。そんな自分の唯一の安らぎの場が、あの植物園だったのだ。

 もともとの内気な性格に、転勤族に生まれ育ったことも重なって、私は友達が極端に少ない。専門学校で仲の良かった子たちとも、卒業後は疎遠になり、唯一連絡を取り合っていた友達は、最近外国の人と結婚して、今はニュージーランドに住んでいる。家族にも打ち明けたことのない悩みを相談できる人など、カウンセラーぐらいしかいなかった。でも彼らは、いつまでも守ってくれるわけではない。そんな私にとって、花や樹木は、ずっとそばにいてくれる特別な存在だった。

 バーベナの花は昨日よりも美しく咲いていた。気がつくと私は、しゃがみこんでひとり泣いていた。今まで我慢し続けていた気持ちは、ついに飽和を超えて溢れ出してしまった。

 硝子の屋根を、大粒の雨が叩き始めた。あんな雨が当たったら、きっとこの花たちはすぐに傷んでしまう。

「大丈夫ですか?」

 そこに君は立っていた。来園客すら見当たらなかった硝子の建造物のなかに、君はいつもと同じ姿で立っていた。

「職員さん。私……」

 私は袖で顔を覆い隠した。泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。君が渡してくれたのは、少ししわのついたハンカチだった。でも、そんなことどうだって良かった。

「ごめんなさい。こんな姿見せちゃって」

「とりあえず、話だけでも聞かせてください。こちらへ」

 君は私の肩に手をあて、「STAFF ONLY」と書かれた部屋へと案内してくれた。そこにある椅子に私は座らせてもらった。

「子どもみたいですよね。こんなの」

「そんなことはない。誰にだって、泣きたいときはあります」

「えっと……」

 そういえばこのときはまだ、君の名前を知らなかった。

「あ、俺は草野侑吾(くさのゆうご)って言います。あなたは?」

「私は、高田色葉(たかだいろは)です。草野さん、ですね」

「はい」

「私、会社でいじめを受けてて、もう耐えられなくて」

「いじめだって!?」

 私は、今までに受けた悲惨な嫌がらせの話の数々を、彼にぶつけるように打ち明けた。時々、ひどく感情的になってしまい、それでも彼は親身になって聞いてくれた。

「そんな職場、今すぐやめるべきだ!」

 今まで生きてきて、この悩みを人に打ち明けたのは彼が初めてだった。そんな彼がはっきりと言ってくれた言葉。

 なんだか体が軽くなったような気がした。私が再び泣き出したのは、もっと別の理由も混じっていた。

「はい……。わかりました」

 草野さんにお礼を言うと、私はそのまま植物園を出た。雨は依然として降っていた。

「あの。良かったら送っていきます」

「え、でも」

「涙を流した女性を一人にはしておけません」

 ときどき垣間見える彼の男らしさに、私は少しずつ惹かれていく。いや、もうこのとき惹かれていたと言っていいのかもしれない。折りたたみ傘すら持っていなかった私は、彼の大きな深緑色の傘の中にお邪魔させてもらった。

「色葉さんは、雨って好きですか?」

「雨?」

「はい」

「嬉しいときは好きで、悲しいときは嫌いです」

「ああ、なるほど」

「草野さんは?」

「俺は、自分が外にいるときは嫌いだけど、建物の中から見る雨は好きです」

「それって、濡れるか濡れないかって話じゃないですか」

「へへ、そうです」

 植物園から、私の住む家までは近かった。あっという間だったけれど、君といると楽しくて、嫌な時間のことも忘れられたんだ。

「これ、俺の番号です」

「え?」

「嫌だったら、破り捨てても大丈夫です。ただ、少しでも力になれることがあれば」

「草野さん……」

「じゃ、俺はこれで」

「ありがとう」

 君は道を引き返して行った。振り向いたその大きな背中は、私のことを温かく見守ってくれているようだった。

 私はしばらく家に入らずに、遠くの角に消えてしまうまで、君の後ろ姿を見つめ続けていた。

第二編

 もう何年も前の出来事だった。まだ私が一人暮らしを始める前。ちょうど美術専門学校に通っていた頃。

 庭の花壇で育てていたシナワスレナグサ。今にも壊れてしまいそうな花を一束すくい取り、そっと家の中に運んだ。花瓶の中に挿し入れ、自分の部屋の窓際に置く。カーテン越しに風が入り込んでくる。

 玄関のドアが開く音がした。

 「美咲(みさき)姉ちゃん?」

 姉が帰ってきた。ただいまとは言ってくれたけれど、いつもみたいに一人暮らしや仕事の話をしてくれたりなんてこともなく、彼女はすぐに部屋に引きこもってしまった。明らかに普段と様子が違っていた。

「お姉ちゃん?」

 あの日、私はドアを開けて良かったのだろうか。今でもふと思うけれど、そうしていなかったら私は、心の片隅にまた一つ重荷を背負いながら、残された時間を過ごしていたかもしれない。

「久しぶり、色葉」

「うん」

 薄暗かった。部屋の電気は消えており、明るい外の光を教えてくれたのは、本棚のそばの小さなカーテンの隙間だけだった。

 彼女は泣いていた。目のあまり良くない私に、微細な彼女の表情ははっきり見えなかったけれど、声で涙を流しているのがわかった。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

「……」

「大丈夫?」

 それ以上は何も言えなかった。どうして私には、こんな言葉しか浮かばないんだろう。忙しい父母の代わりに、私を大切に育ててくれた姉にかけられる言葉は、たったこれっぽっちなのだろうか。

「ねえ、色葉」

「うん」

 お姉ちゃんは私のほうをしばらく見て、こう呟いた。

「私ね、失恋しちゃった」

「失恋?」

 お姉ちゃんが好きだった人。彼女が十年間、心に止めて生きてきた人。昔、何度か教えてくれたことがあった。

 具体的には聞かないことにしたけれど、彼女に何があったのかはわかった気がした。

「私、幸せになれるかな……」

「えっ?」

「何年間も同じ人のことばかり考えてきた私に、そんな権利あるのかな……」

「お姉ちゃん。大丈夫だよ。お姉ちゃんまだまだ若いし。どこまでも一途なの、本当にいい性格だと思うよ」

 自分の、人としての未熟さを痛感した瞬間だった。わかってる。私がお姉ちゃんの立場だったら、そんなこと言われても元気になんてならない。嬉しさなんて少したりとも湧いてこない。でも彼女はそれ以前に、とても優しい人だった。その優しさは時に、私の胸をチクっと突き刺す。

「ありがとう」

 彼女はそれ以上、何も言わなかった。沈黙の時間だけが続く。かすかに聞こえるのは、窓の外の風の音や公園で遊ぶ子供たちの笑い声。

 姉は黄色いハンカチで涙をふき取ると、コートを脱いでハンガーにかけ、棚の上に手を持ち上げた。少し埃がかかった段ボールを、か細い腕で床に下ろし、彼女は中身を開け始めた。

「色葉、見る?」

「なに?」

「昔の写真」

 お姉ちゃんは薄桃色のアルバムを一冊取り出し、表紙を私に見せてくれた。少しだけ見覚えがある。彼女はアルバムをそっと開き始めた。

 一ページ目に載っていたのは、学校だよりか何かから切り取られたであろう二枚の写真。姉が中学生のとき。他県にいたときのものだ。二人とも若く、学ランとセーラー服を着ていた。さらにページか開かれると、携帯サイズの写真だけでなく、カメラで撮ったようなものも何枚かあった。

 でも、アルバムにするにはあまりに枚数が少ない。数ページ目で透明のフィルムが現れてしまい、彼女の手は止まるのだった。

 二人の夢のつづきは、もう二度と描かれることがない。それでも数少ない写真には確かに、まだ幼い男女二人の笑顔が写っていた。

 お姉ちゃんは写真のすべてを眺め終わると、表紙を閉じ、アルバムを強く抱きしめた。

「遅すぎだよね。ばっかみたい。笑っちゃう」

「お姉ちゃん……」

 彼女の作り笑顔は一瞬で崩れてしまうのだった。

 話だけ聞けば、十年間のブランクは確かに大きすぎるかもしれない。でもそれだけ待ち続けたことには、きっと理由があるに違いない。彼女だけが知っている大きな理由が。

 姉が人生で一番愛した人。そんな彼の幸せを、姉は知ってしまったのだろう。

 時刻はもう夕方だった。昨日も、綺麗な夕陽の光が窓の外から差し込んでいたのを思い出した。

 私は本棚のそばのカーテンを開け、窓の外に顔を出した。姉もそっと立ち上がり、私の隣で空を見ていた。

「綺麗」

 姉の声は震えていた。これ以上流さないように、必死に涙をこらえている。

 私たちは、夕陽が町の向うに隠れてしまった後も、徐々に消えていく黄昏を最後まで見つめ続けていた。

第三編

 退職願を出すのには、とてつもない勇気がいった。お手洗いで聞いた悪口も、あと少しで終わりを告げる。彼女たちの残酷な笑い声も、もう聞かなくていい。

 業績は悪くなかった私が封筒を差し出したとき、上司はまさかという顔をしていた。理由など思い当たるどころか、私への嫌がらせも知らないのだろう。

 転職先は決まっていないが、一刻も早くこの会社から離れたかった。アルバイトでつなぐ生活でもいい。もうこれ以上辛い思いはしたくない。

 こんな自分にとって、これが当たり前だなんてきっと私は思っていた。私はこうなっても仕方ない人間だってそう割り切って生きてきた。

 でも、君がその間違いを指摘してくれた。私に生きる勇気をくれた。私の目はきっといつもと違っている。その日の仕事を片付けると、同僚に私への押し付けをする隙を与えず、そそくさとフロアを抜け出した。その時だった。

「ねえ、色葉ちゃん!」

 人気のない廊下で私を呼び止めたのは、課長の神代さんだった。

「なんでしょうか?」

「どうして急に辞めるなんて言い出すんだ? 僕の何がいけなかった?」

 え?

「課長は何も関係ないですよ?」

「なぜなんだい? 何か嫌なことあるなら、僕が守ってあげたのに!」

「え、ちょっと!」

 課長は私の腕を力強くつかんできた。

「ずっと君を見てきたんだよ?」

「やめて、ください……」

 私は課長から目をそらした。だんだんと怖くなってきた。

「いいから。少し僕と話をしよう!」

「い、いや!」

 私は腕をなんとか振り払い、狭い廊下を駆け出した。今までの彼のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。

 私はエレベーターのボタンを押した。

「お願い! 早くして!」

 ドアはなかなか開いてくれない。

「捕まえたぁ」

 私に追いついた彼は、私の肩から両腕を下ろして、ゆっくりと身体を触ってきた。

 後ろを振り返ると、彼はとても不気味な顔をして笑っていた。爽やかな上司の印象は完全に消えてしまっていた。

「いやっ!」

 もう限界だった。私は必死の思いでなんとか課長を払いのけると、近くにある非常階段に走った。

「助けて!」

 こんな声を出しても、助けてくれる人なんて誰もいない。豹変した課長は、ただひたすらに私のあとを追いかけてくる。

 いやだ!

 殺人鬼に追いかけられている気分だった。

 6F、5F、4F。一度でも踏み外せば、きっと捕まってしまう。それなのに、私は……。

 四階から三階に下る階段で勢いよく転げ落ちてしまった。

「痛い……」

 誰もいるはずのない非常階段は、明かりも頼りなく薄暗い。けれど、課長の不気味な笑い声だけは鮮明に聞こえてくるのだった。数秒とたたないうちに、課長は倒れている私に追いついた。

「色葉ちゃん。こういうの好きなんだ?」

「いやっ!」

「今楽しませてあげるからねぇ。へへへ」

「いやあああああああ!」

 あの時の私は痛みさえ忘れていた。私は覆いかぶさってきた課長の袖に思いっきり噛みついた。これくらいではきっと諦めないだろう。

「痛てててて!」

 彼が尻もちをついたのを確認すると、私は思うように動いてくれない足でなんとか立ち上がり、残りの階段を駆け下りていった。

「助けて。誰か助けて!」

 2F、1F。

 扉を抜けた先は最悪の天候だった。あの時みたいな大粒の雨。折り畳み傘をさしている暇なんてない。私は泣きながら、歩道を走り始めた。

 案の定、課長は背中を追いかけて来ていた。今までに見たことのない恐ろしい顔で。

 大声で叫んでも、声も視界も雨にかき消されて、歩いている人の誰にも届かない。

 私は携帯電話を取り出した。一一〇番なんて数字、その時の私には思いつかなかった。無意識のうちに私がかけていたのは、私を初めて助けてくれた、あの人だった。

「もしもし、色葉さん?」

「助けて!」

 私の声がようやく人に届いた。雨の音が邪魔して、詳しいことはきっと伝えられない。

「走ってる?  何があった?」

「助けて……」

 私は無我夢中で、涙声になっていた。ただその言葉一つが喉の奥から飛び出してきていた。

 青信号が点滅している。私は全速力で横断歩道を渡り切った。ギリギリのところで間に合った。

「ただごとじゃないみたいだ。俺は今、園にいる。どこに行け……」

「待ってて!」

 私の体は植物園に向かっていた。逃げ場なんてそこしか思いつかない。背中を刺すような雨に打たれながら、私は硝子張りの建物を目指した。

 ******

「色葉さん! どうしたの」

 君は入り口で傘をさして待ってくれていた。

「中に、入れてください……」

「わかった!」

 もう体も心も限界だった。君はびしょ濡れになった私にタオルをかけ、植物園の中に入れてくれた。硝子でできた建物は、殺人鬼をまくにはあまりにも頼りないはずなのに、世界中のどこよりも私を守ってくれそうな気がした。私は、以前入ったスタッフルームに逃げ込んだ。

「何があったんですか?」

「私、男性に。課長に追いかけられて。怖くて……」

「追いかけられた? まさかストーカー?」

「そ、そうです」

「大変だ!」

 君は勢いよくデスクの上の受話器を手に取り、一一〇番に通報した。

「もしもし、警察ですか?……事件です。……友達が今、男に追いかけられて! 場所は……」

 電話を終えたあと、君は園に散らばっていた作業員に指示をして、建物の周りに配置した。

 全身の震えが止まらなかった。私は、部屋に戻ってきた草野さんに抱きついた。

「ごめんなさい」

 君は、私を優しく抱き締めてくれた。

「大丈夫だから。もう怖くないから」

 数分もたたないうちに、パトカーの音が聞こえてきた。助かった。きっと助かったんだ。

「大丈夫ですかああ! って、えーっと」

 青い制服を着た人が扉を勢いよく開けて入ってきた。

「あっ! すみません。草野さん……」

「い、いえ!」

「あのー。通報したのは?」

 この人は、刑事さんだろうか。

「俺です! えっと彼女が追いかけられた人で。犯人は、上司だっけ?」

「はい! 私の会社の神代さんっていう男の人です……」

「身体的特徴も教えていただけますか!」

「青のスーツを着てて、七三分けで。ネクタイが確か、ピンク色だったと思います」

「わかりました! 今すぐ近辺を捜索に当たります!」

 名前の特定された課長が捕まるのに、そう時間はかからなかった。後で聞いた話によると、ビルの非常階段には監視カメラが付いており、同様の通報がすでに出ていたらしい。

 けがの手当て、警察の事情聴取、会社との連絡。今日できることをすべて終わらせると、建物の外はすっかり真っ暗になっていた。疲れていたけれど、自分の家に帰る気にはなれなかった。私はこのとき、人生で最大のわがままを言ったのだった。

「草野さん。今夜、一緒にいてくれませんか?」

「え?」

「ご、ごめんなさい。一人だと心細くて」

「いえ! でもどこで?」

「草野さんのお宅で……」

「わ、わかりました!」

 私たちは植物園の外に出た。足の痛みもだいぶ和らいでいたが、やはり歩きは不自由になっている。君はそんな私に歩調を合わせ、ゆっくりと付き添ってくれた。植物園を挟んで、私の家と反対方向にあるアパートの二階に、君は一人で住んでいた。

 私たちはゆっくりと階段をのぼり、部屋の前に着いた。

「ちょっと待っててください!」

「はい。すみません」

 君は慌てて中に入っていった。部屋の整理整頓をしてくれるのだろう。やっぱり、いきなりお邪魔するのは悪かっただろうか。

「あ!」

 君の驚いた声が聞こえてきた。

「だ、大丈夫ですか?」

「いえ。なんでもありません!」

 私は柵に寄り掛かり、町の景色を眺めてみた。住宅や電柱がずらりと並んでおり、お世辞にも良い景色とは言えないが、遠くに硝子の欠片が見えただけでなんだかロマンチックな感じがしたのだった。

 そういえば、ここに到着したと同時に、さっきまでの雨が止んだんだ。私が外を歩くときは、たいてい雨が降っているような気がする。私ってとことん不幸せだ。

「どうぞ! お入りください」

 いや、不幸せ者なんかじゃない。

 君はドアを開けて、中に招いてくれた。

「お邪魔します」

 私は靴を脱いで、君の部屋の中に初めて足を踏み入れた。

「男の一人暮らしだから、居心地悪いかもしれないけど」

 特別広いわけではないから、なんだか落ち着く空間だった。

「いえ。全然そんなことないです」

「とりあえず、夕飯作るから。色葉さんはソファーでゆっくりしててください」

「私も、手伝います!」

 ワンドアの冷蔵庫の中には、あまり食材は入っていなかった。私たちは二人分の夕食を手早く作った。ちゃぶ台の上に簡素な食事を並べ、腰を下ろす。

「ちょっと感動しちゃったよ」

「どうしてですか?」

「こんな食事久しぶりで」

「そ、そうなんですか?」

「はい。いっただっきまぁーす!」

 今でも覚えてる。このときの君は、まるで無邪気な少年みたいだった。

「私も、いただきます」

 私たちは、今日一日の出来事を語り合った。怖かったこと、死ぬかと思ったこと、安心したこと。君がいてくれたおかげで、今夜の夢は怖くなくなった。そんな気さえした。

 シャワーを浴び、歯を磨くころには、時刻は午前零時を回っていた。

「そろそろ、眠りましょうか」

 君は大きなあくびをして言った。

「はい」

「えっと。色葉さんはベッドで寝てください」

 そう言って君は、毛布もかぶらずにソファーの上に横たわろうとした。

「いえ! 私がソファーで寝ます。なんか、申し訳ないです」

「申し訳ないのはこっちですよ」

 このとき気がついた。この部屋には毛布が一枚しかないのだ。 

「でも、それだと風邪ひいちゃいます」

「うーん。じゃあ、こうしませんか?」

 君は軽々とソファーを動かしてベッドに隣接させた。ちょうど同じくらいの高さだ。そして、二枚折りになっていた毛布を広げて、ベッドとソファーにまたがって掛けた。

「えっと」

「あ! 違うんです! 別にやましい気持ちとかそんなんじゃなくて」

「いえ! ありがとうございます」

 たしかにちょっと気恥ずかしかった。私は男の人の部屋に入るのも初めてなら、男の人と二人で眠るのも初めてなのだ。でも今思うと、こうしていなかったら、私たちは朝まで譲り合っていたかもしれない。

 君はそっと明かりを消した。私はベッドの上で、彼はソファーの上で。一枚の毛布を共有して。

「あの、色葉さん」

「はい?」

「おやすみなさい」

「お、おやすみなさい!」

 その夜は悪い夢も見ることなく、ぐっすりと眠ることができた。

 私は……幸せ者だ。

第四編

 社長は優しかった。私に深く同情して、退職を受け入れてくれた。

次の職場は何も決まっていない。残り数週間の有給休暇で、転職活動も始めよう。これだけ残しておいた自分を褒めてあげたい。

「サンドセットを二つ。エスプレッソ一つ、アイスコーヒー一つお願いします」

「かしこまりました。ご注文を繰り返しますね……」

ある晴れた日の朝、私と君は近所のカフェにいた。

「ごめんなさい。急に呼び出したりして」

「いいんですよ。俺は基本、プライベートは暇ですから」

「良かった。実は私、友だちがいないんです」

「色葉さんが? どうして?」

「幼いころから転勤族で引っ越しを繰り返したことも大きいんですが。私自身、人と話すのが本当に苦手で……」

「なるほど。それは大変だったでしょう」

「はい、家族以外に相談できるのがその、草野さんだけなんです」

「俺で良かったら、いくらでも付き合います。相談事というのは?」

「私、転職先が決まってなくて。どんな職場だったら自分に合ってるかってずっと考えてるんです」

「なるほど」

「でも、自分ではわからなくて。草野さんなら、何かいいアドバイスくれるかなって」

ウェイトレスさんが料理を運んできた。

「お待たせしました。サンドセット二つと、エスプレッソ、アイスコーヒーでございます!」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

私たちは、朝食を食べ始めた。

「職場環境のことは抜きにして、デザイナーの仕事は好きだったんですか?」

「好きです。でも、業績とか評価とか、同僚で差がつくような仕事は嫌だと思ってました」

「なるほど。人間関係につながりますもんね」

「はい。もっとみんなで楽しくできるような、そんな職場が良いんです。でもこういう考え方って、良くないんでしょうか?」

「そんなことない。仕事を楽しんじゃダメなんて、誰も思いませんよ」

楽しい職場。そんなものあるのだろうか。

「オフィスから離れてみるってのはどうですか?」

「どういうことですか?」

「んーっと、商店の正社員として働くとか。本屋、スーパー、レンタルビデオ店。ここみたいなカフェでもいいし」

「カフェは、ちょっと。私には合いません」

「そうですか?」

「おしゃれな人が多いから」

「何言ってるんですか。色葉さんは十分綺麗ですよ」

「そ、そんなことないです! さっきレンタルビデオ店って言いました?」

急に恥ずかしくなって、私は話をもとに戻した。

「はい。俺もバイト経験ありますよ」

「そうなんですか! 私、よくDVDを借りるんですけど、あそこで働いてみるのも悪くないかなって」

「なるほど。映画とか見るんですか?」

「はい! 映画もドラマも」

「じゃあ向いてますよ。詳しい人であればあるほどすぐに慣れます」

「本当ですか? 行ってみようかな」

そのときだった。

「あれ、色葉?」

後ろから誰かが私の名前を呼んだ。この声はひょっとすると。

「お姉ちゃん?」

「やっぱり。男の人と……ってもしかして!」

「ち、違うよ。相談事してただけ!」

「こんにちは。えーっと……」

「はじめまして。私は笹原美咲(ささはらみさき)。高田色葉の姉です」

お姉ちゃんは、今年の冬に結婚していた。あの失恋の話もあったから、吉報を聞いた時の嬉しさと言ったら、言葉では表せないほどだった。

私が結婚したわけでもないのに。

「俺は、色葉さんの友達の草野侑吾です」

君は軽く頭を下げた。

「いつも妹がお世話になってます」

「お、お姉ちゃんは何しに来たの?」

「私は気分転換に来ただけ。別に誰かと待ち合わせてるわけでもないし。でも、ここにいるのは悪いわね」

「べ、別にそんなこと……」

そんなことあった。

「あ。私、やりかけだった仕事するんだった。ごめん、やっぱり一人になります」

お姉ちゃんはここから離れた席に座ると、バッグからノートパソコンを取り出した。

ありがとう。美咲姉ちゃん。

「さっきのバイトの話だけど……」

私たちはコーヒーを飲み終わった後も、しばらく二人で話し合っていた。お互い休みだったこの日に、ずっとしがみついていたい気分だった。

「ありがとうございました。私、申し込んでみようと思います」

「はい。またお力になれることがあったら」

「草野さん、本当に優しいんですね」

「そんなことないですよ。じゃ、また今度」

君はそう言ってまた不器用に微笑むのだった。

「はい!」

カランカランというドアベルの音。私たちはカフェの前で別れた。

第五編

 最初から正社員ってのは大変だから、アルバイトから始めることにした。初めのほうはレジでの接客。一生懸命働いていると、徐々に他の細かい作業も任されるようになった。

 間違っていない、きっとこれで。

「色葉っち!」

「は、はい」

 彼女は、私と同じ時期にこのレンタルビデオ店で働き始めた。

 佐々木友梨(ささきゆり)さん。ちょっと派手なファッションが印象的な、元気な子だった。人と関わることにとても積極的な人で、私を見つけるとすぐに話しかけてきた。

「ねえ、この後パフェでも食べに行かない?」

「パフェ、ですか?」

「うん! なんか甘いもん食べたくなっちゃってさ!」

「はい!」

 心の中で言っても恥ずかしいけど、友達の女の子と食べ物を食べに行くなんて、数えるほどしか経験がなかった。

「パフェってどこに売ってるんですか?」

「色葉っちの言い方ウケるんだけど!」

「え、えっと……」

「こっちこっちー」

 彼女に手を引かれ、私は街路沿いにあるフルーツ専門店に入った。

 一階で果物を販売、二階がパーラーになっているようだ。私たちは窓際の席に腰かけた。

「友梨さんってどこの学校なんですか?」

「私? 私はそこの武術専門学校」

「ぶ、ぶじゅつ?」

「なーんてジョーダンよ。美術美術!」

 そこのってもしかすると?

「私もそこ通ってたんですよ!」

「えーまじ? 先輩だったの色葉っち?」

「そう、みたいですね」

 さっき頼んだパフェはすぐに運ばれてきた。

「綺麗」

 少し言い過ぎかもしれないけれど、初めて食べるような感じがした。

「いえーい!」

「え?」

 突然、彼女は体をくねらせて携帯を持ち上げ、パシャリと写真を一枚撮った。

「ちょ! 色葉っちバリ面白い顔してんだけど!」

 彼女は私に写真を見せてきた。パフェと友梨ちゃんと私。上手に一枚に収まっている。ほんとだ。私、変な顔してる……。

「ってなんで撮ったんですか?」

「え? スイーツ来たら写メっしょ!」

 彼女のほうが、私より不思議そうな顔をしているのだった。

「そ、そうなんだ」

「今送るねー。ってまだ連絡先交換してなかったね」

 彼女は携帯を私のほうに差し出してきた。

「えっと、これってどうするんですか?」

「やばっ! 色葉っち超天然じゃん!  可愛いー」

「ええ!?」

 そう言いつつも、彼女は丁寧にやり方を教えてくれた。

「よし。これでおっけーね」

 友梨ちゃんはいつだって元気だった。私は楽しそうに笑う彼女がとても羨ましかった。

「あ、ありがとうございます!」

「はいよ、って溶けてんじゃん。やばっ!」

「あ、ほんとだ」

 アイスがこぼれないように私たちは少し急いで食べ始めた。

 美味しいな。果物がたくさん使われてて、なんていうか幸せの味だった。

「ごちそうさまでした」

 極上のスイーツを食べ終わると、私たちは店の外に出た。

「今日はありがとうございました」

「いや、こっちのセリフっしょ。楽しかったわー。またね!」

「はい!」

 かばんについたたくさんのアクセサリーを揺らして、彼女は家路を歩いていった。

 楽しかった。友だちと遊ぶなんて、あまりにも久しぶりだった。私は、初めて撮ったツーショット写真を、携帯の待ち受けにした。もう一度見てもやっぱり、私の表情は変だったけれど。

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