心の剣の稽古方法ついて、
2種類の嘘があります。
1つは悪意のある嘘。
2つ目は悪意のない嘘。
悪意のある嘘とは、どのような物でしょうか?
「山に籠り、天狗に会い、天狗から剣の神髄を伝えられ
それにより、剣と精神を開眼した。」
このような触れ込みで、心の剣を教える。
つまりは会ったことのない神、天狗や物の怪の類から
人智を超えた何かを得たと詐称する行為。
しかし、天狗に会ったという本人は
自身の嘘を知っているだけ、まだ改善できる見込みはあります。
では、悪意のない嘘とはどのような事でしょうか?
「所作稽古を繰り返すことで
心-技-体と剣が繋がり、心の剣となる。」
心の底から正しいと思って稽古方法を組み立てています。
ここには悪意はありません。
そして、その稽古法を繰り返すと術の達人になれます。
しかし、「心の剣」と「術の剣」は別の事であり、
術や技の稽古を繰り返しても、
心の剣が開眼することはりません。
別の例えをするならば
陸上競技のトレーニングを繰り返しても
泳げるようにはならない。
しかし悪意が無い分だけ、教える側も習う側も
心の剣が開眼するという嘘を真実だと思い込み、
それが伝承されていきます。
ストレートな表現をすれば
「心の剣が出来る、と思い込んででいるだけ。」
となります。
この状態を、無住心剣では「俗世の垢」で説明しています。
赤子に帰れ。
小手切一雲先生が文章に残された
夕雲流剣術書の一文です。
赤子に帰るとは?
自身の経験を忘れ、
知識を捨てて、
益・不益から離れ
そこに残った何か、を知ることに他なりません。
人は自身の経験から
「独断と偏見によるルール」
をつくり、それを人に対して
強要しがちです。
これは着物警察で説明をしました。
しかし、経験をしなければわからない。
これは冷暖自知の話で説明をしました。
ここに
経験や知識は善か悪か?
どちらが正解なのか?
と言う疑問が出てくるかとは思います。
先に答えを書くと
「どちらも正解」
そして
「どちらも誤り」
片方に正解を求めれば、
必ずバランスが崩れ、
それが自我となり、欲となり
結果として争いにつながります。
Attachment leads to jealously. The shadow of greed, that is.
愛着(粘着)は嫉妬となる。愛着とは強欲の影(本心)である。
Train yourself to let go of everything you fear to lose.
全て(多く)を失う事を恐れないように、自分を鍛えろ。
この文は「放てば手にみてり」
と同じことです。
これは2000年以上も前に
ゴーダマ・シッタールダ先生が
説かれたことです。