講義通信

#メディアイメージ論2022

GW 静岡にある久能山東照宮などの取材に行っていました。絢爛豪華、豪奢など、褒めることもできますが、派手さといかがわしさ、偽物感が漂う、日本的いかがわしさ。ハリウッド映画で描かれる間違った日本のオリエンタル感や、クラブみたいなものに思えてしまいます。日光東照宮と同じく日本のイミテーション美学の神髄がここにもありました。


奉納されていた「武者使用ガンダムのプラモ」などを貼っておきます。


別日に日本のモナコ熱海にあるMOA美術館で「歌

舞伎図巻鑑」の実物を見てきました。


レポートの提出お疲れさまです。

今回もいくつか選択して抜粋で紹介します。


2022/04/27 レポトより


高校では日本史選択だったが、歴史の流れを覚える中で出てくるこのような名前や珍しい漢字がその都度引っかかり脱線に次ぐ脱線を一人でしていたら流れも授業も頭に入らず日本史自体を放棄し続けてきてしまったが、講義中に紹介される本を読むうちにもう一度日本史の教科書を読みたくなった。

また、風流という言葉を使うときに語感の爽やかでまっすぐな感じからそよそよとした桜や透き通る水場を眺めながらお茶を飲んだ時に自然と口に出しその意味に疑問を抱いたことはなかったが、まさか元が豪華異様で非日常を指す意味だとは驚きました。




今週紹介されていた鬼という言葉の意味が、最近ネットでよく聞くスラングの「バケモン」とよく似ているな、という感じがした。良くも悪くも、理解不能な特徴を持ち、怖いという意味でだ。鬼という言葉を今現在使う機会はそう多くはないだろうが、鬼が形容している畏怖の概念そのものは、言葉を変えてもずっと使われ続けていくのかもしれないと思った。



覚え書き


・近年は子供向けのコンテンツから恐ろしいもの、不適切なものが排除される傾向があるが、怖いものが与えてくれるトラウマ的なイマジネーションも必要


・化粧は武装


・大衆娯楽であった歌舞伎が現代では格式高い伝統文化に

 →現代のヤンキー、ギャル文化も同じ道を辿る...?




次回配信の内容に、粋やいなせについてと書かれていて、最近、個人的に凄く気になっていた概念(概念という言い方があっているかわからないのですが)だったので、講義、楽しみにしております。




また、現代の服の流行は大人しめの服が主流でセンスがあるとされているのは派手な要素が入っている服であると感じているので、昔の風流は現代の持つ落ち着いたものの持つ美しさではなく豪華で派手なオラオラしているイメージのものであるというところに重なる部分があると思いました。




今回の講義で特に印象深かったのは、不動明王が童顔であるくだりでした。



さらに(これは私にとっては一番大事なことなのですが、)わざわざ童顔であることの記述の必要があるか?とも思わせられました。その時、直接的に関係はないと思いますが、日本のロボットアニメのパイロットが少年であること(ひいてはショタ・コンプレックスとの距離)について教授と生徒が熱く語ったかつてのアトリエでの講評会を思い出しました。(と、そんな間にも、ヱヴァンゲリヲンやガンダムなどのイメージが画面右側に挿入され、クスッと笑いました。)


>成長譚 努力、根性、がんばるで 獲得した能力を表す童顔



驚いたのがコスプレに通ずる観念が室町後期から江戸前期の時点で生まれていた事だ。先人は偉大であると共に日本人の国民性は面白いと感じた。



芸術とはズレてしまいますが、日本の宗教観に対し「怖い」と感じる外国人を面白おかしく真似した動画を思い出しました。URLを記載させてください。


「日本人の宗教観が理解できないアメリカ人あるある」

https://youtu.be/1kzbBJPkPSo



鬼について、怖いものの代名詞として現代でもその認識が存在しているが、アニメや漫画をこよなく愛するオタク文化の人間にとってしてみれば、度々作品の中にて登場する機会があり、作品の主人公や設定として使用されていたり、ヒロイン的要素としてなど様々な属性が付け足され、カッコいいもあればカワイイも存在するそんなある意味で親しまれている存在、認識になってきている。



「恐怖について」、多角的な視点から論考されていて毎回たのしく受講しています。今回の話では、仏教、不動明王等の原初の「畏れ」とでもいうのでしょうか、ある種の恫喝的な厳かさを含めた文化の記述がどれも面白かったです。 確かに、神様仏様という存在には恐怖がつきものだし、我々も畏れることによって信仰の価値を深める、といったようなある種変わった側面もあるのではないかと思います。 現代の「ヤンキー」という比喩も出てきましたが、冒頭に触れられていたポップカルチャー、アニメにおいて最近神々や精霊はしばしば擬人化されたりしがちで、例えば不動明王などはまさしくヤンキーとして描写されるようなこともあるな、と不思議なつながりを感じました。


>活力 アクチュアリティーの美意識



恐ろしいものを見るのと同時に安堵を感じると

いうのもわかるが、恐ろしいといった、大きく

圧倒的な感情のそのものに酔ってしまうという

こともきっと多くて、またそれは、喜ばしいこ

とや嬉しいことよりも簡単に存在感を与えるこ

とができるものが多いと感じた。



「ギャップ萌え」という言葉があるように、自分が怖い、や相容れないと思っているものに対して共感できる部分や愛おしい部分を発見するのも同じ感覚かなと考えた。



能なんかは恐ろしさを感じる




ゴジラは怖くないがペニーワイズはとても怖いと思う。



日本の代表的な文化である漫画やアニメ、オタク文化、ギャル、カワイイカルチャーが神話や宗教の影響を受け、日本独特な文化の特徴になっていることに驚いた。日本は世界有数の無宗教国家であるため、信仰や崇拝といった言葉だけで少し異質で " 怖い " と感じるほど宗教と関わりが深くないが、特に仏教とヒンドゥー教があらゆる日本文化の根底にあり、深い繋がりがあることがとても意外だった。


『鬼滅の刃』は特に「畏怖と畏敬」の念が反映された作品だといえる。『鬼滅の刃』の鬼は、元は人間であったことに重きが置かれ、これは昔の鬼伝説に通じる設定だ。伝説に現れるのは化け物、す

なわち怒りや悲しみに駆られるあまり別なものに化けてしまう人間で、理性を失った人間を象徴している。だからこそ主人公である炭次郎は、鬼を倒しても強い悲しみや怒りによって鬼になってしまった彼らの悲しい身の上に思いを寄せ、涙を流すのである。


普段、ただ単純に楽しんでいた日本文化を、ルーツや「俗」の概念といった視点から見ることが新鮮で面白い講義だった。また、様々な他国からの思想を受けながらも「風流」「雅」「趣」など日本

で誕生した日本ならではの美意識や表現が改めて好きだと感じた。



ガンダムのファンネル

などもよく考えると光背を想起させます。



それほどまでに根強く残った畏怖の念、及び先に示した大陸文化が日本国内で独特な発展を遂げることは、今日のサブカルチャー文化において、その片鱗は失われたように見えても根底にあるのだろうと思います。



>ちゃんと 提出ルールをまもってねー


毎回の出席レポを提出する際は、提出データの頭に、以下のルールで、あなたの学生情報を書いて下さい。


学籍番号+学科とコーズ名(メ芸か情デか)+学年+氏名+氏名のカタカナ表記+「授業の日付」 



私は普段よくTwitterをしているが、その中では人々が人間の形を持たずに文字列だけで活動している。人が概念のようなものになっている空間で、たまにその人の手などが写った写真がアップされていると「そういえばこの文字列の向こうにいるのは自分と同じ人間なんだよな」とびっくりすることがある。現代では、「人間の形をした人間ではないもの」「人の形をしていない怪物」よりも、「人の形をしていない人間」がより身近に存在するようになっているのだと思う。


<? これは、今週のレポート? 




「筒描き」という染色技法のことを思い出しました。筒描きは江戸から庶民文化へと発展したのですが、その前は五穀豊穣を願って神社仏閣などに奉納されるものでした。また、松竹梅や鶴亀などの縁起物や鬼の絵が描かれたものが数多くあります。それはやはり、当時の人にとって、病や自然はどうしょうもないものだからこそ神仏に祈るしかないやるせなさなどもあったのだと思います。




今のカルチャーと言うのが異質なように思っていましたが、中身は変われど根本的な流れの部分は変わっていないのだと分かりました。


新しい文化の競い合いや創出はいつの時代もあり、またそのような動きが今もあることで当たり前のようになりあまり見えなくなっているのだなと解釈します。




日本特有の怖いというのは前々からあるなと感じていたので、このように詳しく聞けて嬉しかったです。ホラー映画にしても日本のホラー映画と海外のホラー映画で表現したい怖さなどが違うと感じていました。私は日本のホラー映画の方が好きです。



ポップ・カルチャーのことを近代で突然生まれたもののように考えていた。


しかし今回のテキストで古い西洋の美術品であまり見られないような、アニメや漫画で多用される感情やイメージを具現化した炎や光や、彫刻や浮世絵などのリアリティを追求した風でない表現について改めて考えさせられた。


そしてポップ・カルチャーの原点は大昔から日本に存在していたということを知ることができた。



鬼や日本の神話が絡んだ作品だと「鬼灯の冷徹」が好きです。


「なむあみだ仏っ!」とか「一血(イッチバンケツ)」とか、

ダイレクトに神話や仏教を表現されている作品も多いなと感じるので古来からの文化と現代の文化は地続きになってるのだなと実感します。



日本人の「死に対する美学」は、昔から続く社会情勢であったりし、日本人特有の感性だったりするのではないかと感じることができました。



・怖いもの、そして偶像化


今回の講義で学んだ恐ろしいこと、モンスターに対する話は私に偶像に対する話のように感じました。講義の多くの例が恐ろしいことによる恐怖と不確実性によって人間の感情を幻惑するならば、様々な宗教や現代文化の中での偶像はこのような恐怖よりも効果的で身近に私たちの生活に影響を与えていると考えられます。


・続いて、偶像化


今回の講義からは宗教と儀式、仏像などについて学びました。個人的に私は今回の講義もこの前の講義のように結局偶像化に対する考えにつながりました。私が育ってきた環境が宗教に密接していたためかもしれません。


大衆文化と高級芸術を分けなくても、偶像はどこにでもあります。しかし、私たちが偶像の存在を肌で知るようになる時は、皮肉にも偶像の素顔が現れる瞬間です。私たちは作家(宗教や理念の創始者、すなわち偶像についてのストーリーテラーなどを含む)に先に会うよりも、作品を通じて作家を見ます。卓越した文学、音楽、映画、美術などに向き合い、それらから「作家性」という非常に複雑で微妙なテクスチャーを感知します。


作家性とは目に見えないし、手につかないだけでなく明快に説明することができません。たいてい私たちが賛嘆する対象はこの曖昧な何かだと言えます。宗教関係者や21世紀のタレント、歌手のファンがこの作家性にそれなりの解釈と探求の熱望を注ぐようになる理由も、やはり「曖昧だがはっきりと感知される何か」の性質から来ていると思います。ところが、識別しにくい作家性をより明快に理解するための最初の行為として、誰かは作家の背景を探求し始めます。ある意味では、その方便が解析に至る最も簡単なアプローチかもしれないからです。今私がこの「偶像化」というテーマについて考えているように、作品と作家は離れられない関係なので、作家の背景は一定部分作品と作家性を解釈するのに役立ちます。作品は作家が見聞きしたり経験した自伝的素材から咲くからです。でも、作家と作品を11の関係で想定しようという欲望は多少危険だと思います。問題は、このような行為は、むしろ作品を消して作家を前面に浮上させ(ある作品を通じて有名になった作家が数年後にはむしろ自らが商品化され芸能人のように活動したりする姿が例)、ひいては作品を読む読者(利用者、ユーザー)の能動的な想像力を深刻に毀損するからです。


作家の幼い頃と性格、身体的/精神的病名、人間関係とエティテュード、政治的偏向、性的嗜好と趣向、不法行為、あるいは不法行為ではありませんが、社会的に不純に感じられる行為など、作家に関するすべての私的情報が作品の解釈に影響を及ぼす可能性があります。しかし、この解釈は決して完全にはなりません。何より作品は作家の手を離れた後(象徴的次元で)これ以上作家個人の所有物ではないためです。



私はなんとなく日本の芸術は言葉に出来ない独特の怖さや恐ろ

しさがあるなと思っていました。しかし、この講義で「その怖

さとは、力に対する信仰や崇拝であったり、他者への威嚇、怖

れ不安がる気持ちが表した芸術であるからだ」とこの曖昧だっ

た恐ろしさが具体的な言葉に変わることで納得に変わりまし

た。また、眠気覚ましのJAGATARA聴きました!ボンゴの軽快

なリズムが好きでした。



現代の日本でも「エモい」と呼ばれる概念的な美意識が風流に繋がるものだと思います。



鬼、歌舞伎者、ヤンキーに続く新しい荒ぶるものがこれからもどんどん産まれてくるのだろう。




提出が遅れてしまい本当に申し訳ございません。次からはちゃんと提出できるようにスケジュール帳に書いといたので、次からはちゃんと提出します。



ドラゴンボールのスーパーサイヤ人




寺山修司氏の率いる天井桟敷の舞台「身毒丸」の見世物小屋的世界観とロックオペラという音楽。そこにヤンキーは登場しないけれど日本独自の土着的な世界観が見えて、ヤンキーも地元にいるイメージが私の中ではあり、ある意味土着的な部分があるのではないかと思った。



質問に丁寧に答えていただきありがとうございました。



高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」で、主人公かぐや姫が怒りを露わに草原を駆け抜けるシーンの表情は、興福寺の阿修羅像がモチーフと言われており、また同作品には仏教や日本の古典から引用されたであろうさまざまな表現がありました。



ヤンキー文化と、歌舞伎や、昔の華やかなイメージの日本文化が繋がるものだと思っていなかったため、こんな歴史があったのかと、面白かった。現代の日本は、女性の多人数によるアイドル文化が盛んだが、江戸時代からも、遊女による女郎歌舞伎という文化があったことは、今回初めて知った。この時代でいう遊女は、遊郭にいる高級風俗嬢という認識しかなかったが、現代のアイドルであったり、グラドルのような役割も担っていたのかなと思った。



昔の日本人も似たような感じだったのかと思うと少し面白いです。異国から入ってくる文化や物事を受け入れなんでも日本的にアレンジしてしまうというのは



質問です。提出はGoogle documentで良いですか。PDFに変換したほうが良いのでしょうか。



<読めりゃ、なんでもいいです。 


提出フォーマットに書いた学科名や氏名のルールを守ってくれない人がいます。そっちを厳守でやって下さい。 




授業を受けて感じたことは今日本の伝統は衰退していくと言われていますが、違った形で伝承されると思いました。


アメリカは幽霊のことを怖がらないそうです。怖がるという行為は日本の特色なのかもしれません。


日本は昔から独自の文化を築き上げてきてそれが今の日本の美意識にもつながってきているのではないかと思いました。


風土の話でいうと、日本には日本のお化けや妖怪がいますが、海外の土着的お化けや妖怪が日本に登場してもあまり怖くない。それは、不思議です。



大江山絵巻のところで思い出し、Fateシリーズも酒呑童子と源頼光周りが描かれているのですが源頼光は女性にはなっており牛頭天王の化身の鬼子として描かれています。自分が人間では無いことに悩んでおり、また坂田金時も人間では無いことから頼光は人間らしい

ことをしようと金時を人間として育て、頼光が金時は幼少期から酒呑童子の知人ということを知り史実と同じように酒呑童子を討伐に至ったという経緯があります。


頼光の高貴な血筋として神の血が流れている=人間ではないというふうな表現をしているのはかっこいいと思いました。



エヴァンゲリオンも、機体から腕が何本も生えたり鬼のような顔の造形



授業の内容とは関係ないのですが、Googleclassroomの課題に提出期限を設定していただけるとありがたいです。今は期限なしになっているため、期限が近づいてもclassroomからの通知などが届かない状態です。お手数でなければ、システム上で期限の設定をお願いします。


やらないです。 



1つ課題に関しての要望なのですが、前回、今回とGoogle Classroomで期限なしで課題が出されていると思うのですが、可能であればclassroom内で提出期限を設定していただけるとToDo覧で課題を見るときにわかりやすいのでお願いしたいです。手間がかかってしまうと思いますので、可能であればで大丈夫ですのでご検討いただけるとありがたいです。よろしくお願いします。



やらないです。 



朝起こして下さいというのと同じだと思いますが、もし私がそれを設定し忘れたら、どうなるのか… 

ですので、責任負いかねます。

みなさん独自にTODO作って下さい。


記載した通り本講座では、提出期日は儲けてありますが、それを越えると遅刻扱いにすると定めております。そのためシステム的な期限というのは儲けられないんのデス。



ヤンキーのリンク先はいわゆるヤンキーの画像が出てくると思っていたので、不意打ちでWikipediaが出てきて笑いました。



風流:中世では、豪奢なもの、デコレーション要素が強い装飾の物品など「つくりもの」を表す言葉であったということにはと

ても驚きました。


美術とか、美という概念や言葉は、明治以降に西洋文明との関連性で成立したといってよいでしょう。


もともとは、「風流」や「かわいい」の方が、ずっと長く使われていた美的概念です。



今の時代のギャルやヤンキー的な存在が平安時代からあったことに驚きました。どの時代でも新しい美意識が生まれるのだなと思った。



江戸時代におけるアイドルは歌舞伎や相撲取りです。



4/27


前回の感想で「いつも見ているものだけど、どこか違う」違和感を煽る存在が個人的に一番怖いと述べたと思うのですが、正にその部類の「恐怖」が今回紹介されていてなんか少し嬉しくなりました。

「自分たちとそっくりでありながら、自分たちとは異なる〈人間の形をした人間でないモノ〉」


前回述べたゾンビも正にそのモノですね。自分は、「恐怖」を感じるモノとは一体どのような特徴があるのだろうかとよく考えます。そして、何故そんなことを考えるのか?とも考えます。それは人間は未知なるものに一番恐怖を感じ、それを知り、生物的に自分の支配下に置きたがるからだという答えが出ました。人間は相手が何か分かるとすかさず攻撃性が準備されます。

授業でも、『「人間は〈人間の形をした人間でないモノ〉を怖れる反面、〈人の形をしていない怪物〉は、そこまで怖がらない」と書いていた。フランケンシュタインやゾンビやピエロやエイリアンに比べて、植物や煙など不定形の化け物はそれほど怖くないのだという。』とあったようにやはり桁違いに自分らと姿形が違いすぎるし体格差もありすぎて見るだけで負けの判断基準が出来ます。しかし、自分らと同じ大きさのシルエットなのに何かが違う。そこに人間は疑問を感じ、もしかしたら勝てるのでは?自分達と同じ生物なのでは?と考えます。でも分からないから勝てるかの判断基準が無い→怖い!!となります。一番わかりやすい例が「幽霊」だと思います。姿形は似てるのに存在が不確かでこちらから攻撃出来ない。(基準なんて人それぞれなんて言ったらおしまいなのですがね。)


>? これは今回のレポじゃないのでは???




漢字いっぱいで難しかったです。



会ったこともないアイドルを推していたり、顔も見えず、声も変えて素性が一切分からないVTuberに沢山のファンがいたりと、環境や時代が大きく変化していても人間の根本はあまり変わっていなくて面白いと思った。




ガルフィーのスウェットやキティちゃんのサンダルなどが良い例だが、我々の中には、誰が決めたわけでもないのに「ヤンキーといえば」のモチーフが存在している。


ヤンキーとは、人々が共通に持つ記号によって成り立つある種のメルヘンな存在なのではと思えてきて興味深かった。



(先生がSexyZoneをイケメンアイドルとして認知なさっていることが嬉しいです。ありがとうございました。)




ヤンキーという現代的なイメージのある概念のルーツが日本の長い美術史の変遷から生まれたものだとは思っても見なかった。外から取り入れた宗教などが入り混じり、日本独特の文化として取り込んでいった話を聞いて、、ハロウィンやバレンタインを独自のイベントにしたり、冠婚葬祭で宗教観が入り混じっている日本の様子を思い出した。私はそんな日本の柔軟な自由さが面白くて好きだ。



日本発祥の考え方だと思っていたものが、海外から伝わった宗教と共に庶民によって成立していったものだと知ってとても興味深かった。



日本独特の美意識というと「詫び錆び」や谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を連想した。今思えば日本人は陰を愛でるというよりも、その陰の向こうにいる得体の知れない神的な何かを恐れていたともとれる。「幽玄」といった言葉もまさしくモンスーン的な概念だ。また一神教の世界観では「神を見ること」=「祝福」とされているが、日本は「神は見てはいけないもの」という対比は面白い。ある意味、日本は神と妖怪(西洋的には悪魔)がほぼ同格の存在とも言えるだろう。



今回の授業では日本の俗芸術の歴史 ヤンキ芸術について学びました。授業の内容の中で現代の芸術が昔の女郎歌舞伎や、野郎歌舞伎などとよく似ている性質があるというところが印象に残りました。全く関係のないものが歴史を辿ると繋がっていて似たもの同士だったりするのが非常に興味深い点だと感じました。特にヤンキーという言葉が日本の美術の根底である恐れを表そうという意識、怖さからきているものだということも面白かったです。



ヤンキーとドン・キーは似ています。




日本の代表的な文化である漫画やアニメ、オタク文化、ギャル、カワイイカルチャーが神話や宗教の影響を受け、日本独特な文化の特徴になっていることに驚いた。日本は世界有数の無宗教国家であるため、信仰や崇拝といった言葉だけで少し異質で " 怖い " と感じるほど宗教と関わりが深くないが、特に仏教とヒンドゥー教があらゆる日本文化の根底にあり、深い繋がりがあることがとても意外だった。


『鬼滅の刃』は特に「畏怖と畏敬」の念が反映された作品だといえる。『鬼滅の刃』の鬼は、元は人間であったことに重きが置かれ、これは昔の鬼伝説に通じる設定だ。伝説に現れるのは化け物、す

なわち怒りや悲しみに駆られるあまり別なものに化けてしまう人間で、理性を失った人間を象徴している。だからこそ主人公である炭次郎は、鬼を倒しても強い悲しみや怒りによって鬼になってしまった彼らの悲しい身の上に思いを寄せ、涙を流すのである。


普段、ただ単純に楽しんでいた日本文化を、ルーツや「俗」の概念といった視点から見ることが新鮮で面白い講義だった。また、様々な他国からの思想を受けながらも「風流」「雅」「趣」など日本

で誕生した日本ならではの美意識や表現が改めて好きだと感じた。



現代の「ヤンキー」という比喩も出てきましたが、冒頭に触れられていたポップカルチャー、アニメにおいて最近神々や精霊はしばしば擬人化されたりしがちで、例えば不動明王などはまさしくヤンキーとして描写されるようなこともあるな、と不思議なつながりを感じました。