exileにしろ、矢沢永吉にしろ、ダパンプもそうですが、作られたかっこよさ—どこか偽物でばった物感がないとダメなんでしょうね。
平成時代初頭に子供たちがまだ元気で「学級崩壊」どころか「学校破壊」していた時代がありました。その対策のひとつとして取り入れられた、クラス一丸でやる「よさこいソーラン」は、この国の血ゆえか、全国でいまだに踊られております。
戦闘用ロボット「ガンダム」のデザインは、アメリカ的カラーリングであるが、そのディテールは日本の鎧兜そのもの。背中に背負う二本の刀は、忍者の携刀に等しい。
変わり兜と円谷の作品に登場する怪獣デザインの比較
※やっこ武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)など
*ややこ踊り
中世末期から近世初めにかけて行われたヤヤコ(幼女・少女)による小歌踊の芸能。
出雲(いずも)の阿国(おくに)が歌舞伎(かぶき)踊を創始する前に演じていたことで知られる芸能である。
具体的な内容は資料がごく限られているためによくわからないが、少女たちによる舞台芸能であったのは間違いない。
男装のかぶき者(出雲阿国)
洋風柄(ペルシャ風?)の着物、名本にはロザリオ。赤い刀、揺れる髪、現代的にいえばトランスジェンダー的模倣か、ドラッグクイーン的な装いをもって、異様・畏敬を想起させて、見るものを魅了する。
出雲阿含を描いた絵として、様々なものが残されている。
ド派手で異様なふん装に注目!
「Tutu」という名称は、本来はスカートではなく両脚の間を縫い合わせた極小のペチコートを指す単語である。フランス語の「間抜けな」を意味する Cucu(キュキュ)が転じて「可愛いお尻」を指す意味となり、 更に変形して「お尻」を意味するTutu(チュチュ)と衣装が呼ばれるようになった。(wiki チュチュより)
4A 2022/05/11版
第4回
日本文化における俗芸術
その2ー近世江戸の憂き世
イキ、かぶき者、歌舞伎、浮世絵、黄表紙
うがちと見立て、男余りのオラオラ都市伝説
■初めに
怖いもの—ヤンキー芸術論と称してお送りしているシリーズの2回目は、江戸期に成立した、日本独特の表象と俗の嗜好についての検証です。
前回の中世編が、日本独特の「俗」のイメージ表象の萌芽期だとするなら、江戸期は、まさに熟成時期だったといえるでしょう。(当シリーズの概要に関しては前回テキストの冒頭を再読して下さい)
一般的に、「イキ」や、「イナセ」などという言葉で、語られる江戸の文化ですが、この世界的にも異質な庶民の文化は、(前回学んだ中世の文化以上に)今日の日本の文化、とりわけマンガ、アニメ、エンターテイメントといった、メディア芸術の分野に大きな影響を与えています。または、日本的メディア芸術の骨幹を成立させたのが、この江戸時期だといっていいかもしれません。
一般的に「イキ」の文化と言われた江戸期の美意識の根底には、ヒロイックなダンディズムや刹那主義的な傾向が伺えます。『「イキ」の構造』(昭和5年)を書いた九鬼 周造(ルビ:くき しゅうぞう)は、江戸の「イキ」には、独特の『媚態』『意気地』『諦め』という思想と美学が伺えると書きました。(「イキ」については本文で詳しく触れます。)
一方で、江戸の文化は、(中世にまして)ストリート・カルチャー的なモノ、場末で誕生した芸術が数多く成立しました。
現在は格式の中に置かれがちな、歌舞伎や、能といった、日本を代表する伝統芸能も、江戸の時代には、なんでもありの、いかがわしさや、猥雑さ、または、偶然性で成立していくのですが、その始まりは、路上で行われたストリート・パフォーマンスのようなものといってよいでしょう。
なぜなら、本来神事として奉納されていた舞などが、市井の人々に向けて、遊芸、余興として執り行われるようになり、娯楽的消費物として、歌舞伎や、浮世絵といった、芸術が、道行く人々に向けて、看板が掲げられ、あるいは店頭にならんだのです。
江戸は男だらけの都市でした。でかせぎ、参勤交代、丁稚奉公、それゆえ人口比率的に、男性がほとんどという、むさ苦しい都市でした。
そのため、任侠や、衆道、またはイキという「いきがった」論理感、ダンディズムと、喧嘩上等な、暴力的で、恫喝的な嗜好。すなわち「オラオラ〜」と、自分の威厳をアピールして、路頭を組むような、意識や、ヤンキー的な指向が、強く表れます。
宵越しの金は持たない。火事と喧嘩は江戸の華、生き馬の目を抜く江戸なんて、言葉からも、そのような指向が伺えます。
今回の講義では、
そんな江戸時代の庶民文化の中で、「俗の芸術」として発展していった、様々な芸術表象、歌舞伎、浮世絵、風俗、ファッション、人々の動向と、その精神性に焦点をあてて、
日本的な「畏怖と畏敬」の芸術として強度を増していった江戸の芸術的構造と実態を検証しつつ、日本式芸術—「ヤンキー芸術」の諸元的要素を、検証していきます。
日本美術における畏敬と異様の系譜—俗の芸術史 その2
戦国時代—室町後期から安土桃山時代
X すうきものと変わり兜
X-1 前田利益(まえだとします、俗名:前田慶次/慶次郎)
漫画化あれるなど、かぶき者として後生に名前を残す。
X-2 変わり兜
慶長年間をピークに室町時代末期から江戸時代初期にかけて流行した。
鉢の上に和紙や皮革、動物の毛などで装飾を施したものと、鉢の形状自
体を加工して作ったものがある。 動植物・器物・地形・神仏などあらゆ
るものをモチーフにし、当時の武士の気性を反映した奇抜なデザインが
多い。江戸時代に入ると工芸技術の向上により、更に多様な装飾性の強
い変わり兜が作られるようになった。
*二回前の講義で紹介した
ウルトラマンに登場した特撮怪獣と相似的なデザインが施されている。
人間がもつ、怖さを感じる共通の感性に訴求するデザイン(意匠)が
巧みに施されている。二〇世紀の子供向け怪獣テレビドラマで創造さ
れたイメージと、室町時代の戦国武将の嗜好性、あるいは戦時下で求
められたデザインに共通項がある。
江戸—豪奢でイキなオラオラ芸術都市
Y 庶民都市—男余り、喧嘩上等、
サムライの支配とアンチ武家思考
・武士と庶民
庶民は武士が大嫌い。
武士の活躍を描くテレビの時代劇ドラマのような世界観はあまりなく、江戸期の庶民は、武士の存在を好ましく捉えていなかった。
武士道の思考で推し進められる、男尊女卑、家—家督制度、忠義など、儒教思想や朱子学など、関係なく、庶民の文化が成立していった。
女性の多くが職業をもち、離婚も少なくはなかった。また吉原などの遊郭が幕府により認められていたように、衆道(男色)などを含め、男女ともにセックスに対しては大らかであった。
その一方で、丁稚奉公や、親分・親方制度、徒弟関係など、地縁や生業を通した同族意識、服従関係が強く、現在のヤクザ的な組織に近いような、「契」の構造が社会制度として根付いていた。
・男余り
参勤交代、丁稚奉公、出稼ぎ、江戸は男の人口が多く、それだけ血の気が多く、物騒でけんかっ早い町であった。
「火事と喧嘩は江戸の華」「生き馬の目を抜く江戸」「宵越しの金は持たない江戸っ子」といった言い回しからも、そのような状況が伺える。
A かぶき者ー後期戦国の遊び人 (特攻隊崩れのように)
A-1 太平世界の理由泣き反抗
・ポスト下克上世界の憂鬱と自暴の美学
遅れてきた若者たち、ロスト・ジェネレーションは、いつの時代にも、ひずみのようにおきてしまう。
昭和であれば70年代の後半がそうだった。しらけ世代と言われた若者たちの時代である。平成であれば、失われた20年といわれた不景気の時代に青春時代を過ごした世代もこれと等しい。(おそらくコロナ禍の後に同様の時代がくるのかもしれない…)
室町時代の終わり、戦乱の世と言われた戦国時代は、下克上—なんでもありの混乱の時代であったが、それが安土・桃山時代に入り、信長が天下人となって、さらに徳川幕府が成立すると、それまでの緊張感が失われて、平和の時代が訪れた。
過渡期的な時代であった。人々はこの世の春といえなくもない時代を、余暇や、娯楽で過ごした。それは現代の日本とも似た、コンテンツや、芸能や、娯楽の文化、さら芸術の受容態度を作り出した時代であった。
『洛中洛外図屛風 舟木本』—「祇園祭」岩佐又兵衛筆 江戸時代・17世紀(*図)は、平和の時代に開催された京都祇園祭の様子を伝える壮大鳥瞰図だ。絢爛豪華である。うかれた町人たちの様子が窺える。
『花下遊楽図屏風』(17世紀前半)(*図)と、『本多平八郎姿絵屏風』(彦根屏風)(*図)は、この時代の風俗や空気感を伝える作品である。派手な衣装、異様な髪の毛の束ね方—元服を過ぎても、幼少期の髪形のままである。(いまでいえば、ギャル男みたいなものか…)男女とも刀を身に付けているが、赤い鞘を棒きれのようにもてあそんでいたり、杖のように長い。これらの刀はすでにアクセサリー的要素として携帯されているだけである。それは護身用や戦闘用ではないファッションアイテムだ。
すでに戦乱の世も終わり、行き場を失った若者たちの脱力感、虚脱感、刹那な日常が伺える。
新しい時代の若者たち、のほほんとした大人(遊び人)が、この時代・文化の新しい主役、担い手であった。そのような退廃的な様は、世紀末パリ、ロートレックやルノワールたちが生きたデカダンスの時代とも似た雰囲気をもつ。
A-2 かぶきものという美意識
・かぶき的心情
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、江戸や京都などの都市部で「カブキ者」とよばれる人々が発生した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちである。(傾奇者、歌舞伎者とも書く)
「かぶき者」は、今日のヤンキーや、ギャル男や、ギャルやなどと、かなり等しい風潮だったと、言えなくもない。
彼らは自己主張の激しい異様な服装や髪形をして街中を跋扈した。それらのムーブメントはストリート・カルチャー的要素を多分に持っていた。(次週のストリートカルチャーを参照)
町人だけでなくて、武士・旗本にも大勢いた。代表的なかぶき者(の後継者)は、大鳥逸平や幡隋院長兵衛などの「町奴」や、水野十郎左衛門たち「旗本奴」であった。(*図)
旗本新見正朝は『むかしむかし物語』享保7年(1722)に、彼ら奴たちの気質について書いている。
『下々の奴は奉公をよく勤め、つらいこともつらいと言わず、寒い時も袷(あわせ)ひとつでも寒そうな顔をせず、一日食事をしなくてもだるそうな様子も見せず、供を勤めれば、たとえ空威張りであっても、なにかあれば命も惜しまないと公言する』
かぶき者たちは、やせ我慢や、物事の反対を行うのが常でした。寒くても薄着、食べなくても平気、死ぬのも平気、喧嘩上等… そのような価値感をよしとする人々だった。
『身持ち・食物などふやけたものを嫌い、好色(主として男色)を好み、刀・脇差は焼き刃の強いものを好み、「侍道(さむらいみち)」の勇気を重んじ、人に頼まれ、人のためには命も惜しまず、上下関係を重んじ、親方・老人を大切にして、自分の命を捨てても他人を救い、徳を重んじ、性根がすわり、武芸に精を出し、人のできないことやり、敵対したものを許さない』
このような「かぶき者」の気質というのは、現代の「任侠」—やくざのそれ、あるいは「イキ」を成立させた重要なキーワードのひとつ「意気地(いき)」、すなわち「意地っ張り」や、「意気地(いくじ)がある」といった「任」の美意識や思想を根底に抱えている。
当時の言葉で、そのような気質は「男道(おとこみち)」とか「侍道」と言われた。
かぶき者とは、もともとは武家の奉公人や最下層の武士から起こった気風と考えられる。しかし旗本や、町人にまで広がっていて、この時代の「俗」のムーブメントそのものである。
かぶき者の思想には「強烈な自意識・自己主張」ーアナーキズムが伺える。そのため幕府はこのような「かぶき者」の横行を取り締まりたかった。それゆえ繰り返し弾圧が行われた。
「かぶき者」というのは、安土桃山時代に民衆が一時的にしても知ってしまった自由な気風・個性の発揮といったエネルギーが、江戸幕府による体制が完成していくにつれて封じ込められて、その行き場を失って噴出するような現象であった。それゆえ、戦争なき時代の闘争心が作り出した、平和の時代の俗文化といえよう。
・大鳥居逸兵 衛(大鳥逸平)
町奴のかぶき者三百人を束ねていたが、25歳で斬首となった。下図の手前の裸の男である。
こんな長い刀ぬけない!
A-3 場末、怪訝、男都市江戸のガテン系文化
・男余りの江戸における不良の文化
かぶき者という括りだけでなく、この時代に「かっこいい」とされたのは、キップのよさや、男気を感じさせる職人(ガテン系の人々)たちだった。
江戸は、「男のウエスタン・ワールドーアウトロー思考を許容する都市」であった。 ~ 衆道、義兄、任侠、ヤクザ、けんかばかりの町である。
繰り返しとなるが、男余りの江戸は、庶民文化に男性の美意識を強く伺わせる。
そのような風潮は江戸独特の「イキ」の思想を成立させていった。
さらに、男余りゆえに成立した「吉原遊郭」の文化が、遊女や花魁という女性のスターやアイドルを作り出した。(ここでは性風俗、SEX産業、売春に関する現代的な倫理感や批判にまつわる論は結ばない。我々の捉え方でなく、当時の社会構造におけるスター・アイコンの機能として論考するものである。)
奴 (旗本奴VS町奴 常に喧嘩)
「奴」(ルビ:やっこ)とは、江戸時代前期(17世紀)の江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団である。次世代のかぶき者である。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門(水野成之)。代表的な団体が6つあったことからそれらを「六方組」(ろっぽうぐみ)と呼ばれた。旗本奴を六方(ろっぽう)とも呼ばれていた。
同時期に起こった町人出身者のかぶき者・侠客は「町奴」と呼ばれた。
*かぶき者の文化は慶長期にその最盛期を迎えたが、この頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなって、やがて姿を消していった。しかし、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに受け継がれた。その美意識は歌舞伎という芸能の中に取り込まれていった。(→ 後述する「歌舞伎」(ルビ:かぶき)である)
火消し 臥煙(がえん)、鳶(とび)
火事と喧嘩は江戸の華といわれた。江戸の消防組織とその構成員。いなせでけんか上等。火事場での火消人足同士による消火活動時の功名争いで喧嘩。気性の荒さや地元での縄張り意識による喧嘩は同じ火消人足だけとは限らない。町火消同士での喧嘩では死者が出た。
高倉健、石原裕次郎、梅宮辰夫、渡哲也、菅原文太、宍戸錠
など、昭和期の映画スターは、基本的にヤンチャか、不良か、ヤクザか、ギャングといったニヒリズムが通底した役どころを演じていた。
※全世界に武士、サムライの名を有名にした黒澤明監督作品「用心棒」の舞台は八州廻りがやってくるような江戸周辺にあった治安が悪化した関東の宿場町。国定忠治など当時の博徒たちのやさぐれ加減についてはこちらの本に詳しく掲載されている。
・花魁(遊女) 〜色街のスター~権威ある遊女たち
吉原遊廓の遊女で位の高い女郎。高級娼婦、高級愛人など。
「おいらん」とは上位の吉原遊女を指す言葉。「おいらん」の語源については、18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や、新造などの妹分が、姉女郎を「おいらの所の姉さん」と呼んだことからといわれる。
・江戸の遊女文化
男装の麗人 ボーイッシュなインディーズ遊女 勝山太夫 「丹前風呂」と呼ばれた非合法の湯女をやっていた。
江戸時代に大流行したヘアスタイル勝山髷は遊女勝山の髷を真似たもの。現在でも若い女性が和装の際にゆう髪形として定番化したという。
・かすりの着物
絣(かすり)は、織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すなわち前もって染め分けた糸を経糸(たていと)、緯糸(よこいと、ぬきいと)、またはその両方に使用して織り上げ、文様を表すものである。
文様の輪郭部がかすれて見えるのが特徴。技法はインドから伝わったといわれる。法隆寺や正倉院に7~8世紀頃の遺品がある。江戸時代以降庶民の衣服に応用され,各地で特色ある絣織物がつくられた。
浮世絵に見られる色とりどりで、様々な模様が表された美しい着物は、この絣技法によるものが多い。
※ここでは性風俗、SEX産業、売春に関する現代的な倫理感や批判にまつわる論は結ばない。我々の捉え方でなく、当時の社会構造におけるスター・アイコンの機能として論考するものである。
B イキと伊達
男余りの江戸の町で、「意地」と「イキ」の美意識が誕生。
イキ(意気、粋)は江戸の美意識そのもの。
イキは仏教的諦観思想(無常観)の流れから始まる。
B-1 イキの概念
・イキとはなにか
いきとは、江戸時代に生じ、時代に従って変転した美意識(美的観念)で、遊興の場での心意気、身なりや振る舞いが洗練されていること、女性の色っぽさなどを表す語。
「いき」とは、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。(転用:Wiki)
反対語は「野暮(やぼ)」または「無粋」である。
いくつかの類語をあげてみる。
ダンディズム、かけひき、緊張感ある関係性、遊戯性、他人と張り合うもの、他者に属することを許さない心情、けじめをつける心情、イキはいろっぽさ(色気やエロチジズム)とも重なる、自由思想、しめ(湿)やかさ…
九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。外国語で意味が近いものに「coquetterie」「esprit」などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた。
また別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって霊化されていることが『いき』の特色である。」と述べている。
B-2 イキの美学
江戸時代のイキをデザインや行事などとして表した事例をいくつかピックアップする。
印籠などの無用アクセサリー(ストラップ)
刀は自己主張のアイテム
更紗(さらさ)の着物 →えのぐ染め →友禅
もめんが庶民のものになる(前述)
江戸紫 江戸で染められた紫の意で、青みをおびた紫
歌舞伎の人気演目『助六由縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)で、
主人公の助六が巻く鉢巻きの色が代表的な江戸紫として知られる。
吉原(遊郭) の建築、サービス、ファッション、前述の花魁道中などの祝祭性
「もて」本の「江戸風俗図巻」は、もてカタログ。
通と野暮、ハンパ、半可通について細かく指南している。
B-3 イキのダンディズム 助六
本外題は主役の助六を務める役者によって変わる。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えている。
きながし、きくずれ。助六はいきの代名詞、ダンディズムのアイコンとして、現代まで知られる。
鎌倉権左五郎かげまさの「くまどり」と衣装を施して大ヒットした。
その物語は大阪で起きた心中を劇作化した敵討ち物語。
B-4 伊達
伊達(だて)とは 「豪華」「華美」「魅力的」「見栄」「粋」などの意味を表す用語。
「男立て」のように「男を立てる」こと、意気を示して男らしく見せようとすることを「だてをす(る)」と言った。
ばさらやかぶきに通じる。現代で言えばやんちゃに類似する語感。(Wikipedia参照)
いきや伊達で表される民衆による豪奢な快楽的芸術としての歌舞伎が成立する。
さらに歌舞伎の表象と切り離せないポップアートとして浮世絵が成立する。
↓
伊達の美意識は歌舞伎、(別ページに記載の浮世絵)にも大きな影響をもたらしている。
歌川国貞「花誘吉原の夜雨 東八景ノ内 中村歌右衛門」
C 歌舞伎ー江戸の庶民芸能
「歌舞伎って、宗教儀礼とストリートダンスが合体したような、俗っぽさが通底しています。だから、顔の隈取りにしろ、ゴージャスで派手なだけでなく、どこかいかがわしかったり、エロかったり、ヤンキーっぽい。ブリンブリン感、イミテーション感半端ない。それが現在の日本を代表する伝統芸能に祭り上げられていると思うと笑うしかない…」(50代ヤンキー芸術研究家談)
田楽、猿楽、風流踊り—中世の民間芸能は宗教的儀礼祭礼と深く結びついていた。
そのような民間芸能の中から登場した「踊り巫女」や「ややこ踊り」(*註)から、バズったのが出雲阿国(ルビ:いずものおくに)の「かぶき踊り」だった。
↓
やがて阿国のパフォーマンスは組織化、舞台化されていった。
↓
軽業(女歌舞)を見せる「AKBシアター」みたいな女性たちがワンサカでてくる舞台、さらにイケメンで、衆道の若い男の子たちが、揃って踊る、「ジャニーズ系」みたいな興業を経て、より我々が知る歌舞伎の形態へと変わっていった。
C-1 出雲阿国のダンス・パフォーマンス
・歌舞伎カルチャーを始めたロザリオ男装の麗人
出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊り(*註)を基にして「かぶき踊り」を創始したことで知られている。
阿含のこのかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には、遊芸に通じた武将名古屋山三郎が関係しているとされる。
阿国のかぶき踊りは、実在した伝説のかぶき者サムライ名古屋山三郎役を男装して演じる阿国と、茶屋の娘役が濃密に戯れるものであったとされる。
阿国の「かぶき踊」とは、茶屋遊び(遊女との遊び)を描いたエロティックなものであるが、実際の阿国自身が遊女的な側面を持った人物であったという説もあって、そのような出目から作られたショーだったのかもしれない。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としていたようである。
観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って(レイブ的な)大団円となった。
お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集で説明されているが(山川出版『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。
C-2 なんでもありの見世物歌舞伎
出雲阿含の「かぶき踊り」が人気を博すと、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れた。
女性たちによって演じられた「かぶき踊り」を「女歌舞伎」という。京だけではなく江戸やその他の地方でも興行されて流行した。「女歌舞伎」は、風俗を乱すという理由で1629年[寛永6年]前後から禁令が出された。
女歌舞伎 劇団尚
・野郎歌舞伎、若衆歌舞伎 〜ドラッグ・クイーンたちの狂乱パフォーマンス イケメン、BL、男色、衆道、なんでもありのセクシーショー!
女歌舞伎禁令以降、前髪をそり落とした野郎頭(やろうあたま)の成人男性が演じる野郎歌舞伎(やろうかぶき)、若衆歌舞伎が始まる。
前髪をつけた少年による歌舞伎をさす。慶長8 (1603) 年出雲の阿国がかぶき踊を創始した直後から行われていたが,寛永6年の女歌舞伎の禁によってクローズアップされた。
その芸態は,『業平躍』『大小狂言』などが断片的に残されているだけで詳しくはわかっていないが,若衆の美貌が売物で,エロティックな歌詞による踊りや,能・狂言を当世風に砕いた寸劇,狂言小舞などを見せていたと思われる。男色による風紀上の弊害を理由に承応1年禁止された。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
* 女歌舞伎 江戸のバレエステージ
バレエのチュチュが18〜19世紀の足見せ興業の名残りという事実を垣間見れば、あながち、舞台芸術とエロティズズムが結びついているのは、日本特有の得意な話だというわけではないだろう。
↓
女方を専門に演じる俳優が登場。技術的に女性らしさを表現する芸能として特化する。
女形・女方(おやま・おんながた)とは、歌舞伎において若い女性の役を演じる役者、職掌、またその演技の様式である。
「女方(おんながた)」は女性の役あるいはそれを勤める役者を指し、現実の女性の模倣ではなく芸の上で創り上げられた理想の女性像といわれる。
「女形」という表記もありますが、「女性を演じる役割」という意味で「女方」が本来といえる。その役柄は元来「若女方」と年配の「花車方(かしゃがた)」に大別されていたが、
次第に細分化し、「傾城(けいせい=高位の遊女)」「赤姫(衣裳の色からこう呼ばれる)」「娘」「奥方」「世話女房」「片はずし(毅然とした武家の女性、かつらの種類から付けられた呼称)」「女武道(立廻りを演じる勇ましい女性)」「老け女方」といった役柄が形成されていきました。(金田栄一)(歌舞伎用語案内)
*宝塚過激における少女歌劇、またその形式における男装の女性演劇なども、ここで説明
した日本的芸能—エロティシズムや、交錯による異性表層と深く結びつきをもつ。
↓
・荒事・和事の成立
野郎歌舞伎の時代が終わると、元禄年間[1688年~1704年]前後歌舞伎は江戸と上方[京・大坂]で独自に発展した。
江戸では、「荒事(あらごと)」を得意とした初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が活躍。
歌舞伎劇の特色の一つである演技演出。超人的な力を持つ主人公が、舞台一杯にその勇猛ぶりを発揮する。
演技演出は極めて誇張的、様式的で、顔に隈取をし動作発声は豪快で大まか。使用する鬘、衣裳、小道具その他すべて非写実的な誇張される。
延宝元年(1673)初世市川団十郎が江戸中村座で演じた「四天王稚立」がこの荒事の最初で、以来代々の団十郎が継承して市川家の家の芸となった。
とくに江戸で発達した荒々しい演技で、後に上方の和事と対比されるようになる。歌舞伎十八番の「矢の根」「暫」「国性爺合戦」の和藤内、「車引」の梅王丸、「伽羅先代萩」の男之助等にあらわれる。 (引用:Wikipedia)
上方[京・大坂]では、後に「和事(わごと)」とよばれる柔らかく優美な演技を得意とした初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍。(これが、現在の吉本新喜劇に代表される関西の演劇文化に大きく影響を及ぼすのだが、説明は割愛。)
・見栄を切る身体
歌舞伎ー所作、唄舞を含むエンターティメントの確立
歌舞伎の祝祭的演劇特性が、その後の2.5次元的芸術の萌芽へと繋がる。
浮世絵、鳥獣戯画だけがマンガ、アニメの出発点ではない。
仮面ライダーや、プリキュア、セーラームーンの変身シーン、またはロボットの合体やトランスフォーム(なぜ、あの間に攻撃されないの?)は、この日本的演劇性、見得を切る所作に由来するものと推測できる。さらに戦国時代の武士が「我こそは〜」と名乗り口上を行うのや、任侠のs世界で「仁義を切る」などにも関連性が見受けられる。(*口上は舞台用語)
アクションヒーローが技の名前をいちいち叫びながら決め技、必殺技を繰り出すとか、動作(みぶり)と言葉を組み合わせた芸(ギャグ)、「ウイッシュ」とか、「ガチャーン」とか、「シェー」や、「グワッシュ」や、「ゲッツ!」「なんでだろ~」「どんだけ〜」、ETC、は、どれも、同様の日本的舞台芸の素養を根底に抱えているという推測が可能ではないだろうか。
☆おそらく60年代中盤のウルトラマンや70年代の仮面ライダー辺りから変身—メタモルフォーゼや、身体変容の表象が表れる。それまでは「鞍馬天狗」「月光仮面」など、疾風のように表れるだけで、変身、変わり身、歌舞伎の「早変わり」「早着替え」「衣装替え」的な要素は見当たらない。それら歌舞伎モチーフのエンターテイメントについては、後述の「5レンジャー」と「白波五人男」の親和性(漫画家石ノ森章太郎氏の功績)をあげておきたい。
C-3 ビラン、戦隊もの、人が演じるアニメみたいな舞台芸術
大泥棒石川五右衛門、鼠小僧、任侠の者や、悪党、盗賊などが、歌舞伎で演じられ、浮世絵で表された。
約一万四千点の大規模な浮世絵コレクションを持つ太田記念美術館の学芸員が、粋で美しい江戸の「悪」を紹介する。石川五右衛門、鼠小僧次郎吉などの大盗賊、侠客、 吉良上野介などの歴史上の人物、悪女、妖術使いなど...
三代目中村歌右衛門の石川五右衛門を描いた浮世絵
・ピサロヒーローズ 白浪五人男は戦隊ヒーローものの原形
白浪五人男 明治の名優五代目尾上菊五郎の出世芸となった作品。「白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)や、二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りをあげるシーン「知らざあ言って 聞かせやしょう…」が有名。
盗賊悪党—ビラン(悪漢)とは、普段は素性を隠して生活をしていて、いざとなれば本性を明かす。白波五人男の場合、そのような人々が、実はチームだったという二重の秘密が明かされる。
いわゆる戦隊もの、チームもの、変身ヒーローもの、兄弟ヒーロー者といった、日本的なヒーローストーリーのルーツが、白浪五人男にあるといっていい。
・日式エンターティメントの確立
人が絵画や人形を演じる。見栄を着る演劇的特性。変身—歌舞伎における早変わり。BL(ボーイズラブ)さえも内包している性的逸脱や交錯。荒事に見るオーバーで動きが大きい演技。隈取りや、独特の動きなど、様式化された演劇的虚実性。絵空事感、ドラッグクイーンにも近い、どぎつくて、毒々しい作り物感(それらは前回論考した風流にも連なる)、2.5次元的な虚構性…
しかしそれらの多面的な機能をもちながらミニマルな構造に集約している。
このような芸術的特性が、江戸期の歌舞伎で育まれた。
それは我々が親しんでいる現在の日本的エンターティメントの多くにに通底している。
・その他
歌舞伎が町人に向けられた芸能であったのと同じく、「落語」、「講談」など、多くの日本の古典芸能が、この時代に「路上で始められた。
明治期に路上で、政治的メッセージを、演説ではなく、歌にして伝えようとした試みが、
「演歌」の始まりである。それこそ演歌という言葉の語源である。
世界的に有名となった日本の伝統的料理「寿司」も、もともとは屋台でつまむ「ストリート・フード」と呼ぶべき庶民の「俗」の料理であった。
日本の伝統的な芸術や文化は、庶民による「俗」の芸術として、出雲阿国や寿司がそうであるように、ストリート(路上)より始まった。そしていつしか伝統芸能や、和食と称され、格式の中におかれるものになっていった。
*ページ文字数の都合のため、以下の項目は別ページに掲載します。 興味あれば見てください。
D 浮世絵 —日本的な視覚の欲望
D-1 歴史と概要
D-2 太平の時代のヒーロー、ヒロイン、アイドル、 二次元かされた現実
D-3 漫画化―日本的美意識の完成、江戸庶民のプリントメディア
E 衣服—日本の社会的身体性
バッド・テイストの極
E-1かみしも(裃) ~肩パット:中身がない張りぼて衣装による威嚇。
E-2 烏帽子(えぼし) 〜傾き者の茶筅髷 ちゃせんまげ →昭和のリーゼント
F うがちと見立 〜浮世絵、草双紙、川柳における
批判精神とたとえ —日本的なギャグセンス、置き換え、ウイットとシュミラクル
江戸時代の俗芸術が発展させた、その後の日本的な俗芸術に大きな影響をおよぼしたものとして「見立て」と「うがち」という2つの美意識や批判的精神がある。
F-1 見立
「見立て」とは、見て選び定めることだが、病気を診断するなど、予測することであるが、「浮世絵」「歌舞伎」「川柳」などの江戸時代の芸術における、目的であり美意識であり、手法を指す言葉で、「あるものを、それと似た別のもので示すこと」「あるものを他になぞらえること」である。
「浮世絵」においては、たとえば遊女を観音として描くなど、異なるものに置き換えて表すことを指す。主に古典的な要素に転換して、なにかしらのものを表す場合が多いのだが、庶民的な俗のものを、由緒ある貴族的な雅(みやび)に言い換えてみたり、なぞらえて表すなどの置き換えて表すことを指す。
見立てによって、物事を、別の解釈で読み替えてみたり、あるいは皮肉っぽく表すのだが、このような手法が江戸期の俗芸術で、必要とされ、様々なバリエーションをもついようになった、理由としては、封建社会という、表現規制への対応として発展したと考えられる。すなわち、武士や、貴族的階級のものたちを直接批判できなかった庶民たちの間で、見立による、シニカルな表現が成立して発展していったのだ。
「見立て」と親和性をもち、日本の芸術で姿を変えて描く表現方法が「やつし」である。見すぼらしい様にすることや、姿を変えることを意味する。「やつれる」と同じような意味を持つ 「やつす」が連用形の名詞化したもので、権威あるもの・神的なものを当世風(その時代の風俗や人物)にすることである。
F-2 うがち
「うがち」(穿ち)とは、穴をあけることを表す「うがく」から転じた、「川柳」や「黄色表紙」などの江戸時代の芸術における技法であり、理念を表す言葉である。
「表に現れない事実・世態・人情の機微を巧みにとらえること」、「人情の機微や特殊な事実を指摘する」あるいは、「新奇で凝った表現を行うこと」を意味する。
実際の表現では、ジョークやダジャレにも通じるものが多い。「うがち」は、その後の日本の俗芸術ーギャグマンガや、パロディーや、ギャグそのものに、大きな影響を及ぼした。より強い言葉で言うなら、日本的なギャグマンガの萌芽が、江戸時代の「うがち」にあるといってよい。
江戸時代に「俳句」から転じて成立した「川柳」(せんりゅう)は、季語や、前の句取りなどといった規制がない、よりフリースタイルの文芸であるが。「うがち」はそのような文芸の世界から始まり、「浮世絵」や「歌舞伎」、さらに江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本「草双子」のひとつ「黄表紙」で、その特筆すべき効果が伺える。
F-3 黄表紙
「黄表紙」は、古典をもじり、洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴ったもので、庶民の文芸として数々の名作がうまれた。
一枚絵の「浮世絵」がイラストであれば、「浮世絵」は人が演じるアニメ。2.5次元舞台のようなものだが、「黄表紙」は、読み切りのギャグマンガだと言えるだろう。
→ 恋川春町『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)
これら「黄表紙」の作品も、現代に通じる日本の俗芸術的素養を強く持っている。「黄表紙」には、吹き出し、ト書き、ウイットに富んだ註釈などが随所に書かれていて、現代のマンガと変わらない要素が数多く見られる。
なぜこのような「うがち」や「見立て」が発達したかというと、江戸の庶民文化ー俗の側の芸術は、封建社会という武士による圧政の中で成立したためであろう。政権批判、俗の逆にある「雅」ー貴族文化を批判したり、ひやかしたり、愚弄することが、極度に禁じられていて、死罪にさえ処されるのである。それゆえ、どのようにして比喩するか、置き換えるかといった思考が働き、「うがき」、「見立て」といった芸術表現が成立して、発展していった。
ギャグや、ダジャレ、パロディなどが、日本独自の俗文化として成立した理由もこれに、大きく由縁している。
G 江戸庶民の俗芸術 まとめ
かいつまんで、江戸期の民間芸術について論考してきた。(文字数の都合で浮世絵に関しては別途記載した)
江戸時期に成立した芸術、それも民間・下俗の中で培われた芸術は、他に類をみない特性を獲得した。
現在の日本の美術、または日本の芸術の根底には、この時代に成立した芸術的特性や構造が通底している。
江戸時代の芸術とは、俗悪の思想により成立している。
すべてのものが、快楽や娯楽—欲望的なエネルギーに突き動かされ、なんでもありの—俗化・美俗の極みと言えるような、毒々しい輝きを放つものとして成立して、さらに永続的な持続性を獲得した。
一方で、そのような俗悪のものを権威的なものとして祭り上げて、伝統芸能、歴史的美術とするほど、この国には、それ以外の芸術が成立しなかったという事情が透けて見えてくる。
・俗の極み ヤンキー美術の熟成 !?
前回の講義「中世編」の最初に書いた通り「永く他の文明と接する機会がない孤立した文化では、技術や思想の多面的進化がおこらないまま、文化の促進が停滞すると考えられるが、その一方で伝統的技術や思想が洗練されていく。」(*参照:加藤周一「日本その心と形」P24)
300年もの長きにわたり鎖国されたまま、平和な時代を送り続けた江戸時代、その都市は、まさしく伝統的技術や思想が洗練され続けた。(江戸は俗芸術のガラパゴス!)
それは「穢土思想」という死や動乱の現世を怖れ悲しんだ「中世」から続く「畏怖と畏敬」の延長で成立した、民衆による俗の文化であった。
「穢土」から「江戸」へ、中世から近代へと時代が移りかわると、それまでとは異なる、緩い空気によって培養されたような日本の江戸独特の芸術が数多く作られた。
それら庶民の芸術は、憂き世(浮世)と言われた。どうなるかわからない明日を考えるよりも、今を楽しもうとする江戸時代的思考、すなわち、「宵越しの金を持たない」のが「イキ」だとされた思想が強く反映している。
中世の穢土思想では、「この世は穢土であるから、死んだら素晴らしい浄土に行きたい」と考えられていたが、江戸時代は、「どうせこのままなのだから、好き放題楽しもうぜ」的な、憂き世思想が庶民の間で主流となり、そのような時勢は、芸術一般に広く影響を及ぼしたのだ。
江戸時代を通して「かぶく」や「いき」「うがち」といった、やんちゃで、斜に構えたような美意識が誕生して育まれていった。
これは世界的にも稀な、俗悪なセンス、それこそヤンキー的な美意識だといってよいであろう。
滑稽で、毒々しく、物事をななめに捉えるような、日本の俗美術が江戸時代に成立したのだ。
江戸時期に完成する日本的俗悪の思想と娯楽性は、その後の日本、昭和から平成、今日へと、受け継がれ、さらに洗練されて、悪しき純度を増している。
次回、「明治・大正期を越えて、昭和の敗戦後に再び蘇生される日本の世俗的芸術—ヤンキー芸術の現在」へと、江戸期に完成された、これらの俗芸術の特性が受け継がれていく。
主に昭和、(明治大正、戦前という、時代を経て)、新たに江戸時代の一部として、返り咲いたような時代の「俗芸術ーヤンキー文化」について、次週は論考を進める。
10000文字+
いつも通りのルールで、今回の講義についての小レポートの提出をお願いします。5/15㈰の24時〆切です。
みなさん、テキストにも、学科名、学年、名前書いてくださいね。