第3話 正義とは
陽はすっかり沈み、午後八時のノーズノースは相変わらずの雪が降り注いでいる。
着慣れない黒のイブニングドレスに身を包んだロゼは、エドウィン邸を訪れていた。門衛にシーリングスタンプが捺された招待状を見せると、彼らは門を開けてくれた。
――誕生日パーティーは、行かない方がいいと思いますよ。
明るい時間帯に聞いた、レンの声が脳裏を掠める。
あれからずっと、正義について考えていた。罪人を罰する、弱者を守る。それが正義だと生まれてから二十二年間、そう思っていた。
けれど彼の言うことに一理あると思うのも、事実だった。
昨今の警察組織は腐敗が進んでいる。汚職が新聞の一面を飾ることだってあるし、ラジオでもそうした内容を皮肉った番組がある。
(違う。私は……間違いなんて)
邸宅に入ると、多数の人間がいた。企業の役員クラスの者と思しき人も見受けられる。
ロゼは以前エドウィンの落とし物を拾い、届けたということがあった。中身は見ていないがなにかの封書で、彼は感謝を口にし、是非にと誕生日パーティーへの招待状をくれた。
自分も今年で二十二だ。いつまでもティーンの気分ではいられない。世間体も考えるならそろそろ結婚相手を――そこまでは難しくとも、恋人の一人を見つけたい。流石にエドウィンを落とすことは無理だろうが、多少の憧れは少なからずある。
「どうぞ、サービスです」
「ありがとう」
ウェイターからワインを受け取り、一口貰う。酒はあまり好きではないが、付き合いで飲むくらいのことはできる。
ホールの壇上ではエドウィンが市長、市警本部長のネルソンと親しげに会話をしている。割って入ることは難しい。
と――
(え……)
途端に、平衡感覚がなくなる。貧血だろうか。わからない。視界が歪み、瞼が重くなる。
意識はそこで、途切れた。
◆
「……ん……ん……?」
頭が痛い。くらくらする。
「ッ……」
なにが、とは言えないが、ロゼは咄嗟に立ち上がろうとした。けれど足がもつれ、転倒してしまう。見れば足はロープで縛られ、腕も後ろに回され拘束されている。
明らかな犯罪だ。市長は、ネルソンは、エドウィンは無事だろうか。
(これがレンの言っていたこと? 犯人は――)
「やあ、お目覚めかな」
耳に心地いい美声がして、ロゼはそちらを見た。ガス灯もなにもかもが消えていて、燭台に灯されたロウソクだけが光源だ。その橙色の炎に照らされているのは、エドウィンでほかならない。
彼は拘束されておらず、衣服にも乱れがない。
「ご無事ですか、エドウィン様」
「ああ」
「逃げましょう。ここは危険です」
「逃げる? 逃げる必要なんてないよ」
ひどく落ち着いている。その態度に違和感を覚えた。
「……なにが、あったんですか」
「もう少し眠っているものと思ったのだがね」
そこに、聞き慣れた上官の声がした。ネルソンだ。
「本部長! 大変です! これは……なにが起きているんですか!?」
「エドウィン様、鍵は用意できました」
「ありがとう、ネルソン」
「鍵……出られるんですね? みんなの縄をほどいて――がッ」
能面のような顔つきのネルソンが、拳をロゼの腹に食い込ませた。体を折って、絞り出された空気を取り込もうと肺が暴れる。
「君は本当に優秀な子だ。正直、目障りだよ」
「……なに、を」
「この街の……いや、ローゼスの伝説は知っているだろう」
エドウィンは朗々と語り出す。
「遠い昔、冬の魔女がこの地を呪った。悪しき冬の魔女は天寿が尽きるまで悪逆の限りを尽くし、そして死してなおもこの地を雪で閉ざした」
「それが、なんなんですか……?」
「けれどね、本当は魔女は雪ではなく、もっと別のものを降り注がせたかった。そのために魔女は作り出した。……冬の獣を。それによって降り注がせるもの。それは……」
エドウィンは口が裂けるほど大きく口角を持ち上げ、
「血の雨だ」
直後、ズドン、と凄まじい音がした。シャンデリアが落下し、それがネルソンを直撃する。
「本部長!」
飛散した破片がロウソクの火できらきらと輝く。
「やはり来たか。隻眼」
エドウィンが口を開く。
すとん、と降り立ったのは、昨日と今日の昼間に言葉を交わしたハンターの男。彼はナイフでロゼの拘束を解くと、落ち着き払った態度でエドウィンに接する。
「エドウィン、と言いましたか。この地に眠る冬の魔剣を開放したんですね」
言われて、ロゼも気づいた。エドウィンの腰には一振りの剣が差してある。
「これは鍵さ。この地に眠る魔獣を目覚めさせるための」
「目的はなんです」
「……お前は食事を摂ることに、いちいち理由をつけるのか?」
「快楽殺人ですか。そんなに人を殺したいのなら、軍にでも入ったらどうです」
「交戦規定に縛られるのでは、殺しは楽しめない」
「待って! どういうことなの? エドウィン様は……本部長は……」
レンが口を開く。
「市長とネルソン、エドウィンはグルですよ。こいつらは魔獣を呼び起こすために、その鍵となる魔剣を開放したんです。多くの人間の血と魂を代償にして」
「そんな……」
「君が捕らえた罪人も、生贄に使われた。更生の余地があったかもしれない人をね。ロゼ、君も知らなかった、では済まされないんだよ」
「私がしてきたことは……間違っていたっていうんですか!? 私は……ただ、犯罪をなくそうとしてただけなのに……」
「その理念は立派だよ。でも君には主体性がなかった。正義という
「……悪を、断罪すること」
「及第点だ。正解はね――」
レンの体から、異質な気配が立ち上る。
三つ揃いの上から蒼黒い『剣』のような器官が生まれた。右腕を覆うそれは、硬質なことを物語るように燭台の明かりを反射する。
「――『正義なんてない』、だ。ただそこに、その人の意思がある。それだけの話さ。或いは意思の数だけ正義がある、とも言い換えられる。正義がないことを認めること。それができなきゃ、悪を定義することも、罰することもできはしない」
振り返ったレンの左目。
「……隻眼」
我知らず声が漏れていた。
レンの左目は白目部分が黒く染まり、魔人のようになっていた。しかし瞳は蒼いままで、魔人と言い切るには少し違うなにかのように思える。
「エドウィン。お前は、お前の命はいくらだ」
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