三橋喜久雄(みはし・きくお)・鳥取の偉人
鳥取県高草郡内海(鳥取県鳥取市白兎)生まれ。
明治21年(1888)10月20日‐昭和44年(1969)9月24日 80歳
体育家、体育指導者、体育思想家。
スウェーデン体操を改良した「三橋生命体操」を創案してその普及につとめた。
私財を注ぎ「三橋体育研究所」を創設、日本の学校体育の基礎を創りあげるとともに、多くの体育指導者を育てた。
「一芸に通ずるものは万芸に通ず」の信条のもとに日本体育・体操の樹立に生命を注ぎ、「日本体操の父」「体育の父」と称される。
明治42年(1909)鳥取師範学校(現鳥取大学教育学部)を卒業し小学校の教員となるが、文部省検定試験に合格して体操科中等教員の資格を得て、明治44年(1911)母校の鳥取師範学校教諭となった。
『新聞に見る山陰の世相百年』(山陰中央新報社)
三橋喜久雄の体育生活は、鳥取市白兎の海岸で始まった。
その自然の恵みの中に生きることが、のちの「体育即生活論」の基礎になったものと思われる。しかし、三橋の体育における開眼は、明治38年4月の鳥取県師範学校への入学によるものである。そのころの体育は「体操」といわれていた。そして体操には「普通体操」と「兵式体操」の二つがあった。棍棒や亜鈴などをふりまわすのが普通体操であり、軍事訓練を行うものが兵式体操である。そして、師範学校の体操の目的は、単に体育技術の訓練をもって足れりとするものではなかった。
身体の発育をはかり、健康を保持し、そのうえに「生徒ノ気質ヲ鍛錬セシムルヲ以テ目的」とするものであった。三橋喜久雄の口ぐせは「精神的」ということであったというが、そのもとは師範学校の生活にあったと見ることができる。
三橋喜久雄は、師範学校卒業後の2年後に、体操科の教諭として母校に帰って来た。若い三橋は向学心に燃えていたから、英語の授業時間に生徒の中に入って講義を聞くようなこともあった。五尺ハ寸(約176センチ)といわれた大男の三橋は、ギリシャ彫刻が動き出したようだ、といわれる立派な体格であった。師範学校の生徒たちは、三橋喜久雄の中に体育教育理想の生きた姿を見るように思った。そして、鳥取範学校の中には体操熱が燃えあがった。
鳥取県百傑伝―近代百年学校体育の研究に熱中していた三橋に、大正2年(1913)転機が訪れた。文部省視学官として鳥取師範学校を視察していた東京高等師範学校(現筑波大学)主任教授・永井道明が三橋の創造的研究態度と実践力に注目し、その体育授業を絶賛したのである。
三橋を将来体育人として活躍せしめるようになった決定的要因について、概括的に窮明してみれば三つの転機が考えられる。
その一つは、師範学校卒業の翌年に、早くも師範学校、中学校、高等女学校体操科教員の資格獲得、即ち文部省検定試験に合格したことである。
・・・彼は小学校教師に青春的生命をかけていたが、その教育を真に確実なものにするには、人間の健康を捨離しては砂上のろう閣に等しいとして、それ故教師になってからの彼は、単なる若き生命力の赴くままの体育実践ではなく、あくまで教育としての体育に徹し、且つそれを熱愛して、非凡な理論研究と強烈な実習を教師生活の中に展示し続けた。
彼のこのひたむきな情景をつぶさにみた当時の恩師鉄本氏は、彼に文部省文検受験を強く勧めた。この恩師の切なる勧めに対し、余り希望ではなかったが、遂に文検受験に応ずることになった。従って、彼の文検受験に対する心的態度は、あくまで彼の小学校教師としての立場と使命を崩さないで、体育生活、研究をより深大にすると云う手段的一契機であった。
しかるに、この文検合格と、それに加えて、彼の超人的日常の体育研究と驚異的実践活動という具体的事実が翌年即ち1911年(明治44年4月)鳥取県師範学校教諭に抜てきされる因由となった。かくして、いよいよ彼は、体育専門家への道を雄々しく歩むことになった。
永井の勧めにより、大正3年(1914)26歳の若さで東京高等師範学校の助教授に抜てきされた。
官学の一教官として文部省制定の学校体操教授要目(現指導要領)の研究の傍ら、自らの独創的研究の結果「三橋生命体操」を編み出す。
その理論と実践活動を通して日本の学校体操界に革新的な新風を生みだした。
鳥取県百傑伝―近代百年大正10年(1921)~大正13年(1924)文部省海外留学生として欧米各国に派遣された。
彼を体育人へと導いた第二の要因は、日本学校体育のメッカ、東京高等師範学校の助教授に、若くして就任したことである。1914年(大正3年12月)のことである。
我が国の学校体操教授要目が公布されたのは、大正2年1月のことであるが、当時その立案作成の責任者は、東京高等師範学校主任教授永井道明氏であった。たまたまこの永井教授が大正2年1月文部省視学官の資格で鳥取県師範学校の体育視察に赴き、その際、2日間にわたって三橋の体操授業を詳細に視察すると同時に、彼の所説を客観的立場で十分きいている。その結果、永井氏は自分の責任において制定した教授要目を、日本的に普及展開せしめるためには、絶対に三橋をかような片田舎に放置しないで、彼を中央の然るべき地位に就ける以外にないと判断したものと思われる。
文部省の直轄学校である東京高師に着任した彼は、より高い体育研究の場を得て、全生命を体育研究実践に傾注することになった。しかるに、彼のかかる研究が深奥になるに従い、教授要目にみる系統性の不備と、要目に流れる体育思想の貧困性、それに学習内容の低劣性などに着目し、遂に要目それ自身を厳しく批判し始めた。
他方、自らの研究の成果としての三橋生命体操を、官学の真只中において実践展開したことが、文部省と鋭く対立することになった。かかる情勢になれば、彼に対する陰陽にわたる幾多の拘束、迫害、弾圧が国宝権力の立場で加わったことはいうまでもない。
しかしながら、彼は徹底して彼の信念をつらぬき通し、文部省という国家権力の造反者になったけれども、このことは、彼が高師に招かれた前後の事情からみて、誰一人として予測し得るものでなかった。しかし彼のこの研究実践に対して、当時全国の青年体育教師を初めとして、深く真剣に体育研究をなしていた多くの体育人から計り知れない支持と共感を得た。その結果、大正4年頃から大正10年、彼が欧米遊学に出発するまでの数年間、日本体操界は言わば保守派と革新派の対立で騒然となり、体育思想を巡って混乱の一時期を劃している。
留学中とくにスウェーデンに1年余り滞在、中央体育研究所に入所しその研究と実践の成果は帰国後における三橋体育研究所創設の基となった。
鳥取県百傑伝―近代百年三橋生命体育・体操の根本理念は精神と身体の一体論に立ち、その基本理念は「精神を捨離した肉体の領域から、精神化した生きた身体へ」である。
彼を日本最高の体育人へと導いた要因の第三は、欧米留学4ケ年の成果にあると思う。文部省検定試験応募と、東京高師助教授就任の二つは、彼自身の真意ではなく、止むなく引き受けたという受動的なものであった。
しかし欧米留学に対してはこれとは反対に極めて意欲的であった。
大正10年9月、文部省海外留学生として欧米在留を命ぜられているが彼のこの留学には悲壮なまでの決意と並々ならぬ意欲が感ぜられる。
従って、単に視察的であったり、留学中形式的な研究の文書的まとめの労作などというものではなかった。アメリカを初めとして多くの先進国の大学に入学し、彼の地の学生に伍して、真実の学生生活を体験しながら、体育研究に凡てを傾倒していた。彼の高い研究業績と積極的行動的なスポーツ実践の実態に対して、多くの学生が敬意と賞讃を借しまなかったようだ。その国の一市民一学生として純粋にして素朴な研究態度は、彼に体育文化の何であるかを身を以って体験せしめる契機となっている。
・・・
彼の体育立国、体育政策、将又国民体育に関する初期の思想に相通じ、共鳴同感をもったのはスエーデンの体育政策とその成果であろう。それ故、首都ストックホルムにおいては、中央体育研究所の第二部指導者養成所に入学し、一学徒として1ケ年、体育理論と実技の履修に全生命をかけた感がある。彼は第三番の優秀な成績で卒業しているが、この卒業式には異例のダスタフ五世が臨席して、日本の若き学徒三橋の人間性と研究成果を讃えている。尚、亦日本の畑公使並に公使館員の家族までが総出で列席し、この三橋の晴れを祝福している事実でも判断できる。
彼は4ケ年の留学を終えて大正13年帰朝しているが、マルセイユから神戸上陸の凡そ40日間の船中で、日本の将来の体育の進むべき方途、日本人の体育的健康の永久性のある研究労作は、如何にすべきかなど幾多の事柄を熟考し続けている。その結論の一つが体育研究所創設の一大事業であった。
当時としては極めて革新的なこの理論が、全国の体育指導者から注目され、多くの支持や共感を得て、この優れた体育思想の具体的な展開に生涯をかけた。
昭和2年(1927)私財を注いで東京世田谷に三橋体育研究所を創設、三橋の主張に賛同するものが全国から参加した。月刊雑誌『真体育』を創刊して所員の研究を公表し、また、全国各地で講習会を開催、指導者の養成につとめ、「三橋生命体操」はわが国体操界の主流となった。
とくに、郷里鳥取の学校体育指導者で、三橋体育研究所の門をたたかなかった者はいないとまでいわれている。
『新聞に見る山陰の世相百年』(山陰中央新報社)戦後は、明治大学、早稲田大学の教授として学生の指導に当たり、昭和27年(1952)には、横浜市立大文理学部長に迎えられ、後進の指導に力を注いだ。
そのころ、スウェーデンに発達した新しい体操が入ってきた。鉄棒・跳び箱・マットなどを使う体操である。そして、文部省も「教授要目」の改正をした。そんな時に、三橋は東京高等師範学校の助教授に任用されることになった。東京高師の永井道明教授が、三橋の協力を得て日本の体操界に新風を送ろうとしたのである。
永井と三橋は、東京で講習を開き、全国を指導に歩いた。とくに三橋は、夏と冬の二度にわたって鳥取県に帰り、県内の指導者を集めて講習会を開いた。三橋の講習は、受講者と寝食を共にし、すべてをその先頭に立って実行してみせるものであった。三橋の点火によって、鳥取県の体操界は燃えた。那岐小学校(八頭郡智頭町)のような日本一といわれる体操学校ができ、それに並ぶ小学校が続出した。そして国の内外から視察者が詰めかけた。鳥取県の体操教育を学んで帰る時代が来た。
三橋は、明治、早稲田、慶応などの大学でも体育の指導につとめながら、鳥取県の体育指導者の養成を支援した。鳥取県は体育県だ、といわれる時代の成立は、三橋の力なくしては考えることができないだろう。
昭和36年(1961)日本体操協会長に推され、世界最強の日本チームを育てあげ、日本体操界の黄金時代を築いた。
『日本体操協会60年史』(日本体操協会)“官”をきらい“野”を好み、この信念で生涯を貫いた。
会長に就任されてからは、一期という短い期間ではあったが、体操競技の発展を基本にしながら一般体操にも力を入れた。職場体操を奨励し、演技発表会を盛んにするなど、その普及と発展に努力された。
戦後の日本の体育は軍国主義の払拭であり、民主主義の育成のため、これまで盛んであった体操は影をひそめ、それに代ってスポーツが奨励され隆盛を極めた。そうした中にあっても、体操に対する信念、体操への愛情と情熱にはいささかの変わりもなく、体操一筋に徹していた。
久しく国民に馴染まれ、親しまれてきたラジオ体操も、中止の運命にあった。そこで、日本体操協会が中心となり、藤沢薬品工業株式会社の後援を得て、「リズム体操」を作成して全国24局のラジオ、テレビの協賛、文部省の後援を得て放送し、その普及を図った。しかし、国民が実施するまでの条件が整備されず、気運が熟さないままに終わった。
その後、ラジオ体操復活の声が全国に高まり、新しく第1ラジオ体操が作成され、次いで第2ラジオ体操の原案を作成したのが三橋会長であった。その他、産業体育に造詣が深く、多くの職種に適応した体操を作成して直接に指導された。それだけに止まらず、職場体操の発表会を行うなど、今日の一般体操発展の基礎をつくられた功績は、まことに大きいものがある。
会長を勇退されてからは、名誉会長として協会の発展のために努力し、また社団法人「健康体操クラブ」の理事として先頭に立ち、国民の健康づくりに全国的な普及活動に尽くされた。もともと体育立国論者であり、健康体操の研究者として知られ、体操に対する情熱は少しも衰えず、天命とまで信じて活躍された。
著書に『体育即生活論』『現代の学校体育』『体操の学習』などがある。
鳥取県百傑伝―近代百年
不出世の体育思想家、体育理論並に実践家、体育政策家、将又計り知れない偉大な企画性と創造性、それに批判性、限りない闘志闘魂等々、かように生前の三橋喜久雄の性格や、秀れた各分野の能力、労作を拾い求めて羅列してみても、到底彼の人間的一生の足跡や業績を充たすことはできない。
三橋喜久雄胸像(鳥取市民体育館前庭・鳥取県鳥取市吉成3-1-1)
ランニング姿の三橋の胸像が立つ。
日本体操協会ウェブサイト
デンマーク体操の歴史
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