哲学と社会学を架橋する--ハーバート・ブルーマーを科学哲学として読む--
桑原司 Kuwabara Tsukasa(鹿児島大学法文学部教授)
シンボリック相互作用論(以下、SI)を研究する者にとって、ブルーマーの論考は避けて通ることの出来ない必読文献である。そして、そのブルーマーの論考を研究する者にとって、マーティン・ハマーズリーのブルーマー論を看過することは出来ない。評者が院生時代に当時の指導教官であった船津衛氏から受けた助言である。ブルーマー自身の論考については既に4点の邦訳があるが、ハマーズリーの著作の邦訳は(訳者解題によれば)本書が初である。
本書の目的は、ブルーマーが提起する「質的社会調査のジレンマ」の解決可能性を探ることにある。すなわち、社会的世界における主観的要素の把握を科学の要件を満たした上で可能にする方法とは如何なるものなのか(そもそもそのような方法は存在するのか)を問うことが本書の主題となっている(導入)。ブルーマーの思想に対しては、大別して五つの知的系譜が大きな影響を与えている。一九世紀の哲学思想、就中、実証主義、歴史主義、新カント主義(第一章)。さらに強い影響を及ぼしているのが、「現象主義」と「自然主義」という二つの観点から特徴づけられるプラグマティズム――ここでハマーズリーは、クーリーの影響を特に強調する――(第二章)。そして最も強い影響源となっているのが(初期)シカゴ社会学である。本書第三章では、トマスとズナニエッキの『ポーランド農民』が、客観的要素と主観的要素の双方を把握することが社会学の必要条件となること、主観的要素の把握に際しては個人文書の活用が有用であること、この二点を示したこと、そしてこのモノグラフの批評を通じて、本書のターゲットとなる「ジレンマ」をブルーマーがはじめて明確に提示したこと、シカゴ社会学第二世代の重鎮であるパークが一次的観察――「経験を通じて勘を研ぎ澄ま」すこと――を強調し推奨したこと、パークらの理論枠組がシカゴモノグラファーたちにとっての白地図として機能したこと、などがまず論じられている。続いて、シカゴモノグラフの典型例としてゾーボーの『ゴールド・コーストとスラム』が挙げられ、今日のエスノグラフィーの主要素である参与観察が端役にしかなっていないこと(例外的な存在としてクレッシーの『タクシーダンス・ホール』など三点が挙げられている)、方法論的洞察に関する情報が僅少であること、この二つの特徴がブルーマーによるこの時期の経験的研究にも当てはまることなどが述べられている。一九二七年に文化遅滞仮説で有名なオグバーンがシカゴ大学社会学部に赴任する。これを契機として、シカゴ大学社会学部の内外において事例研究(≓第三章)と統計的方法の間の方法論的対立が明確化してゆく。第四章では、統計派に立つ社会学的実証主義者であるランドバーグの思想と、事例派に立つマッキーバーとズナニエッキの言説に焦点が当てられている。ランドバーグが、現象主義の観点から、社会的世界の存在論よりも認識論を優先し、研究者間の間主観的合意を根拠として、統計的方法(量的手法)の相対的メリットを強調したのに対して、特にマッキーバーは、実在論的観点から、社会的世界における主観的要因の存在を強調し、認識論よりも存在論を優先させ、事例研究を擁護し量的手法の相対的デメリットを強調したことなどが示されている。第五章では、ブルーマーが量的手法を批判し、限定概念の使用を退け、感受概念の使用を推奨した言説が検討され、その言説が、実在論、SI、批判的常識主義という三つの想定に依拠していることが指摘される。第六章は「ジレンマ」の詳述に充てられている。社会学はその探究において、客観的要素と主観的要素の双方を補足しなければならないが、後者の要素を捉える手段としては個人文書の活用が有用である。しかしこの文書は科学の基準(代表性など四点)をクリアする検証手段たり得ない。これが『ポーランド農民』の批評を通じてブルーマーが提起したジレンマの内実である。ブルーマーが社会学・社会心理学の手法として推奨する自然主義的調査とは、一九二〇年代~三〇年代のシカゴ社会学のモノグラフをモデルとするものであり、「社会的世界の価値ある理解」を生み出すことをその目的としている。とはいえブルーマーは、この調査方法については極めて概略的な説明しか行っていない。そこでハマーズリーは、ブルーマーの説明を補うべく、分析的帰納法、グラウンデッドセオリー、説明のパターンモデルの三つを俎上に載せる(第七章)。自然主義的調査は「ジレンマ」を解決し得るのか、もし解決し得ないとすればほかにどのような解決手段があり得るのか。この問いに対する回答を第八章は試みている。第八章においてハマーズリーは、前章で検討された三つの手法のいずれもが十分な解決方法たり得ないことを示した上で、「科学の再定義(仮説演繹法の放棄)」と「SIの放棄(修正)」という二つの代案を提示して本書を締めくくる。
本書においてハマーズリーは、仮説演繹法とSIの存在論の双方を満たす解決方法をまず以て優先的に探求しているが、この方針にそもそもの無理があるのではないか。本書をブルーマー研究の二次文献として捉えるならば、評者はこのように考える。というのも、SIの存在論に適合的な感受概念(法)とは、実のところ自然主義的調査の別称であり、そのため、限定概念の使用を前提とする仮説演繹法を採用することは、畢竟するにブルーマーの方法論を全否定することを意味するからである。しかし本書を、ブルーマー研究の二次文献としてではなく、ハマーズリーの思想を理解するための一次文献として見るならば、むしろ強調すべきは次のことであろう。すなわち、本書が《社会学と哲学の実りある相互浸透》を促す可能性を大いに包蔵した文献である、という点である。本書(訳文、訳注、訳者解題)の読了は、少なくともこの点を読者に強く印象づけるはずである。