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カスタマイズとコミュニティ

ジェネレーションXの時代

Seibun Satow

 

“We look before and after;

We pine for what is not”.

Percy Bysshe Shelly “To a Skylark”

 

 カナダの作家ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)は、1991年、処女作『ジェネレーションX ─加速された文化のための物語たち(Generation X: Tales for an Accelerated Culture)』を発表する。これは商業主義に毒された都市を逃れ、モハベ砂漠で暮らす三人の男女を描いた現代小説である。

 マガジンハウスで勤務したことのあるこの作家による作品の構成は独特である。本文と皮肉めいた註が併記され、最後に労働人口推計などの数値が付けられている。しかし、これはほぼ10年前に日本で発表されたベストセラー小説『なんとなく、クリスタル』と類似している。さらに、主人公たちの姿勢は違うものの、商業主義批判という作者の意図も共通している。

 このジェネレーションXは、作品内では、1960年代に生まれた層を指している。しかし、その後、この呼称は小説から独立して一般に普及していくうちに、70年代生まれも含むようになっていく。クープランドは、その世代を「グローバル・ジェネレーション(Global Generation)」と命名していたものの、こちらは浸透していない。

 ジェネレーションXは、実質的に、ベビー・ブーマーの次の世代にあたる。ロナルド・レーガン政権下で、思春期を迎え、選挙権を手にし、東西冷戦の終結後、社会を担い始める。そんな彼らに対するイメージは、政治的にはノンポリで、連帯意識がなく、シニカル、反権威主義的・反商業主義的な態度、無気力、何を考えているかわからない若者である。しかし、それは現実世界が理解することさえおぼつかないほど複雑化し、不可視化が進んだための反応と見るべきであろう。ベビー・ブーマーが公民権運動やベトナム戦争反対、女性解放など打ちこめる明確な理想がああったけれども、ジェネレーションXは、敵が見えにくくなった時代に、自分を探し、情熱を傾けられる大義を求めてもがいている世代である。

 ベビー・ブーマーは、東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスの下、パックス・アメリカーナ、すなわち未曾有の豊かさと狭量なマッカーシズムに覆われたな社会で成長している。その彼らが60年代に入り、怒れる若者と化して、社会に抗議の声を挙げ始める。経済的に恵まれた環境で育った子供たちがなぜそんな行動をとるのか親たちには理解できない。しかし、彼らの反抗に理由がなかったわけではない。軍隊的な社会の空気に対し、自由を求めている。戦争中、程度の差はあったものの、各国共に国家総動員体制を敷き、老若男女を問わず、人々を戦時体制へと組みこまれる。それは一部の人々の間でのみ共有されていた「軍隊的な感覚」が国全体へと行き渡る契機となる。冷戦というイデオロギー的な戦時体制はこうして維持される。

 森毅は、『景気の還暦』において、戦時体制が戦後に与えて影響について、次のように記している。

 

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。

 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。

 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。

 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。

 

 さらに、御厨貴も、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 

 この状況は日本だけでなく、ある程度、参戦国の間で共通している。「軍隊的な感覚」が戦後を支配したのであり、経済発展もその産物である。ベビー・ブーマーの反抗は、そのため、国境を超えて類似し、時に、連帯している。

 しかし、東西冷戦の終決後に次々と社会人になっていくジェネレーションXにはそうしたvisibleな敵はいない。彼らの生きている時代はinvisibleであり、主観的を通り越して、独善的でさえある。

 ベビー・ブーマーにしろ、ジェネレーションXにしろ、アメリカの戦後に登場した世代の中心は郊外に住む白人の中流層である。それは彼らの悩みが曖昧だからである。下流層の場合、その悩みには貧困という極めて具体的な政治的・経済的・社会的問題が影を落としている。また、上流層の苦悩は、世間体と内実、権力と欲望といったこれまたつかみやすいものの葛藤・矛盾から派生している。近代社会はピラミッド型ではなく、正規分布的な所得の人口構成を目指す以上、中流が近代社会を最も代表し、彼らの消費が資本主義社会を再生産している。進学して、何かしらの熱い思い出をつくった後、そこそこのところに就職し、結婚して郊外にみんなと同じような住宅を購入する。金も物もまあまあ持ち、人並みの生活を手にしている。それは描いていた夢と言うわけではないけれども、築いてきた等身大の理想なはずだが、どこか心が満たされない。昔はあれほどしゃべっていたのに、今は気がつくと、じっと黙っている空白の間が生まれている。毎日同じような繰り返しの中で老いていくのだろうとふと思う。そこには将来がない。過去のリサイクルばかりしている。もしもあのときに別の選択をしていたら、違った人生になったかもしれないと考えないこともない。こうした将来のなさと代用の意識を内部に秘めた普通の人々こそは近代小説の主人公である。そんな彼らが同時代的に社会をゆさぶってきたのが第二次世界大戦後の歴史の一側面である。

 ジェネレーションXへの先入観が覆る出来事が起きる。199911月、WTOの総会が開催されるシアトルは、グローバリゼーションが環境破壊と世界の均質化を招くと抗議する若者たちによる5万人規模のデモで埋め尽くされる。シアトル市警はこうした大規模なデモをまったく想定しておらず、投票にさえろくに行かない若い連中が政治的行動を始めるわけがないと高をくくり、とんだことになったと慌てふためく。投票しない有権者など政治家は無視ないし軽視し、支持者の利益を優先して政策に反映させようとする。既成の二大政党は、大企業から献金を受け、商業主義に毒されている。しかし、ジェネレーションXは「消費は美徳」と商業主義に洗脳されてきたという自覚がある。『ジェネレーションX』も、「ぼくはテーゲット・マーケットじゃない」や「買物は創造ではない」、「買った経験は数に入らない」といった反コマーシャリズム的なフレーズに覆われている。そんな政治に参加したいとは思っていないだけだ。

 近藤康太郎は、『「ジェネレーションX」の反乱~デンバー』にいて、1999年のジェネレーションXの反乱について次のように述べている。

 

 現状に不満がある。でも投票はしない。そんな二〇代から三〇代前半中心とした「ジェネレーションX」と呼ばれる人々は、政治の「つけ」を回される世代でもある。ベビーブーム世代が退職する時期が近づき、各種の年金や高齢者・貧困層向け公的医療保険は破綻の危機にある。一方で、インフラ整備や教育にかける連邦予算は、二〇世紀最後の四半世紀で一〇パーセントも減っている。

 「ジェネレーションXは最も少ない公的サービスのために、最も高い税金を払わなければならない世代、ということです」

 ワシントンにある研究機関ニュー・アメリカ財団のテッド・ハルステッド理事長は、そう指摘する。

 ハルステッドによれば、ジェネレーションXの政治行動は「従来型」のものでは測れない。

 「投票率や政党の集会への参加は確かに減っている.だが、地域のボランティアやデモ、商品ボイコットなど、新しい政治参加の意識は高い」

 シアトルやワシントンで突如として表われたかに見える、一九六〇年代そのものの「反抗する若者」は、実は長い間に準備されてきた現象だ。

 アライオも投票には行ったが、一票に大きな思いは込めなかった。

「むしろ私たちが本当に持っている『票』を生かそうと思う。それはお金と行動力。問題のある大企業の商品を買わない。インターネットを使って抗議行動を組織する。態度と行動が私たちの『票』だと思っているんです」

 

 ジェネレーションXが政治に関心を示さなかったのは、「合理的無知(Rational Ignorance)」の好例だと言える。アンソニー・ダウンズ(Anthony Downs)は、『民主主義の経済理論』(1957)の中で、「民主主義国における政治の政策には、ほとんどつねに反消費者、生産者支持の偏向が見られる」と言っている。ダウンズは政治的市場も、経済的市場と同様、すべてのプレーヤーは自分の利益の拡大を狙う合理的存在である前提から出発する。普通の人々は身近な出来事や直接関係することにはさほどの労力も払わなくても情報を入手できるが、それ以外に関しては誰かから伝えられない限り、知ることは困難である。政治はその典型だ。政府・与党が何を主張し、どのような政策を実施しようとしているのか、また野党がどこを批判しているのか、そもそも今いかなる政策が運用されているのか、そうした政治の動きが自分の生活にどう影響を及ぼしているのかはさまざまな手段を使って情報を収集・分析しなければわからない。しかし、それには時間もコストもかかり、一般の人々が生活と両立させることは非常に難しい。かりにそれだけの手間暇を費やして政治に精通しても、その個人の声を聞き入れることが支持率の上昇や選挙での勝利につながるとは思えないので、政府・与党が政策決定の際に、考慮する可能性はまずない。有権者として選択肢がない。ハイリスク・ノーリターンであるため、多くの人々は政治を詳しく知ろうとせず、合理的な選択として無知であることを選ぶ。ジェネレーションXは、こんな閉塞感から、政治に対し背を向けている。

 インターネットの普及はこの合理的無知である必要性を減らす。ネットを使えば、少なくとも、情報収集の点ではコストはあまりかからないし、また連帯するのにも手間要らずだ。しかも、ネットは何事にも手を加えたいというジェネレーションXの願望を可能にしてくれる。商業主義への嫌悪がある彼らは、政治運動でも、お仕着せのレディメイドを嫌う。自分なりにカスタマイズせずにはいられず、それは自己表現でもある。ネットは彼らにとってエクスカリバーである。ベビー・ブーマーの政治運動が参加型民主主義への希求だとすれば、ジェネレーションXはカスタマイズ型民主主義を志向していると言える。

 けれども、ジェネレーションXは素人の手法で政治参加をしているわけではない。メディア・リテラシーにも通じ、コミュニケーション技術を磨いた上で、活動を行っている。シアトルでの抗議活動を組織したNGOの広報担当者は、近藤康太郎によると、参加者に報道陣への受け答え指導している。

 

「言葉は短く、ポイントをはっきり。編集で大事なことをカットされないようにしなければだめ」

 自分が記者役になって、デモ隊に参加する若者に質問し、カメラの前で話させる。

「敵は巨万の富を持ち、政治家を動かす大企業。こちらは彼ら以上に賢く、プロフェッショナルにならなければ対抗できないんです」

 

 シアトルほどこのジェネレーションXの政治デビューにふさわしい都市はないだろう。ジェネレーションXの代弁者であるニルヴァーナが活動の拠点を置いていたからである。グランジ・ロックならぬグランジ・ポリティクスを世界に見せつけるにはうってつけの場だ。

 

Come

As you are

As you were

As I want you to be

As a friend

As a friend

As an old enemy

Take your time

Hurry up

The choice is your

Don't be late

Take a rest

As a friend

As an old memoria

memoria

memoria

memoria

 

Come

Dowsed in mud

Soaked in bleach

As I want you to be

As a trend

As a friend

As an old memoria

memoria

memoria

memoria

 

And I swear

That I don't have a gun

No I don't have a gun

No I don't have a gun

memoria

memoria

memoria {don't have a gun

 

And I swear

That I don't have a gun

No I don't have a gun

No I don't have a gun

No I don't have a gun

 

memoria

memoria

(Nirvana “Come As You Are”)

 

 ジェネレーションXを最も表象するのはネットワーク化したコンピュータ・テクノロジーであろう。ベビー・ブーマーを象徴するのがロックンロールとコミック本(アメコミ)のカウンター・カルチャーだったとすれば、彼らにとってそれはインターネットとビデオ・ゲーム(テレビ・ゲーム)のオルタナティブ・カルチャーである。

 1980年代、コンピュータは人気ハードを販売する企業が市場を制している。アップル社のマッキントッシュやNECPC98シリーズがその代表である。ソフト開発はハードに従属的でしかない。90年代に入ると、ソフトの季節が到来する。ハードをあまり選ばないMSのウィンドウズOSが市場を席巻する。ところが、2000年代には、GoogleFacebookYouTubeなどインターネット上でのサービスを提供する「クラウド・コンピューティング(Cloud Computing)」がICT産業の注目株と認知される。それは、換言するなら、ブラウザの季節である。ハードウェアからソフトウェア、さらにネットワーク・サービスと主役がめまぐるしく変わっている。前の二つの季節を担ったのは、スティーブ・ウォズニアックやスティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツなどベビー・ブーマーであったが、今はラリー・ページやセルゲイ・ブリン、チャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムといったジェネレーションXが牽引している。

 ジェネレーションXが最初にその力を存分に発揮したのは、何よりも、ビデオ・ゲームである。ナップスターが事業停止に追いこまれたように、ベビー・ブーマーを表象するロック産業がネットに必ずしも友好的ではないのに対し、ゲーム業界はオンラインとは不可分な関係にある。あらゆる面でビデオ・ゲームほど彼らと相性のいいメディアもない。

 日本では、テレビ・モニターを使うゲームを「テレビ・ゲーム」と呼ぶが、アメリカにおいては、ビデオの入力端子を用いているため、電子ゲームを「ビデオ・ゲーム(Video Game)」と総称する。

 『ジェネレーションX』のサブタイトルにつけられている「物語(Tails)」は極めて示唆的である。と言うのも、この「テイル」はロマンスの短編形式であり、ビデオ・ゲームは、文学ジャンルに照らし合わせると、「ロマンス(Romance)」に属しているからである。もちろん、その傾向を逆手にとった「レジャー・スーツ・ラリー(Leisure Suit Larry)」のような流れもある。ノースロップ・フライの『批評の解剖』(1957)によると、ロマンスは世界の多様性を提示するジャンルである。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、作者の意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かの象徴である。作品の傾向は内向的で、扱い方は主観的であり、願望充足がこめられ、時折、情緒的でさえある。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。しかし、神々の物語である神話とは違い、近代小説と神話の中間に位置する。SFやアドベンチャー、ファンタジー、サスペンス、ホラー、バトルなどがロマンスに含まれるが、意識されないことも多いけれども、歴史小説や時代小説も近代小説ではなく、ロマンスの一種である。これらはゲームの題材として好んで使われている。

 今日のビデオ・ゲームのアーキタイプは、1958年にアメリカのブルックヘイブン国立研究所でウィリアム・ヒギンボーサム(William Higinbotham)が考案した「テニス・フォー・トゥー(Tennis for Two)」である。これはオシロスコープに表示される2人用のテニスゲームで、彼は各研究の合間の気晴らしになればとシャレで開発している。所員の間で好評となったが、冗談に特許は野暮とばかりに、平和研究で知られるかの偉大な物理学者はどこかに申請することはしない。この決定により、ビデオ・ゲームはオープンにつくられていくことになる。

 1960年代に入ると、理工系の学生が、1910年生まれの先駆者同様、お遊びでゲーム・ソフト開発にとりくみ始める。62年、MITの学生マーティン・グラーツ(Martin Graetz)やスティーブ・ラッセル (Steve Russell)、ウェイン・ウィッタネン(Wayne Wiitanen)が研究室のコンピュータ上で「スペースウォー(Spacewar!)」を制作し、大学生たちの間で話題となる。72年、マグナボックス社が世界初の家庭用ビデオ・ゲーム「オデッセイ(Odyssey)」を発売する。同年にノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell)が創業したアタリ社は、75年にはテニス・ゲーム「ポン(Pong)」をリリースし、単体で15万台も売れるビデオ・ゲーム初のヒット商品となる。

 ゲームを語るとき、日本の功績を省くことはできない。エポック社がアメリカのマグナボックス社との技術提携し、1975年、初の国産テレビ・ゲーム「テレビテニス」を発売する。77年、ダイトーの西角友宏が開発した「スペースインベーダー」が爆発的に流行し、それと同時に、社会問題化もしている。イエロー・マジック・オーケストラがゲーム・サウンドをとり入れた『ファイヤー・クラッカー』を発表したのもこの頃である。技術革新が進んだものの、しばらくはこれと言った人気商品が登場せず、業界は低迷する。しかし、79年、シューティング・ゲーム「ギャラクシアン」がナムコ、80年、携帯型液晶ゲーム機「ゲームウォッチ」が任天堂からそれぞれ発売され、持ち直しを見せ始める。

 1980年、岩谷徹が開発した「パックマン」がナムコより販売され、ビデオ・ゲーム史上初の世界的大ヒット作品となる。これは、従来、男性に独占されていたゲーム市場に女性を呼びこもうという動機で製作されている。女性に受け入れられやすいように、かわいらしさを前面に出したパックマンは、最初にアイドルとなったゲームのキャラクターである。この「かわいい」はジャパニーズ・クールを象徴するキーワードであり、それがどのようなものであるかを外国人が知った初めての出来事でもある。現在でもパックマンはヴァージョンを重ねながら、継続して発売されており、2005年、「最も成功した業務用ゲーム機(most successful coin operated game)」として『ギネス・ワールド・レコーズ』の認定を受けている。

 「かわいい」に相当する英単語は”cute”ではなく、”sweet”である。これは、さまざまな用法もあるけれども、幼児などに対して使われ、「かわいい」の子供っぽさにフィットしている。「かわいい」は攻撃性がないことを表象する。「かわいい」が消えたものは、攻撃性を持っていると相手から判断されかねない。それは哺乳動物にも見られる。動物行動学の調査によると、親ギツネは、顔の部位が真ん中によっている段階の自分の子供をそれと認知するが、パーツが離れて大人の顔になると、敵と見なし、攻撃を仕掛けることさえある。攻撃性という観点から見れば、「かわいい」は部位が中央に集まっている顔のことである。ターミネーターな体躯をしていても、よっていれば、幼く感じられ、逆に、鉄腕アトムのような体型であっても、離れていると、大人っぽく見える。それを逆手にとって、自己防衛の手段として「かわいい」が用いられることも少なくない。今でこそ、25歳の日銀の行員がニャッキのケータイ・ストラップをしていても違和感がないが、それは少女マンガを少年が抵抗感なく読むようになった80年代以降の流れである。社会に攻撃性が蔓延すれば、自分の身を守るために、「かわいい」が増殖する。えのきどいちろうは、200824日にJOQRで放送された『くにまるワイド ごぜんさま~』において、最近のCMに「かわいい」が使われている理由として、テレビ関係者からのコメントを紹介しつつ、ネットその他で攻撃されるのを避けるためだと言っている。「かわいい」幼児に攻撃を加えるとしたら、それはどうかしている。そのため、「私を嫌いにならないで(Don’t give up to me!)」というメッセージが暗にこめられているケースも目につき、「かわいい」は、必ずしも、健康的であるとは言えない。

 1983年、任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売する、8ビットCPU搭載のこの機種はゲームをインタフェースからキャラクターの時代へと導く。中でも、宮本茂が開発した「スーパーマリオブラザーズ」のマリオは人間型のキャラクターとして最初のスターである。マリオは、宮本茂がデザインした「ドンキーコング」ですでに知られていたが、以降、シリーズ化される。85年、ファミコンはアメリカでも発売され、随時、各国の店頭にも並ぶようになる。このヒット商品により家庭用ゲーム機市場は急拡大していく。

 80年代前半、アメリカでゲーム産業は存亡の危機を迎える。急成長する市場を見て、うまい儲け話だと新規参入が相次ぎ、安易で粗悪なソフトが続々と出荷されてしまう。消費者はビデオ・ゲームに幻滅し、1983年、市場は急速にしぼみ始める。ビデオ・ゲームの流行は一時的なブームであり、ゲーム産業は終わったという意見がメディアやエコノミストから主張されるようになっている。

 この苦境を救ったのが日本のゲーム産業である。日本のクリエーターたちは魅力的なキャラクターと凝った展開のストーリー、一度耳にすると忘れられない音楽、奥行きを感じさせる画面構成をゲームにとり入れる。それには日本のアニマンガ文化からの影響が見られる。ゲームにおけるこのキャラクターの季節を主導したのは日本メーカーである。1986年、任天堂がファミコン用ソフトとして「ゼルダの伝説」を発表する。これはキャラクターが成長する初めてのゲームである。ゲームはどれだけ感情移入できるかが人気を決定する点があるが、このキャラクターのレベルアップ機能はそれを満足させるものである。同年に「ドラゴンクウェスト」、翌87年には、「ファイナルファンタジー」がいずれもスクウェアよりファミコン用RPGソフトとして発売される。以降、ロールプレイングゲーム(RPG)や対戦型格闘ゲームが爆発的な人気を博していく。プレーヤーはゲーム上のキャラクターと物語を操るようになり、そこに参加している気さえする。現在では、対戦型格闘ゲームはコアなファンの嗜好品となってしまったものの、他国と比べて、依然としてRPGのゲームでの市場占有率が日本は高い。

 キャラクターの季節が日本のアニメ文化と親密な関係にあった理由として、二点が挙げられる。一つはアニメーションの特性であり、もう一つは日本のアニメーションの特徴である。

 実写はカメラを用いるため、どこかに焦点を合わさなければならないのに対して、アニメはカメラの制約から解き放たれている。もちろん、アニメであってもカメラを使う場合もある。同一の画面の中で一本の木と一人の人間を描こうとした場合、実写では焦点の都合上、どちらかを主にせざるを得ないが、アニメにおいては、両方を主にできる。アニメは、カメラの遠近法に縛られず、どこまでも平面的な視覚を提供する。ジョージ・ルーカスがロン・ハワードに「アニメーションは俳優が邪魔をしない」と言ったように、役者の演技という曖昧なものを排除し、世界を平面に分割して、時空間は自由に扱え、寓話的なリアルさを観客に訴える。「シュミラークルの全面化」(ジャン・ボードリヤール)であるアニメは、物語性が希薄であるなら、すべてが主役であり、同時に主役が不在の世界を描ける。実写はどんなに平面的たらんとしても、カメラの遠近法が作用しているため、観客に立体性・実存性を思い起こさせてしまう。ところが、物語性を強くしようとすると、その遠近法の欠落さにより、その展開をセリフに依存せざるをえない。ウォルト・ディズニーのアニメでキャラクターがセリフを喋らせたように、何かを主にするため、セリフがその記号の機能を果たす。「なにもかもが『見えるもの』から『わかるもの』になってしまったのです」(小栗康平『映画を見る眼』)。キャラクターとセリフへの傾倒はアニメをラジオ・ドラマとしてそのまま使えるようにさせてしまう。

 加えて、日本のアニメの傾向もキャラクターの季節にマッチしている。日本のアニメには必ずしもアニメーションにする必然性がない作品が少なくない。宮崎駿作品が典型であるが、特殊効果を使って、実際の俳優や動物に演じさせることで、不都合が生じるとは推測されず、アニメならではの映像美を追及しているとは言いがたい。なるほどかつては市民権を獲得するために、アニメでもここまでできると世間に印象づける必要があったけれども、今であれば、むしろ、アニメでしかできない映像を追い求めるべきだろう。残念ながら、大部分の日本のアニメは映像的には極めて保守的であり、アニメで描写する必要性は皆無になってしまい、自己完結性だけが強まっている。「カメラが入るポジション、見せ方は、オーソドックスで、落ち着きのいい実写のそれとなんら変わっていません。実写の映画のセオリーをそのまま引き継いでいます。動植物が人間の言葉を喋ることで人間化しているとしたら、どんなお化けであろうが、これは人間ドラマです。さまざまに工夫された絵柄によって、ファンタジーであることから目を覚まさせない、人間のセリフ劇です」(『映画を見る眼』)

 1994年、ソニーが家庭用据え置き型テレビ・ゲーム機「プレイステーション」の発売を開始する。この32ビット機はさらに市場を世界的に広げると共に、ゲームにおけるパックス・ヤポニカの終焉を告げる。ゲームはキャラクターから3Dの季節へと変わる。

 1990年代後半、ジャパニーズ・クールが世界的に注目され始めるが、それは、むしろ、パックス・ヤポニカの遺産である。確かに、世界中でテレビ放送されているアニメの半数以上が日本製と見られているし、また、アメリカでのゲーム・ソフトの売り上げ本数のベスト10の半分程度を日本製が占めている。けれども、将来的に、日本が世界的な文化の発信地とたる可能性は高くない。従来、ジャパニーズ・ク-ルは若者が主導して生み出してきたが、少子高齢化に伴い、市場規模が縮小しているため、企業は若年層以上に、人口が多く、購買力もある高齢者を主要な消費者と見なすようになっている。マンガ雑誌の発行部数の落ちこみは、講談社と小学館が共同でマンガ誌を20084月から発行する事態まで引き起こしている。外国人がカスタム・メイドした上で、日本から文化を発信する方が期待高だ。もちろん、日本の消費者の嗜好は独特であるが、その小さな市場規模でも成り立つ程度では応える企業もあるだろう。しかし、アジアや太平洋、ロシアなどの新興国の富裕層は旺盛な購買力を持っており、国内の消費者よりも優遇されていくことは間違いない。

 事実、国内のゲーム市場の縮小化を睨んで、任天堂は2006年末にWiiを発売している。中産階級の増加を背景に、第二次世界大戦後、欧州の社会主義政党が階級政党から脱却して包括政党へと向かったように、同社は従来のゲーマーだけでなく、支持層の幅を広げる路線を推進している。垣根を下げるために、再びインタフェースの問題に立ち返っている。「Wiiリモコン」による体感的な操作を導入する。その結果、WiiFitのような既存のゲームとは異なる日常生活に関連したつコンテンツが搭載され、対戦やデータ交換のみならず、Wii独自のインターネットを利用したサービス・機能が盛りこまれている。健康をめぐるソフトは、若年層以上に人口も多く、購買力もある団塊の世代、すなわちベビー・ブーマーをターゲットにし手いることは明らかである。

 90年代前半から、アメリカでもゲーム人気が再燃し始める。これには、CPUなどの性能が向上したことによって、3D技術が導入され、映像的な魅力が増したことが挙げられる。ジェネレーションXが本領を発揮するのはこの3Dの季節からである。中でも、一人称のシューティング・ゲーム(First Person Shooting Game: FPS)とリアルタイムストラテジー・ゲーム(Real-time Strategy Game: RTS)がゲーマーを虜にする。創造型のRTSと破壊型のFPSの流行には世界認識と自分自身のアイデンティティの探求が見られる。言うまでもなく、場合によっては、創造が破壊以上に破壊的であったり、破壊が創造以上に創造的であったりする。ゲームはその難題に手っ取り早い解決を提示してくれる。

 RTSは、リアルタイムに進行する事態に対して、プレーヤーが戦略を立てて対応していくゲームである。その先駆けは1984年にエブリウェア(Evryware)社の「アート・オブ・ウォー(The Ancient Art of War)」である。当初は、RTSの中でも、ゴッドゲーム(God Game)が、かつてゲーム小僧だった大学生の間で、人気を獲得する。ゴッドゲームはプレーヤーが神、すなわち創造主の視点に立ち、世界を構築していくゲームである。「ポピュラス(Populus)」(1989)や「シムシティ(SimCity)」(1989)、「シビライゼーション(Civilization)」(1991)などがその代表である。東西冷戦後、アメリカ資本主義の勝利や歴史の終わりが楽観的に唱えられ。自由な経済活動をもたらすとされるグローバリゼーションが始まったが、その甘い見通しはたちまち崩れ、世界的に経済が不安定化する。イデオロギー・ポリティクスが幕を閉じて大団円どころか、アイデンティティ・ポリティクスが第二幕だということが明らかになる。イデオロギーに抑えつけられていた宗教やエスニシティが複雑に絡み合ったナショナリズムが噴出する。こういう世界情勢がこのゲームの人気を押し上げた理由の一因であろう。

 現実世界は複雑化し、因果関係が見えにくくなり、理解することさえおぼつかないけれども、ゲームなら何と世界を支配できる。しかも、実際には、何千年もかかる事象でさえ、ゲーム上では、短縮して見られるし、やり直しだって可能だ。しかし、ゴッドゲームの真の権力者はプレーヤーではなく、しばしば独善的に忘れられがちだが、それを認めたデザイナーである。プレーヤーは規制緩和によって裁量権を委ねられたにすぎない。

 このゲームの画期的な点はAI、すなわち人工知能技術が採用されたことである。ゲームはプログラムではなく、プレーヤーに対応している。ゲームにAIが搭載されるようになった意義は非常に大きい。プレーヤーは、これにより、以前と比べて、ストーリーもつくり出せるなどゲームに対し積極的にかかわれるようになる。

 1994年くらいから、ゴッドゲームだけでなく、他のタイプのRTSも受容されていく。『ロード・オブ・ザ・リング』を思い起こす世界構成の「ウォークラフト(Warcraft)」や先史時代からの文明史の概念を導入した「エイジオブエンパイア(Age of Empires)」などがその代表である。さらに、企業やNGO、研究所が紛争解決や人道支援、最新ニュース、PTSD治療などをシミュレーションするゲームをウェブから配布している。インパクトゲームズ(ImpactGames)は、20072月、イスラエル=パレスティナの和平プロセスを扱った「ピースメーカー(PeaceMaker)」をリリースしている。

 RTSとは別に、デザイナーたちはテクノロジーの発達を受けて、リアルでショッキングなコンテンツの一人称のシューティング・ゲームを作成し始める。FPS自身の歴史は古く、1980年にアタリ社から発売された「バトルゾーン(Battlezone)」はそのプロトタイプである。しかし、本格的に一ジャンルとして認知されたのは、1992年にイド・ソフトウェア(Id Software)社による「ウルフェンシュタイン3DWolfenstein 3D)」が登場してからである。翌年、同社が「ドゥーム(DOOM)」を発表すると、その人気は決定的となる。しかし、それと同時に、その暴力性が親の世代たちから問題視され始める。1999年のコロンバイン高校乱射事件において、エリック・ハリスとディラン・クレボルドが「DOOM」に熱中していたということが世間に知れ渡ると、銃規制論議以上に、FPSに対する批難は頂点に達する。

 しかし、こうした意見は次第に政府・軍関係者の間からは発せられないようになる。FPSは非常に実用的であり、軍事・警備・運輸などでは不可欠な技術だからである。2002年からアメリカ軍はFPS「アメリカズ・アーミー(America’s Army)」をサイトから無料配布している。軍はゲームの影響力・浸透力を利用し、減少傾向だった新兵のリクルートや軍への理解を目的に、2000万ドルを超える多額の予算をかけてこのソフトを開発している。また、各国で軍事予算の効率化のため、シミュレータを使った訓練が実施されている。家庭用ゲーム機と訓練用シミュレータとの違いは、もはやほとんどない。2000年に発売されたソニーのプレイステーション2は、軍事転用の危険性があるとして輸出規制対象に指定されている。ゲームのシミュレータを利用しているのは、しかし、体制側だけではない。同時多発テロに加わったアルカイダのメンバーも、「マイクロソフト・フライト・シミュレータ(Microsoft Flight Simulator)」で訓練していたことが知られている。

 現在のアメリカでも、パッケージ・ソフトのゲーム市場では、「グランツーリスモ」シリーズや「ポケモン」シリーズなどが上位にランクインしている。しかし、ゲームと文化の観点では、パッケージ・ソフトの販売本数を論拠に議論を展開することは必ずしも本質的ではない。それは、ジェネレーションXが毛嫌いするあまりにも商業主義的な見方である。

 また、FTSRTSゲームだけがジェネレーションXの間で盛んなわけではない。サミュエルL・ジャクソン等を声優に起用した「グランド・セフト・オート(Grand Theft Auto)」シリーズのような有害ではないかと議論されるクライム・アクション・ゲームに、カー・アクションやスポーツのゲームなども人気を博している。

 アメリカでのゲームの再燃期は、インターネットが徐々に一般化していった時期にあたる。それに伴い、ゲーム機用のゲームだけではなく、オンライン・ゲームも浸透し始める。単独のプレーヤーだけでなく、多人数同時参加型オンライン・ゲームのMMO(Massively Multiplayer Online Game)も現われ、ゲーマーのハートを鷲づかみにする。自宅にいながら、世界の誰かとゲームを通じてリアルタイムでコミュニケーションができる。「ウルティマオンライン(Ultima Online)」や「エバークエスト(Ever Quest)」、「ワールドオブウォークラフト(World of Warcraft)」などがヒッしている。ゲーマーはネットを介してそれぞれのゲームのコミュニティを形成し、情報交換をしたり、オンライン対戦を行ったりするようになる。MMOのコンテストも開かれ、賞金を稼ぐプロも出現している。

 こうしたゲームは共有されて意義がある。ゲームもさることながら、ゲーマーたちは社交の場とも言うべきコミュニティづくりを競い始める。ピックアップ・グループやギルド・グループなどさまざまなタイプのコミュニティが組織されている。それは共時的・通時的に共有された知識・技能、すなわちリテラシーのコミュニケートする場である。ゲーマーはゲームだけでなく、世界とも相互作用していく。

 そのうちに、別の人生をオンラインですごすことができるMMOが登場する。プレーヤーがログインしていなくても、そのヴァーチャル・ワールドは変化し続けている。その代表が2003年からリンデン・ラボ(Linden Lab)社が提供している「セカンドライフ(Second Life)」であろう。電子データを3D化した空間にインターネットからログインすると、ユーザー自身がその世界を改変できる。まず、自分の分身である「アバター(Avatar)」を選ぶ。これは人間であっても、他の生物であってもかまわない。ユーザーはそのアバターとしてその世界で生活するこができる。ショッピング・モールを歩いたり、和装小物の店に入って店員と話を交わしたり、気に入った匂い袋を買うこともできる。その際、仮想通貨が使われるが、それは現実通貨と換金できる。しかも、この空間内では、現実世界同様、著作権が認められている。ジェームズ・ワーグナー・アウ(James Wagner Au)は一般のブログSecond Life: New World Notes(http://nwn.blogs.com/でセカンドライフでの出来事を報告しているし、ジュリアン・ディッベル(Julian Dibbell)に至っては、セカンドライフ内で、仮想経済本を刊行している。他にも、スウェーデンのマインドアーク(MindArk)社が開発した「エントロピア・ユニバース(Entropia Universe)」などもあり、こうしたMMORPGを通じて管理の収入を手にしているものも少なくない。ただ、こういった傾向には商業主義に厳しいジェネレーションXの眼厳冷ややかである。

 このような流れに加えて、MODもゲーマーの間で定番化する。AI技術によって能動性に目覚めたゲーマーは、既存のゲームを楽しみながらも、自分なりにカスタマイズできないだろうかと考え始める。まずはハッカーのような実力の持ち主が実際に試みるようになり、その方法や拡張パックをコミュニティなどで公開する。これは「MODModification)」と呼ばれ、ジェネレーションXにとってゲームのカスタマイズは常識化する。当初は非公式だったが、メーカーによってはそれを前提として、基本構造だけを提供している場合もある。MODのコンテストも、開催されている。プレーヤーに裁量権を与えたことで、創造性を発揮できる。ゲーマーはプレーヤーだけでなく、今やクリエーターでもある。

 1960年代、ポンティアックGTOを手にした若者は、ただそれを乗り回すだけでなく、自分らしくカスタマイズしている。タイヤからスモークを出してその愛車を飛ばして、車好きの連中に見せびらかしたり、他のマッスルカーを見つけては、ちょっとしたレースを挑んだりしでいる。メーカーも、ユーザーがカスタマイズするのを前提に、自動車を生産・販売している。MMOMODによって、ゲームも、かつてのマッスルカー同様、完全に若者の表現文化に定着する。

 これだけゲームの映像・ストーリーが洗練されてくると、すでに世間から認知されたメディアとの間で、マルチメディア化の動きも始まる。「DOOM」や「バイオハザード(Resident Evil)」など多くのゲームが映画化されている。それだけでなく、一般のゲーマーが映画化する「マシニマ(Machinima)」もYouTubeの登場により、試みられている。オリジナルに対するリスペクトが明確である作品に関しては、「Red VS Blue」(2003)のように、著作権の問題が大目に見られるケースも少なくない。

 そもそも、マシニマがオリジナルを広めてくれる役割を果たすこともあるので、著作所有者の利益に反するとは限らない。新しい技術や風潮を「問題(Problem)」と見なすか、「挑戦(Challenge)」と捉えるかによって認識・対応が分かれる。前者ではなく、後者として受けとめるほうが既存の勢力にとっても建設的な発展が望めるだろう。

 なお、日本では、評価できるマシニマはほとんどないと言ってよい状態で、ここでもアメリカなどとのゲームへの接し方の違いが見られる。確かに、日本からもユニークな動画がYouTubeやニコニコ動画に投稿されているし、ビデオ・クリップやCMにもユーザーによるプロ顔負けの動画も認められる。企業やアーティストがそれを募集したり、公認したりして、採用しているケースもあるが、いずれもストーリー性には乏しい。アメリカでは、癒しのために、911をめぐるゲームが考案されている。何も、911の状況をゲームにする必要はない。各メディアは市民権獲得の過程で、「こんなことだってできる」とそのメディアならではの固有性を食み出す。こうしたインフレーションは、社会的認知を得た後に、意識的に縮小させていかないと、本来のよさを見失い、ルーティンな作品を垂れ流すようになってしまう。一方、日本では、広報や癒しの役割をアニメやマンガが担っている。日本政府の拉致問題対策本部は、2008328日、子供や若者への教化を目的に、拉致事件に関するアニメ『めぐみ』の無料配信を「政府インターネットテレビ」で始めている。これは双葉社より刊行されているマンガ『めぐみ』のアニメ化作品である。さらに、このアニメはコピーフリーのDVDとしても製作され、全国の地方自治体などに無料で配布し、英語・中国語・韓国語版も用意する。

 FPSにしろ、EPGにしろ、アニメにしろ、マンガにしろ、ロマンス形式である点は共通している。日米の違いはあるものの、これらが市民権を獲得したのはアイデンティティ・ポリティクスの時代という背景があるだろう。

 ゲームは娯楽から文化、さらに表現の場へ発展してきたが、ジェネレーションXはこの表現としてのゲームに及ぼした功績は大きい。90年代以降のゴッドゲームとFPSの流行はModMMOの確立に向かう。前者は自分らしささ、後者は共同意識を刺戟する。ジェネレーションXがゲームを通じてもたらしたのはカスタマイズとコミュニティである。自己表現しつつ、それを公表する場に参加する。それはゲームにおけるYouTube化・Facebook化である。

 GoogleはジェネレーションXの好みを最も理解しているウェブの一つである。調査会社コムスコア・ジャパンが2007912日に発表した調査によると、日本国内の検索シェア、ヤフーが47.4%、グーグル35% であるけれども、欧米ではGoogleの方が優勢である。「iGoogle」の通り、Googleではトップページのレイアウトを自分らしくカスタマイズできる。また、Google EarthGoogle MapGoogle Street Viewなどはまるでゲームでメタバースを楽しむように、世界を体感することが可能である。

 ジェネレーションXの性向は、日本では、自己主張や自己表現、自己実現への固執は似ているものの、それほど顕著ではない。まったく見られないというわけではない。カスタマイズに積極的ではなく、自律的たらんとするよりも、あるいは自分から話しかけてコミュニケーションをとろうとするよりも、「お客様」根性を満足させてくれる「きめ細やかなサービス」提供を好む。そんな傾向をうまくつかんでいるのがAlbertの提供する「感性検索」である。具体的なキーワードがわからない場合でも、「感性」にフィットする画像やフレーズなどを選んでいくだけで検索可能であると同時に、何を探したいか自分でもわからない潜在ニーズを発見できる。Albertは、レコメンドエンジンと感性検索を用いたショッピングポータルサイト「見つかる.jp」を20084月にオープンしている。

 SNSにおいても、国内最大のmixiと英語による代表的なサイトFacenookの間でコミュニケーションの違いが見られる。前者は日記中心であり、後者は友人同士の交流が主である。日本のSNSは長いことログインしていなくても、毎日、最新情報に関するメールが送信されてくるが、Facebookでは、自分のページに何か変化があったときなどしかメールが送られてこない。

 言うまでもなく、こうしたサービスが国際的なセールス・ポイントになることもありうる。けれども、1997年、MKタクシーが東京に進出した際、ドライバーがわざわざドアを開けてくれるようなお客様思いのサービスは必ずしも歓迎されていない。国外だからと言ってそうだと決めつけてはいけないとしても、国内でさえこのようなこともあるのだから、細やかであれば、お客は誰もが喜んでくれるわけではない。

 また、90年代後半、日本のメーカーがゲームのさらなる可能性を示していることを付記しておくべきだろう。バンダイが1996年末に発売した「たまごっち」では、ペットロス現象さえおきている。たまごっちはプレーヤーの情緒に訴える初めてのゲームと呼んでいいだろう。人は、ゲームをして、本や映画を見るのと同様、涙を流すことがあるのだと知る。それまで、泣けるゲームというのは存在していない。

 加えて、Wiiに見られる新たなインタフェース開発は、ゲームにおける3Dを用いたリアリズムが曲がり角にきていることも影響している。当初のゲームは記号性の強い絵だったが、モーション・キャプチャ技術により身体の動きをリアルに再現することが可能になる。ゲーム界にも3Dではなく、もはやハイビジョンの季節が到来している。ところが、その技術進歩は「不気味の谷現象(Uncanny valley)」を招く。1970年、ロボット工学者の森政弘は、ロボットの概観や動作を人間に近づけていくと、ある時点からそれが不気味な印象を抱かせるようになることを発見する。その後、映画やゲームなどにおいてコンピュータ・グラフィックでつくられた人間がリアルに再現されていくと、あたかも死体が動いているような不気味さを見る人に感じさせることも明らかになる。

 この不気味の谷は近代におけるリアルさ自体に対する根本的な態度変更を促している。近代リアリズムは記号ではなく、再現をリアルの方向性と信じてきたが、必ずしもそれはリアリティを受け手に与えない。

 ジャーナリズムはリアリティ・テレビではないとニューヨーク・タイムズ紙のクリス・ヘッジスは。『戦争の甘い誘惑』において、「官製映像は戦争の現実をほとんど伝えていない」と次のように批判している。

 

 選ばれた代表の記者は軍によってガイドされ、我が兵士たちはパックの食事をとり、化学兵器に備えて演習をし、砂漠のなかではバケツでシャワーすると原稿に書く。スペクタクルとしての戦争、エンターテインメントとしての戦争である。こうした映像と記事が意図するのは、国民に国家について好感を抱かせることにある。イラク国境で破砕性爆弾が炸裂し、イラクの家族や兵士が粉々に飛び散っているのだが、彼らは顔も名もない幻影に過ぎない。

 

 奇しくも、ゲームは記号と再現の微妙な混合と意味づけがリアルさを感じさせることを教えてくれている。

 このようにゲームは転換期を迎えているが、ジェネレーションX新たな岐路に立たされている。アイデンティティ・ポリティクスの時代が過ぎ去ろうとしている。

 他者と接触する際に、アイデンティティ探求が始まるものだが、ジェネレーションXではそうではない。イデオロギー・ポリティクスが終焉を迎え、世界認識の構図があやふやとなってしまう。ジェネレーションXはアイデンティティを確認しようとするけれども、その際、それをイデオロギーのような外部にではなく、自意識の優位さによって独善的に構築する。こうありたい、もしくはこうあらねばならないという結果から自分らしさを逆アセンブルする願望充足のために、ロマンスが選ばれる。近代的なロマンスは、村上春樹の『ノルウェイの森』が示している通り、最初に結果が提示され、物語はそれに向けて展開される円環構造を有している。終わりが目的であり、すべての要素はその達成に従属する。この世界は決定論に支配され、それを決めるのは自意識である。ジェネレーションXの年齢層が世界的に村上春樹を受け入れるのはこれを具現しているからである。

 

 みんな自己、自己言いよる。明らかにぼくらの若いころに比べれば、自己を見つめたがる。(略)自己実現に、生きがい発見。そんなことはしなくともよろしい。だって、いま、生きているやないの。

 自己表現やら自分探しが流行しているのも、決定論的な考え方がいまの世を支配しているためだろう。こういうふうに生きたから、こうなる。だが、ほとんどは結果論.因果関係などはない.もし、自分の目の前にあらかじめ決まった道があって、そこを進んでいくのが人生だとしたら、ちっともおもしろくなかろう。自分らしさという枠がある。それ自身、もう自分らしくない。

 

 自分の物語は、生きていくうちにつくられていくものだ。あらかじめ筋書きを用意して、歩んでいくなんて。ぼくは、枠にはまったクソおもしろくもない物語の主人公などにはなりたくない。

(森毅『生きがいに自己実現なんていらん、だっていま生きているんやから』)

 

 そんなジェネレーションXも、かつてのベビー・ブーマー同様、エスタブリッシュメントの側に回るときがやってくる。それを世界に印象づけたのが、2008年の大統領選挙に向けた民主党の指名候補レースだろう。これはベビー・ブーマーとジェネレーションXの対決でもある。19471026日が誕生日のヒラリー・クリントンはベビー・ブーマーであり、バラク・オバマは196184日生まれのジェネレーションXに属している。元ファースト・レディはスティーヴン・キング、選挙選出による史上三人目のアフリカ系アメリカ人上院議員はダグラス・クープランドとそれぞれ同い年である。ヒラリーVSオバマはMSGoogleのアナロジーで把握できる。

 と同時に、新たな世代の政治デビューの場にもなっている。「ジェネレーションY(Generation Y)」、すなわちベビー・ブーマーの子供たちもオバマを歓迎している。彼らによる政治運動には、若者の「参加意識」がある。2008223日付『朝日新聞』の「政治に動く若者たち」は若年層の政治参加がオバマ躍進の原動力だと報告している。今回の民主党の予備選挙では、20代前半の投票率や党員集会への参加が急上昇している。iPodを聴きながら、インスタント・メッセンジャーをやりとりしつつ、ブログを更新するジェネレーションYはネットを駆使し、草の根でオバマ支持の輪を広げている。活動の模様を文章や写真にしてブログに載せ、政治家が有権者に隠したい醜態や暴言、誇張も音声・動画ファイルにしてYouTubeにアップロードし、有権者に情報提供している。彼らはどの候補者についても政策などよくわからないが、オバマの反イラク戦争や変化に共鳴している。ヒラリーは経験を強調し、母親のように振舞い、自分への投票を”Yes, She Will”と呼びかける。一方、オバマは具体性が乏しいけれど、変化を雄弁に訴え、”Yes, We Can”と人々に運動参加を促す。熱狂に誘われた若者たちは一体感を覚え、「参加意識」を持っている。それは彼らにとってアイデンティティであるが、既存のものではない。オバマの「統合(Unity)」に立脚する新たなアイデンティティにほかならない。

 ジェネレーションYは、親の世代が社会保障や税制など直接的に自分の生活に影響を及ぼすトピックにしか関心がないと憤る。しかし、それは政治が暮らしだということを理解していないにすぎない。そもそも、親たちも、彼らと同様、かつては世界平和を実現したいと発言し、行動している。国境を超えた世界との連帯やエコロジーを始めたのはベビー・ブーマーである。また、「サイバー・スペース(Cyberspace)」や「アクセス(Access)」などジェネレーションYが日常的に使うICTに関する用語も、ベビー・ブーマーに属するウィリアム・ギブスン(William Gibson)の『ニューロマンサー(Neuromancer)』に由来している。カスタマイズやコミュニティへの志向にしても、ジェネレーションXから始まったわけではなく、ベビー・ブーマーにも見られる。森毅は、『加害者・団塊の世代よ、あんじょう老後のスタイルをつくってや』において、ベビー・ブーマーを分析している。ベビー・ブーマーは「軍隊的な感覚」を打破すべく、数にものを言わせて、多種多様なライフ・スタイルを提示してきている。この創造力が彼らの最大の意義と言える。その反面、物事を戦略・戦術で見る「軍隊的な感覚」があり、時として人を「駒」として使いたがる。カール・ローブが象徴的な例だが、ウィナーになるためなら、えげつなく、なりふりかまわない姿勢も辞さない。また、ベビー・ブーマーは、「68年世代」の別名があるように、政治運動という共通の体験を持っているので、それを基盤に同世代で群れる傾向がある。違う世代を排除し、自分の世代だけで固まる風潮は彼らから始まっている。ジェネレーションXはこうしたベビー・ブーマーの残したツケを払わされている。ベビー・ブーマーは、以後の世代への継承を考慮して、新たな地平を開拓していたわけではない。そのため、逆コースをたどってしまったケースさえある。1968年、アメリカは分裂寸前まで追いこまれている。ベビー・ブーマーは人種分離に反対し、その融合を進めている。けれども、今、その子供たちは教室では、水と油が分離するように、肌の色で別々に座っている。20071123NHKBS1で放映された『人種統合 50年目の真実』は アーカンソー州リトルロックにあるセントラル高校の現状について報告している。ここは人種統合をめぐり全米のみならず、世界中から注目を浴びた「リトルロック・ナイン(Little Rock Nine)」の舞台である。1957年、黒人と白人の共学に関して州政府と連邦政府が対立し、軍隊が高校を占拠する中、黒人生徒9人が初登校する。その高校でさえ、生徒たちは人種ごとに分かれて椅子に腰を下している。彼らは社会的雰囲気に強制されているわけでも、レイシズム的意識を持っているわけでもない。ただ話が合うもの同士で集まっているだけだ。音楽やスポーツ、趣味も、生活環境もみんな違う。オバマの「統合」に共感し、家庭で親たちを「自分のことばかり考えている」となじりながら、教室において、パレスティナやバクダッドのようにvisibleではないけれども、彼らはガラスの分断壁を経てている。

 ジェネレーションYは「通過の世代」、すなわち「パッセージ・ジェネレーション(Passage Generation)」と言い換えられよう。それは1980年から2001911日までに生まれた層と区分できる。彼らは911を通過した世代である。あの日に自分が何をしていたかを覚えている、ないし誰かが覚えており、その時点で多くが通過儀礼を済ませていない未成年である。あの日以降に生まれた層は「ジェネレーションZ(Generation Z)」と呼べるかもしれない。

 ジェネレーションYは、アメリカにおいて、携帯電話の機能を最も使いこなしている層である。通話料収入や加入者数の伸び悩みのため、アメリカでも携帯電話の高機能化が進んでいる。移動電話ビジネスはいまやモバイル産業へと発展している。ジェネレーションYは、ケータイの新たな可能性を見出し、眼現時点で、彼らを最も表象するメディアである。

 そのケータイを片時も手放さないジェネレーションYは自我が目覚めるときに、ジョージ・W・ブッシュ政権の狂信と幻滅の社会をすごしている。このネオコンのワシントンはイラク戦争を強引に始めただけでなく、京都議定書にも加わろうとしない。今日の国際的な最重要課題は地球温暖化であり、彼らはエコロジー・ポリティクスの時代を生きる。それはもはやロマンスでは捉えられない。自意識の優位さの確認をしている場合ではない。百科全書的な体系的・総合的知識・認識に基づく「アナトミー(Anatomy)」の時代が到来する。ジェネレーションYは、先行世代と違い、自分探しに躍起になることはない。

 現在の環境問題は、地球温暖化が典型であるけれども、従来の枠組みでは捉えられない。未来性・グローバル性・カオス性がある。地球温暖化は現に起きている事態と言うよりも、このままでは訪れるだろう未来の危機である。また、温室効果ガスの地球規模への拡散が問題になっている。しかし、土壌汚染にしろ、海洋汚染にしろ、一定領域にある濃度の汚染物質が留まってしまうから起きたのであって、拡散できるのなら、被害は拡大しない。 さらに、直接的に生体に害を及ぼす有機水銀やダイオキシンと違い、温室効果ガスの一つである二酸化炭素自身は有毒ではなく、それがさまざまな要素と複雑に絡み合って温暖化を招く。大気だけでなく、海洋なども考慮しなければならず、温暖化の詳しいメカニズムはよくわかっていない。未来性・グローバル性・カオス性へと発想を転換し、環境問題への対応には総合的な認識が不可欠である。環境問題は対処療法的姿勢では十分ではない。数理モデルに基づくコンピュータ・シュミレーションで予測を立て、生活習慣病を予防するように、問題を生み出す現在の社会の仕組みを改善する必要がある。このシミュレーション技術はゲームと共通している。

 ジェネレーションXやジェネレーションYがどう思おうと、戦後の価値観やライフ・スタイルを創造し続けたのはベビー・ブーマーである。彼らは数、すなわち市場規模によってそれを可能にしている。コンピュータにしろ、ゲームにしろ、ベビー・ブーマーがその基礎を築いている。一方、ジェネレーションXが商業主義に反発を覚えるのは、それがベビー・ブーマーの数にものを言わせる発想に基づいているからである。ベビー・ブーマーの敵が「軍隊的な感覚」だったとすれば、ジェネレーションXでは、数の論理である。ジェネレーションXはベビー・ブーマーの意義と抑圧を清算し、育て、ジェネレーションYなど後の世代に引き継ぐという歴史的役割を担っている。ベビー・ブーマーが戦後の創業者だとすれば、ジェネレーションXは二代目である。この中継ぎのために、アイデンティティを過剰に求め、カスタマイズとコミュニティに躍起になる。しかし、「二代目というのは本来その責務があるわけでしょ。文化的遺産があるわけだから、その文化を育てなければいかんというね」(森毅『二代目はますます花盛り』)。ゆとりがなく、先代を超えるべく自己に囚われた二代目ほど破滅的なものはない。ジェネレーションXは克服されるべき世代であり、そのデカダンスによって存在意義がある。ネットやゲームは自分たちの世代のものだという思い上がりは独善的でしかない。ベビー・ブーマーが数の論理に陥りがちだとすれば、ジェネレーションXは独善性に入りこむ。ジェネレーションYはその悪癖に反発を覚えるだろう。世代はこのようにして交代していく。

 

Load up on guns,

Bring your friends

It's fun to lose and to pretend

She's over bored and self-assured

I know, I know a dirty word

 

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello.

 

With the lights out, it's less dangerous

Here we are now, entertain us

I feel stupid and contagious

Here we are now, entertain us

A mullato!

An Albino!

A mosquito!

My Libido!

Yay!

 

I'm worse at what I do best

And for this gift I feel blessed

Our little group has always been

And always will until the end

 

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello.

 

With the lights out, it's less dangerous

Here we are now, entertain us

I feel stupid and contagious

Here we are now, entertain us

A mullato!

An Albino!

A mosquito!

My Libido!

Yay!

 

And I forget to swat it

oh yeah, I guess it makes me smile

I found it hard, it's hard to find

Oh well, whatever, nevermind

 

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello, how low?

Hello, hello, hello.

 

With the lights out, it's less dangerous

Here we are now, entertain us

I feel stupid and contagious

Here we are now, entertain us

A mullato!

An albino!

A mosquito!

My libido!

 

A denial!

Nirvana “Smells Like Teen Spirit”

〈了〉

 

参考文献

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