1.戦後の日本の航空機産業の歩み

 本項は、一般財団法人・日本航空宇宙工業会『日本の航空宇宙工業50年の歩み』を参考にしている。

 1945年の敗戦に至るまで我が国の航空機産業は軍需産業として国家の強化育成策の基で発展し、零戦などに代表されるような世界的な傑作機を生み出すとともに、最盛期には約100万人の従業員を擁して年産2万5000機を生産した世界有数の産業であった。

 しかし、敗戦にともない連合国軍総司令部(GHQ)は1945年に、「兵器、航空機等の生産禁止令」を公布した。

 これにより、航空機工場の機械・設備はもとより、研究施設や設計資料などがことごとく破壊・消却されるとともに、航空機に関する活動は研究・教育活動に至る一切が禁止され、財閥解体などの産業政策と相まって我が航空機産業は文字通り消滅したのである。

 その後対日講和条約の発効を間近にひかえた1952年4月9日、GHQは「兵器、航空機の生産禁止令」を解除し、許可制に改める旨、通告した。

 これによって日本の航空機産業は自主的に航空機の生産と研究を再開することができるようになった。

 1952年の再出発はまさに廃墟からの再建であった。

 しかも、この間に航空機はプロペラ機からジェット機へと大きな技術的飛躍を遂げており、欧米先進国との圧倒的な技術格差の下での再出発であった。

(1)ライセンス生産による基盤の構築

 1952年の航空産業の再出発当時、折からの朝鮮戦争がもたらした米軍からのオーバーホールなどの受注によって事業のきっかけを得た日本の航空機産業は、防衛庁が採用した最新鋭機のライセンス生産を通して生産基盤を構築してきた。

 1955年から開始された「T-33」練習機、「F86F」戦闘機に続き1958年には早くも「P2V-7」哨戒機や当時最新鋭の超音速機「F-104J」戦闘機のライセンス生産に着手している。

 ライセンスによる国内生産は維持・整備基盤の国内確保などの防衛上の必要から行われるものであるが、当時の我が国航空機産業にとっては、製造技術はもちろん生産管理や品質管理など様々の管理手法、さらに規格・標準やマニュアルの体系などの面でも吸収するところが多く、生産基盤の形成・充実にとって効果が大きかった。

 ライセンス生産はその後も「F-4J」戦闘機、「F-15J」戦闘機、「P-3C」哨戒機、さらに各種のヘリコプターへと引き継がれ、今日までの航空機産業の展開を強力に支えてきた。