■国外退去の外交官はほとんどがスパイだった 


東京六本木に程近い飯倉。公安警察官が「狸穴(まみあな)」という隠語で呼ぶ場所から、ロシアの愛国歌「スラブ娘の別れ」が鳴り響いた。在日ロシア連邦大使館の門が開くと、大型のバスがゆっくりと出てきた。大使館の敷地内では、館員たちが手を振って見送っている。バスの窓ガラスにはスモークが貼ってあり、乗客の姿はまるで見えなかった。バスは報道陣のバイクに追い立てられるかのように、羽田空港に向かった。
 4月20日 羽田空港に到着したロシア外交官ら
日本政府は4月8日、ウクライナの首都キーウ近郊での民間人の大量虐殺を受け、日本に駐在するロシア外交官らの追放を決めた。この日、4月20日は、彼らの国外退去日だったのだ。

「外交関係に関するウィーン条約」では、受け入れ国は国内にいる外交官を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として、国外退去を求めることができると定めている。いわゆる「PNG指定」だ。

だが、外務省幹部はなんとも煮え切らぬ解説をする。

「今回はウィーン条約上のPNGではなく、国外退去の要請です。PNG通告でロシア側を刺激すれば、PNG合戦になってしまう。でも、事実上のPNGなんです」

PNGの手続きを取れば、ロシア政府は報復として、モスクワに駐在する日本大使館員にPNG指定をすることになる。日本政府は外交上の決裂を防ぐために、はっきりしない対応をとったのだ。
 4月20日 ロシア外交官らが搭乗したとみられる航空機
問題は、国外退去することになった「外交官」の正体だ。その選定には公安警察=警察の公安部門が深く関わっていたと、警察庁幹部は語る。

「国外退去となった8人のほとんどはSVRとGRUに所属するスパイです。彼らは外交官や通商代表部員に偽装して日本に駐在しているが、目的は諜報活動です。驚いたことに、日本の外務省はロシア大使館員の中の誰がスパイなのか分かっていなかった。だから警察が大使館員の属性、SVR、GRUの東京支局の構成などを情報提供し、追放すべき人物をアドバイスしたのです。今回追放されたのは幹部クラスではなく、中堅以下の下っ端です」

テレビでは、名残惜しそうに日本を去る家族連れの後ろ姿が映し出されたが、彼らの多くはロシアのスパイ=諜報員とみなされた人物だったのだ。

「SVR」とはロシア対外諜報庁のことで、旧KGBの国際諜報部門の後継機関で、全世界にスパイを派遣している。「GRU」ロシア軍参謀本部情報総局は、その名の通り軍の諜報機関で、情報収集活動からサイバー攻撃、暗殺まで任務とする。SVR、GRUともに、在日ロシア大使館内にそれぞれ東京支局を置き、合計70人ほどのスパイたちが、外交官や通商代表部員のカバー(偽装)で活動している。公安警察は、彼らを「機関員」と呼び、「行確(こうかく=行動確認)」と呼ばれる秘匿尾行によって、行動をウォッチしている。

ロシアスパイの摘発を専門にする警視庁公安部外事一課の捜査員はこう語る。

「私たちはCIAなどからの情報提供や不審行動で機関員を割り出します。訓練されたスパイは、常に尾行者を警戒していて、『点検』を行います。電車が発車する直前に飛び降りたり、突然立ち止まって反転したりして尾行者を発見し、撒こうとする。私たちはこうした不審行動を確認することでスパイを特定していきます」

本連載では、ロシアのスパイたちが、日本国内でどんな活動をしているのかを暴いていく。(全4回の1回目/第2回第3回第4回を読む)

筆者は、ロシアによるスパイ工作の犠牲になったある人物を取材することができた。日本政府の中枢、それも総理官邸周辺で働いていた男性だ。

「私が経験を語ることが世間の役に立つのなら、お話しします」

彼はこう前置きして語り始めた。