水島広子先生の『対人関係療法でなおす気分変調性障害』で救われた日記
今日はいつもより穏やかに過ごせた。こんなに穏やかさが持続したのは久しぶりだったと思う。何があったかを書き留めておく。
先日、病院で気分変調性障害だという診断を聞く。ずっとうつ病だと思っていたが違っていた。
昨日、水島広子先生の『対人関係療法でなおす気分変調性障害』を通読する。それで、
・自分をとにかくいじめる思考は症状である
他、気分変調性障害ということを何度も自分に言い聞かせる。
twitterでフォローしている人が自殺しそうになっているように見えたので、リプをしたら噛みつかれた。それでガチメンヘラを客観的に見て引いてしまい、反面教師のように思い、距離を置くことにした。
自分にブロックを許可するための理由を探し、相手の悪いところを探そうとしたが、結局自分を責め始め「きっと他人がこれを見たら私の方が悪いのだろうし、誰も私のみかたになってくれない、ずっとそうだった。あのときもあのときも私が悪いって言われたから私が悪いんだろう。きっと今回の出来事もこの後何年にもわたって私を苦しめる、だから人と関係するのは嫌なんだ。苦しそうだから声をかけてみようと思っただけなのに、だから私はダメなんだ」と思い始めるが、「自分をいじめる思考は症状である」の言葉を思い出し、ブロックしてから仕事をしている内に忘れる。
今朝、twitterでの出来事を思い出してみても、特にモヤモヤすることがない。
また昨日は、仕事が休みなので出かけたいと言っていたため、面倒ながら犬も一緒にいける場所を探し、母親が起きてくる前に父親へそのことを言うと、コロナがうつりそうなところは嫌だ、コロナがうつらなさそうな所がいいと良い、私はそれでやる気をなくして、もう仕事へ行ってくると休みなのに仕事へ行こうとしたが、それはやめていきなり京都へ行った。
運転しながら、高校の頃からの家族に対して感じていた面倒くささを思い出し、そういえば私はずっと一人になりたかったなと思った。出かけたかった母親も、面倒くさいことを言う父親のことも、私が我慢したり折れたり考えたりして、とにかく両親や弟の邪魔にならないようにやっていこうと思っていたのに、それも上手くできなくて、一人になりたかったんだということを思い出した。そして実際に家を出たけれど、一人であのややこしい家から出てきてしまったこと、残された3人が3人それぞれ家族間のしがらみを持っているのに私だけが抜け出して、実家からお金をもらって生活していることは、とても贅沢なことのように思えて罪悪感しかなかった。母親が出かけたいと言っていたのに自分だけが京都へ来たことは申し訳ないと思ってしまったし、父親がコロナがうつらないところならいいと言われて、ろくにとりあわず仕事だと言ってでてきたことも気にかかった。
「あ、今症状がでている。」ということに気がついて急に楽になった。実に家を出てから2時間以上考えていた。2時間はマシなほうで、本当に1週間くらい一つの問題を自分を責める方向で考えていることがある。
自分を責めることをとりあえずストップできたので、それじゃあ私はどう思ったのかを考えた。「母親は行きたい所があるなら行く、そうでないなら私に行き先を決めさせないで欲しい。父親はそういう面倒なところが嫌だから一緒にでかけたくない」一緒にでかけたくないと思った事に気がついて驚いた。一緒に出かけたくないんだと思ったら、急に気が楽になった。一緒に出かけたくないし、話しかけたくないし、話しかけてほしくない。母親についてはもっと家事をして欲しいし、家に居て父親の相手をして欲しい。私は全員の分の家事をしたくない。これが私が高校生の時から自分に禁止してきた考えで、そりゃ反抗期がなかったと言われるはずだ。それに気づいて、感情自体に善悪はないという水島先生の本の言葉を何度も反芻しているうちに、「これは私の感情なのだから、他人には関係がない。伝えるか伝えないかも私が主導権を握っている」と思うように急になってしまった。
そして今朝目が覚めて、少々父親が気まずそうだった(ように見えた)ものの、知らんぷりして仕事へ行った。今までなら、「私のせいで父親が怒ってしまった、しっかり謝らなければいけない、私が悪かったのだから」と思うところだし、今日もちょっと思ったけれど、「自分をいじめる考えは症状」と思い出して、対応した。
職場からの電話にもクソがと思ったけれど、それは私の感情なので今までのように「仕事の電話1本くらいでこんなに感情を上下させる私はダメだ」と思わずに、別にクソがと思ってもいい。ダメだと思うのは症状です。と考えておいた。いつもならクソがと思ってもいい根拠(相手の悪いところ)を探し始め、そんなことを探している自分に嫌気がさしているところだけど、それもやめた。
とにかく自分を苦しめるすべての思うこと考えることにおいて、「これは症状」という言葉をつけていくと非常に楽になる。これは予感でしかないのだけれど、カジュアルに人を嫌えるようになると思う。
悪いのは感情ではなくて、その後につづく思考なのだと思う。感情の後の思考が役に立たない、自分のためにならないものなのであれば、思考する必要がない。この迷路のようで自分ではどうしても止められない思考が、他人から見ると「考えすぎ」なんだと思う。なんで止められないかといえば、止めようとしているから。そして、水島先生の本によれば、この止められない迷路は症状なので「止まらないのは病気の症状だ」という事を思い出すと、途端に思考が止まる。まだ感覚を掴み始めたところなので、もっと経験がほしい。脳にこのクセをつけたい。過去自己嫌悪や自己批判、自分を責め倒して病んでいった原因を思い出して、書き換えてみようかと思ったけれど、結局その自己嫌悪たちが病気のせいだった可能性があると思うと、まあ、仕方ないか…。で終わってしまう。中学の頃からずっと、友達と遊ぶごとにやりとりすべてを思い出して、自分をどんどん嫌いになって、友達とあそばなくなっていったのも症状だったのだと思うと、力が抜けそうだ。今昔からの友達と呼べる人は一人しかいない。でも彼女は京都にいるのでそんなに会えるわけではないけれど、彼女ひとりで友達100人分くらいいる気持ちだし、Twitterには友達がたくさんいる。特に寂しくはない。
- ありとあらゆる物事への不安は、その物事に対峙したときに自分が自分を責め始めることへの心配であるので、自分を責めることが病気の症状なのだとすれば、そういう思考をしている自分に気づいて「あ、今症状出てる」で終わりになる。(※「考えてはダメ」ではなくて、「考えるのは症状」と思うのがコツ)
- 自分の力では戻せない自己否定と思い込みや、あまりに自分のことを責める人がいて動揺したら、その人との距離をすぐさま取り医者の指示通り薬を飲めばいい。
複雑な迷路だった問題がとてもシンプルになった。自分を傷つける人間はどんな理由があっても一緒にいない方がいい。これを続けてしまうと、相手が自分を傷つけるのは自分が悪いからなのだと責め続けて、本当に病んでしまうことは経験で知っている。
マインドフルネスだとか瞑想だとか、色々近いことはやってきたけれど、どれも惜しかった。病識が欠けていたので、マインドフルネスや瞑想をしても、自分が悪いという思考は頭に侵入してくるし、止めることができなかった。嫌な思考、自分を責める思考が止められないということは頭の病気なのだという知識がなかった。
小学校の頃と中学校以降と今の性格が違うとか、思い込みが激しすぎるとか、全部症状なのかもしれないから、母親の指摘はあながち間違いじゃなかったんだな。
あと、肌の調子が良かったのも、今日1日の気分が良かったことと関係していると思う。
これが持続すると、コソコソ書いている小説が全く書けなくなるんじゃないかという心配をちょっとしているけれど、たぶん大丈夫だし、もしかしたらもっと書けるようになるかもしれんから、書きたくなるのを待とう。
困った時用に図にしておいた。