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「やんちゃ坊主海老蔵が團十郎になる日」|林真理子

夜ふけのなわとび 特別編

林 真理子

 この男には華がある――。当代随一の色男の素顔、歌舞伎界最高峰の大名跡・市川團十郎襲名の未来。歌舞伎を見て30年の林真理子さんが語る。

 あのやんちゃ坊主だった市川海老蔵さんが、ついに襲名して「十三代目市川團十郎白猿(はくえん)」になる――。2020年5月から始まる予定だった襲名披露公演は残念ながらコロナ禍で延期されたままですが、とても感慨深いものがあります。

 

 実は私、まだ高校生で新之助と名乗っていた海老蔵さんと同じところで、日本舞踊の稽古をしていました。藤間藤太郎(ふじまとうたろう)先生のところに、私は30代後半の6年間習っていましたが、そこに海老蔵さんは女形の踊りの稽古のために通っていたんです。

 最初の発表会、私は国立劇場で『藤娘(ふじむすめ)』を披露しました。私が「どっこいしょ」って感じで立ち上がったら、爆笑が起きた。それを見に来ていた海老蔵さんは鮮明に覚えていたそうで、20年以上経ってから、最近こう言われました。

「あれは、どういう神経でやったの?」

 別に人様からお金をとっているわけじゃないからいいじゃないですかって言い返しましたけど、失礼しちゃいますよね(笑)。

 初めて会った頃の海老蔵さんは、まだ遊びたい盛りで、かわいらしいやんちゃ坊主という感じでした。

 私が「あなた、梨園の御曹司なんだから」って言ったら、「リエンって何?」って聞き返してきたほど。「菊之助と近くで待ち合わせしてる」と言うから、「私も行っていい?」って聞いたら、「ダメ」ってはっきり答えました。稽古が長引くと、「先生、もうわかったからいいよ」とか言って、師匠に怒られていたこともありました。

(左から)先代團十郎、海老蔵、希実子夫人、翠扇

 そして、海老蔵さんが20歳ぐらいの頃のこと。尾上(おのえ)菊之助さんや尾上辰之助(現・松緑(しようろく))さんと3人で“平成の三之助”と呼ばれ、次代の歌舞伎界を担う若手役者として脚光を浴びていました。

 雑誌の対談でお目にかかったら、照れ屋さんでわがままでムラッ気がある御曹司でしたが、「父親をいちばん尊敬している」ときっぱり言い切る姿に驚いたものです。当時流行っていた「たまごっち」をいじって、私の話なんかあまり聞いていなかったけど(笑)。

 でも、舞台の上だとほんとうに見栄えがいい。体も大きいし、目もお父さん譲りですごくきくし、女形をやってもきれいでした。

 新之助時代の海老蔵さんが初めて『鏡獅子(かがみじし)』(『春興(しゆんきよう)鏡獅子』)や『助六(すけろく)』(『助六由縁江戸桜(ゆかりのえどざくら)』)を演じたのを見たことは、歌舞伎デビューが30代と遅かった私にとって自慢です。役者が初舞台や初役を踏み、成長していく姿を見守るのも、歌舞伎の楽しみのひとつですから。

 まだ10代半ばだった頃の『鏡獅子』の踊りには見惚(みと)れてしまいました。奥女中の弥生の初々しい踊りと、獅子の精の勇壮で豪快な踊りを見事に演じわける姿は、歌舞伎座で鳴り止まなかった拍手とともに、いまでもよく覚えています。

 また、歌舞伎十八番のひとつ『助六』の花川戸助六を演じたときのこと。長身で美しい助六が花道からさっそうと登場するやいなや、客席全体から「ほう……」というため息が漏れました。

 額に江戸紫のはちまき、黒紋付の下に緋色の襦袢、綾瀬の帯と鮫鞘の刀と印籠、蛇の目傘――いなせな江戸っ子姿がよく似合うんです。

『玄冶店(げんやだな)』(『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』、源氏店の場)の“切られ与三”も印象深いですね。江戸の小間物屋の若旦那だった与三郎は放蕩して、木更津の縁者に預けられてしまう。そこで出会ったのが深川の芸者で、土地の親分に身請けされたお富。二人の恋はバレてしまい、与三郎は斬られ、海に投げ込まれて行方知れずに。何とか一命をとりとめて無頼漢となった与三郎は、後を追って死んだはずのお富と再会するというストーリーです。

 お富の家の前で使いの者を待つすらりとした立ち姿。手拭いをかぶった横顔に、男の美しさや弱さ、甘さ、狡さが凝縮されていた。思わずうっとりしました。

「いやさお富、久しぶりだなあ」の名ぜりふにはしびれましたね。

玉三郎さんからもらった宝物

 振り返って考えてみると、私は完全に海老蔵さんの“追っかけ”でした。

 2004年、「十一代目市川海老蔵」を襲名したとき、パリの披露公演にも行きました。このときは、ルイ・ヴィトンがスポンサーをしていたと思います。

 役者さんたちと偶然ホテルが一緒で、朝食を摂っていたら、海老蔵さんが通りかかって、「見に来たよ」と写真を撮ったり。パリ・シャイヨー宮での公演は、海老蔵さんは、フランス語での口上はたどたどしかったものの、『鏡獅子』と『鳥辺山心中(とりべやましんじゆう)』を堂々と演じられていました。

 好きな役者さんは、海老蔵さんのほかにもいます。多すぎてお名前をあげるとキリがないですが、なかでも見惚れてしまうのは坂東玉三郎さん。玉三郎さんと出会わなければ、私はこれほど歌舞伎好きにはならなかったかもしれません。

 たとえば、『助六』で演じた揚巻(あげまき)。舞台は吉原遊郭で、傾城(けいせい)(最高位の遊女)の揚巻が豪華な行列をなして登場します。玉三郎さんの揚巻は、およそこの世の人とは思えないほどの美しさ。もともと端正なお顔立ちですが、手の出し方、男性を見上げる表情、首の角度、お化粧や身のこなしにいろいろな工夫がされている。江戸時代の男性が考えた「理想の女性」を超えて、女性すら美しいと嘆息する女性を作り上げているのでしょう。「酔ったわなあ……」としな垂れる揚巻の姿に目が釘付けでした。

 旧歌舞伎座の閉場式で、ずらりと一堂に会した役者のなかで、玉三郎さんの『道成寺(どうじようじ)』(『京鹿子娘(きようがのこむすめ)道成寺』)の踊りは素晴らしかった。その最後に、玉三郎さんが後ろ向きで、いちばん前の席で見ていた私の膝の上に投げ入れてくれた手拭い。私の一生の宝物です。

 玉三郎さんと片岡仁左衛門さんが共演した『桜姫(さくらひめ) 東文章(あずまぶんしよう)』、『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』などは全部見ています。妙にひねくり回さない、心のこもったお芝居だと思います。

 いまの歌舞伎界は、年齢といい実績といい、仁左衛門さん、玉三郎さんが引っ張っています。そして、尾上菊五郎さん、松本白鸚(はくおう)さん、中村芝翫(しかん)さん。さらに、松本幸四郎さん、中村獅童さん、中村勘九郎さん・七之助さん兄弟、市川猿之助さん、市川中車さん、尾上松也さんといったテレビのドラマでも活躍する方々が続く。

 大御所と若手をつなぐ要だった中村勘三郎さんや坂東三津五郎さんが、相次いで亡くなられたことは、実に惜しいことでした。

新しい歌舞伎に挑んだ故・中村勘三郎
踊りの名手だった故・坂東三津五郎

好きな役者を“追っかけ”

 たくさんの歌舞伎役者の方に雑誌の対談などでお目にかかりました。とりわけ勘三郎さんは、感激屋で仲間思い、こうと決めたら果断に実行する強い信念をお持ちの方でした。

 30歳を過ぎてから歌舞伎を見に行くようになった私にとって、勘三郎さんが手掛けたコクーン歌舞伎や平成中村座が、わかりやすく、面白かったことに救われました。

 たとえば、劇中で、「御用だ」と岡っ引きに追われる。すると、役者さんたちの後ろの搬入用の扉が開き、渋谷の通りの風景が見える。本当に追われているような演出がされるんです。客席の間を逃げ回ったり、ロビーには屋台がずらっと並んでいたり……とにかく楽しい。客席にいる私を見つけた勘三郎さんが「夜ふけのなわとび〜」と舞台で縄とびをされたこともありました。

 勘三郎さんは交友関係も広く、演出家の野田秀樹さんと組むなど、歌舞伎に新しい風を入れました。勘三郎さんのすごいところは、革新の一方で、伝統的な古典にもしっかりと取り組んだことです。仙台藩のお家騒動を下敷きにした『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』では、威厳と優しさをもった乳母(めのと)・政岡が忘れられません。小悪党が大店の娘を誘拐して身代金を取ろうとする『髪結新三(かみゆいしんざ)』(『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじよう)』)では、新三の勘三郎さんが舞台に登場するや、劇場の空気がさっと江戸の初夏に変わったものです。

 勘三郎さんは自らを「歌舞伎界の広報部長」とよく言っていましたが、歌舞伎と見物人を繋いでくれた。私がこうして歌舞伎にハマれたのは彼のおかげです。

 このように、贔屓(ひいき)の役者を“追っかけ”してみるのは、歌舞伎初心者にはおススメです。最初のうちは、踊りがあったり、一幕の時間が短いものや明るく華やかで分かりやすい演目がいいでしょう。

『助六』『勧進帳(かんじんちよう)』以外にも、成田屋の歌舞伎十八番の内『暫(しばらく)』『鳴神(なるかみ)』『毛抜(けぬき)』、河竹黙阿弥(もくあみ)の『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』(『弁天娘女男(べんてんむすめめおの)白浪』)、鶴屋南北の世話物『四谷怪談』、舞踊なら『道成寺』や『藤娘』、『お祭り』などが間違いなく楽しめる演目です。

 初心者にはイヤホンガイドが必須。「西から登場いたしましたのは〜でございます。いなせなこの男、風呂から帰って参ります。肩への手ぬぐいのかけ方にご注目下さい」などと、見るポイントを解説してくれます。

 歌舞伎に詳しい人と一緒に行って、帰りにお茶でも飲みながら何が良かったか感想を言い合うのもいい。

 そして、歌舞伎は庶民の楽しみで、堅苦しいものではないと知ること。これが一番大切です。

 以前、ある役者さんに、「歌舞伎はなぜあんなに長いんですか」と聞いたことがあります。すると、

「その世界にどっぷり浸かってもらうには、ある程度長くないと難しいんです」

 とのこと。

 ただ、なにも最初から最後まで集中する必要はありません。幕間にお弁当を食べて、眠くなったら寝ればいい。ちょうど目覚める頃に、再び見せ場が来ていますから(笑)。

 私は毎月歌舞伎を見に行っていて感じるのですが、観客の高齢化が進んでいます。コロナ禍の真っ只中は、2000ほどの席にお客さんがわずか二十数人ということもありました。

 20年ほど前は、若い女性向けの雑誌などでも「浴衣を着て歌舞伎に行こう」などという特集があったのですが、いまでは若い女性客の姿はあまり見かけません。ご年配の方々もセーターにズボンとラフないでたち。着物とまでは言わずとも、もう少しおしゃれをしていらしたらいいのにと思いますが。

歌舞伎座の舞台に立って欲しい

 なぜ、歌舞伎を見る人が減っているのか。

 次のスターがなかなか現れないことが大きな原因ではないでしょうか。

 いみじくも、海老蔵さんが“たまごっち少年”だった19歳のとき、私との対談でこうおっしゃっていたんです。

「僕たちの世代でもっと問題が出てくるような気がするんです。役者が少ないですからね。血を引いている人間が」

 あれから二十数年が経って、彼自身は相変わらず、当代随一の色男。不思議なことに、テレビにほとんど出演しないにもかかわらず、歌舞伎を見ている人も少ないのに、彼の知名度は抜群で、お客さんを呼べる、まさに千両役者です。

 プライベートの話題がお盛んで、役者としての資質を疑う声も一部にはありますが、役者なんて舞台に立ってナンボなんです。

 海老蔵さんには、歌舞伎界の危機を受け止め、責任を全うして欲しいと思うのです。六本木歌舞伎などに力を入れるのもいいですが、やはり本場の歌舞伎座の舞台にこそ立って欲しい。

 團十郎を襲名するということは、歌舞伎界の“本家”を継ぎ、リーダーになるということ。團十郎は成田不動への信仰から、自ら「生き不動」に扮する神霊事(しんれいごと)や、超人的な力で悪を畏服させる荒事(あらごと)を家の芸とし、元禄の昔から300年以上にわたって脈々と継がれてきた大名跡なんです。

 成田屋の歌舞伎十八番で華やかな襲名披露をしていただきたい。

 コロナも、不景気もみんな吹っ飛ばす、にらみを待っています!

 

(はやしまりこ/1954年、山梨県生まれ。近著に『夜明けのM』(文春文庫)、『カムカムマリコ』『李王家の縁談』(文藝春秋)、『奇跡』(講談社)、『小説8050』(新潮社)など。『奇跡』は、梨園の妻であった博子と、世界で活躍する写真家・田原桂一の秘めた純愛を描き、10万部を超えるベストセラーに。)

source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号

genre : エンタメ 芸能

文春リークス
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