策謀家として史上名高い鎌倉幕府初代執権北条時政を、かくなる愛されキャラへ変えたのは、ひとえにこの方の快(怪?)演あってこそ。梨園の大ベテランでありながら映像の世界では初心者と謙遜なさるそのお人柄に迫る!
(ばんどうやじゅうろう 歌舞伎役者。1957年生まれ。東京都出身。往年の映画スターでもあった初代坂東好太郎の息子。73年、初舞台。78年、名題昇進。二代目市川猿翁のもとで精進を重ね、スーパー歌舞伎、海外公演、平成中村座公演などにも多数参加。息子に女形の初代坂東新悟がいる。)
阿川 去年、三谷幸喜さんにお会いしてお話をうかがったので、「鎌倉殿の13人」を楽しみに観てます。初回はこの面白いお父さん誰だ? と思ったんですけど、2回目に「彌十郎さんだ!」って気づいて、びっくり。
彌十郎 ハハハ。まさか僕が大河なんて、自分でも驚きましたよ。
阿川 鎌倉時代のことはよく知らないけど、私にとって北条時政という人間は、彌十郎さんの演じてらっしゃる子煩悩の女好きのイメージが定着しちゃいました。
彌十郎 それは嬉しいなあ。しかし三谷さんもチャレンジャーですよね。僕が映像で実績ないのをご存知なのに、こんな重要な役に起用してくださったんだから。
阿川 私も、なんか役は余ってません? って聞いたんですけど……。
彌十郎 色んな人にそう聞かれるって言ってましたよ(笑)。僕は以前、「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」という舞台でご一緒した際、「テレビやらないんですか?」とお声がけいただいて。「やってみたいですけど、機会がないもんで」とお答えしたら「じゃあ一度、やりましょう」と言ってくださったんです。てっきり社交辞令だとばかり思ってたら、まさかですよ。
阿川 テレビドラマのご経験はぜんぜんなかったんですか?
彌十郎 時代劇に数度、現代劇に一度呼んでもらったことがあるくらい。
阿川 じゃ、テレビに関してはけっこう初心者?
彌十郎 そうそう、まったくその通り。画面から退場するのに、その動線の上にカメラがあって前に立ちはだかって撮影を邪魔しちゃうなんてこともありました。
阿川 舞台じゃカメラの位置なんて気にしませんもんね。
彌十郎 こっちは演技だけしてれば、良きように撮ってくれるもんだと思ってたら、当たり前だけどそうじゃないんですね。レンズの前に立ちはだかった僕を見るカメラマンさんの目が忘れられませんよ(笑)。他の役者さんたちは、自分がどこからどう撮られているかをちゃんと認識なさっていて、さすがだなと思います。
阿川 ほかにドジはありました?
彌十郎 今回、NGだけは出すまいと、セリフは完璧に覚えて撮影に臨んでるんですけど、同じシーンをカメラの角度を変えて何度も撮ってると混乱しちゃいますね。
阿川 同じ場面でも、彌十郎さんを画面のメインにしたり、背中から撮ったりして、何回か撮るんですよね。
彌十郎 自分が中心の時はとちらないんだけど、相手役に徹する場合につっかえちゃったりするんですよ。そういう時は(六代目片岡)愛之助さんが「お兄さん、大丈夫ですよ」と子供を諭すように優しくしてくれるから救われてますね。
阿川 テレビを見ている分には、何の問題もなく自由に演じてらっしゃるように見えますよ。
彌十郎 それはよかった(笑)。撮影が去年の6月にスタートしましたんで、この1年弱、初めての経験ばかりで勉強させてもらってます。
三谷幸喜さんから「長屋のオヤジで」と
阿川 演技の面ではどうなんですか? 歌舞伎とは違うでしょ?
彌十郎 それは意識してますね。いかに歌舞伎味を出さないか。
阿川 うっかり見得を切っちゃったりして(笑)。
彌十郎 (四代目市川)猿之助さんを拝見してると、すごいじゃない? カブキーって感じで演じてらっしゃる。あれを見ると、さらっと演じてばかりじゃまずいかなと、ちょっとムズムズしてくるんですよ。
阿川 三谷さんからなんか注文はあったんですか?
彌十郎 撮影に入る前に「江戸の長屋のオヤジのつもりでやってください」とメールを頂戴しましてね。それを読んだ瞬間、今まで自分が持っていた北条時政のイメージは捨てなきゃいけないと思いました。
阿川 歌舞伎で時政って出てくるんですか?
彌十郎 まあ、まれに。出てきても重厚で恐ろしい爺さんなんですよ。だから歌舞伎をご存知な人ほど、僕のやってる時政をご覧になると「なんだこれ」って思われるかもしれません。でも、今回は三谷さんの意に沿うように長屋のオヤジとしての時政をやってますね。現状、脚本を最後までいただいてるわけじゃないから、これから先、時政がどうなっていくのか、大河をご覧の皆さんと同じように僕も楽しみにしてるんです。史実としては結構ダークで血なまぐさい時代だと思うんだけど、三谷さんの脚本で日曜のお茶の間で見られるドラマになってるんだからすごいですよね。
阿川 ちゃんとホームドラマにもなってますもんね。
彌十郎 そうそう。北条家の役者さんとも仲良く楽しくやってます。
阿川 映像の新米としてやりにくいことってありますか?
彌十郎 特に歌舞伎じゃ女性の役者さんと一緒に演じることってないから、最初は緊張したし戸惑いましたよ。歌舞伎だと女形を抱き寄せるのは、見栄えのいい形だけだったりするんだけど、映像の場合こうグッと情熱的に抱き寄せる必要もあるわけで、どこまでやっていいのやら……。
阿川 なんたって恋女房が宮沢りえさんだもんね!
彌十郎 だから、りえさんに「初めてで分かんないから」って言うと「どっからでもかかってらっしゃい」って言われまして。
阿川 アハハ。なんて頼もしい。
彌十郎 で、放送を見ると、やっぱりどこか遠慮してたりするんですけどね(笑)。いや、本当に日々勉強ですよ。主演の小栗旬さんもいろいろ気を遣ってくださってると思うな。要所要所で「父上、カッコよかったですよ」なんて言ってくれる。気恥ずかしいんで、聞こえないフリをしてますが、励まされますね。
阿川 彌十郎さんは、歌舞伎の初舞台もわりと遅かったんですよね?
彌十郎 17歳ですね。
阿川 なんで?
彌十郎 ええ。理由はまあいろいろあって、ひとつは父、坂東好太郎が長く歌舞伎を離れていたこと。
阿川 お父様は明治生まれだそうで。
彌十郎 父が45歳の時の子供で、よく孫なんじゃないのって言われたもんです。
阿川 ごきょうだいは?
彌十郎 一番上に坂東吉弥がいましたが、早くに亡くなりました。でも、長男の吉弥、末っ子の彌十郎の間に何人か異母きょうだいがいます。
阿川 ん?
彌十郎 それこそ鎌倉時代のような価値観の家ですから(笑)。
阿川 他のごきょうだいとはお付き合いってあるんですか?
彌十郎 吉弥が立派な人間で父に代わって音頭をとっていたのもあって、父が死んだあとも異母きょうだいで仲良くお付き合いしています。
阿川 お父様、よほどイイ男だったのね。昔のお写真を拝見すると、すごい美男子ですもんね。
彌十郎 まあねえ。昔々、長谷川一夫さんと高田浩吉さんとウチの親父で「下加茂の三羽烏」と持て囃されていたらしいですから。
背が高くて役がつかなかった
阿川 お父様は歌舞伎だけじゃなくて映画の世界でもご活躍なさった。
彌十郎 そうそう。父のキャリアのスタートは歌舞伎だったんですけど、外でできた子だったのでちょっと不遇でもあったんでしょう。ちょうど映画が隆盛し始めた頃に父に白羽の矢が立って、歌舞伎とは一時縁遠くなってました。で、さっきも言った通り僕は遅い子供でもあったし、父が歌舞伎にカムバックした頃はもう小学校に上がる頃でした。
阿川 普通、梨園の子は幼稚園くらいで初舞台踏むんですよね?
彌十郎 それに僕は身長が高すぎるっていうのもあってですね。よく半ズボンの似合わない小学生と言われましたよ。中1で160超えて、高1で180超えてましたからねえ。
阿川 背が高いと役って付きづらいものですか?
彌十郎 まず子役としては難しい。大人の役者さんと同じ背丈じゃおかしいですからね。それに例えば義経に付き従う四天王の役なんかも、一人だけ突出して背が高いと見栄えが悪いからなかなか役をもらえない。もちろん、女形なんてとてもとても。役がつかなくて困ってるうちに、若い役者はどんどん僕を追い抜いていくしね。ワキで役が付き始めたのも遅かったですけど、それ以降もワキ役だという認識が続いてね。
阿川 もう歌舞伎は辞めてやるって気持ちにはならなかったんですか?
彌十郎 他の演劇を勉強することはあっても、歌舞伎を辞めようとは思わなかったですね。やっぱり歌舞伎が一番興奮するんです。特に三代目市川猿之助(後に二代目市川猿翁)さんの舞台が印象的だった。それから父の義兄弟でもあった八代目坂東三津五郎の伯父、十四代目守田勘弥の伯父。カッコよくてね。ああいう役者になりたいと長年思ってきました。
阿川 じゃ、なおさらいい役が回ってこなくて、おつらい時期は長かったですか?
彌十郎 フフフ。いまだにつらい時期かもしれません。他の役者に嫉妬することもありますしね。
阿川 たとえばどなたに?
彌十郎 一番最初は一つ歳上の(十八代目中村)勘三郎さん、同い年の(十代目坂東)三津五郎さんでしたね。子供の頃から知ってる兄弟みたいなものでしたし。まあ、嫉妬はするんだけど、二人の力量の凄まじさもよく分かるからなおさら複雑でした。まあ、その二人は僕の気持ちを知ってか知らずか、ずいぶん可愛がってくださいましたけど。特に勘三郎さんには本当にお世話になった。学校も同じところに通えって言われましたし。
阿川 同じところ!?
彌十郎 勘三郎さんは暁星中学校に通っていて、小6の僕に「中学受験しろ」って言うんですよ。公立の小学校だし受験なんか考えてなかったからあわてて家庭教師についてもらって中学受験。ギリギリ補欠で入れてもらいました。勘三郎さんも自分の学校に呼んだから、先輩として仲良くしてくれるんだろうと思ってたら、あの人芝居が忙しくて学校に全然来やしないんです(笑)。
阿川 なんで呼んだんだ!(笑)
彌十郎 結局、学校でほとんど会いませんでしたからね。まあ大人になってからはしょっちゅう一緒に飲んで遊んで、でしたけど。若い頃はよく勘三郎さんに芝居のことを話しました。僕が「芝居したい。役が欲しい」と嘆くと「分かってる。俺は分かってるから」といつも励ましてくれました。その後「平成中村座」の公演に呼んでくれたりもしましたしね。
阿川 勘三郎さんも三津五郎さんも亡くなられて……。おつらかったですね。
彌十郎 よくしてくださった先輩がいなくなるのは本当につらいですね。昨年亡くなった(二代目中村)吉右衛門兄さんにも可愛がっていただきました。吉右衛門さんも背の高いほうだったから「お前、背がでかいから苦労してるだろ? 俺もそれでずっと苦労してきた。だけど、婆やに『坊ちゃん、うまくおなんなさい。うまくなったら、背の高い分目立つんですから』って言われたよ。お前もうまくなれよ」と、十代の頃に活を入れてくださってね。いや、本当に、この言葉を支えにして生きてきました。一生忘れられない言葉をいただきましたよね。お兄さんのおやりになったことのある役で、大好きな役を僕がやらせてもらうことがあったんですけど、その時なんかはお家で直に稽古までつけていただいたこともあります。後で舞台のビデオもご覧になってから、わざわざ電話をくださって「お前、あそこはもうちょっとこうした方がいいよ。芝居が好きだから、言ってることわかるだろ」。こんなにありがたいことはないですよ。
阿川 やだ、泣いちゃう。大河で活躍してるお姿、観ていただきたかったですね。
彌十郎 そんなこと言われると、僕も泣いちゃいそうですよ!
阿川 実は彌十郎さんと私は結構古い仲でして、昔よくお酒飲んだり騒いだりしましたよね。あの頃は、猿翁さんの門下にいらした。
彌十郎 懐かしいですね。まだ僕は30代でした。(三代目市川)右團次くんや(二代目市川)猿弥ちゃんたちと「二十一世紀歌舞伎組」という集団で活動していた頃のことです。父は僕が25の時に死んだんですが、亡くなる半年くらい前に猿翁さんに連絡して、僕の身柄を預かってくださるようお願いしてくれてね。父が死んだあと、猿翁さんは「親父さんの言葉は遺言だったと思うから、私はあんたの面倒をずっと見るよ」とおっしゃってくれた。40で猿翁さんの門下を離れるんですが、15年間、お側で本当にいろんなことを勉強させてもらいました。
阿川 猿翁さんといえばスーパー歌舞伎が有名で、かなり新しいことに挑戦なさってましたよね。
彌十郎 猿翁イコールスーパー歌舞伎とはよく言われるんですけど、決してそれだけじゃないんです。かねがね芸道には三つの柱があるとおっしゃってた。古典の復活、家芸の継承、そして新作。猿翁さんのその考え方には本当に共感できました。いまも強く影響を受けていると思います。
阿川 具体的には?
彌十郎 80年代の中頃かな。猿翁さんがヨーロッパで演出なさったオペラの演出助手をさせていただいたり、歌舞伎の海外公演に連れて行ってもらったんですけど、とにかく現地の方から大変な好評を博したんですよ。ちょっと日本では考えられないくらいの盛り上がり方で、どこの劇場でも満員、大熱狂、大カーテンコール。しびれましたね。現地の劇場のスタッフから「もう公演終わり? これなら半年くらいロングランできるのに」なんて言われてね。あの頃から、ヨーロッパで歌舞伎を根付かせたいという思いがふつふつと沸いていまして。
阿川 でも当時から海外公演自体は珍しいものじゃなかったでしょう?
彌十郎 何年かに一度、向こうでツアーして「やってきました。はいまた数年後」じゃダメだと思うんです。本当はもっとコンスタントに公演して、ヨーロッパの人たちにとっても歌舞伎がオペラやミュージカルのように当たり前になったらいいなと思ってます。それにほら、日本の人は、海外で流行ったものを受け入れるのが好きでしょ?
阿川 はいはい。特に海外で評価されたものが逆輸入されると急に国内でも評価が上がったりして。
彌十郎 国内の歌舞伎人気をもっと高めるためにも、海外から盛り上げていきたいという魂胆もありますね。
阿川 その企みはもう動き始めてるんですか?
彌十郎 息子の新悟と「やごの会」というのを立ち上げました。
阿川 新悟さんは女形でいらっしゃるんですって?
彌十郎 はい。息子と組んでまずは日本で公演してみたんです。そしたら役者、裏方ともにいい具合で芝居ができて、お客様の評判もなかなか良かった。これなら上手く行くかもしれないと思って、2016年にパリ、ジュネーブ、マドリードを回ってきました。
阿川 おお〜。で、向こうの評判は?
彌十郎 「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」という、日本でも敬遠されちゃうような一番難しい出し物を演(や)ったんです。演目自体はファンタジーの要素もあり、見栄えもするしウケる予感はありました。だけど、なにせ言葉が難しいでしょう。だからいろいろ工夫も凝らしましてね。幕が上がる前に、あえてガイダンスをやることにしたんです。同時通訳をつけて、僕自身がストーリーを簡単に解説して、お客様に大筋を理解してもらう。それで本番は、あえてイヤホンガイドをやめちゃって、舞台に集中していただくと。おかげさまで大成功でした。スペインじゃ8回もカーテンコールに応えちゃった。
阿川 8回も!
彌十郎 嬉しかった〜!!
阿川 もう次の公演の予定も決まってるんですか?
彌十郎 それがこのコロナでしょう。あちこちにお願いごとを差し上げて、さあこれから具体的に計画を……という段階で世界中が大変なことになっちゃったので、正直未定なんです。それに海外旅行にも行けないから、大好きなスイスに行けないのもつらいんですよ。
阿川 スイスお好きなんですか?
彌十郎 今迄で21回行ってますから、自分でもよっぽど好きなんだろうと思います。向こうに行ったら1日5時間は山歩きして、空気を吸いつつ山や空、草花を撮ったり。いい運動にもなりますし、気持ちに張りも出るんでやめられませんね。コロナもあってもう3年もスイスの山に登ってないかと思うと、体がウズウズしてきますよ。
パリ歌舞伎座という夢
阿川 ご家族で行かれるんですか?
彌十郎 家族は山歩きに興味がなくてねえ。僕の撮った写真を見せてあげようとしても、「どうせ山でしょ」なんて言って誰も部屋から出てきてくれないんです。いま、家族の中で僕の味方は孫だけですね。スイスの写真を見せて「きれいなお山でしょ。今度じいじと行こうね」と言うと「うん!」と言ってくれる。もう可愛くて仕方ないですよ。
阿川 時政は孫煩悩でもいらっしゃいましたか(笑)。
彌十郎 スイス旅行も恋しいですが、近いうちにユーロ歌舞伎を当たり前のイベントにしたいとは思ってます。そして究極の目標は、欧州に歌舞伎専門の劇場を建てることですね。
阿川 また壮大な!
彌十郎 パリ歌舞伎座ね。借りた劇場だとどうしても制約があるでしょう。せり上がりがなかったり、まっすぐな花道が用意できなかったり。それに、ユーロ公演の度に、大道具一式を船便で送るお金もバカにならないし。あちらに専門の劇場を作れば、僕たちだけじゃなく他の役者さんも公演しやすくなるでしょうしね。これは夢というより目標なんですよ。最近はほうぼうでこの野望について語っております。
阿川 でも今回の大河で今まで以上にお顔が売れるから、実現は間近でござりますな!
彌十郎 いろんな人から言われますよ、それ。
阿川 父上、お忙しくなりますぞ〜。
彌十郎 いやあ! わしゃ伊豆へ帰る!(笑)
一筆御礼
飲んで騒いだあの日々から二十数年ぶりのお目もじ。まことに嬉しゅうございました。あの頃の彌十郎さんはたしかに二十一世紀歌舞伎組のお仲間のなかでは少し歳上で、どこか天真爛漫にはなり切れぬご様子が窺われました。が、今回の大河では、演技こそベテランながらも映像界の新参者として、本来の末っ子気質を存分に発揮し、ものすごく楽しんでおいでのオーラが満ち満ちておりましたぞ。デビューが遅かったことも、背が高すぎることも、幾多の悔しさを乗り越えたからこそ勝ち取った味と技量を携えて、ご子息ともども確たる夢に向かって邁進しようとなさる彌十郎さんの意気込みが、ちょっと細い二つの目の奥からキラキラと輝いて見えました。大好きなスイスでのんびり過ごすことはまだしばらくできそうにないですが、彌十郎さんの本領発揮はまさにこれから。伊豆なんぞにお戻りになっている暇はござりませぬぞ。どうかご覚悟を!
source : 週刊文春 2022年5月5・12日号