「この船に乗らないわけにはいかない。それが僕の人生なんです」。かつて涙を浮かべて歌舞伎界入りを宣言した香川。彼の胸中を親族が語る。
きのしまさる 1935年神奈川県鎌倉市生まれ。父は二代目市川小太夫、伯父は初代市川猿翁。鎌倉学園中高時代に演劇部に参加し、劇団民藝の演出家・松尾哲次の研究会で演出や演技を学ぶ。明治大学演劇学科卒業後、文化放送に入社。63年にフリーとなり、『3時のあなた』(フジテレビ系)などで司会を務める。著書に『歌舞伎 芸と血筋の熱い裏側』。
「まさるさーん、あなたに会いたかったー」
香川照之君は、数十年ぶりに再会したとき、そう言って私の手を握りました。彼独特のパフォーマンスですよ。不思議と悪い気はしませんでしたね。
私は、香川君からみると曽祖父の甥にあたります。香川君の父・三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁。本名・喜熨斗(きのし)政彦)より私の方が4歳上で、子供の頃は一緒に築地の明石町の本家の大きな屋敷でかくれんぼしたり、走り回ったり、木登りしたものです。
もう50年以上前のことになるでしょうか。喜熨斗一族の法事が(千代田区)麹町の家であったとき、香川君が母で女優の浜木綿子さんに連れられていた姿を覚えています。まだ小さくて、かわいくってね。当時は一族の誰もが「この子がゆくゆくは團子(だんこ)になるんだ」と思っていました。
ところが――。
それからほどなくして、猿之助は妻子が暮らす家を出て、踊りの師匠で既婚者だった藤間紫さんのもとへ走った。結婚からわずか3年後の1968年に浜さんと離婚。そりゃ、びっくりしましたよ。以来、猿之助は離婚の理由を語らず、息子と会おうとしなかった。
香川君は浜さんのもとで、歌舞伎の世界とは関係なく育ち、小学校から暁星学園に通い、東京大学文学部へ進学。大学を卒業した翌年の89年、大河ドラマ『春日局』の小早川秀秋役で俳優デビューした。それから、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した中国映画『鬼が来た!』などに出演し、NHKのドラマ『坂の上の雲』で正岡子規役を演じ、名実ともに日本を代表する俳優としての地位を固めていきました。
歌舞伎界でも珍しい血縁への思い
私が再び会うことになったのは、彼が九代目市川中車を襲名する少し前。後援会「中車と團子の会」が立ち上がるとき、その音頭を取った一人が、彼と中高の同級生で文京区長の成澤廣修(なりさわひろのぶ)さんでした。区長から文京区が運営するケーブルテレビに携わっていた私に「対談したい」と相談があり、香川君を特番に呼びました。スタジオに来た彼は私が名刺を差し出すと、冒頭のように言ったのです。
私も澤瀉屋(おもだかや)、市川猿之助家の一員ですから、あえて厳しい言い方をしますが、香川君は役者としてはどちらかと言えば大芝居ですよね。正直、演技がくさい。
しかし、歌舞伎という伝統を踏まえ、その魂が入り込んだことで、役者としての可能性が無限に広がったわけです。中車襲名後に出演した『半沢直樹』(TBS系)の大和田常務役ではいい味を出していた。
そんな香川君が、歌舞伎界でも珍しいくらい、血縁に対する思いを強く持っていたとは想像していませんでした。
彼は45歳だった11年秋、父の猿之助、いとこの二代目市川亀治郎(現・四代目市川猿之助)、長男の政明君(五代目市川團子)と同時に襲名を発表した際、会見でこう語りました。
「140年続いている(澤瀉屋の)その代を僕自身が生きていて、政明という長男がいて、この船に乗らなくていいのか。長男が生まれてずっと問いかけてきました。しかし、この船に乗らないわけにはいかない。それが僕の人生なんです」
市川猿之助家の血をひく者として私には、香川君の気持ちがわかります。
歌舞伎の稽古をしなかった私にも、澤瀉屋のDNA、遺伝子がある。だから、自分では普通の話し方をしているつもりでも、他の人とはどこか違う。左を見るとき、そのまま目を動かすのではなく、ふと一瞬だけ右を見る。習ってもいないのに、こういう仕草ができてしまう。それを活かそうとしたら、役者しかない。
香川君は役者を10年以上続け、長男が生まれて、こう思ったのではないか。
歌舞伎役者は役者になれるが、役者は歌舞伎役者になれない――。
役者は自分の意志でなれますが、歌舞伎役者の場合は幼い頃から修業を重ねるか、梨園に生まれなければなれないわけですから。
香川君には父から受け取った遺伝子がぎっちり詰まっている。だから、映画やテレビで芝居をしても、演技の面で歌舞伎というものにがんじがらめになっていたんじゃないか。また、伝統を受け継いで表現する世界に対する魅力も捨てがたかったと思います。
長男を歌舞伎役者にしたい。そのために自分自身も歌舞伎界に入ってゼロから修業し直そう……そういう覚悟が強くなっていったのでしょう。
私が香川君と違って歌舞伎役者にならなかった理由のひとつは、“一流”がひとつもないからです。父の二代目市川小太夫は初代猿之助(二代目段四郎)の四男で、戦後は映画俳優に転身するなど苦労してきた。しかも、私はその次男。高校時代に劇団民藝の研究会に通ったりしたけれど、文化放送のアナウンサーとなり、独立してから『3時のあなた』(フジテレビ系)の司会もやらせてもらった。生前の父から「お前は別の道を歩んでよかったな」と言われましたが、私も大成功だったと思っています。
團子は「連獅子」で本流に乗った
香川君と彼の父の三代目猿之助は、40年以上にわたって断絶状態にありました。
彼が25歳だった91年、猿之助が公演していた沼津の楽屋を訪ねたときのこと。香川君は父からこう言われたと書いています。
「ぼくとあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではありません。したがって、ぼくはあなたの父でもない」(「婦人公論」91年8月号)
ワイドショーなどでも何度も取り上げられた、このエピソード。父が子を拒絶したというふうに受け取る人が多いようですが、それは誤解だと私は思う。
猿之助は孤軍奮闘して『ヤマトタケル』などスーパー歌舞伎を創設して、異端児として活躍してきた。やんちゃして、芸のために身を捧げた自分にとって家族はいない。だから、あなたも私のことを父親だと思わないでくれ――そう伝えたかったのでしょう。
家族は持たないという人生観の猿之助でしたが、公私ともにパートナーだった藤間紫さんの晩年に正式に結婚しました。
紫さんは日本舞踊紫派藤間流家元で、伝統芸能への意識が強い。紫さんが支え続けたからこそ、澤瀉屋一門は繁栄してきたんです。09年に亡くなりましたが、紫さんはその数年前から猿之助に進言していました。
「あなたには立派な息子がいるんですから。もっと大事にしてやらなければなりませんよ」
私も家族の一人として聞いて、ありがたいことを言ってくれたと思いましたね。
というのは、澤瀉屋には悩みの種があったからです。猿之助の甥にあたる(二代目)亀治郎は独身で子供がいない。彼以外に喜熨斗家には血脈を受け継ぐ歌舞伎役者がいなかったのです。
幸いにして彼と香川君は仲が良かった。二人は、04年に寛永寺にある祖母・高杉早苗のお墓参りで偶然出会ってから、交流するようになったそうです。もっとも誕生日や命日をよく覚えている香川君のことだから、その出会いも計算だったのかもしれません。
そして、香川君には紫さんやいとこの亀治郎の後押しもあり、次第に猿之助も、息子と向き合うようになっていきました。
襲名後、猿翁は12年7月の大歌舞伎で脳梗塞の発症から8年ぶりに舞台に立ち、『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の真柴久吉を演じた。その猿翁の黒子として後ろから支えていた中車は、終演後の挨拶で頭巾から顔を出して見せた。“和解した父を黒子で支える息子”に感動した場内は拍手が鳴り止まなかったそうですが、実はこの顔を見せるという演出は猿翁自身のアイデアなんです。
歌舞伎役者とはリアルな存在ではなく、いわばデフォルメされた“型”や“枠”のなかに全身全霊を傾けて演じるもの。他の芝居と違って、たとえ殺しの場面でも美しい絵でなければならないというのが大前提です。
それを一番見事にできているのが、坂東玉三郎さん。玉三郎さんは舞台全体の中でどんな絵ができるかを計算しながら踊っています。
だから、中車が玉三郎さんから薫陶を受けたのは、ものすごい財産です。15年12月、玉三郎さんと一緒に歌舞伎座の舞台に立ち、中車は『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』で初めての女形「豆腐買おむら」を演(や)った。この舞台を見て、香川君は顔や声だけではなく、芯の芯まで「やはり猿翁のDNAを継いでいる」と私は感じました。
また20年1月、大事な出来事があったんです。四代目猿之助と團子が歌舞伎座で、親が谷底に突き落として這い上がってきた子を育てる「連獅子」を共演した。猿之助と團子が本当の親子かと思うほど、血筋を感じる最高の出来。涙が出るほど、よい芝居でした。これで團子は本流に乗ったと思いましたね。
今年3月には、猿翁の部屋子だった市川弘太郎が二代目市川青虎を襲名。彼はスーパー歌舞伎の初代市川右近に憧れ、梨園に入ってきた若者です。青虎の襲名前に猿翁や猿之助に代わり、中車は根回しを頑張って襲名をまとめたんです。こういうことができるようになったんですよ。
門閥出身ではない初代猿之助
香川君が中車となった後、澤瀉屋のまわりではこういう声もあがっていました。
「歌舞伎のことをまったく知らないくせに、突然『親方の息子だ』と現れて、一体何ができるんだ」
当時は逆風も吹いていましたが、いまは「よくぞ戻ってきた」と皆が思っていることでしょう。
歴史を振り返ってみますと、初代市川猿之助(二代目段四郎。本名・喜熨斗亀次郎)の生家は副業で「オモダカ」という薬用植物を扱う薬屋を営んでおり、屋号を澤瀉屋としたそうです。初代猿之助は門閥の出身ではない。それゆえ苦労したものの、市川一門の番頭格にまでのぼりつめました。
いまの猿之助からみて曽祖父世代の、二代目猿之助(後の初代猿翁)、八代目中車、二代目小太夫が「澤瀉屋三兄弟」と呼ばれ、一世を風靡したことがあります。長男の二代目猿之助は東京の舞台で座長を務め、三男の中車はその脇を固めながらNHKラジオなどへ活躍の場を広げ、その弟の小太夫は関西歌舞伎で人気を博した。3人の中でもユニークだったのは八代目中車。当時の梨園では珍しく旧制京華商業学校を卒業し、江戸好みのイナセな役柄から『絵本太功記』の光秀までこなすほど幅が広い。妾宅から楽屋に入り、劇場から妾宅へ戻ると羨望を込めて噂されていました。
猿翁や猿之助が先頭に立ち、役者やスタッフが一家をなして成功していこう。それが澤瀉屋の気風です。
やがて猿之助や團子の世代が成熟するときがくる。猿翁の長男で、歌舞伎以外の経験も豊富な香川君が果たすべき役割も必ずある。かつての三兄弟のようにそれぞれが活躍するならば、澤瀉屋は前途洋々で、歌舞伎界に大きな花を咲かせることでしょう。
source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号