血筋と家柄が何よりも重視される歌舞伎界。「芸」と「名」を繋ぐため、傾けられた努力の結晶である家系図を今、徹底的に読み解く。
なかがわゆうすけ 1960年、東京都生まれ。著書に『歌舞伎 家と血と藝』、『玉三郎 勘三郎 海老蔵』、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』ほか多数。
「歌舞伎役者はみな親戚」とよく言われるが、それは誇張ではなく、数人の大幹部とその子・孫たちは、ひとつの巨大ファミリーを構成している。逆に言えば、このファミリーに入れなければ、歌舞伎座で主役級の役につくことはできない。
巨大ファミリーの中心に位置するのが市川團十郎家だ。「市川宗家」とも呼ばれ、歌舞伎界全体の「宗家」である。コロナ禍で襲名が延期されているが、海老蔵が十三代目になることが決まっている。
團十郎家は元禄時代に活躍した初代から、家の芸として「歌舞伎十八番」を制定した七代目を経て、明治に活躍した九代目までは、女系を含みながらも血がつながっていた。しかし九代目には娘は2人いたが、男子がいなかったので、血統は絶えた。九代目は銀行員を長女の婿養子として迎え、家を継がせた。九代目の死後、婿養子は30近くになっていたが、十代目になろうと決意して役者に転じ、五代目市川三升(さんしよう)を名乗った。しかし、十代目にはなれなかった(没後に追贈)。
七代目幸四郎から広がる門閥
九代目團十郎の弟子のひとりが七代目松本幸四郎である。建築業を営む家に生まれたが、あまりに美少年だったので日本舞踊・藤間流家元の養子となり、團十郎の弟子となった。この美形男子一族のルーツである。
松本幸四郎家は二代目幸四郎が二代目團十郎の養女と結婚し四代目團十郎となり、その子・三代目幸四郎も五代目團十郎になっており、市川家と一体とも言える。だが六代目で絶えていたので、その関係者から請われて、血縁関係も師弟関係もなく、養子縁組もせずに、名跡だけ継いだのが、七代目幸四郎だった。
七代目幸四郎には男子が3人生まれた(他に非嫡出子が本人にもわからないくらい何人もいたという)。幸四郎は市川三升と親しかったので、長男を市川家へ養子に出した。普通は次男や三男を養子に出すものだが、師の家の後継者になるので、長男を出したのだ。
市川宗家と幸四郎家は、徳川宗家と御三家のような関係と思えばいい。
七代目幸四郎の長男で市川宗家の養子となったのが、十一代目團十郎である。ここから新たな血統が始まり、十二代目、海老蔵、堀越勸玄(かんげん)と続いている。
大正から昭和前半の歌舞伎界は、六代目菊五郎と初代吉右衛門の「菊吉時代」だった。七代目幸四郎は二人より少し上の世代だが、歌舞伎界のトップにはなれなかった。しかし、意図的になのか成り行きでそうなったのか、幸四郎は長男を市川宗家の養子にしただけでなく、次男(八代目幸四郎を経て初代白鸚(はくおう))を吉右衛門の弟子に、三男(二代目尾上松緑(しようろく))を菊五郎の弟子にした。どの一門が栄えても、自分の子孫が生き残るようにしたのだ。三兄弟が別々の一門で修業したことで、歌舞伎界全体は幸四郎の子孫が主軸となる。
初代吉右衛門と八代目幸四郎は師弟関係にあるだけでなく、義理の親子にもなった。幸四郎は吉右衛門の長女・正子と結婚したのである。正子はひとり娘だったので、婿養子を取るつもりだった吉右衛門は大反対したが、正子が「男の子を2人産み、ひとりは幸四郎、もうひとりに吉右衛門を継がせる」と宣言して認めてもらったという。
その宣言通り、幸四郎夫妻には男子が2人生まれ、長男が幸四郎家を継いで九代目幸四郎(二代目白鸚)となり、次男は実の祖父・吉右衛門の養子となり、二代目を襲名した。
八代目幸四郎は自らの死期を悟ると、存命中に長男に九代目を、孫に染五郎を襲名させ、自らは白鸚を名乗る三代同時襲名をやり遂げ、亡くなった。
九代目もそれにならい、2018年、長男を十代目幸四郎に、その長男を八代目染五郎に、自らは二代目白鸚となる、三代同時襲名をした。また二代目白鸚の娘、松本紀保と松たか子も女優である。
染五郎は歌舞伎ファンの間ではその美少年ぶりが知られていたが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に源義高役で出たことで、広く知られるようになりそうだ。6月の歌舞伎座では10代にして主演が決まっている。
七代目幸四郎の三男は六代目菊五郎の弟子となり、二代目松緑の名をもらった。その子・辰之助は40歳で亡くなり、三代目松緑を追贈された。その子が当代・四代目松緑で、その長男が左近である。
七代目幸四郎の門閥はさらに広がる。その娘と結婚したのが四代目中村雀右衛門だ。六代目大谷友右衛門の長男で、七代目を襲名していた。だが三代目雀右衛門の長男が出征して戦病死したため、親友だった友右衛門は遺族に懇願され、三代目雀右衛門の位牌養子となり、四代目を襲名したのだ。これは珍しい例だ。
雀右衛門には2人の男子がいて、長男が八代目友右衛門を襲名、次男が五代目雀右衛門となった。友右衛門の子が廣太郎・廣松だ。
ここまでが、七代目幸四郎の子孫たちで、これだけで一座が組める。
八代目幸四郎(初代白鸚)が初代吉右衛門の娘と結婚したことで、吉右衛門・歌六の一族も市川宗家の親戚になった。この一族は幕末に活躍した初代中村歌六が血統の始祖で、男系男子で六代続いており、子が多いので横にも広がっている。
初代歌六の三男が三代目歌六で、その長男が初代吉右衛門、次男が三代目時蔵、60歳の年に妾が産んだのが十七代目勘三郎だ。
吉右衛門には娘ひとりしかいなかったが、三代目時蔵は男子だけで5人いた。しかし長男は病弱で廃業(没後、四代目歌六)、次男は時蔵を四代目として襲名したが、その2年後に34歳で急死、三男・獅童はトラブルを起こして廃業、四男・錦之助(萬屋錦之介)は映画界へ移り大スターに、五男・中村嘉葎雄(かつお)も映画俳優と、ひとりも歌舞伎役者としては大成できなかった。
しかし、三代目時蔵の孫の世代は役者として活躍中だ。五代目歌六と三代目又五郎は吉右衛門一門の重要な脇役となり、五代目時蔵は菊五郎劇団の立女形だ。二代目獅童は歌舞伎に出る機会は少ないが映画やテレビで活躍している。二代目錦之助は、主役級の役をつとめる機会が増えてきた。
その次の世代では、梅枝が女形として着実に父の芸を継承し力をつけ、さらにその子も舞台に出ている。米吉は女形として頭角を現し、隼人はテレビ時代劇でも主役をつとめている。
後継者をライバルに預ける
十七代目勘三郎は兄・時蔵に子が多かったこともあり、適当な名がもらえず、若い時は「もしほ」として舞台に出ていた。松竹の大谷竹次郎の斡旋で、途絶えていた中村勘三郎の名跡を得て、一代でこの名を大きくした。
勘三郎は兄のライバルである六代目菊五郎の娘と結婚した。これにより、市川宗家・松本幸四郎家・中村吉右衛門(歌六)家、尾上菊五郎家は親戚となった。
尾上菊五郎家は、市村羽左衛門家、坂東彦三郎家とも複雑な親戚関係にあるが、菊五郎家に絞ろう。
明治の名優・五代目菊五郎は妻との間に子がなく、養子をとり栄之助(後、栄三郎)とした。ところがその後で、妾が男子・幸三を産んだ。
五代目は、自分が育てると甘やかしてしまうと、ライバル・九代目團十郎に幸三を預けた。菊五郎が亡くなると、團十郎が差配して、幸三が六代目菊五郎となり、栄三郎は六代目梅幸を襲名した。
歴史は繰り返し、六代目菊五郎も妻との間に子が生まれないので養子をもらうと、その後に妾(後、後妻)が子を産んだ。だが実子・九朗右衛門は大成しなかったこともあり、菊五郎を襲名しなかった。
菊五郎の長女・久枝は十七代目中村勘三郎と結婚し、次女・多喜子は六代目清元延寿太夫(えんじゆだゆう)と結婚した。その子が七代目延寿太夫、その子は役者となり尾上右近として活躍している。右近の母方の祖父は鶴田浩二なので、この若手俳優は六代目菊五郎のひ孫で、鶴田浩二の孫という血統だ。
六代目の養子は七代目梅幸を襲名し、戦後の名女形となった。そしてその子に自分は継げなかった、七代目菊五郎を襲名させた。自分が身を引くことで、息子に大名跡を継がせたのである。七代目は女優・富司純子と結婚し、息子が当代の菊之助、娘が女優・寺島しのぶだ。
菊之助は二代目吉右衛門の四女・瓔子(ようこ)と結婚したことで、菊五郎家の芸と吉右衛門家の芸の二つを継承する立場となっている。若くして父を亡くした海老蔵とは正反対だ。
菊之助には一男二女が生まれ、長男が丑之助を襲名して子役として活躍している。寺島しのぶはフランス人と結婚し、その子・寺嶋眞秀(まほろ)は歌舞伎の舞台に出ており、いずれ尾上姓の役者名を襲名するだろう。
鴈治郎は一代で大名跡に
2012年に急逝し、歌舞伎ファンを悲嘆に暮れさせた十八代目勘三郎は、初代吉右衛門の甥で、六代目菊五郎の孫でもある。さらに、七代目中村芝翫(しかん)の娘・好江と結婚し、2人の男子を得たので、巨大ファミリーの系図に中村歌右衛門(芝翫)家も加わった。
中村歌右衛門家は代々、血統ではつながっていない。五代目歌右衛門には2人の子がいたが、「自分は鉛毒で子どもができない」と公言していたので、実子ではなく養子のはずだ。
その長男・五代目福助は34歳で亡くなり、次男が、戦後の歌舞伎界に「女帝」として君臨した六代目歌右衛門だ。六代目に実子はなく、妻の甥を養子として、四代目梅玉と二代目魁春になった。
五代目福助の子が七代目芝翫で、長男・九代目福助は七代目歌右衛門襲名が決まっていたが、病に倒れたので延期されたままだ。舞台には復帰したので、いずれ襲名するのであろうか。その子・児太郎は若手の女形として急成長中だ。
芝翫の名跡は次男・橋之助が継いで八代目となった。その妻がタレントの三田寛子で、3人の子も同時に襲名し、若手として活躍している。
七代目芝翫の娘・好江が、十八代目勘三郎と結婚し、勘九郎と七之助が生まれた。二人には吉右衛門(歌六)家、菊五郎家、歌右衛門(芝翫)家の血が流れている。勘九郎は女優・前田愛と結婚し、その子、勘太郎・長三郎は子役ながら人気がある。
明治から昭和戦前にかけての上方歌舞伎随一の人気俳優だった初代中村鴈治郎(がんじろう)は、「歌右衛門」の名跡の継承権者だったが、跡目争いに負けてしまった。勝ったのが五代目歌右衛門だ。
歌右衛門になれなかった初代鴈治郎は、その名を一代で大名跡にした。三男がその名を継いで二代目となり、その長男が三代目鴈治郎を経て坂田藤十郎となった。二代目の娘が女優・中村玉緒で、その夫が勝新太郎だ。
藤十郎は元宝塚の扇千景と結婚し、その子が当代の鴈治郎と三代目扇雀。鴈治郎の長男・壱太郎(かずたろう)は若手の女形として活躍している。
巨大ファミリーに属さない名門家として、守田勘彌(かんや)・坂東三津五郎家がある。この両家は徳川時代から複雑な関係にあり、実質的にはひとつの家だ。
上方の名門、片岡仁左衛門家
守田勘彌家は江戸の座元で、十二代目は幕末から明治にかけての大興行師だった。その死後、先妻の子(長男)と後妻の子(次男)との間で跡目争いが起き、後妻の力が強く、次男が十三代目を継ぎ、長男は坂東三津五郎を七代目として継いだ。名跡の格としては守田勘彌のほうが上なので、長男は悔し涙にくれた。
七代目三津五郎には子がなく、養子が八代目三津五郎となった。フグを食べて亡くなったので有名な役者だ。ここから血統は新しくなるが、男系男子ではなく、八代目の娘婿が九代目、その子が2015年に亡くなった十代目、その子が当代の巳之助と続く。
十三代目勘彌の血統は、甥であり後に養子となった長男が十四代目となり、新派の水谷八重子と結婚し、二代目八重子が生まれたが離婚。その後、十四代目の養子になったのが、当代の坂東玉三郎である。
十三代目の非嫡出子が坂東好太郎で映画へ移り活躍した。その子が『鎌倉殿の13人』の北条時政役で人気が出ている坂東彌十郎で、その子が若手の女形・新悟だ。十二代目から血がつながっているのは、傍系の彌十郎・新悟の方だ。
片岡仁左衛門家は当代が十五代目という上方の名門だが、八代目が当代まで続く家系の始祖となる。八代目は初代中村歌六の三女と結婚しているので、巨大ファミリーの遠い親戚でもある。
八代目の末っ子が十一代目となり(兄の九代目・十代目は早世)、初代鴈治郎と並ぶ上方の名優となった。
十一代目の子が十三代目となり、戦後の名優のひとりとなった。十一代目の実子ということになっているが、安田財閥二代目当主の非嫡出子をもらい受けたという。ここで血統は新しくなった。
十三代目の長男が五代目我當(がとう)、次男が昨年亡くなった女形の秀太郎、孝夫が三男ながら抜群の人気があったので、松竹の強い意向で十五代目を襲名した。その子が孝太郎で女形となり、その子が千之助で今後が期待されている。我當の子・進之介はあまり舞台に出ていない。秀太郎の子が一般家庭から養子になった愛之助だ。
現在活躍中の役者で、一般家庭出身は玉三郎と愛之助ぐらいしかいない。この二人も養子になったことでポジションを得た。
とかく批判されがちな世襲も、歌舞伎ではうまく機能しているように見える。だが、男しか役者になれないことを含め、いずれ限界が来るかもしれない。
source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号