翻訳家インタビュー
 
実川元子さんの巻
家族のために早起き
会社員から翻訳者・ライターへ
幸せな出会い
自分を“客観的に”見つめる
本を訳したいなら本を読もう
訳書リスト ミニ写真集  

腰痛、頭痛、肩こり、不眠、運動不足・・・・・・いずれも締め切りに追われる座業につきものの宿阿。しかし、こうしたものとは無関係な翻訳者も、世の中にはちゃんと存在する。それが、今回ご登場いただく実川元子さんだ。

「『実川さんって健康オタクですね』って言われちゃったんです」

 ある“食”関係のサークルでの出来事だという。でも、そう言った方の気持ち、わからないでもないような――なぜなら、ご自身の公式ホームページに掲載中の日記を読むと、サッカー、おいしいものとおしゃべり、家族との暮らし、仕事を愛し楽しむエネルギッシュな姿がまず浮かんでくる。そして、そうした楽しみを味わい尽くすために、水泳で身体を鍛え(水泳やダンベル運動で腰痛とはおさらばしたそうだ)、食事に気を配ることを怠らない実川さんの、実に健康的な日常がうかがえるからだ。また、昼夜逆転型の翻訳者が少なくないなかで、実川さんは規則正しい朝型の生活を送っている。

家族のために早起き

「朝は、6時から6時半のあいだに起きます。子どものお弁当づくりがあるものですから。朝ごはんの用意をして、洗濯や掃除をして、子どもと夫を送り出します。普通の主婦の生活ですよ。8時ごろからは、朝の連ドラを観ながら朝食を摂って、サッカーの試合のダイジェストを観て・・・・・・。唯一翻訳者らしいのは、衛星放送の海外ニュースを観ることかな。イギリスのBBCニュースと、フランス語のニュースは、毎日原語で必ず観るようにしています。机の前に座るのが9時、それからメールチェックやお気に入りのサイトめぐりをしたりするので、仕事そのものを始めるのは10時ぐらいからでしょうか」

 企業にお勤めのご主人は、朝早く家を出られて、帰りは遅いとのこと。その間は自由に仕事ができるのだから、「サラリーマンの配偶者こそ翻訳者向き」と実川さん。とはいえ、スケジュールが押したりすると、大変な場合もあるのではないだろうか。

「せっぱつまると、朝8時にはパソコンの前に座っていたりしますよ。夜は、普段から、やるときとやらないときがあります。やる場合でも事務処理などが多いですね。夜中にかかってしまうことももちろんありますが、それほど多くはないです。なにしろ朝早く起きないといけませんから」

会社員から翻訳者・ライターへ

 さらりと事もなげなその口調からは、「忙しくて大変」といった風情は少しも感じられない。しかし、実川さんの活躍の場は、実は驚くほど多岐に渡っている。翻訳を始めとして、ルポルタージュやコラムなど、ライターとしての仕事も広く手がけているのだ。その幅広さは、どうやらフリーランスとして独立(1990年)する以前の職歴に端を発しているらしい。そもそも、翻訳学校に通ったり、先生について勉強したりという経験はないのだとか。それがなぜ文芸翻訳やライティングの道に?

「勤めていた繊維会社では、ファッション関係の記事を訳したり、広報誌を編集したりする仕事を担当していました。訳文はボスが添削してくれて、『これは直訳で翻訳じゃないから使えないよ』というように、直訳と翻訳の違いを教わるいい機会でしたね。何字以内にまとめる、という技術も、このころ身につけたものです。そうこうするうちに雑誌社から『これを訳してまとめて』といった仕事を頼まれるようになったんですけど、このときもはじめのうちは雑誌向きの文章が書けなくて、編集の方に厳しく育ててもらいました」

 この間に知り合ったのが川本三郎さん(翻訳者・批評家)だった。

「川本さんから下訳を任されたのがきっかけになりました。丸々一冊を訳すのは、これが初めてだったんです」

幸せな出会い

 こうして初めての訳書である『涙が流れるままに――ローリング・ストーンズと60年代の死』(1991)が世に出た。その後もコンスタントに多くの訳書を出し続けているのは周知のとおり。なかでも気に入っている作品は、と尋ねてみた。

「ロディ・ドイルの『ポーラ』。家庭内暴力の話だからか、ほかの3冊に比べて(実川さんはドイル氏の著作を数冊訳している。訳書リストを参照のこと)あまり売れた本とは言えないけれど、わたし自身は非常に考えさせられた作品でした。ロディ・ドイルの代表作と言えるのではないでしょうか? ゆがんだ表現から出てきた男女の性愛をつきつめた作品で、訳しながら頷けるところが多々ありました」

 そうした魅力的な原書との出会いは、どんな風にやってくるのだろうか。

「実は、持ち込みをしたことがないの(笑)。いつも編集の方からいただくばかりで。この『ポーラ』もそうですけれど、そもそもロディ・ドイルの本は、キネマ旬報社の方がたまたま持ってきてくださったんです」

 それが「たぶん私の代表訳書(公式ホームページより)」と言わしめるほどの仕事として結実。実川さんにとっても、原著者にとっても、作品にとっても、そしてもちろん読者のわたしたちにとっても、幸せな偶然と言えるのではないだろうか。

女性、子ども、衣食住――翻訳そしてライティング

 それでも実川さんが手がけているジャンルには、自ら進んで選び取ってきたかのように、ある方向性が感じられる。それはたまたま?

「著作や訳書からもわかるとおり、“女性、子ども、ファッション”――そこから発展していまは“衣食住”を仕事の柱に据えたいと考えています。“衣”の部分は、会社員時代から引き継いで来たもので、ファッションやメイクから美容整形、身体改造までを考えていくことは、もともと自分のなかにあったんです。そこから発展して“住”に行き、いまは“食”に強い関心を持っています。編集の方からお話をいただくにせよ、意識的にも無意識的にも自分で選択している部分が大きいと思います。これらのジャンルだと、リーディングを依頼されてもいいことばかり書くじゃないですか。その代わり、自分に合わないなと思うと、『いい本ではあるけれど、わたしはやりたくない』とか書いたりして(笑)」

 映画のノベライズも多く手がけていますね。

「ノベライズは翻訳者がやるべきではないという人もいますが、わたしは好きですね。年に1、2冊は必ずやっています。映画の原作の翻訳は通常の作業とあまり変わりませんが、脚本だけを渡されてのノベライズは、まず構成を考えるところから始めます。だから、翻訳とはまた違う作業なんですよ。誰を主人公にするか、映画をより深くおもしろく楽しめる本にするにはどうしたらいいかと考えるのが、最高に楽しい。この仕事には、翻訳とはまた違った、書く楽しみや喜びがあるんです」

 翻訳とライティング、どちらが主でどちらが従というわけではない、と実川さんは言う。この世界に入るきっかけとなった会社員時代の仕事は、海外ニュースを翻訳し、広報誌や新聞向けの記事にまとめ上げるというもの。翻訳とライティングの要素が同時に求められる業務を通じてのことなのだから、当然ではある。

「翻訳業とライター業は、自分のなかでは同じ比重です。仕事をする上で大事にしていることが3点あって、そのどれもがどちらの仕事にもあてはまるんですよ。まずは『裏を取る』。次に『ふさわしい文体で書く』。どちらもライターの基本ですが、翻訳にも欠かせない要素です。最後が『仕事に一定のリズムを保つ』。何でもそうですが、スピードとリズムというのは非常に重要です。リズムを保てた仕事は、翻訳でもルポものでも必ずいい仕事になると経験上わかりましたから」

 とにかく文章を書くのが大好きだからと言う実川さん、この仕事をできるだけ長く続けたいのだそう。長い目で見た将来に、達成したい目標などはあるのだろうか。

「大それたことを言うようですが、女性――日本だけでなく、世界のさまざまな文化・社会にいる女性たち――が精神的、身体的、経済的に豊かに生きていけるために、何か役立つ仕事をしたいと50歳を前にして真剣に考えています。そのためには自分は何ができるだろうか、といつも考えるんですね」

 そして、その足場となるのはやはり実川さんならではのテーマ、“衣食住”だ。

「仕事を始めてちょうど11年なんですが、だんだんと自分にとって楽しいことだけをやるようになって来ました。そういう仕事だと、自分の中で自然に熟成・醗酵していくんですね。関連書籍を取り寄せて読んでみようとか、とりあえず行ってみよう、見てみよう、食べてみようと行動範囲を広げるきっかけにもなる。おかげで知り合いの輪も大きくなるし、世界が本当に広がります。ですから、自分が楽しいと思えるテーマを見つけることが大事だなって思います。そういう意味では、やはり“衣食住”が中心になっていくでしょうね」

 その言葉どおり、“食”の分野では今年2月に『食べものやさんで成功する!!』(世界文化社)を刊行。これからどんな企画が飛び出すのか、今後がますます楽しみである。

自分を“客観的に”見つめる

 翻訳、ルポルタージュ、ノベライズと精力的に執筆活動を行うかたわら、冒頭でも述べたように、実川さんは公式ホームページを持ち、読みでのある充実した内容を展開している。実川さん自身、自分のホームページを作ってみて、発見したことがたくさんあるのだという。

「自分のこれまでの仕事や、いまやっている仕事のことなんかを、プロフィールの一環として書きますよね。そうすると、『自分はこんなことをやっている』と、自分を客観的に見る場を持つことができるわけです。それから、日記を思い切って公開することも楽しみの一つかも」

 翻訳者のなかには、自分のPRのためにホームページを活用している方もいる。読んだ本や、仕事の進み具合を日記などに盛り込むことで、編集者にアピールできると考えるからだ。

「わたしの場合は、自分を突き放して、客観的な視野を持つために日記を書いているようなところがあるんです。日記を書くと、『ああ、自分はこういうことをおもしろいと思っているんだ』『こういうことが好きなんだ』というのがわかるでしょう。自分のことだけでなく、ものを書く上では複眼的視点を持つことがたいせつなんだと、ホームページ作成からは教えてもらっているような気がします」

 たとえば翻訳の場合、その本にのめりこみすぎると、結果としてろくな訳にならない場合があるという。視野が狭くなって、目の前の仕事しか見えなくなるときがあぶないのだ。仕事に悩みを抱えて、現状打破を狙っている向きは、自分を離れたところから見つめ直せる場として、自分のホームページを活用してみるのもひとつの手ではないだろうか。

本を訳したいなら本を読もう

 翻訳学校の講師も務めている実川さん。生徒さんに「どういう本が好きで、どういう本を読んでいますか?」と聞いても、これといった返事が返ってこない場合があるそうだ。

「翻訳をする動機は、『自分はこんな本が読みたい』であってほしいと思います。本を読むことが好きじゃないと、この仕事は苦痛ですよ。『とりあえず本を読んでいる』『気がつけば本を読んでいる』という人こそ、翻訳に向いていると思います。たくさん読んでいくうちに、好きなジャンルがわかったり、自分にとって楽しいものや、響き合えるものに出会えたりする確率が高まっていきますから。『翻訳が好きです』というところではなくて、『本が好きです』というところからこの世界に入っていったほうが、“健康的”だと思うんです」

 そう言ったあと、ぱっと明るい笑顔で一言。

「あ、やっぱり健康オタク!?(笑)」

 どんな仕事も身体が資本。実川さんのように体力、知力のすべてで何事にも取り組む方は、健康オタクぐらいでちょうどいいのかもしれませんよ・・・・・・?

 

インタビュアー:遠藤裕子(2002/3)