先日、北海道は函館にゴールデンカムイ聖地巡りに行ってきました!
函館の聖地と言えば、樺太編の途中で描かれた鯉登少尉の16歳の頃の過去回ですね。
個人的な事情で恐縮ではございますが、鯉登少尉推しのわたくしと致しましては、かごんまと並んで、行きたかった聖地でございます。
仙厳園コラボでかごんまに行った2週間後の函館旅行ということで(元々函館旅行を計画していて、後から仙厳園コラボの話が出て無理くりねじ込んだという感じ)、わたしの2週間=鯉登少年の2年と、体感2週間な感じになりましたw間にゆるキャン△聖地とかも行ってたんですけどね…ゆるキャンはいいぞ。
函館はガチ聖地というのは少なく、ロシア領事館・五稜郭のみ。鯉登少年(16)が監禁されていた建物は札幌の方なので今回は除外しています。いつか行きます。
とはいえ、忘れちゃいけない函館と言えば新選組副長土方歳三さんの聖地でもございます!金カム土方さん=史実の土方さん…なのか?という疑問もありますが…特に函館は土方さん終焉の地ということで死や死後にまつわる聖地が多いですし…でもわたし的に是非皆さまにお伝えしたい事柄というか、気持ちがありますので、合わせてレポートしますね!
更にですね、それらを踏まえて、
徹底検証!!鯉登邸の所在地が…鯉登パパと鶴見中尉が通った道が…判明!?
という緊急企画もやって参ります(全く急は要していませんが)
また、函館は黒船が来ていち早く開港した街で、今も当時の歴史が色濃く残っています。合わせて、聖地ではないんですけど明治期の空気を感じられるスポット、アイヌなどの北方民族の資料館、あと啄木ちゃんの聖地もありますよw更に函館グルメのご紹介など、お伝えして参りたいと思います。
函館-1→リアル聖地レポ&検証企画
函館-2→金カム的観光情報&食レポ
こんな感じで、分けてご紹介しますね!
まずは本記事ではリアル聖地レポ&検証企画をどうぞ。
【追記】
という記事を書いて公開していたら本誌で函館が大変なことになってきました。
なので敢えて本誌の展開が落ち着くまでそのことは触れずに、鯉登少年(16)の思い出を元にした2021.5月時点での記事とさせていただきます。
内容的には現在本誌で展開中の函館編の補助的役割にもなっていると思いますし、単行本派の方へのネタバレはありませんので、ご一読いただければ幸いです。
函館の地形は変わってるので、知らないとイメージがわかないと思うんですよね。とゆーことでまずは観光マップのご紹介!
↓今回もコチラの観光パンフレットのお世話になりました~。
今回は↑に掲載されているパンフレットの、今この地図を見て欲しい!って希望があるので、PDFに直リンク張らせていただきます。お手数ですが都度開いてみていただけると分かりやすいかと思います。(携帯ではリンクが別タブで開くアプリでの閲覧を推奨です)
あ、その前に。
念のためコチラの記事を見ておいていただいた方がいいかも…?
お恥ずかしながらわたしが正にコレ↑でw数か月?1年くらい前?にtwitterで同じような内容のツイートを見て間違いに気付きましたwんなこと知ってるよ!って方はごめんなさい、スルーしてくださいね
マジ北海道でっかすぎるどう。函館市の隣に札幌市あると思ってたもんなぁ~
さて本題。
まずご覧いただきたいのがコチラのマップの最後のページ。函館市の主に観光で訪れる中心エリアが1枚の地図になっています(意外とこの距離感を一枚絵にしたマップがないんですよ…!)
津軽海峡に面した函館山エリア、函館山と海に挟まれた元町エリア、函館港沿いのベイエリア、市電で少し走った内陸の五稜郭エリア、この位置関係を覚えておいていただきたいのです!函館山エリアと元町エリアの境目くらいにあるロシア領事館から、鯉登パパと鶴見さんが走って向かったのが五稜郭、その距離およそ6キロ(中山大尉情報)ということなんです。このエリア区分、紹介する媒体によってちょっとずつ違うのでこの記事ではこの図を基準とさせてください…
なんとなく雰囲気掴んでいただけましたでしょうか
◆リアル聖地レポート
①旧ロシア領事館
作中では…
20巻198話で音之進くんの三輪車が見つかったり、鯉登パパと鶴見中尉が様子を見に来た時に見計らったように中から電話の音が聞こえたり、その後中山大尉含め待機して199話で犯人からの電話を受けたりしたロシア領事館
現在ではロシア領事館の務めを終え、無人の、特に利用されていない建物になっています。外観の撮影は出来ますが、門の柵から入れないので道路から見るだけです。特別観覧みたいな情報もわたしの調べた範囲では聞いたことないですね…残念です。
とはいえ、樹木が繁っていたりはするものの、建物は正にロシア領事館!
完全なる聖地でございます。
↑窓の造りもそのまま
198話の「戦争が始まっしもう」のコマの全面ガラス窓っぽい部屋は今現在ベニヤ板が貼られていて見えにくいのですが、こちらの写真で見ると分かりやすいです。
内装は見られないのですが、↓の記事を見た感じ踏襲してるようですね。シャンデリアの向きが逆とかあるけどどっちのパターンもある系かもしれません。入ってみたいなぁ…。
旧ロシア領事館の場所はコチラのマップをご参照ください。先ほど函館山と元町の位置関係をお伝えしましたが、ロシア領事館はかなり奥の方(市電で言うと終点函館どっく前と手前の大町の間)の、函館山側にあることがお分かりいただけるかと思います。函館山「側」というか、もう登ってますほとんどw
ということで作中でも描かれておりますが、ロシア領事館はかなり高い位置、坂の上の上にある、ということですね。
坂の段々になってる感じから言うと坂のこの辺↓で鶴見中尉を乗せたパパの運転する三輪車がジャンプしたのかな~って思います。さすがに作画から受ける印象ほど坂は急じゃないですが。
②五稜郭公園
作中では…
20巻200話で鯉登少年(16)を鯉登パパと鶴見中尉が走って迎えに来た五稜郭
元々は江戸時代に箱館奉行所が置かれた場所であり、明治初頭に箱館戦争の舞台となり、その後奉行所時代の建物などを取り壊し陸軍省の練兵場として使われていましたが、大正時代に公園として一般開放され、たくさんの桜の木が植樹されるなどして、現在の五稜郭公園となっています。
2010年に箱館奉行所が復元され、中に入って復元された内装や五稜郭ににまつわる展示を見ることが出来ます(有料)。園内の桜は約1600本もあるそうです。傍らには五稜郭タワーも立っているので、展望台から五稜郭の独特な形全体を見下ろすことが出来ます。この辺はもう、ガイドブックのほうが詳しいのでw
広い五稜郭のどこなのかってことですよね!
作中で鯉登パパと鶴見中尉がダッシュして向かっていた橋の構図がコチラです!
どっちも分かりやすくなくてごめんなさい
出来れば拡大してみていただきたいのですが、正面の橋の左側に御堀があり、その御堀を渡るもう一本の橋が奥にあります。この正面の橋を一の橋、奥の橋を二の橋と申しまして、作中と見比べていただければ位置関係などぴったりであるとご確認いただけるかと思います。
五稜郭は星形だから他にも同じような地形のところがあるのでは?という疑問があるかもしれません。本来なら本当にその通りだったんですけど、上から見ていただくのが分かりやすいですね。
手前1か所だけ三角形の島みたいなのがありますよね。コレ「半月堡(はんげつほ)」と言って、本来ならコレが5か所に作られる予定だったのですが、実際には1か所だけになったのです。
現在中央の星形の五稜郭内に渡るルートは2か所あるのですが、前述の一の橋、二の橋が一旦半月堡を経由して橋2本なのに対して、もう一方のルートにある裏門橋は直接郭内に渡るので、鯉登パパと鶴見中尉が向かっていたのは一の橋で間違いないと言えるのです。
↓こんな感じで駆けつけていたんだなぁ、というイメージ映像
ツイートは「の」がカタカナになっていますが「一の橋」「二の橋」が正しいようです
五稜郭の中はこんな感じ。
鯉登少年が監禁されていた建物そのものは実際には五稜郭内にはないのですが、箱館奉行所の他にいくつか現存したり復元したりした土蔵などの建物があるので、こうゆうイメージで描かれたんだろうなと思います。
これは初期の五稜郭の模型。真ん中の大きい建物が箱館奉行所(見比べると今の箱館奉行所より大きいですが復元が一部のみだからです)で、他にも色んな建物があったことが分かります。前述の通り、鯉登さんの時代にはこれらの建物はほとんど解体された後でした。
陸軍の練兵場として使われていたのは明治6年(1873)から明治30年(1897)、その後大正2年(1913)に函館区に無償貸与、翌3年に公園として一般開放されたそうです。鯉登少年が16歳の頃だと作中年代が明治35年(1902)(当初鯉登さんがの誕生日的に1903年と書いていましたが公式で1902年と書かれていることから数え年で16歳と考え訂正させていただきます)の頃には練兵場として使われてはいなかったけども、陸軍省の管轄であったということかと思います。練兵場→無償貸与までの期間にどう活用されていたのか、サラっと調べる範囲だと出てこないんですよね。そんな、人がいるんだかいないんだか使ってるんだかいないんだかみたいな状態が、誘拐犯の監禁場所にちょうど良かったのかもしれませんね。
そして五稜郭は、こちらのほうが一般的かと思いますが、箱館戦争で旧幕府軍として土方歳三さんが新政府軍と戦った場所でもあります!箱館戦争とは~みたいなことは、もっと詳しく分かりやすく書いてくれてる記事が山ほどあると思うのでそちらをご参照いただいて
わたし自身史実の新選組もそれなりに好きなので(あくまでそれなりなのでめちゃくちゃ詳しいわけでもないのですが)、一時期は京都・伏見の新選組聖地に行ったりもしてたのですけど、京都とかはまだ「あ~金カムの土方さんも若い頃は…」って結び付けれる気がするけど、函館聖地は土方さんが亡くなる前提の場所なので、「ここが!金カムの土方さんの!」とはならないんですよねw
ただやはりルーツとして結び付けて~という話には持っていこうと思いますので、良かったらこれ以降の土方さん聖地紹介もお付き合いください
余談ですが、新選組にハマるきっかけになったのは言わずと知れた薄桜鬼(推しは斎藤さんだけど)。薄桜鬼きっかけで史実の新選組が~となっていったのですが、この季節に箱館を訪れるのは長年の夢でありました…!なので五稜郭公園に足を踏み入れた途端から桜めっちゃ咲いてて、「わー、これは薄桜鬼って名前付けるわー…!」って感動してたのですけど、桜が植樹されたのは大正以降だって知ってスン…ってなりましたw
③一本木関門
五稜郭にて新政府軍と戦っていた土方さんが、弁天台場で劣勢に立たされている新選組隊士達の元に馬を走らせ駆け付け…る途中で銃弾に倒れ伏した、と言われている場所(土方さんのお亡くなりになった場所には諸説あります)
函館市総合福祉センター「あいよる21」さんの前庭に土方歳三最期の地碑が建てられ、当時の関門が再現されてています。
内陸にある五稜郭から函館山に向かって走り、函館山の手前で右手に曲がり海岸線を一番奥まで。現在の市電でいうところの終点函館どっく前のすぐ近くが弁天台場です(現在の地図では埋め立てられて陸地の一部になっていますが当時は海岸線に飛び出る形で造られていました)。一本木関門はだいたいその半分くらいですかね。地図を見るだけでも、土方さんの無念が伝わる気がします。
④弁天台場跡
ほとんど一本木関門の項目で説明してしまいましたが、土方さんが目指しても辿り着けなかった場所。
現在は周辺を埋め立てられ、陸地の一部として、公園になっています。
以降はわたしの考え過ぎかもしれませんが…
なんとなくこの、土方さんが馬に乗って目指したこの道って何かを思わせるんですよね。弁天台場から、①でご紹介したロシア領事館は数本先の坂を登るものの、地形全体としては近いと言えると思います。
五稜郭から向かって弁天台場に辿り着けなかった土方さんと、ほぼ逆ルートになるロシア領事館から走って五稜郭に辿り着いた鶴見さん。馬と人工馬(ド ディオン ブートン)という符号。まぁこれは単にこれだけの距離を人力で走るまいという程度のことかもしれませんw
この背中合わせの感じが、何かに似てると思うんですよね。そう、開拓の村にある鶴見さんの小樽のお家と土方さんのアジトの外観が向きを変えて同じ一つの建物だったこととか、鶴見さんの小樽の拠点の部屋(マタギの過去バナの時に尾形さんとかがいた部屋)が土方さんのアジトと同じ建物内にあることとか。
いやー、考え過ぎですかねw函館といえば五稜郭だし、高台にあって見やすいといえばロシア領事館って感じで、たまたまなのかもしれないです
ただなんとなく、土方歳三を追い抜く鶴見中尉って示唆なのかなぁなんて、思ったりもしました。
⑤称名寺
旧ロシア領事館のすぐ近くにある称名寺境内には、土方さんの供養碑がございます。
地図をご覧いただいて分かるように、称名寺は弁天台場の近くでもあります。そうゆう因果があるのか分からないですが、目指していた弁天台場を見守れる位置に供養碑を置いていただけているのは、少しほっとしますね。
余談になりますが、お隣の実行寺は箱館戦争の際に賊軍として打ち捨てられていた旧幕府軍の兵士のご遺体を集めて葬ってくださったというエピソードがあるのですが(称名寺も同じく仮埋葬されたお寺だそう)、入口右手に日露戦争の供養塔、左手に大東亜戦争(太平洋戦争)の供養塔が立っていました。
⑥碧血碑
碧血碑は函館山の反対側の谷地頭にあるのですが(市電の二股に分かれたもう一方の終点の側です)、山に登りかける感じでちょっと大変だけど、幕末や歴史がお好きな方には是非行っていただきたい場所。
実行寺の時にも書きましたが、旧幕府軍の兵士さんは、賊軍ということでご遺体を放置されていて(明治政府から弔ってはいけないみたいな令が出ていたそう)、哀れに思った方々が実行寺等に仮埋葬してくださったそうなのですけど、それを聞いた元旧幕府軍で明治政府の要職に就いていた榎本武揚や大鳥圭介などが資金を出したり資材を手配したりして、明治8年に建立され改めてこちらに埋葬されたということです。
今は樹木が育ってそんなに見晴らしがいい感じではないのですが、函館の海を見下ろすこの景色の中に建ててあげたいと思った気持ちが伝わる場所です。
榎本武揚といえばゴールデンカムイでも名前が出てきますね。網走監獄で犬童典獄が土方さんと戦っていた時に「榎本武揚は…いまや「子爵」だ 旧幕府軍として箱館戦争で共に戦った男は貴族になり…」と、土方さんとの差を強調しておられました。でも金カムの土方さんは生きてるんだから何よりだよ…。
以上、リアル聖地レポートでした!
特に箱館戦争絡みで観光客が来そうなところは、文字が小さいのでブログには載せていませんが、詳しい案内板がありますので、歴史にあまり詳しくない方も「ふむふむ」と見て回れると思います。
◆検証企画
こんな感じで皆さまの脳内に函館の地理のイメージがだいたい出来たかな?というところで考察というか、余談というか、雑談なんですけども…
今回の函館聖地巡礼に際して、自分の目指すところとして、
①鯉登邸がどこにあったのか特定したい
②鯉登パパと鶴見中尉が五稜郭に向かったルートを特定したい
の二本立てがあったんです。
結論から申し上げますと、特定は出来ていませんwがしかし、そこそこのところまでは絞り込みましたので、まあ聞いてやるよって方はもう少しお付き合いくださいませ。
①鯉登邸のあった場所について
どう考えても作中の情報量が足りないのでほぼほぼ不可能だなと思いながら立てた目標ではあるんですけどw余興程度に聞いてください。
まず作中から読み取れるのは
・函館にある
・洋風建築
・お金持ち
・二階建ての建物だが奥にある二階建ての建物はその半分くらいの高さ
・坂の「上」ではない
・ロシア領事館からそんなに遠くない
辺りでしょうか。坂の「上」ではないとした理由は、ロシア領事館が函館山の坂の一番上だから敢えて犯行に使われたとすると、自宅は坂の上でなく監視しづらいから犯行に使われなかった、と言えるので。ロシア領事館からそんなに遠くないというのは、だいたいそうなんじゃない?というだけですがw普通家の周辺から探すでしょうし、例えば五稜郭近くの内陸の方に家があったとすると、もうどこを探したらいいのかてゆうか函館市街なのか?ってなるじゃないですか。鶴見中尉が来るまでの4日があればある程度捜索範囲は広まるけど、海軍上層を通して仲のよろしくない陸軍に話が行ってロシア語堪能な鶴見中尉が来るということは、ロシア領事館に三輪車がありロシア絡みの誘拐の線が濃厚であることは前日か前々日には判明していたと思うので…
で、コレに当時の情報を重ねます。
コチラの函館古地図マップをご覧ください〈全体〉〈近景〉
この地図は明治15年頃のものだそうです。前述の通り作中年代が明治35年なのでこの地図よりはもっと栄えた感じになっているかもしれません。
まず全体を見ていただくと、今までご覧いただいていた地図とは向きが異なりますが、函館山をバックにふもと(今でいう元町エリア)が主に賑わっていて、湾を囲むように函館港・ベイエリアも賑わってきているという感じ。明治期の函館の中心地は元町ということですね。あとこの地図は表現上平地と山でパキっと分かれていますが、実際は若干の平地~なだらかな坂~急な坂~人も住まない山って感じなので、建物の大半は坂に乗っかってるって感じです。
左下の明治15年撮影のパノラマ写真も、函館編1コマ目の景色とよく似ていますね。船の位置からするとこの写真そのものではないみたい。もう少し年代の近い写真が残ってるのかな?
近景のほうは元町エリアに寄っていて、どこにどんな建物があったかなども合わせて見られます。函館電信局の場所なども書かれていますよ!現在でも残っている建物も多く、こういったマップに描かれないものも含めて、元町エリアはレトロ建築…特に洋風レトロ建築の宝庫なのです!歩いているとあちこちに趣きある建物が見つかります。カメラが手離せないぜ~
これなら鯉登邸があっても違和感ないな~って思いながら散策していました。
↑これらは一部でもっといっぱい見つかります
当時の函館の中心地であること、開港と共に西洋文化が流入し洋風建築が盛んであったこと、ロシア領事館からそんなに遠くないであろうことから、元町エリアの特に中央部なんじゃないかなと推測します。中央部としたのは、ロシア領事館から近すぎず遠すぎない範囲であること、中央部は特に金融と官庁が集まった函館中心街の中心なので、お金持ちはそうゆうとこに住むよねっていう感じです。つまりテキトーですw
だいたいエリアが絞れたところで位置というか高さというか、海沿いなのか、坂の中腹なのか、坂の上なのか、を考えますと。
まず、金持ちは坂の上に住みたがる!これは真理!しかしながらロシア領事館との差別化から坂の上という選択肢は消しました(ロシアの関与を匂わせるためのロシア領事館というのは勿論ありますが、問題は鶴見さんが「ロシア領事館が坂の1番上だから」って言った時に「オイの家もそうじゃっど(テキトー薩摩弁)」って返されたら意味がないってことですね)。
ここでご覧いただきたいのが原作20巻198話の「4日後」の鯉登邸。先ほど少し書きましたが、奥に家とか蔵っぽい屋根が見えますよね。コレ、実際の明治村にある鯉登邸(西郷従道邸)にはない背景なんです。従道邸の奥はくだり坂になって、坂の下に平屋の森鴎外・夏目漱石住宅があるので絶対にこうゆう見え方はしません。
奥の建物、2軒あるようにみえますが、建築の雰囲気的にどちらも平屋って感じの造りじゃないですよね。奥の建物は1階と2階の間にある飾り屋根みたいな瓦が木々の合間に見えるように思います。おそらく2階建てでしょう。
従道邸は2階建てですが、迎賓館として使えるように作った洋風建築なので、非常に天井が高いです。なので一般の2階建て住宅に比べれば高さがあるものの、遠近感やアングルの都合があるとはいえ、鯉登邸の半分しかないって低すぎる気がします。
つまりここに、段差があるんじゃないでしょうか。鯉登邸と奥の家は傾斜のある土地に建っており、坂に平地を作って家を建てたため建物が階段状に立っている、と。すなわち、鯉登邸は海沿いの平地ではなく坂の中腹に建っていた、ということですね。さらに言うと、鯉登邸の玄関が坂(道路)側を向いていて、鯉登邸に向かって右側の方が低くなっているということは、函館山に上るいずれかの坂道の中の右側に鯉登邸はあったということになりますね!
ほとんどない情報の中からここまで絞り込んだら十分えらいのではないでしょうかw
というかこれ以上は野田先生すら決めてないんじゃないかと…ww
まとめますと、
・元町エリア
・中央部の坂のどれかの中腹
・函館山に向かって坂の右側
に鯉登邸は存在していた…!!!
に違いない、というお話でしたw
②鯉登パパと鶴見中尉が通ったルートについて
これは結構イケるんじゃないかと思ったんだけど、詰め切れない部分が出てしまいましたね…。
まずポイントになるところを作中から拾うと、
1)ロシア領事館の前の坂を下る
2)坂を下った後、平地を走る左側に橋がある(ガオオオンのコマ)
3)追いかけてきた追手の後ろに函館山の右側の山裾が見えている
4)「やつに先に五稜郭へ行かれたらまずい」のコマで鉄道のレールが敷かれている
5)右折
6)左折
番外)鶴見さんが婦女子にウィンクする
7)しばらく真っ直ぐ走る
8)馬車鉄道に対して右斜め後方からぶつかる
9)以降走る
是非、コミックスでポイントを拾いながら見てください。
では解説していきますね。
1)ロシア領事館の前の坂を下る
これはそのままですね。函館の地図が頭に入った皆さんならもうお分かりでしょう。ロシア領事館の前の幸坂を下ります。問題はどこまで下ってどこで右折したか、ですね。
2)坂を下った後、平地を走る左側に橋がある(ガオオオンのコマ)
この左側にある×××みたいな欄干の橋、実は先ほどの古地図にありました。8番の桟橋だと思われます。ということは、幸坂を海岸線まで下って(スピードが出過ぎて坂の途中では曲がれそうにないというのも実際に現場を見たわたしの感想です)、描かれてはいませんが右折し、海岸線を通って桟橋の横を抜けた、ということだと思います。
3)追いかけてきた追手の後ろに函館山の右側の山裾が見えている
この辺ちょっと怪しいんですよね…桟橋の横を走っていて後ろを振り向いた時に函館山の山裾が見えるだろうか?と…。別案として、犯人側がロシア領事館を見張るために詰めていたアジトが基坂とか日和坂辺りにあって、そこから走り降りて右折して合流してきた…というのもあるけど、それだともうちょっと山が道の真ん中に来るかなぁ。
ちなみにロシア領事館前の幸坂を下から見ると↑、ちょうどこのコマと同じくらいの感じで山裾が見えます。2)と3)が逆だったらロシア領事館付近で張っていた犯人がすぐさま追いかけて来た…という流れでちょうど良かったかも。
4)「やつに先に五稜郭へ行かれたらまずい」のコマで鉄道のレールが敷かれている
当時、現在の市電(路面電車)の前身として、馬車鉄道が敷かれていました。鶴見さんの背中の右、馬の頭の先に伸びてる2本の線は集中線ではなく馬車鉄道のレールでしょう。先ほどのリンクで馬車鉄道の敷設ルートが描かれていますが、海岸線の恐らく今通ってると思ってる桟橋脇の道も当時は敷設されていたようです。よし、この道を真っ直ぐ行って海岸線に沿って左折だな!
5)右折
んん~~~…!!!函館山方面向かっちゃったな!?
当初は、追いかけられてるから巻くために不必要でも敢えて曲がったんだと思って納得してたんですけど、巻くっていうのは後を追ってくる相手に対してするもので、鶴見さんも言ってますが、この時犯人はこの2人より先に五稜郭に着く(かその途中で排除するも形としてはあったかも)ことを目的としているので、後を追われているわけではないんですよね、たまたま目的地が同じでそうゆう位置関係になっただけで。鯉登パパと鶴見さんは最短距離で五稜郭に向かわなければならないのです。
或いは馬がカーブに弱いとしたら右左折を増やすことで落馬などを狙った…とも考えられるけど、後を追って来てくれなかったら単なる回り道か右左折による時間のロスになるので、この状況ではリスクが高いのではと思います。つまり、曲がる必要があって曲がるルートでなければ検証したと言えない、ということです。もちろん絵的に~とかあります!ありますが、今回は検証企画なので、メタ要素は排してリアリズムに徹したいと思いますw
ということで、このルートはNG。4)に戻って考え直します。
改4)「やつに先に五稜郭へ行かれたらまずい」のコマで鉄道のレールが敷かれている
三輪車と馬がめちゃくちゃ速くてちょっと喋ってる間に秒で進むとして、このコマのレールは既に作画外で海岸線沿いに左折した後、函館の首部分(細くなってるとこね)のいずれかのレールである…と考えます。
改5)右折
再びこの地図の最後のページを見ていただくと分かるように、現在の市電でも函館駅前と松風町間で曲がっていますよね。これはこの道をそのまま進むと松前方面に続いてしまい、五稜郭とは離れて行ってしまうからなんです。なので函館山・元町方面から来て海岸線沿いに左折し北上したら、どこかで右折して五稜郭寄りのルートに変えなければいけない…そう、その右折なのです!
ちなみに先ほどの当時の馬車鉄道の敷設ルートを見ると首部分には2路線ありますが、後に右折することを考えると、4)のコマで通っていたのは永国橋~鶴岡町の路線の側だと特定できますね。右折した角はどこかというのはさすがに特定不能ですが、イメージとして、現在の市電と同じ函館駅前辺りで曲がったものとして先に進みましょう。
6)左折
右折した後は、五稜郭に通じるルートに入るために左折し、北上することになります。ここは現代の道も大きく変わっていないだろうと見なして検証することになりますが(三度この地図が分かりやすいな…!)、最短に近い距離で五稜郭に向かう道は現在の市電が通ってる道か更に西側の道かに限られてきます。
7)しばらく真っ直ぐ走る
現在の市電の道かその西側の道であれば、そこそこの距離を五稜郭に向かって真っ直ぐ走ることになりますね。道路にレールがあるかの確認も作画内で出来ないので、まだちょっと特定は出来ないかな。
8)馬車鉄道に対して右斜め後方からぶつかる
この時点で馬車鉄道と完全に離れている西側ルートの線は消えますね。もし作画外で右折していたとしても、馬車の左側からぶつかることはあっても、右側になる可能性は低いでしょう。ということは市電の道ほぼ確定。
次に、同じ道路を並走していて右斜め後方からぶつかる現象としては、「三輪車が馬車より速度があり、加えて鶴見中尉が巻き付いて来たり倒した犯人の様子を確認したりしたため運転が疎かになりハンドルが左に切られ、前方を走っていた馬車鉄道にぶつかってしまった」、或いは「五稜郭駅(現在の五稜郭公園前駅)で馬車鉄道が右折する際、同事情による前方不注意で停止or減速出来ず、馬車鉄道にぶつかってしまった」のどちらかかなと思われます。多くの路面電車がそうであるように馬車鉄道のレールも道路の真ん中に敷かれていたと思うので、レールの右側を並走していた場合、馬車鉄道の右折途中に右斜め後方に衝突すると考えられます。
9)以降走る
そこにこだわりたいのは、どこで馬車とぶつかりどこから自分で走って向かったのかを特定したかったから。つまり2人が自分の足で走った距離を割り出したかったからなんですが、並走していてハンドル操作ミスでぶつかってしまった場合は現在の市電でいうところの松風町駅~五稜郭公園前駅のどこででもあり得るとなります。もう少し言うと、左折してから真っ直ぐ走った距離があるので松風町駅~五稜郭公園前駅の中でも後ろ半分のどこかというイメージでしょうか。
対して馬車鉄道が右折する際に停止or減速し切れずぶつかった場合は、馬車鉄道が曲がる交差点、現在の市電でいう五稜郭公園前駅の少し手前の角となります。
これを特定する材料はない…と言わざるを得ません
通る道は同じだと思いますが、パパ達が音之進くんのためにダッシュした距離は算出出来ない…ということです。残念。愛の距離を割り出したかった…。
また2人が自走したルートの特定は出来ませんが、概ねわたし達が五稜郭公園前駅で市電を降りて五稜郭に向かうその道順と同じような感じかと思われます。
まとめますと、
1〉ロシア領事館前の幸坂を海岸線まで下る
2〉桟橋横を通って海岸線沿いを進む
2〉桟橋横を通って海岸線沿いを進む
3〉永国橋で左折し北上(現在の十字街で左折する市電と同じ)
4〉程よいところで右折(現在の市電同様函館駅前辺りと仮定)
5〉馬車鉄道沿いに左折し北上
6〉馬車鉄道と並走中または馬車鉄道の右折地点で衝突
7〉五稜郭一の橋に向けてダッシュ
4〉程よいところで右折(現在の市電同様函館駅前辺りと仮定)
5〉馬車鉄道沿いに左折し北上
6〉馬車鉄道と並走中または馬車鉄道の右折地点で衝突
7〉五稜郭一の橋に向けてダッシュ
ほぼほぼ特定出来たと思いませんか?
3)の背景の山裾の感じが合わないとか多少残りますが、地図を見たらだいたいこのルートを通ったんだな!って思っていただけるのでは。
作画的にカッコよくカーブしたりウィンクしたりしてたんじゃないんだ(たぶん)!ということと、先生が色んな資料を元に構築されていらっしゃることが伝わったんじゃないかなと、思います!もちろんそこに漫画としてのストーリーや画作りのインパクトや面白さ、読みやすさ等を練り合わせて、ですから…これだけ粘着的に深堀りしても楽しめる作品って凄いと思います。この企画、自分でやって、改めて野田先生の凄さに感動しました
以上、長くなりましたが検証企画でした!
函館に行かれることがあれば、リアル聖地はもちろん行かれると思いますが、この辺に鯉登さんのお家があったのかな?この道を鯉登パパと鶴見中尉が通ったのかな?なんて思いながら散策していただいて、皆さまの聖地巡礼の楽しみが増えたらいいなぁと思っています
そういえば作中の函館描写で、ロシア領事館の坂の下の方の建物とか、結構現代的に見えるな~?って思ってたんですけど、こうゆう写真見て、あぁほんとにこうゆう割と現代っぽい街並みだったんだ!って思いました。明治21年(1888)でこの感じですよ!
↓上の展示の写真部分のアップ 右側から
こちらの写真は先ほどの古地図マップ近景の20番にも出ている金森洋物店さんが現在市立函館博物館郷土資料館として展示されている中よりお借りしました。
昔の建物の外観そのままに、当時使われていた古民具や輸入されていた西洋の道具、当時の錦絵から再現した街並みのジオラマなどを展示した博物館になっています。
ではでは。
最後までお付き合いくださりありがとうございました!
よろしければ函館-2→金カム的観光情報&食レポもよろしくお願いします~。
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