永遠を見つける5日間
先生は俺を忘れ、俺は先生を見つける。※続別れるまでにする5つのこと【GW限定公開 5/1 - 5/8】
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◇五悠、七&虎
◇発情しないオメガバース
◇現パロ、捏造、独自設定あり
◆記憶喪失、昔の教え子(β女、登場は1のみ)
◇OC/同級生の善界さん、綿菅さん
◆ゼガイ草/キンポウゲ科の多年草、ワタスゲ/カヤツリグサ科の多年草
◇5日後の二人はしあわせになる
◇誤字脱字ご容赦ください
◆二次小説【腐】フィクションです
●1 22/05/01
昔の教え子とのトラブルで先生は記憶喪失になり、悠を忘れる。
※β女から五への一方的な好意、五の過去の女性関係、脳震盪、記憶喪失、巣づくり、添い寝(保護者としての七)
※五が悠に暴言を吐く場面があります(五は悠が聞いていることを知らず、悠の存在も忘れている)
●2 22/05/02
先生は家を出ていき、ひとりぼっちの悠は過去を回想する。
※門限破り、抱擁(保護者としての七)
●3 22/05/03
七に支えられて生活する悠の元に先生が帰ってくる。
※ネグレクト(OC)、揶揄
※五が悠の名前を正確に読めない場面があります(五は悠を思い出しておらず、悠が聞いていることも知らない)
◯4 22/05/04
恋に落ちた先生は悠に婚約破棄を迫り、悠は困惑する。
◯5 22/05/05
悠は思いを貫き、先生は過去を見つめる。
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先生の過去が今の先生に噛みついた。噛みついて日常を壊した。その過去はベータの女の人の顔をしていて、かつての教え子だった。
先生の過去の女性関係がにぎやかだということは知っていた。噂で聞いたし、本人の口からも聞いた。ただし、それは昔の話。今はきっぱり悪い遊びをやめて、俺だけの先生になった。
ところが、過去は先生を忘れない。昔の先生につきまとっていたという噂、未成年の在校生に絶対手は出さないけれど、成年した卒業生とは遊んでくれる、つまりは一夜限りの関係を持ってくれるというそれを信じ、ベータの女の人は先生の勤め先である共学校へいそいそとやって来たのだった。
俺は女の人のことも知っている。いつか駅で話しかけられたことがあるからだ。俺はその人の後をつけさえした。当時からして、先生のことを懐かしんでいた。ずっと好きで、心の奥に想いを隠していたのだろう。純粋とは言いがたい、欲望まみれの想いを。
共学校のセキュリティはオメガスクールより甘い。卒業生だから校内のこともよく知っている。ベータの女の人はさして苦労せず先生を見つけ、駆け寄って声をかけようとした。したけれど、できなかった。来客用のスリッパが廊下につっかかり、つんのめってバランスを崩したから。
反射神経の良い先生は即座に動いて女の人をかばった。かばって、倒れた。目撃証言によると、女の人が先生に渾身の力でしがみつき、何かを囁いたものらしい。それを聞いた先生はぎょっとした表情を浮かべて体勢を崩し、倒れた。倒れて頭を打ち、脳震盪を起こした。
目撃者である生徒たちが、たまたま近くにいた夏油先生に助けを求めた。夏油先生は引きずられるように現場へ案内されたらしい。向かった先で目にした先生は体を起こし、頭を撫でさすっているところだった。
ベータの女の人はすでに姿がない。逃げたのだ。義憤にかられた生徒たちが探し回ったけれど見つからなかった。
夏油先生は先生に動かないようにと釘をさしてから、簡単なテストをした。素人の気休めにすぎないけれど、不安だったのだろう。見える指の本数、名前に年齢、生年月日に職業、年号に日付。先生は無事クリア。滑舌もよく、ためらいもなく、完璧に答えた。
安堵した夏油先生は呟いた。
……虎杖に心配かけちゃいけないよ。
先生は顔をしかめ、こう答えた。
……イタドリ?何それ。
俺はこの話を夏油先生から聞いた。七海さんの家で、事件が起きたその日の晩、携帯越しに。
先生は俺を忘れた。
俺だけを、忘れた。
◇
共学校で何かが起こり、先生が巻き込まれたという知らせはオメガスクールにすぐ伝わった。兄弟や友達、恋人のネットワークがある。俺はほとんど事件が起こったのと同じタイミングで速報を聞いたと思う。ちょうど帰る準備をしていたところだった。
「五条先生はお怪我をされたようです」
誰かが囁いた。
「ひどい怪我では、ないようですが……」
俺は携帯を見た。お昼頃にメッセージを送りあった履歴があるだけ。全身の血がざーっと足元に流れ落ちるような感覚があった。先生は俺に連絡を取ることができない状況にあるということだ。後始末に奔走して携帯に触れる時間がないだけならいい。病院に運ばれて大変なことになっていないならいい。
……先生は大丈夫。だって、先生だ。
メッセージを送ろうとして指がもたつく。言葉が思いつかないのだった。深刻さを認めるのも怖いし、楽天的すぎるのも現実逃避みたいに思う。結局メッセージは諦める。話をしたい。でも、邪魔になってはいけない。
早く家に帰ろうと思った。何事もなければ先生は帰宅する。万事休すだ。もし何かあった場合でも俺は家にいた方がいい。冷静でいられるし、七海さんの助けも借りることができるから。俺は七海さんに状況を伝え、何か情報が入ったら教えて欲しいとメッセージを送る。大人同士で連絡を取り合っているかもしれないという望みをかけて。
「お祈りしましょう」
一部の同級生たちが教室の隅に集まり、目を閉じた。信仰に基づくものではなく、名前のない大きなものに対する祈り。雷を恐れる子どもが心の中で助けを求める名もなき神さまのような。祈りの輪は大きくなり、残っていた子たちの半分くらいが加わった。
俺は離れた場所で先生の無事を強く祈った。俺の隣を同級生の善界さんが通りすぎる。すれ違い様に低く呟き、そのまま教室を出ていってしまう。
……あんなのばっかみたい。
善界さんは確かにそう言った。俺に聞こえるように、吐き棄てるような調子で。
*
こんな時に限ってバスターミナルは混雑している。電車の運転見合わせがあり、乗客が流れてきた。タクシー乗り場も長蛇の列。俺の頭は煮えたように熱くなる。早く帰らなくちゃいけないのに、家にたどり着けない。俺が一秒遅れるごとに、先生が危険な状況に追い込まれていく気がする。
携帯がメッセージを受信した。七海さんからだった。文字を目で追う。焦りすぎて目が意味を捕まえられないから、何度も読んだ。
「五条さんは無事です……よかったぁ」
ようやく頭に入ってきた言葉に、全身の力が抜けた。先生は無事。七海さんが言うなら信じていい。その場しのぎの優しさは口にしない人だ。
メッセージには続きがある。
……落ち着いて帰ってきてください。慌てずに。必要ならブロッカーを飲むこと。
俺は自分のにおいをかいだ。先生の無事を確認して多少は落ち着いたけれど、まだパニックのにおいがする。オメガの不安定なフェロモンはトラブルの原因だ。俺は手持ちの錠剤を噛んで飲み下した。
*
バス停から家まで走った。ゲートの鍵を解除して中に入る。午前中は光がいっぱいだった空は灰色の重たい雲が垂れ込めて、肌寒いくらいだ。
七海さんの家に行こうとした俺は、自分の家を見てあることに気づく。車があるのだ。家の脇に停められている。ただし先生の車じゃなくて、大きな四駆。
「夏油先生のだ……」
先生は帰ってきているのだろうか。それなら、運転に不安があるから夏油先生に乗せてもらったのだろう。俺は小走りで自分の家に向かう。
家に近づくにつれ、俺の足取りは鈍くなった。強いフェロモンが漂っているから息苦しい。アルファのテリトリーを示すフェロモンだった。先生のもの。
変だな、と俺は思う。
ここは先生の家だから、わざわざこんな示威行為をする意味がない。自分のテリトリーで新たにフェロモンを出すとすれば、それは自分の不在に侵入者があり、その気配を消す必要があった場合。たとえば他のアルファのフェロモンや、つがいではないオメガのフェロモンなどだ。
俺の家には無縁の事柄。
「何でだろ」
変なのはテリトリーのフェロモンがあることだけじゃない。これは先生のフェロモンなのに、俺がこのフェロモンをはっきり不快なものとして捉えていること。強すぎてキツいというのじゃなく、厭なものだから近寄りたくないと思う。フェロモンからも明らかな拒絶のメッセージを感じる。
こんなことは、初めてだった。
どんな時でも先生のフェロモンには俺に語りかける言葉があったのに、これにはそれが全くない。怪我をしたから先生も神経を尖らせていて、普段とはフェロモンの調子が違うのかもしれないと自分を納得させる。
玄関の鍵は開いていた。
先生と夏油先生の靴がある。二人は居間にいるようだ。会話する声が聞こえる。さらに重たくなったフェロモンのせいなのか、俺はただいまと声をかけるのをためらう。居間まで走って、先生に飛びつきたい衝動も萎縮して消える。
家に満ちているのはアルファのフェロモンばかり。この濃度なら俺の綿ぼこりみたいなオメガのフェロモンなど、先生が家に足を踏み入れた途端に消えてしまったことだろう。
奇妙な勘が働き、俺は脱いだ自分の靴を手に持って家にあがる。足音を忍ばせて廊下を歩く。
「悟、満足しただろう。早く病院に行くよ。家を見たら行くって約束したよね?頭の怪我は怖いからきちんと検査しないと」
夏油先生の声だ。
「はいはい。駄目だ、何も思い出せないや。この家のことは頭から消えてる」
先生の声。俺の胸は喜びでいっぱいになるけれど、話の内容に動揺する。
家のことを思い出せないって、何だ。
「僕、ホントにここに住んでた?この家を自分で買ったの?知らない?あっそ。マンションじゃないのは意外だったね。なんだろう、このこじんまりした家庭的雰囲気は……そうか。ここ、オメガのいる家か」
鬱陶しそうに先生は言った。
「家の人間が僕にオメガをあてがったんだ。違う?婚約者ってやつ?オメガのにおいがするなって思ってたんだよね。僕ので霧散させちゃったけどさ。あー、面倒。僕にはそんなのがいるのか。僕のお顔とお金に目が眩んじゃったかねぇ……かなり若いオメガでしょ、なんとなくだけど」
「記憶が戻ってから後悔するようなことは言わない方がいいよ」
夏油先生が静かに言う。
「後悔なんかしないよ。僕はオメガと相性悪いもんね。昔の教え子に襲われたのは身から出た錆でおおいに反省しますけど、オメガの記憶がぶっとんだのは有意義なことなんじゃない?こんな立派な家を買って世話してやってたみたいだけど、本当は厄介に思っていたんじゃないかな、頭をぶつける前の僕も。忘れたかったから忘れたんじゃないの」
「悟!」
叱咤の呼びかけに、先生はおどけた声で答える。
「随分かまうね。傑も知ってるの?この家のオメガのこと」
「優しい子だよ」
ならお前にやるよ、と先生は言った。
濁流のように溢れた夏油先生のフェロモンに飲み込まれる前に、俺は靴を手に靴下のままで家から逃げ出した。
*
中庭をつっきって、最奥の野ばらのしげみまで走った。甘い匂いのする白い花がぽつぽつ咲いている。ハナムグリは花芯にしがみつき、クマンバチは大きな羽音をたてて飛び回っている。俺は野ばらの棘を気にせず、中に潜り込んだ。
なぜか野ばらは俺を刺さない。棘で俺を傷つけない。
古い枝がアーチを作り、俺が膝を抱えて座ることができるくらいの空間がある。そこまで這っていく。ここに来たのは久しぶりだった。座って呼吸を整える。ブロッカーを飲んだのにフェロモンが出ていた。驚きすぎたせいだろう。
「あれ、誰」
俺はつぶやく。声が震えた。
誰だあのアルファは。
*
眠っていた訳じゃない。考えごともしていなかった。頭が真っ白で、考えるということができなかった。意識が外側に向かったのは雨が降りだしたから。野ばらの天蓋にぱらぱらと雨音が響く。砂のこぼれるような微かな音。どこかでカエルが鳴き始めた。雨蛙だろう。稲妻模様の美しい瞳を持つ小さな生き物。
足音が近づいてくる。木の葉を踏む音がする。
「虎杖くん。出てらっしゃい。お二方はもう帰られましたよ」
七海さんだった。俺は膝にまわした腕をきつくして、もっと小さくなる。
「返事をなさい。私を雨の中に立たせておくつもりですか」
放っておいてと言おうかと思った。一人にしてと。でも、それは子どもっぽい。こうやって秘密の場所に隠れていることも。俺は観念して、野ばらのしげみから這い出した。
「……どうして、ここにいるってわかった?」
うつむきがちに俺は訊ねた。
「あなたのフェロモンが道しるべの小石みたいに、家からここまで一直線に連なっていたからです」
七海さんは俺の髪にからまった枯れ葉をつまみながら答える。
「雨足が強くなってきた。ほら、家まで走りなさい。制服を着替えたら私の家に来るんですよ」
ぽんと背中を叩かれて、俺は迷いながらも家を目指す。
走りながら俺が考えたのは、七海さんの家に行く時に先生の服を持っていこうということで、つまりは俺をちゃんと覚えていて、俺のことが大好きな先生のフェロモンがついたそれをお守りにしようと考えた。
でも、俺はもっと理解しておくべきだった。俺を忘れた先生はオメガ嫌いのアルファなんだってこと。
*
しばらくして、俺は七海さんの家を訪ねる。七海さんはすぐに出てきて、俺を見て驚いた表情を浮かべた。
「ずぶ濡れじゃないですか。しかも制服のままだ……どうしたんです?」
「中に、入れなかった」
俺は囁く。髪から水滴がしたたって、鼻筋を流れて唇をつたって口内に流れ込む。陸にいるのに溺れているみたいだ。
「まさかあの人、あの短時間で鍵を変えていきました?」
「ううん。そうじゃない。フェロモンを残していったの。強いフェロモン」
ある意味、先生は家に鍵をかけていった。自分以外の人間、特にオメガが家に入ることを禁じるフェロモンの鍵。家を覆っていたそれの強さは、さっき俺が感じたテリトリーのフェロモンの比ではなかった。家は完璧に封じられていた。俺は見えない壁を感じたし、触れるどころか近づくだけで気分が悪くなった。
先生の作った壁は、穢れたものを排除する結界のようだった。
「だから、入れなかった」
七海さんはため息をつき、俺を招き入れる。靴下を脱ぐように指示され、そのまま風呂場に直行させられる。
*
シャワーを浴びて浴室を出たら、着替えの一揃いが置いてあった。パジャマも一式。着替えは俺のもの。そういえば、先生が実家の用事で数日家をあけた時、七海さんの家にお泊まりに来たことがあった。預かってもらっていたんだな、と思う。パジャマは七海さんの。大きいけど、工夫したら着られる。
小さい頃から丈の合わない服を着るのに慣れている。俺は誰かのおさがりばかり着ていたから。
パジャマを借りた。着替えは明日のために取っておく。制服はこれから何とか乾かして、駄目そうだったら私服で登校だ。オメガスクールは基本的に制服登校だけれど、事情があれば私服も許される。
「落ち着きましたか」
七海さんは台所にいた。紅茶の支度をしている。先生がいたら喜びそうなお茶うけのお菓子があって、俺は胸が痛む。
「七海さんは、先生と話した?」
「遠目に見ただけです。二本の足でしっかり歩いていましたから、無事だとあなたに連絡をしました」
「怪我、してた?」
「頭に包帯を巻いていましたが、あれは虚仮おどしでしょうね。あの人は頑丈ですから心配いりませんよ」
「そっか」
紅茶は舌に熱い。お菓子は食べられなかった。目ではおいしそうって思うけれど、口がこばんだ。
*
少しも食べられなかったダイニングのテーブルで、夏油先生からの着信がある。端的な通話で、俺は共学校で何が起きたのかを知る。夏油先生は言葉をにごした昔の教え子のこと。先生は記憶の欠落こそあれど脳自体に異常はないこと、今日はホテルに泊まっていること。そして、欠落した記憶は俺にまつわる事柄だけだということ。
先生は、イタドリという言葉を名前として認識することができなかった。
……一週間から半月程で記憶は戻るものらしい。それでも戻らない場合は治療が必要ということになるね。私にできる限りは見守るから、虎杖は心配しすぎないように。
今は一人かと聞かれたから、親しくしている隣人の家にいると話した。
「さっきは、ありがとうございました」
……さっき?
「俺のために怒ってくれました」
先生が心ない言葉を口にした時、夏油先生は強いフェロモンを出した。そんなことを言ってはいけないと、厳しくたしなめるにおい。
……いたの?あの時。
「いました、廊下に。色々、聞きました。大丈夫です、本心じゃないって分かってるから」
夏油先生が絶句する気配があったから先手を打つ。気にしないでくださいって。
……思いの外、冷静でよかった。虎杖はしっかりしてるね。あいつ、正気に戻ったら死ぬまで後悔するよ。
明日きちんと登校するようにと念を押されて通話を終える。
*
客間で休ませてもらうことになる。新しいシーツを二人でかけた。タオルケットも貸してもらった。
「明日は私が学校に送っていきますから」
俺がベッドに入ったことを確認した七海さんは、扉のところでそんなことを言う。
「え?いいよ、バスで行く」
「ブロッカーが効かないくらいフェロモンが不安定ですし、あの人のプロテクションもないでしょう。危険ですよ。それでは、おやすみなさい」
七海さんも今日は仕事をせず、このまま寝るらしい。敷地に満ちた先生の攻撃的なフェロモンに疲れたそうだ。俺は部屋の明かりを落としてベットに横になる。清潔なにおいがする場所に、一人きり。
「雨、いつの間に止んだのかな」
夜はしんと静まり返っている。
俺の頭の中は正反対。
*
頭が混乱しているせいか、俺は眠ることができない。枕とタオルケットを持って七海さんの部屋へ向かう。扉をノックして返ってきた声に扉を開けると、七海さんはベッドで本を読んでいた。
「どうしました?」
「こっちで、一緒に寝てもいい?」
許可がおりる。俺は七海さんのベッドの端に小さな巣を作った。先生の服があればよかったなと思うけれど、先生を想うほど、さっき耳にした先生の声が耳によみがえるから苦しくなる。
……お前にやるよ。
俺のフェロモンが急降下したのを感じたのだろう。七海さんがちらりと俺を見る。巣の中で子ぎつねみたいに丸くなっている俺を。目が合った。七海さんの目は優しい。俺の口が、もう黙っていられなくなった。
「先生ね、記憶喪失になった」
七海さんはほんの少し目を大きくした。
「強く頭を打ったみたい。でね、俺のことだけ、忘れちゃった。俺にまつわることだけ。他のことはみんな覚えてるのに。先生はさっき家にいたけど、知らない場所にいるみたいだった。家のことを思い出せないんだって。オメガの世話をしてた家かなって、言ってた……それに、俺のことは忘れたかったから忘れたんだって言ったよ」
「あなたに直接言ったんですか?顔を見て?」
「ううん」
もしそうだったら、俺の心臓は動き方を忘れたかもしれない。
「あなたがいない場所で言ったことなら無視していい。あの人は自分に取り入ろうとするオメガが嫌いですからね。それはあなたではない架空のオメガに対するコメントとして受けとるべきです」
「……俺のことを、夏油先生にあげるって言ったのも、そう?」
口に出すのも嫌な言葉だった。言葉は不思議。ひとつひとつは普段から使う当たり前の単語なのに、並べ方で信じられない意味を生み出す。
「品のないことを言ったものですね」
七海さんは呆れ顔をした。
「五条さんは、自分は強い人間だという自負のある人ですから、記憶喪失という謂わば自我の揺らぎのような状態を耐え難く思うのでしょう。八つ当たりみたいなものです」
確かに先生は怒っていた。もし俺が記憶の一部を失ったら、きっと不安になるだろう。怒るのは先生らしいのかもしれない。
「もし知人ではない第三者がその場にいたらあの人はうまく取り繕ったでしょうが……あなたのことだけを忘れたのも、私には納得がいきます」
「どうして?」
俺はびっくりして、巣から飛び起きる。七海さんはまぁ落ち着いてという手振りをしてから、可笑しそうに言うのだ。
「あの人はあなたのことしか考えていませんでしたからね。記憶を本棚とすれば、並んでいたのは虎杖悠仁という大部の本一冊きりだった訳です。私を含め、後は付箋みたいな扱いでしょう。アクシデントが起こり本棚が揺れ、本が落ちた。あなたの記憶は失われ、有象無象の記憶ばかりが残った」
「……本、棚に戻る?」
先生は俺を思い出すのだろうか。
「戻すんですよ、あなたの手でね。今日は不意打ちでしたから対面は叶わなかったわけですが、明日以降に考えましょう。望むことがあるならば、待っているだけではいけません。行動に移さなくてはね」
七海さんは言う。
「うん」
声が思うほど元気にならない。前向きにならなくちゃいけないと思う。それでも、耳にした言葉は石のように心に重くのしかかる。希望を持とうとする心が押し潰されてしまいそうになる。
……お前にやるよ。
俺は耳に手を当てて、もっともっと体を小さくした。
あんな言葉、聞きたくなかった。
*
いつまでたっても眠りはやって来ない。
俺は静かに呼吸だけを続ける。七海さんの眠りの邪魔をしてはいけないから、やたらに寝返りを打たないように気をつける。
朝の先生のことを考えた。
今朝は先生の方が先に起きた。俺は先生が俺の髪を撫でる手の動きに目覚めたのだった。先生の瞳の色は日によって違う。時間帯でも違う。今朝は緑が強かった。夏の海みたいな青。おはよう、と先生は声を出さずに言った。俺はしあわせだったから微笑んで、それを見た先生も笑顔になった。
あの瞳が見ていた俺の記憶はどこへ行ってしまったんだろう?
「沈黙は雄弁な話者である、とは誰の格言だったか」
突然七海さんがしゃべった。寝言かと思ったけれどそうではなく、眉間にしわを寄せたアルファは半身を起こして俺をじっと見ている。
「……ごめん。うるさかった?」
七海さんはそれには答えず、険しい顔のままベッドからおり、窓際の書き物机の前に立つ。ランプシェードをつける。柔らかい光が部屋の一角を照らした。
「こっちにいらっしゃい」
手招きされて、俺もベッドからおりる。七海さんは引き出しから紙の束とボールペンを取り出し、机の上に並べた。
「おそらく今夜、虎杖くんは眠ることができないでしょう。頭の中で言葉の蜂が飛び回っているような状況だから。無理に眠ろうとするのはかえってストレスになります。あきらめなさい」
「はい」
七海さんは物凄く眠そうだ。
「言葉の蜂はどうすれば静かになるか。そのうなりをどうやって鎮めるか。その方法は一つ。書き出すことです。頭の中の言葉を紙の上の文字にしてしまうのです。ただ書き出すだけでは追体験に苦しみますから、あなたは五条さんへ手紙を書くといいでしょう」
「手紙?先生に?」
「はい。あなたは意図せず暴言を吐かれて反論する機会を与えられなかった。一方的に話をされると、口に出されなかった聞き手の言葉は胸につかえる。それを出しきりなさい。あの人に悪態をついてもいい、説教してもいい、なんだっていい」
あの人に伝えたいことを書いてみなさい、と言う。
「書き終わって、まだ夜が明けていなかったら書斎に行って本を読むといい。字の本は外国語がほとんどですが、画集や写真集もあります。好きなように見てください。夜が明けたら、やかんを火にかけて紅茶を入れてくださると助かります。では、私は眠ります。おやすみなさい」
「ありがとう。おやすみなさい」
七海さんはベッドに戻っていった。俺は椅子に座ってペンを手に取る。紙をぱらぱらめくってみた。少し日に焼けた薄手の紙。繊維がざらざらしている。机の隅に丸い石が置いてあった。文鎮として使われているのだろう。石の表面には雪の結晶みたいな不思議な模様が刻み込まれている。
化石かもしれないなと、俺は思う。
「手紙。ううん。まずは今を乗り切るためのルールを作ろう」
一つ目は決まっていた。
「泣かないこと。終わるまでは、絶対」
泣いて物事が解決するのは小さい子どもだけ。俺が泣いたってどうにもならない。幼い子どもにとって泣くのは知恵だ。言葉だし、手段。俺にとってはもう違う。
「二つ目は、信じること。三つ目は、疑わないこと」
これらは同じようで違う。信じることは前に進むエネルギーで、疑わないことは前進中に生じる反発を宥める力。
「四つ目は、理解すること」
これは、あの発言をした先生を受けとめるため。
「五つ目は、俺の先生を見つけること」
全部書き出して、綺麗な模様の石で押さえた。七海さんの言う通り、文字にしたら心が落ち着き、頭が静かになった気がした。
七海さんの寝息を聞きながら、俺は先生に手紙を書きはじめる。