4. 深夜残業代をお支払下さい(本編)
北の王宮と呼ばれる、リーエンベルク。
白と淡い青磁青を基調とした王宮は、元は、雪狩りの為の好立地に作られた北の王族の為の離宮だったのだそうだ。
その後、あまりの美しさから王宮とされたが、ヴェルクレアが四方統一され王族がまとまった現在では、この北の王宮に定住する王族はいない。
国境の森に囲まれた王家の白鳥城と称される華やかな見た目に反して、要塞としての機能も高く、その為か、苛烈を極めた統一戦争時には惜しみなく拠点としても利用され、遺体部屋まであったという背筋の寒い逸話がある。
幸い、ネアの隔離されていた棟に残された宜しくない方面の履歴は、その遺体部屋の話ではなく、血の薄い庶子達の隔離棟だったという程度の刺激の少ないものだった。
ネアが契約の魔物を捕まえてしまった一件について、ようやく話し合いの場が公式に持たれたのは、その日の午後のことである。
(歌乞いの儀式を自分でやってしまったので、幾つか必要な手続きを飛ばしてしまえたものもあるけれど、忙しい夜になってしまった………)
昨晩中に解決したのは、ネアが契約した魔物のお披露目くらいだが、これはディノに出会うなりエーダリアが失神したので、無事に終了したとは言い難い案件だ。
(それに、グラストさんというあの騎士の方にも、怖い思いをさせてしまった気がする…………)
ネアは、我が身はすっかり放置されたお客であると不貞腐れていたのだが、魔物を連れ込んだ結果の引き起こされた魔術異変に気付き、エーダリア付きの護衛官のグラストはすぐに部屋に駆けつけてくれた。
そんなグラスト氏に対し、ご主人様の部屋に押し入る不審者だと荒ぶったディノが追い出しの暴挙に出てしまい、その謝罪と説明にも追われた。
おまけに、そのグラスト氏と共に駆けつけた彼の契約の魔物に対しては、魔物同士であるからこその異変が現れてしまったのだ。
ディノを見るなりがたんと跪いて臣下モードに入ってしまった魔物の解放運動に励み、人間社会はとても繊細なので、薬の魔物としての今後の運用の為には他の魔物を気軽に傅かせてはならないと、ディノへの講義と調教までする羽目になってしまい、ネアは疲労困憊している。
そんな激務を終え、就寝が明け方になったことを思えば、事勿れ主義のこの人間は、結構働いていると言えよう。
(そう言えば、時間外労働の、深夜残業代みたいなものは出るんだろうか?)
睡眠至上主義のネアとしてみれば、昼夜問わず労働を強要される環境は非常に困る。
王族が治めるような土地や文化だと、その概念がない可能性もあるのではないか。
まだこちらの組織に馴染んでいない今の内に、細かい労働条件についての取り決めもしなければと思い至った。
元王子とは言え、現在は暫定的に婚約者であり、魔術師という知識の従事者だ。
(残業代や、労働時間の制定をするくらいの権限は、あの方にもある筈だから…………)
このような交渉ごとは老獪に、狡猾に。
いざとなれば、そんなエーダリアの不都合な真実とやらを盾に取る覚悟で、ネアは強気に出ることにした。
暫くの間は無知寄りの人間として推し進めたかったのだが、昨晩の騒ぎで被っている猫がずり落ちてしまっているからには、その運用は諦めよう。
人間は、非常時にこそ己の素質が見えると言うが、ネアの猫被り術は残念ながら未熟だった模様だった。
「エーダリア様、まずは正面にディノを配置しますね。存分にご堪能下さい。それから、昨晩はエーダリア様がお倒れになってしまい、色々ばたつきましたので、深夜の時間外労働が発生しています。今後、時間外労働の御給金は、都度払いか月締め払いとさせて下さい」
「ま、待て、ネア。一言目から何を言いたいのかわからないぞ」
「何で、これと向かい合って座らなきゃいけないのだろう?」
事務的に話し合いを開始したネアだったが、婚約者は世間体の為に否定から入ってしまいとても面倒臭いし、飼い始めてしまった犬………ではなく、契約してしまった魔物はたいそう我儘だ。
みないい大人なので、枕詞的な部分ではなく、発言の焦点を汲み上げていただきたい。
(そして、普通に会話して構わないと教えてくれたグラストさんも引き気味なのは、なぜなのだ……………)
本来であれば、エーダリアやグラストは、身分的な問題によりこうして対面で座ることすら許されない存在ではあるが、現在は状況が特殊なので、その問題は均されているそうだ。
現在、各国の顔である歌乞い達は、一時的な闘争状態にある。
参加者が国を代表する歌乞いに限られるのは、今回の騒乱にかかわる者を限定しないと、本当に戦乱の世に逆戻りしかねない、重篤な事件が起きているからなのだそうだ。
残念ながら、昨晩のエーダリアは使い物にならなかったので、歌乞いの魔物を得たところで行われる筈だった説明をしてくれたのはグラストである。
(つまりのところ、ここに居る人達は皆、その問題終結までの期間に於いて、チームとして機能するメンバーなのだとか…………)
わかりやすくまとめれば、魔王討伐の勇者パーティだろうか。
国の歌乞いとして選出されたネアはその一員となり、身分格差の問題はぺいっと道端に捨てて構わないと聞いている。
それはそれで有難いのだが、ここにいるのは、魔王など倒しに行かなくていいので、事務員などをさせて欲しいとても控えめな人間であった。
「…………深夜残業代?」
まだ衝撃から覚めやらないのか、エーダリアの声は鈍い。
「はい。歌乞いは、国家に従事する職業だと伺いました。ですので、業務環境は人道的な範囲で整えて下さい。そうでなければ、私は駄目な人間なので即座に業務放棄して脱走してしまいます。エーダリア様はとても優秀な方だと伺っていますので、上手に私を運用して下さいね」
「…………脱走?」
再び困惑の表情になりかけて、エーダリアも、さすがに頭を切り替えたようだ。
「君は私の婚約者だが、ヴェルクレア国の歌乞いでもある。庇護されてその恩恵を受けている君が、国に対して度を過ぎた要求をするのはお門違いだ。発言までをも慎む必要はないが、正しく弁えろ」
「では、私の要求が過分なものだと判断されれば、私はどうなるのでしょう?」
「歌乞いは権威ではなく職務だ。相応しくない行いには、それ相応の処分がある」
「まぁ!では、是非に解雇して下さい」
「…………なんだと?」
ものすごくいい笑顔で言い切ったネアに、エーダリアの顔色は紙のようになった。
気配の変化を感じて周囲に目をやれば、グラストとグラストの契約の魔物がものすごい表情で首を横に振っている。
まっとうな要求をしているだけなのに叱られているのかと思ってむっとしたネアは、彼等の視線がエーダリアに向かっていることに気が付いた。
「拾い上げていただいて、一晩の衣食住でお世話になった事については、とてもとても感謝しています。でも、その分の負担を請求していただければ、私は、あなた方にそれ以上の恩義はありません」
「ま、待て……!」
「ディノ、昨晩に大丈夫だと話してくれましたが、いざとなったら立て替え精算お願いします」
「勿論だよ、ご主人様。欲しければこの王宮だって買ってあげる」
「むむ、管理費の嵩む大型の不動産は、邪魔になるのでいりません」
ふと気付いて良く見れば、エーダリアは必死にディノの美貌を直視しないようにしているようだ。
何だろう、腹は立つけど可愛いやつめと、ネアは口元を綻ばせた。
「エーダリア様!」
「わ、わかった。お前への報酬の支払いは、交渉に応じよう」
「エーダリア様!!」
「いや、言い値で支払おう。それで構わないな?」
必死の形相のグラストの助けもあってか、エーダリアは急に物わかりが良くなった。
昨晩の内に、ネアが、エーダリアが倒れたのは恐らくディノの美しさにやられたのだろうと説明しておいたので、エーダリアの剣の師でもあるという彼は、二人の進展に尽力する大人としての忠告に出たようだ。
昨晩はその事実に頭を抱えてしまっていたのにこの立ち直りようなのだから、グラストという人は、とても柔軟な思考の持ち主なのだろう。
護衛の騎士達には隊長と呼ばれていることもあるのできっと偉い人に違いないが、今のところ一番話し易い人でもあった。
(そして、理不尽な程のものを毟り取ろうとはしていないのだけれど、今後の生活を考えると、要求を下げ過ぎても後々に自分の首を絞めてしまうから…………)
「では、住み込み食事付きの、前払いの月給制にしましょう。そして、時間外労働では時給換算して割増の給金を請求します。仕事に必要なものは、そちらでご準備の上で支給して下さいね」
ネアからしてみれば、示唆された任務は、物語の主役級の人々が取り扱いそうな重大事件に思える。
であれば、これ以下の扱いしかできないならば是非に解雇して貰っても構わないと結構強気に要求してみたつもりだが、エーダリアは無言で頷くばかり。
しかしながら、現実的な金額の交渉と契約内容を書面で残すように言葉を重ねたら、なぜだか机に突っ伏してしまった。
元王子らしく、このような問題は不得手なのだろうか。
(何しろ元王子様だし、お金の些末で苦労とか、したことがないのだろうなぁ…………)
そんなお金の苦労を常にしてきた心の狭い人間は、あっさりと若干の反骨心を抱きつつ、なかなかに有能な切り換えを見せ書面を作成し始める婚約者を観察する。
こうして見ると、やはり絵のように綺麗な男性だ。
悔しげに眉を寄せた斜めからの角度はなかなかに美しい。
とすれば、こちらの椅子にディノを配置するべきだっただろうか。
「…………は!そうです、ディノ。魔物は同性と恋人になったりするのでしょうか?」
肝心なことを調べ損ねていたと慌ててこっそりと尋ねてみたのだが、会話の内容が聞こえてしまったのかグラストが激しく咽込んでいる。
「…………どうだろう。することもあるのではないかな?あまり拘らないしね」
「良かった!その口調からするに、ディノも拒否反応があるわけでもなさそうですね」
「えっ、ネアどうしてそんな質問になったの?やめて」
虹色の魔物が悲しげに取り縋ったが、必要な答えは得たので、ぺいっと体から引き剥がす。
そして、何食わぬ顔で視線を前に戻せば、エーダリアが酷い顔色でこちらを見ていた。
「…………エーダリア様、ペン先が折れてしまっていますよ?そして、心配ありません。堅実な努力と魅力で、人の心は思いがけず動くものです。あなたは充分に魅力的な方ですから、きっと上手くいきます!」
協力しますからね、とその震える指先を握ってやれば、ものすごい速さでディノにその手を引き剥がされた。
叱ろうと思ってそちらを向けば、ディノは勝手にネアの片手を抱き締めて深刻な表情をしている。
「ディノ。その左手は私の持ち物なので、すぐさま解放して下さい」
「ネア、そのおかしな人間に関わるのはもう止めた方がいいよ」
「他人様の繊細な問題を、そうやって馬鹿にしてはいけません。それに、エーダリア様はディノのことが………」
「うん。やめて」
「重ねてお伝えしますが、エーダリア様は変態ではありませんからね?そもそも、ディノがそれを口にする意味がわかりません。エーダリア様は、………ええと、少し稀少な世界の扉を開いてしまった、純粋な恋する男性です」
「ネアじゃないと嫌だ」
「権力者相手に、恋愛問題の板挟みにしないで下さい!そして、左手を解放したまえ!!」
途中から腕の引っ張り合いが楽しくなってしまったのか、何やら嬉しそうなディノから左手を救出するべくネアが奮闘していると、部屋の隅っこにある長椅子に埋もれて座っていたグラストの契約の魔物がぽつりと口を挟んだ。
ゼノーシュという名前のその魔物は、淡い水色の髪がさらさらで、琥珀色の瞳はどきりとするぐらいに透明度が高い。
背は高いが手足はすらりとしていて、妖精のように美しい魔物だ。
時折ふっとグラストを寂しそうに見ることがあり、ネアは、この二人の関係はどうなっているのだろうと考えることもある。
とは言えまだよく知らない人達なので、色々な背景や事情があるのだろう。
「そこの魔術師は、そろそろ死んじゃうんじゃないかな」
そして、契約の魔物のその発言に我に返ったのは、護衛騎士であるグラストだった。
慌てて主人の顔色を確認すると、腕の引き合いをしているネア達に素早く頭を下げる。
「申し訳ない、歌乞い殿。俺の主は、このような………色めいた話には慣れていらっしゃらないようだ。暫し時間を置いて、あらためて話し合いの席を設けさせていただいてもいいだろうか?」
(確かに、エーダリア様、さっきから動かなくなったな…………)
目の前でこんな綺麗な生き物に拒絶されれば、それは落ち込むだろう。
ネアは、自分の仲人技術の拙さにがっかりしたが、あまり公の場で斡旋すると双方意固地になるかもしれないので、今度からこっそり暗躍する方向にしようと頷いた。
「わかりました。…………エーダリア様、書類の方はその時までにお願いしますね?」
臨時とは言え、お金を貯めてここを出てゆくまでは、上司として関わる相手である。
傷心の婚約者には、人として優しくしてあげなければと思うのだ。
子供にするように体をかがめて、出来る限り優しい声で話しかけたのだが、反応はないようだ。
それどころか、ディノが不満そうに腕を引っ張ったので、ネアはむぐぐっと渋面になる。
それなりにご高齢な生き物の筈なのに、どうしてこの場の空気を読めないのだろう。
今後は、エーダリアの気持ちを思いやる優しさを教えなければなるまい。
「ほら、ディノ、お部屋に帰りますよ」
ネアは、グラストの付添いを辞退して退出した。
少しでもエーダリアの回復に努めて欲しかったのと、抜け目なく、帰り道でこの建物の配置を自分で把握しようと思ったのだ。
休憩時間は予想より長く、再開は夕刻となった。