2014/8/7 12:18 《現在地》
項内川の架橋不良を見ての一時撤退の決断から8分後、自転車を押して“丁字路”へ戻ってきた。
……もうここを丁字路と呼ぶのは止そう。道はあったのだから、ここはやはり“十字路”である。
で、この次に何をするかだが――
さらに【ひとつ前の十字路】まで戻ってから、左図のピンク色のルートを辿って自動車交通不能区間の反対側にある田茂代(たもだい)集落を目指すことにする。
県道が通れれば約1.1kmのところ、迂回ルートだと約2.5kmの行程となり、倍以上の距離になるが、自動車を利用できるなら、この程度の迂回は誤差の範囲でしかないかもしれない。ウィキペディアのこの県道の解説ページにも、「代替路による迂回は容易
」と書かれている。
本当に迂回が容易かどうか、これから自転車と自らの肉体で試してみよう。
うん、容易ですね。
迂回に使った道は全て舗装されており、交通量に対して余裕がある1.5車線道路なので、自動車でも自転車でも問題はない。
強いて言えば、途中の交差点のどこにも案内標識がないので、地図を見ながら走らないとトンデモナイところへ連れて行かれるリスクはあるが、この辺りは観光地ではないし、生活者以外は入り込まない前提なのだろう。まあ現代だったらカーナビもスマホもあるしな。
12:48 《現在地》
迂回を初めて30分後、新郷村の北端に位置する田茂代集落の近くに辿り着いた。
もうすぐ集落が現われるところだが、ここで一足先に、県道十和田三戸線との再会である。
我らが県道は、この丁字路の正面からやって来て、右の道へ続いている。
不通区間を目指している私が進むべきは直進だが、ちょっと面白いものがあるので、右折した先の景色を先に紹介したい。
右折した先の県道は、このように久々の2車線道路になっている。
前回の冒頭に登場した荒巻集落以来の2車線道路だ。
私が面白いと思ったのは、右折直後のカーブに立っている1枚の青看(写真の赤○のところ)だ。
普通に 「十和田 ●km」みたいな行き先表示かと思いきや――
なんだこの青看(笑)。
県道45号の主張が強い!
奥に通常の“ヘキサ”が設置されているのに、わざわざ青看でまでこれを主張したのはなぜなんだ? 青森県独自の標識スタイルだったりする? でも、他のところで見た記憶はないぞ…。
ここまで、県道としては普通よりも遙かに地味な主張しかしてこなかった十和田三戸線が、なんかいっぱしの道路状況を手にした途端に、「俺が十和田三戸線だー!!!!!」って得意げに語り出したみたいで、思わずフイた(笑)。
そんな想像をさせたくて設置したわけじゃないだろうけど、ほんと何なのこの主張の理由は。
まだ先へ進むわけには行かないので、青看を笑った後は(……こんな失礼な態度だったから、この少し後で猛烈な土砂降りに降られて、カメラが故障したのかも…)、即座にUターンして丁字路へ戻った。
こちら側から丁字路に臨むと、また別の青看がある。
左折の「新郷村役場」方向が、ここへ来るのに走ってきた迂回路で、これから向かおうとしている不通区間の入口(=出口)は、右折の「田茂代」方向にある。
ここに表示されている田茂代までは行ける(もう200mくらいである)ので、その先に不通区間があることについては、特に表示がない。
三戸側同様、十和田側も、不通区間の存在をわざわざ目立たせるつもりはないようだ。
ここに写っているマイクロバスは村営バスだと思う。
新郷村内にはもともと南部バスという民営の路線バスが走っていたが、赤字のため村内の路線が廃止され、代わりに運賃無料の村営バスの運行がスタートした。ただ最近は村営バスの路線も縮小されており、現在では田茂代を通るコースの設定はなくなってしまったようだ。
ところで、この丁字路の周辺についても、最新の地理院地図と最新のスーパーマップルデジタルの間には、県道位置の大きな相違がある。
左図は両者を比較したものだ。
地理院地図だと、現地で青看が県道を強く主張している立派な2車線道路を県道としているが、マップルは別の道を県道として描いている。
結論から言うと、現在の状況を正しく描いているのは地理院地図であるが、マップルも単純に間違っているわけではなく、以前県道に認定されていたルートのままという可能性が高いようだ。
改めて、丁字路から「田茂代」へ向かってスタートする。
ここはもう県道十和田三戸線の路上だが、いたって平凡な1.5車線道路である。
奥のスギ林の先に田茂代集落がある。
12:53 《現在地》
台地を荒蕪する暴風より身を守る高い屋敷林の内側に、田茂代は身を寄せ合っていた。
建物が現れ始めてすぐ、本格的に集落へ入る前に、県道の左折地点が先に現われた。奥角にある青い小屋は、昔のバス待合所だろうか。
この写真の交差点を左折するのが、私が項内川を越せなかった小さな不通区間を抜けた直後の県道である。
かなり鋭角気味に左折すると、直ちに砂利道だった。
まだまだ自転車で進めるので、このまま乗って行こう。
田茂代集落から南へ外れた県道は、直線で台地の縁へ猛進していく。
台地は見事な美田であり、そこを突っ切る県道も、実質的には畦道としてのみ利用されている。
ただ、畦道にしては少し幅が広く感じる。このように道幅が広くなったのは、土地改良(耕地整理)の成果だろうが、
これが県道としての将来を見越しての作為だとしたら、県道探索における発見として価値ある幅だと思う。
少し前進して、奥の森が近づいてきた。
わざわざ何枚も写真を使うほど多くの変化のある道ではないが、
しかしなんとなく、さっと飛ばして台地の縁へ行くには勿体ない道だった。
別に眺望に優れるというわけでもなく、物淋しい開放感だけがある風景だ。
そしてやっぱり、仄かに未成道っぽい道幅の広さが、気になる。
12:56 《現在地》
最後の左折から350mほど走ると、遂に台地の果てに来た。
そしてここが、自動車交通不能区間の一端である。
片割れは、トウモロコシ畑の隙間に始まっていたが、
こちら側は…………。
緑のトンネルだ。
けど、入口の脇に、ちょっと意表を突くアイテムがある!
とても見慣れた、通行規制の告知看板。
見慣れているのに、意表を突かれたとはこれいかに?
説明しよう。自動車交通不能区間なら、これはあって当然なアイテムだが、
ここまでの展開があまりにものんびりとしていて、こういうカチッとした告知には、
ここの道路管理者は意識を向けていないのかと決めてかかりつつあった矢先、
実は、そんなことはなかったと、意表を突かれたのだ。
しかも、この看板が、
いまだかつて見たことがないくらいの誠意ある内容で、
私は驚いてしまった。
この内容、凄い。
いままで私は、全国各地でこの手の通行規制看板を誰よりも沢山目にしてきたと思うのだが、
だいたいの看板には、誠意があるとはとても思えないような定型的なことしか書かれていない。
通れないという指示はするが、利用者がその指示を納得して理解するための、理由や期間についての説明は雑だ。
その最たる例が、皆様もきっと目にしたことがあるだろう、「期間 当分の間」という表現だと思っている。
あと、「理由 危険のため」とかもね。これらは、説明する気がそもそもないでしょ、って思っちゃう。
もちろん、盤面的な文字数の制限とか、利用者に専門的な事情を説明しても理解されないといった事情があるだろうが、
道路法はその第47条の15で、道路管理者が道路の利用を制限するためには、
「対象、区間、期間及び理由を明瞭に記載した道路標識を設けなければならない」
という定めがあるのに、「期間 当分の間」や「理由 危険のため」というのが、
果たしてこれを満たした表現といえるのか私はずっと疑問なのである。
(これは批判ではない。よしわるしとは別の話だ。)
しかし、この看板は誠実だ。
看板の内容を文章にまとめると……、
この先の県道十和田三戸線の600m区間は、
道路未整備による車両通行不能区間です。
だから、車両に限って通行を規制します。
期間は、道路整備(改良)されるまでの期間です。
……ということになろう。
これは、通れないという現実に対して、毒にも薬にもなっていないが、論理的に美しい。
この看板はひどく汚れているが、内容が、理論的に必要にして十分で美しいのだ。
道路未整備だと車が通れないよね、という当たり前のことを、
この見慣れたフォーマットに真摯に落とし込むならばこうあるべきという一つの答えが、これだと思う。
なんでこの看板1枚にこんなに熱くなったのかよく分からないけど、間違いなく今回のハイライトです!
……後はオマケだよ。(爆)
この看板を、私はレポート内で「誠実だ」と褒め称えたが、その回を公開した直後の読者様コメントに、「「誠意」 がベコベコになって斃れている… これがこの世の現実か。
」というものがあって、こいつは一本取られたなと思った。
まったく仰るとおりである。
私は、看板の内容の素晴らしいことに気を取られ、この看板がどう考えても無残な棄てられたような姿を晒していることについては、ほとんど気にしなかった。
だが考えてみれば、道路管理者は、この素晴らしい内容の看板が、ちゃんと適切な管理下に設置され続けていることにも意を払わねばならなかったのである。それこそ、「道路整備(改良)されるまでの期間」、ずっと。
もちろん、こんなに看板が痛んでいるのは、どこかの乱暴者に折檻されたわけではなく、雪に押しつぶされ、地べた押しつけられた月日の長さによるのであろうが、この素晴らしい内容の看板の無残な姿は、実情に見合った道路管理のいかに難しいかを物語っていると思う。
看板の耐久性という問題については、究極的かつ伝統的な解決策が、この現場に提示されていたので、せっかくなので紹介しておこう。
右の写真は、看板の位置からいま来た道を振り返って撮影したものなのだが、赤矢印の位置、すなわち県道の路傍に、文字を刻まれた石が置かれていた。いわゆる、石碑である。
その石は、一昔前のCRTモニタくらいのサイズ感で、いわゆる石碑としては小ぶりのものだと思うが、まるでちびた消しゴムを思わせる角の取れまくった姿が、とても印象的だった。
正面には、深い筆跡で「用水」とだけ刻まれていて、おそらくこの台地を美田に変えた灌漑用水の完成記念碑だったのだろう。とても立派な仕事をした水路である。また、側面にも小さな文字が刻まれていて、「大正十四」と読み取れる部分があった。
おそらく、この石碑の本来の大きさやサイズは、現状とかけ離れたものだったと思う。
大正時代から、とても長い月日を野外で過ごして、こういう姿になったのだろう。
それでもまだ読めることが、石碑の強さだ。
もしも……、
もしもこの県道が、100年の後も未整備のままであるなら、これからこの看板を、何回作り直して、設置し直さなければいけないだろう。
これは前代未聞だが、看板の内容を石に刻んで設置したなら、交換の頻度は非常に少なく済むはずだ。 うん。たくさん文字を使って説明したが、なんとも馬鹿らしい考えだ。
12:58 自動車交通不能区間へ、再突入を開始。
前半戦では、水沢の南口から約250m地点の項内川架橋地点までを探索済なので、
この後半戦は、田茂代の北口から項内川架橋地点の北岸まで、推定約250mを攻略する。
自転車はここに置いていくことにする。どうせ結末は見えている。
天然の緑のトンネルで始まった不通区間の県道は、すぐに右カーブになっていて、その後は山腹を斜めに切って下って行く。
激藪を覚悟していたが、意外にもこの段階では刈り払いがあり、前半戦と同様の道路状況であった。とてもありがたい。
誠実な看板を残した道路管理者は、刈り払いについても誠実だったのだ。
あくまでも規制の対象は「車両」であり、私が歩行することを妨げていない。
そんな歩行の便宜を計るべく、刈り払いをしてくれていた。
なお、この写真の辺りには、往路では気づかなかった“小さな発見”が潜んでいた。
今回、成り行きで往復したからこそ気づいたものであり、後ほどその場面が来たら紹介しよう。
さらに下って行くと、スギの人工林に入った。しかしこの森が長く続くことはない。既に見下ろした先には、水田の代わりに一面の草むらと化した項内川の谷底が明るく見え始めていた。
道路の造りの印象は前半戦と変わらない。もともと繋がっていた道なのだから当然であろう。
刈り払いもされていて、もし谷底の木橋さえ無事だったなら、すんなりと自転車で完抜できただろうに、惜しいと思った。
こんなことに価値を見出す人の絶対数は多くないだろうが、このようなわずか500mの小さな区間が、主要地方道でありながら道路未整備で自動車は通れず、しかし徒歩での通行には規制がなくて、大手を振って通り抜けられるという状況だったら、それは単純な車道未整備の不通区間なんかよりもよほど珍しく、道路ファンに希少な価値を提供できる県道になっていたはずだ。50km近い長い県道の途中にこれがあるのが、また面白い。
看板地点から3分後、ここまでは刈り払われた道が続いていたが、いよいよ項内川の川べりに近づいてきた感じだ。前方に高度感がある。
どこかで刈り払いが終わっているはずだが、結構ギリギリまでやってくれているようだ。
そんななか、見覚えのある標柱を見つけた。
前半戦では蛇篭工の前で見つけた、県の道路管理番号らしき標柱だ。
書かれた文字列は、「3045A010」というもので、前半戦の「3045A020」と比べると、一つだけ数字が変わっていた。
一連の県道であることを改めて認識させる発見だった。
で、この標柱地点までは自転車でも走れそうな道だったが、その先はまだ新しそうな倒木(半倒木)が道を遮っていることを皮切りに、荒れが始まる。
倒木を潜ったところで、遂に刈り払いが終わってしまい――。
13:01 《現在地》
土斜面の崩壊地が。
この土斜面にも見覚えがある。
似たものを見たではなく、先ほど谷底から撤退した際に、あの辺を道が通っているはずだと思いながら見上げた対岸に、この土斜面が【見えていた】。
土斜面上部の草付きが道路の位置で、本来の平場はほとんど埋れてしまっているが、砂地に足を突き刺すようにして突破することが可能だった。
砂を踏みながら見下ろした足元には、相変わらず濁流と化している項内川が、まるで飛び込むような位置に見えた。
そこから視界を上にずらしていくと(チェンジ後の画像)、見覚えのある撤退地点周辺の谷底がよく見えた。
電柱の配置とか、畦道状の地形から、あそこを歩いていたんだなと分かる。
ここまで来たからには、もうわずか30~50m先にある【廃橋】の対岸を踏みたいが……。
強烈マント群落ッッ!!
土斜面の先は、どこが道かも真剣に分からないレベルの強烈で激烈でマント群落だった!
8月の藪山探索における刈り払いの有り難みを、平伏すレベルで痛感した!
今回の探索が“この程度”の苦痛で済んだのは、全て刈り払いのおかげだった。
……しかし、草が乾いているならまだしも、雨でびしょ濡れのマントに身体を押しつけて突破するのは、ケモノだって嫌がる行為だぞ。
もちろん、そんなこと……
した!
そこまで身を挺したにも拘わらず、私のカメラに、例の廃橋を左岸から撮影した画像は記録されていなかった。
藪が深すぎて見つけられなかったのだと思う。……涙。
13:04 ほぼ全線踏破を終えたので、項内川より撤収。
グッシャグシャダヨモウ…。
で、往路では見逃していた発見があったのが、この戻りの最中であった。
まもなく自転車を停めた看板地点というところの路肩に、見慣れたコンクリート製用地杭のようなものを発見。
だが、刻まれていた文字は「青森県」ではなく、白いタイルで「22 」と書かれていた。
はて? 22とはなんだ?
……勘の良い皆様なら、お察しだろう。
こいつの正体は、キロポストに違いない!
この県道の起点である十和田市中心部にある稲生町の交差点から、現在の地図読みでこの地点までの距離が21kmジャスト。
しかし、途中には道路整備に伴うルート変更もあり、その誤差を考慮して、標柱の設置当時は22km地点であったのだろう。
利用者に対して誠実だった県道管理者は、県道に対しても当然誠実で、一般の利用者は早々に見切りを付けて迂回路へ足を向けるようになったこんな非車道区間にも、ちゃんと設置すべきものを設置していたのである。
たぶん、この区間だけでなく、真っ当な車道である沿道にもあったのだろうが、気づくことはなかった。
徒歩の速度になったこと、さらに、やむを得ず往復したことで、初めて気づくことが出来たのだ。
最後まで地味だけど、嬉しい発見だった。
13:09 看板地点へ戻り、一連のとても小さな不通区間探索を
案外にすがすがしい気分で、終了した。
13:45 《現在地》
蛇足だが、ちょっと付け足し。
探索自体はここで終わったわけではなく、その後も少しの間だけ続けられた。
田茂代の次は、大藪という嫌な名前の小集落で、そこを過ぎると県道は遂に新郷村を出て、起点がある十和田市内に突入する。
この村市境にあるのが、これまで水沢、項内川と小さな谷を何度も渡ってきた県道にとっても気合いが入る、これまでより二回りくらい大きな後藤川の谷である。
しかし、後藤川の両岸を上り下りして越えていたかつての県道は、その谷底の辺りが平成23(2011)年に完成した指久保ダムに沈んで、通行不能になっている。
そのことを確かめるべく探索した新郷村の最終区間である後藤川右岸の旧県道が、この写真だ。
おそらくダム工事に使われていたせいだろうが、道自体は、砂利道ながらそう悪いものではなかった。
ただ……
探索が非常識と思えるほどの猛烈な土砂降りになってしまった。
今回、ベースキャンプ的な車から遠く離れての自転車探索だったので、本降りを越えて豪雨と化した雨にも打つ手がなかった。
とりあえず、後藤川右岸の旧道を本日最後の探索と決めて車へ戻ることにはしたが、雨粒に霞む目を何度も何度も指で擦りながら辿り着いた湖畔で、悲壮な表情をした私が見たものは、湖に消える旧道の真上を跨ぐ、巨大なエクストラーズド橋であった。
この橋は、平成22(2010)年に開通した現県道の後藤川大橋である。
ここまで泡沫県道的な姿ばかりを見せていた県道十和田三戸線が本日初めて見せた本気の姿に、私は暫し硬直した。
もしかしたら、数十年後の項内川には、これより一回り小さい、それでも十分に壮大な橋が出現して面目を一新するかもしれないし、県道は秘かな誠実さを秘めたままで眠り続け、一般人は迂回路を使用し続けることに甘んじるのかも知れない。
未来は誰にも分からないが、県道であることの可能性を感じさせるには十分な風景だった。
私は、十和田市には拒絶されたような気持ちを抱えたまま、探索を終えた。
また、この動画が、今回まで長らく使用していた生活防水デジカメの最期の撮影になった。
この撮影を終えた直後から2度と電源が入ることはなかったのである。
道路を通行しただけなのに、生活防水を超えたアクティビティだったらしい。
完結。