2014.08.22 Friday
最近読んだ本:『縄文言語からのアプローチ 「長髄彦(ながすねひこ)」の実像』(新藤 治 1989 幻想社)
本書の著者は、現在の日本語を含む日本文化は弥生人・弥生文化に由来するもので、それ以前から日本列島に住んで異なる言語=縄文言語を話していた先住民族はヤマト政権から「エミシ」「土ぐも」「クマソ」「ハヤト」等と呼ばれ、迫害・征服されて次第に追い詰められ、ついには北海道に押し込められてアイヌと呼ばれるようになり、そのためアイヌ語の中には先住民族の縄文言語が色濃く残っていると考えています。その上で、神武東征を阻んだ強敵ナガスネヒコをこの先住民族の英雄と見て、彼が勢力を持っていた地域にある登美(とみ)や生駒(いこま)、石切(いしきり)といった地名の意味を、アイヌ語を参考にして解釈したのが本書です。
アイヌ語による地名解釈としては、北海道や東北にある「○○内」という地名のナイが「川」を意味するアイヌ語のナイから来たものである等、一般に広く承認されているものもありますが、古くから大和政権が支配していた畿内の地名をアイヌ語をもとに解釈する試みは珍しいんじゃないかと思います。
というわけで、さっそくですが著者の解釈の結果をかいつまんで紹介しますと、登美(トミ)は「池の湧き出し口」(ト・メム)または「戦い」(トゥミ)、生駒(イコマ)は「鹿が群れている」(ユック・オマー)、石切(イシキリ)は「かの大きい脚」(イ・シ・キルイ)と、それぞれ解釈されるとのこと。
おもしろい試みからとても興味深い結果が得られていると思います。著者はアイヌ語に関しては知里真志保(ちり・ましほ)著「地名アイヌ語小辞典」(平凡社)、服部四郎編「アイヌ語方言辞典」(岩波書店)、J.バチェラー「アイヌ・英・和事典」(岩波書店)という、それぞれ第一級のオーセンティックな辞書によりこれらの解釈を行っていて、その点では文句のつけようがありません。ただ現在の地名をアイヌ語に見合うように変形する(たとえば「とみ」をト・メムまたはトゥミというふうに)過程で恣意の入る余地がなくもないかなぁ、とは思いました。
なお上記は非常に切り詰めた紹介で、本書には上に挙げた3つ以外にも日下(くさか)、白肩(しらかた)、龍田(たつた)など他の地名の解釈もありますし、その前提となる縄文言語とアイヌ語の関係や石切神社に関する情報など、もっと豊富な内容でふくらみのある構成であることはいうまでもありません。
なお本書には書名となった論文の他に、もう一つ「巨勢(こせ)の碑(いしぶみ)考」という論文が併載されています。こちらは飛鳥にある許世都比古命(こせつひこのみこと)神社の境内にある石碑の碑文の解読とそれに関する紀行文から成り、これはこれで面白い論文ではありますが、書名の縄文言語とも長髄彦とも全く関係ないので、内容の紹介は省略します。
本書のクライマックスは、「石切」が「かの大きい脚」と解釈されて、それが「長髄彦(ナガスネヒコ)」という名と符合するところです。石切は近鉄奈良線の「石切駅」周辺の地域で、奈良から西へ大阪に向かって伸びる近鉄奈良線が生駒山地をトンネルで越えて大阪側に出たすぐの所で、平安時代の延喜式神名帳にも載っている由緒ある古社「石切劍箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」があり、その祭神はニギハヤヒ(櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと))とその子ウマシマデ(可美真手命(うましまでのみこと))です。『先代旧辞本紀(せんだいくじほんぎ)』によるとこのニギハヤヒは皇祖アマテラス(天照大神(あまてらすおおみかみ))の孫ホノニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))の兄にあたるそうで、天磐船(あまのいわふね)に乗って哮峰(いかるがのみね、又はたけるがみね)に天下り、ナガスネヒコの妹の三炊屋媛(みかしぎやひめ)を娶ったと伝えられています。
ところで本書によると、この石切劍箭神社の本社とは別に上之宮が生駒山麓にあり、享和元年(1801)刊の『河内名所図絵』には「上之社は哮ヶ峰にあり」と記されているそうです。哮ヶ峰とはニギハヤヒが天磐船に乗って天下ったとされる所で、いつの頃からかこの石切劍箭神社の上之宮のある所がその哮峰に比定されたわけです。さらに著者は土地の古老の間に「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある」という意味の言い伝えがあるとし、それらのことから上之社はもともと「イシキリ(大きい脚の)神」=ナガスネヒコを祭ったもので、しかしナガスネヒコは神武東征を阻んだ逆賊であることから、後にニギハヤヒに置き換えられたものであろうと考察しています。うーむ面白い。
そういえば、『日本書紀』の本文にもこの「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説に見合うような箇所があるのです。上述のとおりイワレビコ(後の神武天皇)軍はナガスネビコ軍と戦って一度は退却し、熊野・吉野を迂回して先住民を征服・誅殺しながら大和をめざし、ナガスネヒコ軍と雌雄を決すべくもう一度戦います。この二度目の戦いの場面が『日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)』に記されていて、問題の箇所はその中にあります。以下少々長くなりますが、その前後を岩波文庫(の古い方)の黒板勝美編『訓読 日本書紀 中巻』(1931/1941)から引用します。なお同書のふりがなと補足字は( )内に表示します。
引用した部分の前半は戦のさ中にイワレビコ(後の神武天皇)軍に霊鳥の金鵄が飛び来たり、そのためナガスネビコ軍が戦闘不能となったというエピソード、後半は「長髄」と「鳥見」の語源説です。
さて、ここからは私の妄想です。この後半の語源説中に「長髄は是れ邑(むら)の本の號(な)なり。因りて亦以て人の名と為す。」とあり、何気なく読むと「長髄は集落名で、それが長髄彦の名前にもなった」とすらりと読めてしまいますが、単純に「長髄は邑(むら)の號(な)なり」ではなくわざわざ「邑の本の號なり」と断っているところ、ここ大事です。試験に出ます(笑)。つまり「長髄」が邑の「本の號」であるということは、この邑の今(『日本書紀』が編纂された時期)の邑名は「長髄」ではないのです。ではこの邑はどこで、今の邑名は何か。
『日本書紀』には上に見るとおり「長髄」に続けて「鳥見(とみ)」の語源説を紹介しているので、問題の邑はこの鳥見邑であると考えるのが普通でしょう。つまりこの邑は以前は長髄という名前だったが、金鵄が現れたことにより鵄邑(とびのむら)と名前を改め、さらに今は訛って鳥見(とみ)と呼んでいる、というわけで、これなら八方丸く収まります。
しかしこの語源説では、「ナガスネヒコの長髄は邑の旧名から来た」ということと、「金鵄が現れたので鵄邑と名付け、今は訛って鳥見と呼ばれている」という説明はありますが、邑の旧名である「長髄」の語源は説かれていません。で、このあたりに本書の「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説を(強引に)『日本書紀』につなげる余地があるわけです。
まず『日本書記』の書き方を見ると、「本の名が長髄である邑」と「金鵄の奇瑞によって鵄邑と名付けられ今はそれが訛って鳥見と呼ばれている邑」が同一の邑であるとはっきりと書いてあるわけではありません。続けて書いてあるから同じ邑のことだろうと思われるだけであって、この二つの段落を
よって、今仮にこの二つの語源説はそれぞれ別の邑についてのものであるとすると、「長髄は是れ邑の本の號なり」の「本の」に、邑の旧名というのとは違った意味を持たせてこの文を解釈する余地が出てきます。つまりこの文は「この邑の名前の本の(=original の)意味は「長髄=かの大きい脚」であって、ナガスネヒコという名もそこから来た」という意味であり、その「この邑」とは鳥見ではなく石切なのである、と考えることもできるのです。うぁー強引、妄想たくましー(笑)
さらに妄想を逞しくしますと、『日本書紀』の編纂された頃には、昔々に征服された先住民族の文化はすっかり滅びていて、石切をイ・シ・キルイ(かの大きい脚)と理解することもできなくなっていたし、先住民族の英雄イ・シ・キルイを倒したイワレビコ軍がその強敵の名を縄文言語の字義どおり「長髄彦」と翻訳した経緯も伝わらないまま忘れられていたことでしょう。当時の人々にとっては生まれる前から石切は石切、長髄彦は長髄彦でしかなく、この二つの名前の間の意味の連関はすっかり切れてしまっていたのです。そしてそれとは別に「長髄彦の名前は石切という邑の名前から来たものだそうだ」という古くからの言い伝えが、ヤマト政権の始祖イワレビコが苦しめられた苦い感情とその強敵への畏れを伴いながら、忘れようとしても忘れられない記憶となって、意味がわからなくなってもなお伝えられていたと思われます。
そんな状況で『日本書紀』の編纂に携わった史官は、おそらく相当悩んだのではないでしょうか。国家の正史として編纂する以上、古くからの言い伝えも含めて手元にある情報を全て盛り込み、内容豊富でボリューム的にも立派なものに仕上げたいが、かと言って「石切」という名と「長髄彦」という名がどう関係しているのかわらない言い伝えをどのように扱えばよいのだろうか、と。そこでこの悩める編纂者は、長髄彦に関わる地名の語源説話を一か所にまとめることにし、意味不明な石切-長髄のエピソードから「石切」という集落名を取り除き「本の」という字を加えて鵄邑のエピソードに結びつけ、同一の邑の名前が長髄-鵄邑-鳥見と変遷したという内容にまとめ直したのではないかと妄想します。What a good job!
上記は全く私の妄想で何の証拠もありませんが、かと言って絶対あり得ないとも言い切れないところがヨイわけで、特に古代史という分野はもっと荒唐無稽な(と私には思われる)妄想説・・・もとい、「独自の見解」「直観」「お告げ」等々に基づく卓見名説が無数にひしめき合い互いに妍を競っている分野でありますので、私の妄想説もまたそれらに伍して一興を添えるものであれば嬉しい限りであります。
また「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説からもう一つ私が連想したのは、知る人ぞ知る「キリストの弟イスキリ」のことです。私はイスキリ伝承は実はけっこうあちこちにあるかも知れないと密かに思っていますが、一番有名なのは青森県三戸郡新郷村戸来(へらい)にあるという「キリストの墓」と「キリストの弟イスキリの墓」でしょう。これらの「墓」は「キリストの里公園」内にあり、隣接して「キリストの里伝承館」という施設もあるらしい。詳細はこちらやこちらをご覧ください。
イスキリはキリストの弟ということになっていますが、そうなったのは「イスキリ」という音が「イエス・キリスト」と似ているから、という以外の理由はおそらくないでしょう。私は昭和10年以前からここにイスキリという異人にまつわる何らかの言い伝えがあり、そのイスキリは元はやはりイ・シ・キルイだったのであろうと思うのです。つまりイスキリはキリストの弟ではなくて、ヤマト政権に敵したナガスネヒコと同じく先住民族の英雄であったと。何と言っても青森は三内丸山遺跡をはじめ縄文文化の「本場」なのだし!
ところで新郷村のキリスト・イスキリ関連の諸々に文句をつけるつもりはさらさらないのですが、それに関して話題になっている地元の盆踊りの文句「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」については、別に古代ヘブライ語など持ち出すまでもなく、南部地方には割と普通の盆踊り歌であるらしいことが、柳田國男の旅行記の名篇「清光館哀史」からわかります。ちなみに清光館は岩手県九戸郡洋野町小子内にあったという旅館で、現存しません、というかこの「清光館哀史」自体、以前泊まった清光館を柳田が6年後に訪れたらもう跡形もなくなってしまっていたことを書いたものなのです。「清光館哀史」とその前編をなす「浜の月夜」の2篇は角川ソフィア文庫『雪国の春』、ちくま文庫版『柳田國男全集 2』などに収められていますので、篤志の方はぜひこの前後2篇を合わせてお読みいただきたいと思います。特に『雪国の春』『秋風帖』『東国古道記』『豆の葉と太陽』その他柳田國男の旅行記・旅行論等を収めたちくま文庫版『柳田國男全集 2』は、特に旅行好きの方々にお勧めしたい一冊です。「浜の月夜」は同書pp.138~141、「清光館哀史」は同じくpp.142~150に収められています。以下「清光館哀史」から当該盆踊り歌に関する部分を引用しておきます。
ううむ・・・かくなる上は、石切劍箭神社の上之宮と「イスキリの墓」は見に行かんとなあ。
おもしろい試みからとても興味深い結果が得られていると思います。著者はアイヌ語に関しては知里真志保(ちり・ましほ)著「地名アイヌ語小辞典」(平凡社)、服部四郎編「アイヌ語方言辞典」(岩波書店)、J.バチェラー「アイヌ・英・和事典」(岩波書店)という、それぞれ第一級のオーセンティックな辞書によりこれらの解釈を行っていて、その点では文句のつけようがありません。ただ現在の地名をアイヌ語に見合うように変形する(たとえば「とみ」をト・メムまたはトゥミというふうに)過程で恣意の入る余地がなくもないかなぁ、とは思いました。
なお上記は非常に切り詰めた紹介で、本書には上に挙げた3つ以外にも日下(くさか)、白肩(しらかた)、龍田(たつた)など他の地名の解釈もありますし、その前提となる縄文言語とアイヌ語の関係や石切神社に関する情報など、もっと豊富な内容でふくらみのある構成であることはいうまでもありません。
なお本書には書名となった論文の他に、もう一つ「巨勢(こせ)の碑(いしぶみ)考」という論文が併載されています。こちらは飛鳥にある許世都比古命(こせつひこのみこと)神社の境内にある石碑の碑文の解読とそれに関する紀行文から成り、これはこれで面白い論文ではありますが、書名の縄文言語とも長髄彦とも全く関係ないので、内容の紹介は省略します。
本書のクライマックスは、「石切」が「かの大きい脚」と解釈されて、それが「長髄彦(ナガスネヒコ)」という名と符合するところです。石切は近鉄奈良線の「石切駅」周辺の地域で、奈良から西へ大阪に向かって伸びる近鉄奈良線が生駒山地をトンネルで越えて大阪側に出たすぐの所で、平安時代の延喜式神名帳にも載っている由緒ある古社「石切劍箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」があり、その祭神はニギハヤヒ(櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと))とその子ウマシマデ(可美真手命(うましまでのみこと))です。『先代旧辞本紀(せんだいくじほんぎ)』によるとこのニギハヤヒは皇祖アマテラス(天照大神(あまてらすおおみかみ))の孫ホノニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))の兄にあたるそうで、天磐船(あまのいわふね)に乗って哮峰(いかるがのみね、又はたけるがみね)に天下り、ナガスネヒコの妹の三炊屋媛(みかしぎやひめ)を娶ったと伝えられています。
ところで本書によると、この石切劍箭神社の本社とは別に上之宮が生駒山麓にあり、享和元年(1801)刊の『河内名所図絵』には「上之社は哮ヶ峰にあり」と記されているそうです。哮ヶ峰とはニギハヤヒが天磐船に乗って天下ったとされる所で、いつの頃からかこの石切劍箭神社の上之宮のある所がその哮峰に比定されたわけです。さらに著者は土地の古老の間に「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある」という意味の言い伝えがあるとし、それらのことから上之社はもともと「イシキリ(大きい脚の)神」=ナガスネヒコを祭ったもので、しかしナガスネヒコは神武東征を阻んだ逆賊であることから、後にニギハヤヒに置き換えられたものであろうと考察しています。うーむ面白い。
そういえば、『日本書紀』の本文にもこの「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説に見合うような箇所があるのです。上述のとおりイワレビコ(後の神武天皇)軍はナガスネビコ軍と戦って一度は退却し、熊野・吉野を迂回して先住民を征服・誅殺しながら大和をめざし、ナガスネヒコ軍と雌雄を決すべくもう一度戦います。この二度目の戦いの場面が『日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)』に記されていて、問題の箇所はその中にあります。以下少々長くなりますが、その前後を岩波文庫(の古い方)の黒板勝美編『訓読 日本書紀 中巻』(1931/1941)から引用します。なお同書のふりがなと補足字は( )内に表示します。
十有二月(しはすの)癸巳朔丙申(の日)、皇師遂に長髄彦を撃ちて、連(しきり)に戦へども取勝(か)つこと能はず。時に忽然(たちまちに)天陰(ひし)けて氷雨(ひさめ)ふる。乃ち金色(こがねいろ)の霊鵄(あやしきとび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光曄煜(てりかがや)きて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて長髄彦が軍卒(いくさびとども)皆迷眩之(まどひまきて)、復た力戦(きはめたたか)はず。長髄は是れ邑の本の號なり。因りて亦以て人の名と為す。皇軍の鵄瑞(とびのみず)を得るに及びて、時の人仍りて鵄邑(とびのむら)と號く。今鳥見(とみ)と云ふは是れ訛(よこなま)れるなり。(p.21)
引用した部分の前半は戦のさ中にイワレビコ(後の神武天皇)軍に霊鳥の金鵄が飛び来たり、そのためナガスネビコ軍が戦闘不能となったというエピソード、後半は「長髄」と「鳥見」の語源説です。
さて、ここからは私の妄想です。この後半の語源説中に「長髄は是れ邑(むら)の本の號(な)なり。因りて亦以て人の名と為す。」とあり、何気なく読むと「長髄は集落名で、それが長髄彦の名前にもなった」とすらりと読めてしまいますが、単純に「長髄は邑(むら)の號(な)なり」ではなくわざわざ「邑の本の號なり」と断っているところ、ここ大事です。試験に出ます(笑)。つまり「長髄」が邑の「本の號」であるということは、この邑の今(『日本書紀』が編纂された時期)の邑名は「長髄」ではないのです。ではこの邑はどこで、今の邑名は何か。
『日本書紀』には上に見るとおり「長髄」に続けて「鳥見(とみ)」の語源説を紹介しているので、問題の邑はこの鳥見邑であると考えるのが普通でしょう。つまりこの邑は以前は長髄という名前だったが、金鵄が現れたことにより鵄邑(とびのむら)と名前を改め、さらに今は訛って鳥見(とみ)と呼んでいる、というわけで、これなら八方丸く収まります。
しかしこの語源説では、「ナガスネヒコの長髄は邑の旧名から来た」ということと、「金鵄が現れたので鵄邑と名付け、今は訛って鳥見と呼ばれている」という説明はありますが、邑の旧名である「長髄」の語源は説かれていません。で、このあたりに本書の「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説を(強引に)『日本書紀』につなげる余地があるわけです。
まず『日本書記』の書き方を見ると、「本の名が長髄である邑」と「金鵄の奇瑞によって鵄邑と名付けられ今はそれが訛って鳥見と呼ばれている邑」が同一の邑であるとはっきりと書いてあるわけではありません。続けて書いてあるから同じ邑のことだろうと思われるだけであって、この二つの段落を
1) 長髄は是れ邑の本の號なり。因りて亦以て人の名と為す。
2) 皇軍の鵄瑞(とびのみず)を得るに及びて、時の人仍りて鵄邑(とびのむら)と號く。
と並置してみると、この二つの語源説は同じ邑のことであると見れば見られるし、別々の邑のエピソードであると思えばそうも思えます。2) 皇軍の鵄瑞(とびのみず)を得るに及びて、時の人仍りて鵄邑(とびのむら)と號く。
よって、今仮にこの二つの語源説はそれぞれ別の邑についてのものであるとすると、「長髄は是れ邑の本の號なり」の「本の」に、邑の旧名というのとは違った意味を持たせてこの文を解釈する余地が出てきます。つまりこの文は「この邑の名前の本の(=original の)意味は「長髄=かの大きい脚」であって、ナガスネヒコという名もそこから来た」という意味であり、その「この邑」とは鳥見ではなく石切なのである、と考えることもできるのです。うぁー強引、妄想たくましー(笑)
さらに妄想を逞しくしますと、『日本書紀』の編纂された頃には、昔々に征服された先住民族の文化はすっかり滅びていて、石切をイ・シ・キルイ(かの大きい脚)と理解することもできなくなっていたし、先住民族の英雄イ・シ・キルイを倒したイワレビコ軍がその強敵の名を縄文言語の字義どおり「長髄彦」と翻訳した経緯も伝わらないまま忘れられていたことでしょう。当時の人々にとっては生まれる前から石切は石切、長髄彦は長髄彦でしかなく、この二つの名前の間の意味の連関はすっかり切れてしまっていたのです。そしてそれとは別に「長髄彦の名前は石切という邑の名前から来たものだそうだ」という古くからの言い伝えが、ヤマト政権の始祖イワレビコが苦しめられた苦い感情とその強敵への畏れを伴いながら、忘れようとしても忘れられない記憶となって、意味がわからなくなってもなお伝えられていたと思われます。
そんな状況で『日本書紀』の編纂に携わった史官は、おそらく相当悩んだのではないでしょうか。国家の正史として編纂する以上、古くからの言い伝えも含めて手元にある情報を全て盛り込み、内容豊富でボリューム的にも立派なものに仕上げたいが、かと言って「石切」という名と「長髄彦」という名がどう関係しているのかわらない言い伝えをどのように扱えばよいのだろうか、と。そこでこの悩める編纂者は、長髄彦に関わる地名の語源説話を一か所にまとめることにし、意味不明な石切-長髄のエピソードから「石切」という集落名を取り除き「本の」という字を加えて鵄邑のエピソードに結びつけ、同一の邑の名前が長髄-鵄邑-鳥見と変遷したという内容にまとめ直したのではないかと妄想します。What a good job!
上記は全く私の妄想で何の証拠もありませんが、かと言って絶対あり得ないとも言い切れないところがヨイわけで、特に古代史という分野はもっと荒唐無稽な(と私には思われる)妄想説・・・もとい、「独自の見解」「直観」「お告げ」等々に基づく卓見名説が無数にひしめき合い互いに妍を競っている分野でありますので、私の妄想説もまたそれらに伍して一興を添えるものであれば嬉しい限りであります。
また「石切=かの大きい脚=ナガスネヒコ」説からもう一つ私が連想したのは、知る人ぞ知る「キリストの弟イスキリ」のことです。私はイスキリ伝承は実はけっこうあちこちにあるかも知れないと密かに思っていますが、一番有名なのは青森県三戸郡新郷村戸来(へらい)にあるという「キリストの墓」と「キリストの弟イスキリの墓」でしょう。これらの「墓」は「キリストの里公園」内にあり、隣接して「キリストの里伝承館」という施設もあるらしい。詳細はこちらやこちらをご覧ください。
イスキリはキリストの弟ということになっていますが、そうなったのは「イスキリ」という音が「イエス・キリスト」と似ているから、という以外の理由はおそらくないでしょう。私は昭和10年以前からここにイスキリという異人にまつわる何らかの言い伝えがあり、そのイスキリは元はやはりイ・シ・キルイだったのであろうと思うのです。つまりイスキリはキリストの弟ではなくて、ヤマト政権に敵したナガスネヒコと同じく先住民族の英雄であったと。何と言っても青森は三内丸山遺跡をはじめ縄文文化の「本場」なのだし!
ところで新郷村のキリスト・イスキリ関連の諸々に文句をつけるつもりはさらさらないのですが、それに関して話題になっている地元の盆踊りの文句「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」については、別に古代ヘブライ語など持ち出すまでもなく、南部地方には割と普通の盆踊り歌であるらしいことが、柳田國男の旅行記の名篇「清光館哀史」からわかります。ちなみに清光館は岩手県九戸郡洋野町小子内にあったという旅館で、現存しません、というかこの「清光館哀史」自体、以前泊まった清光館を柳田が6年後に訪れたらもう跡形もなくなってしまっていたことを書いたものなのです。「清光館哀史」とその前編をなす「浜の月夜」の2篇は角川ソフィア文庫『雪国の春』、ちくま文庫版『柳田國男全集 2』などに収められていますので、篤志の方はぜひこの前後2篇を合わせてお読みいただきたいと思います。特に『雪国の春』『秋風帖』『東国古道記』『豆の葉と太陽』その他柳田國男の旅行記・旅行論等を収めたちくま文庫版『柳田國男全集 2』は、特に旅行好きの方々にお勧めしたい一冊です。「浜の月夜」は同書pp.138~141、「清光館哀史」は同じくpp.142~150に収められています。以下「清光館哀史」から当該盆踊り歌に関する部分を引用しておきます。
あの歌は何というのだろう。何遍聴いていても私にはどうしても分らなかったと、半分独り言のようにいって、海の方を向いて少し待っていると、ふんといっただけでその問には答えずにやがて年がさの一人が鼻唄のようにして、次のような文句を歌ってくれた。
なにヤとやーれ
なにヤとなされのう
ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。
古いためか、はたあまりに簡単なためか、土地に生れた人でもこの意味が解らぬということで、現に県庁の福士さんなども、何とか調べる道がないかといって書いて見せられた。どう考えてみたところが、こればかりの短かい詩形に、そうむつかしい情緒が盛られようわけがない。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向って呼びかけた恋の歌である。
ただし大昔も筑波山のかがいを見て、旅の文人などが想像したように、この日に限って羞や批判の煩わしい世間から、遁れて快楽すべしというだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬ない生存の痛苦、どんなに働いてもなお迫って来る災厄、いかに愛してもたちまち催す別離、こういう数限りもない明朝の不安があればこそ
はアどしょぞいな
といってみても、
あア何でもせい
と歌ってみても、依然として踊りの歌の調べは悲しいのであった。
なにヤとやーれ
なにヤとなされのう
ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。
古いためか、はたあまりに簡単なためか、土地に生れた人でもこの意味が解らぬということで、現に県庁の福士さんなども、何とか調べる道がないかといって書いて見せられた。どう考えてみたところが、こればかりの短かい詩形に、そうむつかしい情緒が盛られようわけがない。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向って呼びかけた恋の歌である。
ただし大昔も筑波山のかがいを見て、旅の文人などが想像したように、この日に限って羞や批判の煩わしい世間から、遁れて快楽すべしというだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬ない生存の痛苦、どんなに働いてもなお迫って来る災厄、いかに愛してもたちまち催す別離、こういう数限りもない明朝の不安があればこそ
はアどしょぞいな
といってみても、
あア何でもせい
と歌ってみても、依然として踊りの歌の調べは悲しいのであった。
ううむ・・・かくなる上は、石切劍箭神社の上之宮と「イスキリの墓」は見に行かんとなあ。