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2022.03.14

マキタスポーツという唯一無二の表現者はどうやって生まれたのか?

音楽と笑いを融合させた「オトネタ」で注目を浴び、いまや役者としても引っ張りだこのマキタスポーツさん。表現者としての幅は驚くほど広く、芸人、ミュージシャン、文筆家、俳優のどれにも限定することはできません。その独特の考察や発想、創作意欲はどこから生まれてくるのか? 昨年配信され話題の島津亜矢さんとのコラボ曲「歌うまい歌」に込めた想いや、マキタさんの素顔に迫ります。

CREDIT :

文/井上真規子 写真/前田 晃(maettico)

周りを笑わせることに、生き甲斐を感じていた

── マキタさんの子供時代を教えてください。

マキタ 子供同士で放っておくと、相手の子を泣かしてるようなわんぱくな子供でした。周りの言ってることがよく理解できなくて、言葉よりも先に手が出てしまう。エネルギーだけは持て余していて、いたずらばかりしてましたね。

親や先生にもよく怒られていて、迷惑な子供だったと思います。自分でもそれをわかっていて、小学校高学年くらいまでは生きてるのが楽しくなかったんですよ。あと、親に言われて小学2年から剣道をイヤイヤやっていました。本当は野球をやりたかったんですよね。

── 笑いについては、どう思っていましたか?

マキタ 芸人になるような人間って、一番最初に笑いがどうやって生まれたのかをすごく覚えているんですよ。僕は小学1年生の時で、給食の時間に先生が食べカスを「ボールに戻して」って言ったのを聞いて、僕がボールを投げるふりをしたんです。そしたらドカンと笑いが起きて。先生には怒られたけど、ウケた! って感動しました(笑)。「勘違いで笑いが生まれるんだ」ってことを初めて知った瞬間です。

それからは周りを笑わせることに生き甲斐を感じていました。コミュニケーションが下手だったから余計にそうなったんですよね。でもなんでも過剰にやっちゃうから、結果的にあまり人望がなかったんです。キックベースで遊んでる時に、わざととんでもない方向にボールを蹴ったり、1塁に走るべき時に3塁に走ってみたり。みんなは笑うけど、先生には怒られて。それで友達の方を見たら、もうみんなそっぽ向いてるみたいな感じでした。
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── 当時から笑いをとるためにあれこれ計算したりしていたんですか?

マキタ そうですね。どうしたら笑いが生まれるかってことは、しつこく覚えていました。よく体育の授業でふざけて先生に怒られていたんですが、ある時授業後に女子が僕のところに来て「わざと転んだんでしょ?」って言ってきたんです。なんでバレた? って思って。男子が笑ってる一方で、冷徹に見ている女子もいて、うっかりしたことやるとすぐバレるんだなって。批評というものを知った瞬間でしたね。

── なるほど(笑)。マキタさんの得意な分析は、小学校から始まっていたんですね。好きなお笑い番組とかはありましたか?

マキタ 当時はドリフターズや「欽ちゃんのどこまでやるの!」あたりがすごく流行っていて、全部チェックしてました。ちょうど僕が10歳の頃に漫才や演芸のムーブメントが起こって、ツービートやザ・ボンチ、B&B、紳助竜介、さんまさんとかがどんどん出てきた時代だったんです。

それまで「お笑い」って年寄りくさいイメージがあったけど、たけしさんや紳助さんが街場の兄ちゃんと同じような格好で出てきて漫才するのを見て、子供心に「何か変わってきている」って感じてワクワクしてました。僕みたいな狼藉を働いたりする人間の後ろ盾ができたような感じもありましたね。
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好きなものは、音楽とお笑い

── 音楽はいつ頃から好きだったんですか?

マキタ 小学校の頃から、4才年上の兄が深夜ラジオで仕入れた曲を教えてくれてたんです。「オールナイトニッポン」のイチ押し曲とか。少したってからその辺の曲がテレビの歌番組に流れるってサイクルだったから、同学年の子達よりも早く知ってましたね。兄は、ポップカルチャーからサブカルチャーまで色々知っていて、レコメンダーになってくれていたので、僕もその影響をめちゃくちゃ受けてました。

あと、兄が吹奏楽部に所属していて「お前もエレキギターとか、なんか楽器をやれ」って言うので、当時楽器は特に興味なかったけど、モテるのかな? って期待してギターを弾き始めました(笑)。高校時代は、バンド組んで文化祭で演奏したりもしてましたね。

── 時代的には、ロック全盛期の頃ですよね。

マキタ そうですね。80年代末頃に、今までの歌謡界にはいなかったブルーハーツやBOØWY(ボウイ)みたいな僕らの世代を代表するロックバンドが出てきて、バンドブームが起こるんです。僕も憧れて聴いてましたけど、へそ曲がりだから自分たちのバンドではそういうメジャーどころではなく、佐野元春さん、織田哲郎さんとかをコピーしてましたね。

音楽専門番組「MTV」が始まったのもこの頃。あとは、当時インスト系(歌のない演奏だけの曲)の「フュージョン」ってジャンルが流行っていて、日本のカシオペア、スクエアとかフュージョンバンドをコピーして、家でよく練習してました。
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── やっぱり当時から、マキタさんの興味の軸はお笑いと音楽だったんですね。

マキタ 目立ちたかったから、芸人にはシンパシーを感じてましたね。でも学校では笑い取るだけでは満足できなくて、モテたいからバンドもやるって感じでした。

あと中学生くらいになると、僕みたいな過剰に人を楽しませようとする奴って、ちやほやされだすんです。常軌を逸脱したことをやるほど、あいつすげえって伝説みたいになってくる。僕の行動原理はほとんど変わってなかったけど、周りが変わってきて。僕自身も、周りの言ってることとか、物事がわかってきて、急に景色が変わった感じはありました。

── 当時から、お笑いと音楽を融合させたことをやりたいという思いがあったんですか?

マキタ 当時は、とんねるずやたけしさんが歌を歌ったり、タモリさんが音楽的な素養を持っていたり、その頃のすごい人たちって、お笑いと音楽を両方やっている人が結構いたんです。清水ミチコさんもそうですよね。お笑いっていうより、「演芸」ですよね。

だから小学校の頃から「演芸の道に進む」ってことは決めていて、ずっとそれ一本でした。今やっていることは、昔から全部やりかったことですね。
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