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姫宮着袴の謎

 2021/11/23(Tue)
 朝晩めっきり冷え込んできて、今年も紅葉が綺麗な季節になりましたね。千尋は残念ながらあまり遠くへは行けませんが、毎日通勤途中のイチョウ並木が色づいて行くのを楽しんでいます。
 そんなわけで、本日も賀茂斎院について、最新の更新のご報告です(最初にアップしたのは14日だったのですが、その後ちまちま加筆修正していたので遅くなりました。^^;)。

 今回のそもそもの発端は、藤原師通の日記『後二条師通記』(応徳3年(1086)3月25日条)に24代斎院令子内親王の着袴の記事を見つけたことでした。
 実はこの記事、以前昌子内親王の着裳関連で着袴について調べた時には、東大史料編纂所の「大日本史料総合データベース」の見出しになかったこともあって見逃していたのです(ついでに白状しますと実仁親王も見落としていました…)。けれども同じく史料編纂所の「古記録フルテキストデータベース」で、各斎院の名前から検索した際にヒットして、おかげで初めて気が付いたのでした。

 もっとも問題の記事は、実は本文ではただ「姫宮」と記すだけで個人名の記載はなく、『大日本古記録』の注で令子内親王であるとされていたのです。けれども当時令子は9歳で、着袴にしてはさすがに遅すぎる、これは妹の禎子内親王(当時6歳)ではないか?と疑ったのが始まりでした。
 しかしこの時期は大変運の悪いことに『大日本史料』(第2編)がまだ刊行されていない部分なのですね。少し後の堀河天皇(これは第3編)なら良かったのですが、白河天皇となると千尋が生きているうちに出るかどうかも怪しいくらいです(何しろやっと後一条天皇までしか出ていないので…)。それでも何とか当時の一次史料は一通り確認したものの、当然それだけで済むわけもなく、関連図書を借りてきたり論文を取り寄せたりと、資料集めだけで3週間ほどかかってしまいました。
 そしてさらに問題なことに、今回は問題の着袴の場所が堀川殿(堀河院)ということから、うっかり邸宅にまで手を広げてしまったのがある意味運の尽きでした。何故と言うに、平安時代の邸宅となれば、何と言っても太田清六氏の『寝殿造の研究』を避けて通るわけには行きません。幸い近くの図書館で所蔵しているのですが、何しろこの『寝殿造の研究』は大きい上に大変分厚い本で、実を言えば今までなかなか手を出せずにいたのです。とはいえ今度ばかりは逃げるわけにもいかず、ようやく腹を括って借りてきた次第ですが、それにしても重かった…(笑)

 ともあれ、今回最大のネックとなったのは「当時内裏がどこだったか」とか「関白や院はどこに住んでいたのか」という点です。
 幸い内裏については『皇居行幸年表』という立派な本があるのは知っていたので良かったものの、関白邸や上皇御所となるとそう簡単には行きません。そこで自分でも大日本史料総合データベースで関連記事を探しつつ、図書館で関連のありそうな研究書を片っ端からひっくり返した結果、『中世王権の形成と摂関家』(樋口健太郎,吉川弘文館)や『平安時代貴族住宅の研究』(飯淵康一,中央公論美術出版)等に立派な一覧表があるのを発見、おかげで大変助かりました。こうした地道な研究をしてくださる研究者の皆様には、本当に改めて感謝です。
 しかし一方、逆に困ったのが禎子内親王と同居していたという養母、四条宮こと太皇太后藤原寛子(後冷泉天皇皇后、藤原頼通の娘)でした。
 この人の場合、「○月○日に宇治へ行った」「△月△日に宇治から帰京した」という記事は多いのですが、肝心の「当時(平安京の)どこに住んでいたか」を特定できる記事が非常に少ないのです。まあ寛子は太皇太后とは言っても子供がなく、従って白河天皇や堀河天皇と直系の血縁でもないから無理もないとはいえ、仮にも時の関白師実の姉(師通には伯母)だというのにこれほど情報がなく手こずるとは正直予想外でした。
 なお寛子については増渕徹氏の「藤原寛子とその時代」という論文がありますが、これがまた狙ったように(?)ちょうど問題の時期の部分に限って殆ど注目されていなかったのです。そのため寛子については自力で一から史料を調査する羽目になったのですが、おかげで今回レポートにもなったので、美味しいネタを残しておいてくれてある意味感謝です(笑)。
 そして居場所がわからないといえばもう一人、即位前の堀河天皇、即ち善仁親王もこれまた殆ど記録が残っていないのです。考えてみると、当時の東宮は白河天皇の息子ではなく異母弟の実仁親王でしたから、今上帝の一人息子とはいえ貴族社会の注目度はあまり高くなかったのかもしれません。おかげでこれまた「堀河天皇は堀河院で成長した」というのは本当か?という疑問も出てきて、こちらも裏付けを取るのにまた一騒動でした(なお結論は、堀河院にいたことがまったくないとも言い切れないにせよ、恐らく殆どは内裏や他の関白邸にいたろうと思われます)。

 そんなこんなで、結局問題の着袴をした姫宮は、他の白河天皇の子供たちの着袴年齢が大体5歳であること、また当時関白師実が大炊殿に住んでいて、着袴当日にわざわざ寛子の御所であった堀川殿に出向いていることなどから推測して、やはり禎子内親王だろうという結論に落ち着きました。また着袴の1年半前に禎子の母中宮賢子が急死しており、悲嘆に暮れた白河天皇はその後しばらく子どもたちにも会おうとしなかったというので(『栄花物語』)、そのため本来なら父天皇が着袴を行うはずが、代わりに師実が実施したと思われます(ちなみに記録に残っている限りでは、皇族着袴の腰結は父天皇や摂関等に限られており、原則として男性が行うものだったようです)。
 さらに今回の調査の結果、どうやら禎子内親王と令子内親王は一時期同居していた(つまり四条宮寛子と関白師実姉弟が同居していた)ことがあったらしいという新事実(?)も判明、これは嬉しい驚きでしたね。全文データベースでも固有名詞の記載がないと検索してもヒットしないので見落としがちですが、『師通記』や『中右記』はいずれ改めてじっくり再確認する必要があるなと実感させられました(ちょっと気が遠くなる作業ですが…苦笑)。

 ところで堀川殿跡地については、千尋の手元の本やWEBサイトでは大抵京都国際ホテルと京都全日空ホテルであると書かれているのですが、現在はHOTEL THE MITSUI KYOTOANAクラウンプラザホテル京都になっています。また京都国際ホテルの敷地には「堀河天皇内裏跡」という立派な石碑があったのですが、現在どうなっているのかとMITSUI KYOTOに問い合わせてみた所、どうやら撤去されたらしく現在は存在しないとのことでした(がーん)。いずれまた京都へ行く時には、是非とも写真を撮ってこようと思ったのに…残念。

 というわけで?、今回は最後におまけ、堀川殿の近くにあった東三条殿の復元模型写真です(画像をクリックすると、大きいサイズで見られます)。

bunkahaku-2018.jpg
京都文化博物館の模型。「平安博物館回顧展」(2018)にて。


rekihaku-2010.jpg
国立歴史民俗博物館の模型(2010撮影)。


 どちらも大体敷地の北半分(一町)ですね。ちなみに一町の面積は何と4400坪(!)だそうです…

 追記:最近賀茂斎院サイトがめでたく8000HITを越えました。皆様いつもありがとうございます、今後ともよろしくお願いいたします。

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