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白川伯王家と斎院の母

 2022/04/18(Mon)
どたばたしているうちに早くも4月になり、ついでに賀茂斎院サイトも何と9000HITを超えました。いつも来てくださる方も最近初めて知ったという方も、皆様ありがとうございます。何しろ管理人はアマチュア故、かなり好き勝手に自由な解釈というか無責任な妄想を繰り広げることもありますが、少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。

さて今回、久しぶりにちょっと大きめの更新となりました。今まであまりネタがないな(笑)と思っていた27代斎院ソウ子内親王(ソウ=りっしんべん+宗)について、今更ですが生母に関するちょっと面白い疑惑?を見つけたのです。

主な史料を見ると、ソウ子の母はほぼ一致して「神祇伯女」または「康資王女」とあり、さらに個人名の表記があるものは「源仁子」となっています。しかし「神祇伯女」の方が実は曲者で、どうやら神祇伯こと康資王の娘は二人いたらしい、ということがわかりました。何のことはない、よく調べたら『平安時代史事典』で既に指摘されていたことでして、一人は堀河朝に典侍となった女性、もう一人は鳥羽朝にやはり典侍となった源仁子です。どちらも年齢不詳ですが、典侍になった時期から見て、多分仁子の方が妹でしょう。
しかしそうなると、今度はソウ子母の「神祇伯女」は一体どっちなんだ?という新たな疑惑が出てきます。
というわけで再び史料を漁りまくった結果、残念ながら決定的な根拠は見つからなかったものの、ソウ子母は多分仁子ではないかと思われます。というのも、姉の堀河朝典侍は任官後の消息が見当たりませんし、一方で仁子の方はどうやら鳥羽天皇に出仕するまでは女官経験はなかったらしいのです。『今鏡』によればソウ子母は元々「大宮」女房だったそうなので、これが正しければ仁子の方が可能性は高いでしょう(もっともこの「大宮(=太皇太后)」がまた、四条宮藤原寛子説と二条大宮令子内親王説があってややこしいのですが、こちらは多分令子内親王だろうと考えます)。

ところでここで面白い事実がもう一つありまして、源仁子は実はただの典侍ではなく、鳥羽天皇即位式でケン帳(高御座のとばりを開けて新天皇の姿を見せる役目)を務めた女官でした(※ケンの字はこちらを参照のこと)。このケン帳は左右二人の女官が担当するもので、源仁子は左のケン帳でしたが、この時右のケン帳は国文学で有名な『讃岐典侍日記』の作者・藤原長子だったのです。
しかし大変残念なことに、『讃岐典侍日記』では即位式の時の描写はさらっと流されてしまい、源仁子のことなど影も形も出てきません(ちなみに『中右記』では例によって非常に詳しく記録しており、おかげで確かに源仁子が左のケン帳だったこともわかっています)。日記の上巻では同僚の典侍や乳母たちの名前も結構出てくるのに、よっぽど白河院に無理やり引っ張り出されたのが嫌だったのかもしれませんが、それにしては(大変名誉な役なので)兄弟に散々羨ましがられたとかいう記述もあるのですよね。

それで思ったのが、讃岐典侍が堀河天皇と男女の関係だった(らしい)のだとすれば、もしや自分にはできなかった御子を産んだ源仁子に嫉妬していたのか?という、我ながら何とも俗っぽい想像でした(笑)。

いや、普段賀茂斎院なんて浮世離れした世界を調べていると、なかなかこういう『源氏物語』の桐壺だとか江戸時代の大奥的なドロドロの愛憎劇にはあまり縁がないのですが、これは正直ちょっと面白いかも、と思ったのです。それで色々調べてみたら、やっぱり研究者の先生方にもそういう妄想、もとい推測をされている方が結構いらっしゃるのですね。一方で「讃岐典侍=堀河天皇の愛人説は殆ど定説になっているが、本当だろうか?」と疑問を呈する論文もありましたが、しかし天皇と二人きり(?)で朝を迎えた自分を「我が寝くたれの姿」なんて表現しているところから見て、やっぱりこれはそういうことだろうと千尋も思いました。

ところで今回、その『讃岐典侍日記』の注釈書を片っ端から読み漁っていて一つ気が付いたのですが、問題の源仁子について、研究者の皆様は殆ど揃って「ケン帳女王」としているのです。
というのも、仁子の家系は後に「白川伯王家(または伯家・白川家とも)」と呼ばれ、代々神祇伯を世襲して何と明治に至るまで「王」の称号を持ち続けた、大変珍しい(というか唯一の)家なのです。そして伯家の女子は、これまた代々即位式で「ケン帳女王」の任にあたるのが決まりとなっており、逆に言えばこの即位式での役目のためもあって、長く子孫まで王号を許されたのでした(平安後期には親王が減っていたため、当然その娘や孫である「女王」も少なく、要するに人員不足だったのです)。
しかしここで一つ大問題がありまして、この伯家が「伯家」という世襲の家系に決定したのは、実は源仁子よりもさらにずっと後(それどころかソウ子内親王さえも亡くなった後)のことなのです。これはもう随分昔、伯家を研究されていた藤森馨氏(旧姓・小松)が「即位儀礼と白川伯王家」等の論文にまとめられているのですが、ということは鳥羽天皇即位の時にはまだ「伯家」という(代々王氏であり続ける)家は存在せず、従って「伯家の女性がケン帳女王を務める」という慣例も当然なかったのでした(だから仁子も『中右記』では「仁子女王」ではなく「源朝臣仁子」となっています)。

このケン帳女王に関する問題については、千尋はたまたま以前30代斎院怡子内親王の関連で興味が湧いて調べたことがあったのですぐ思い出しましたが、意外と『讃岐典侍日記』研究者の間では知られていないようなのですね(正直言って、岩佐美代子氏まで同じ誤解をしていたのは驚きでした)。何だか毎回こんな微妙な粗探しというか重箱の隅をつつくような指摘ばかりしていますが、これは小さいようで意外に重要な問題ではないかと思ったので、今回取り上げました。
ちなみに怡子内親王の項では、崇徳天皇の即位式でケン帳女王を務めた仁子女王(多分怡子内親王の姉?)のことに触れていますが、この頃もまだ「伯家」は成立していませんし、そもそも仁子女王は輔仁親王の娘(つまり後三条天皇の孫)で、こちらは源氏ではなく正真正銘「女王」であり、当然後の伯家の一員でもありません。しかし名前が何しろ同じ「仁子」なので、後で読み返して「あれ、私勘違いしてた!?」と一瞬焦りました(苦笑)。

ともあれ、色々調べていてつくづくと思うのは、研究というのは調べれば調べるほど際限なく調査対象が広がっていくのだなあということです。生涯修行というか日々研鑚あるのみというか、いくら学んでもきりがないというのは大変な一方でとても楽しいことで、おかげで一生退屈しそうにありません(笑)。どこまで行けるかはわかりませんが、これからも行ける限り、少しでも遠くまで行ってみたいと思います。

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