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27代斎院 悰子内親王

※「そう(やす)」の字は、りっしん偏+宗。こちらを参照(字源)。

名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
そうし やすこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:堀河天皇(1079-1107)
母:典侍源仁子?
  (1126没)
康和元年(1099) 応保2年(1162)11月3日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123~1141,甥) 卜定:保安4年(1123)8月28日
初斎院:天治元年(1124)10月25日
本院:天治2年(1125)4月19日
退下:大治元年(1126)7月25日
母死去
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,いとこおば)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位

略歴:
 嘉承2年(1107)(9歳)7月19日、父堀河天皇崩御。
 保安4年(1123)(25歳)1月28日、異母弟鳥羽天皇譲位、甥崇徳天皇践祚。


2月19日、崇徳天皇即位。


8月28日、崇徳天皇の斎院に卜定。
 天治元年(1124)(26歳)10月25日、初斎院入り。
 天治2年(1125)(27歳)4月19日、本院入り。
 大治元年(1126)(28歳)7月25日、母の喪により退下。
 天承元年(1131)(33歳)近江国佐々木庄を伊勢神宮に寄進。
 応保2年(1162)(64歳)11月3日、薨去。

号:大宮斎院

斎院長官:藤原親隆(天治2年(1125)4月7日大治元年(1126)7月(退下)以前)

堀河天皇第一皇女。
 生母の源仁子(?)は花山源氏で、神祇伯康資王の娘。鳥羽天皇典侍。
  ┌─────┐
  |     |
 輔仁親王  白河天皇
  |     |
  |     ├─────────────────┬───┐
  守子    |                 |   |
 (斎宮)    |      ┌─────┐    |   |
        |      |     |    |   |
 源仁子===堀河天皇===藤原苡子  藤原公実  令子  禎子
     |      |        |
     |      |        |
    ◆悰子    鳥羽天皇=====藤原璋子
            |    |  [待賢門院]
            |    |
            妍子  崇徳天皇

 悰子の外祖父である神祇伯康資王は、花山天皇の曽孫で、康資王の父延信王(源延信)は後三条天皇の再従兄弟にあたる。また延信の妻で歌人の康資王母(四条宮筑前)はやはり歌人として著名な伊勢大輔の娘であることから、母方を辿れば伊勢祭主の大中臣氏にも連なる家系であった。その後康資王の孫で養子となった顕広王から、同家は王氏として神祇伯を代々世襲する「白川伯王家」となり、明治まで王号を名乗り続けた。

  ┌──────┐
  |      |
 花山天皇   三条天皇
  |      |
  |      |
 清仁親王  禎子内親王=====後朱雀天皇
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  |           |
 延信王        後三条天皇
 (源延信)          |
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 康資王         白河天皇
  |           |
  ├────┐      ├────┬────┐
  |    |      |    |    |
 顕康王  源仁子?===堀河天皇  令子   禎子
 (源顕康)       |
  |        |
  |        |
 顕広王      ◆悰子


 誕生から卜定までの悰子内親王に関する記録は現存史料には見られず、父堀河天皇が若くして崩御したことや、生母が正式な皇妃とは認められない女官で終わったためか、鳥羽天皇のただ一人の姉でありながら当時の宮廷では影の薄い存在であったらしい。斎院卜定以前に内親王宣下は受けていたらしいが、斎院となった時期も25歳と遅く、既に弟鳥羽天皇が退位した崇徳朝のことであった。

 斎院在任期間中は詳しい記録に欠け、斎院退下後の消息も少ないが、『中右記』(大治4年(1129)2月22日条)では「二條前斎院性子(悰子)」の千日講結願についての記録があり、二条あたりの邸宅に住んでいたと見られる。その後、『本朝世紀』(仁平2年(1153)11月5日条)に二条北堀川東の「故大宮御所」が火災に遭い、ここに前斎宮妍子(鳥羽皇女、悰子の姪)と前斎院悰子が同居していたとの記述がある。
 この「故大宮」は個人名がないが、これ以前で最も近い時期の大宮(=太皇太后)は24代斎院令子内親王(1144没)で、「二条太皇太后」「二条大宮」と呼ばれ、二条堀河邸を里邸としていた。また『今鏡』によれば、悰子の母は元々「大宮(令子?)」の女房であったとされるので、その縁から天養元年(1144)令子崩御の後、令子の姪である悰子が令子の二条堀河邸に移り住んだものと思われる。あるいは令子の生前から既に二条堀河邸で同居しており、『中右記』の「二条前斎院」という呼称や「大宮斎院」の号もそれに拠ったかもしれない。令子は悰子の異母弟鳥羽天皇の准母でもあったから、母亡き後の悰子についても伯母として猶子のように保護していた可能性も考えられる。
 なお妍子内親王は康治元年(1142)に母の五條堀川第で斎宮に卜定され、久安6年(1150)5月退下、7月帰京となっている。よって妍子が悰子と共に大宮御所で暮らすようになったのは、斎宮を降りて帰京した後と思われる。

 悰子の生前の消息はこの火災記事を最後に途絶え、大宮御所焼失の後どこへ移転したのか不明であり、薨去についての記録も『一代要記』にしか見られない。しかも『要記』は後世の史料でしばしば誤りも見られるため、悰子の没年や年齢の記載も正しい保証はないが、『今鏡』の記述から見て、『今鏡』成立時(嘉応2年(1170)頃)以前に死去していたのは確かであろう。

 ところで『新古今和歌集』禎子内親王(25代斎院)哀傷歌の詞書によれば、久寿3年(1156)に禎子が死去した後をうけて、姪にあたる悰子が禎子の御所に移り住んだらしい。上記の故大宮御所焼失から3年後のことであり、50代の晩年で住み慣れた邸宅を失った悰子にとっては、さぞ心休まる安住の地になったと思われる。
 なお歌の作者源雅定は禎子の従兄弟で、禎子の御所土御門高倉第(左京北辺四坊三町)を提供したとされる源雅実の息子だが、土御門高倉第は大治5年(1130)に火災で焼失した。また晩年の禎子は東山に居を構えていたらしく(『台記』『兵範記』)、悰子が移り住んだという邸宅がいずれを指すかは不明である(ただし詞書に「何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて」とあることや、また悰子の没後永万元年(1165)に六条天皇が「土御門高倉第」で践祚している(『践祚部類抄』)ことから、雅定にも馴染み深い土御門高倉第が再建されていた可能性も考えられる)
 ともあれ禎子も白河皇女で令子の同母妹であり、この頃の皇女たちは代々オバから姪へと王家のミウチ同士で邸宅が引き継がれる例が多かったようである。

参考図書:
・竹鼻績『今鏡(下)全訳注(講談社学術文庫)』(講談社, 1984)

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録89.堀河天皇 巻4』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※悰子内親王については145~147コマにあり





【「故神祇伯女」と典侍源仁子のこと】
 悰子内親王の母について、『本朝皇胤紹運録』『本朝女后名字抄』『賀茂斎院記』等は「(神祇伯)康資王女」とするのみで名は不明だが、『十三代要略』に「神祇伯康次[資]三[王?]女、典侍仁子」と記載がある。このことから、悰子の母「康資王女」は『中右記』(嘉承2年(1107)12月1日条)の鳥羽天皇即位式に褰帳を務めた典侍の「源仁子、故伯女」と同一人物である可能性が高いと考えられ、『天皇皇族実録』は悰子母を「源仁子」とする(『顕広王記』(永万元年(1165)7月27日条)や『帝王系図』三千院本では「仁子女王」とするが、『中右記』(嘉承2年(1107)12月1日条)や『天祚禮祀職掌録』は「源仁子」としており、少なくとも嘉承年間には源氏であったらしい)
 一方『平安時代史事典』は「悰子内親王」ならびに「大夫典侍(1)」の項で、悰子の母は初め四条宮寛子の女房で、のちに内裏女房に転じた神祇伯康資王の娘大夫典侍であるとしている。また源仁子については、「源仁子」の項で「神祇伯康資王女で大夫典侍の妹」であるとされ(ただし同「賀茂斎院表」では、斎院悰子内親王の母は「典侍・源仁子(資康王娘)」となっている)、従って「康資王女」は二人存在したと見なしている。
 そこで『中右記』を見ると、以下の記事に「故伯女」または「源仁子」が登場する。

  • 承徳2年(1098)3月7日~又有女官除目、被補典侍一人<故神祇伯女也、>
  • 嘉承2年(1107)11月25日~又女官除目、頭仰云、<典侍・掌侍可任者、>(中略)勅旨、内侍司、
    典侍従五位下源朝臣仁子、<件人元六位也、今夜叙従五位下、然而不書別叙位、是例也、>
    掌侍正五位下高階朝臣業子、<先朝掌侍也、雖辞申又被還着也、>
  • 嘉承2年(1107)12月1日~褰帳典侍二人 、<左源仁子、故伯女也、今度成加也、(中略)右藤兼[長]子、故顕綱朝臣女也、元典侍、(後略)>

 どちらも「故神祇伯女」または「故伯女」の典侍だが、一人は承徳2年、もう一人は嘉承2年典侍に任じられている。『天皇皇族実録』はこれを同一人物とみなし、嘉承2年に「再ビ典侍ト為リ、従五位下に敍セラル」としている。
 しかし増田繁夫氏が指摘するように、承徳2年に典侍となった女官が、9年後の嘉承2年に至ってもいまだ六位のままというのは不自然である(「讃岐典侍日記の御乳母・典侍・掌侍たち」。なお後に触れるが、「故神祇伯女」に遅れて康和3年(1101)典侍となった藤原長子は、嘉承2年(1107)時点で五位以上となっている)。しかも嘉承2年の同じ除目で掌侍となった高階業子は「先朝(堀河天皇)掌侍」と注があり、さらに位階は典侍源仁子よりも上の正五位下であることからも、源仁子がこの時初めて典侍に任じられたことがわかり、明らかに承徳2年の「神祇伯女」とは別人である。神祇伯康資王は寛治4年(1090)に死去、その後堀河朝を通じて敦輔王が神祇伯であったから、「故神祇伯」「故伯」はいずれも康資王を指すと思われ、従って『平安時代史事典』ならびに増田説の通り「故神祇伯女」と源仁子は別人で共に康資王女の姉妹と見てよかろう(※姉も女官であるから当然個人名もあったはずだが、「仁子」は父康資王の片諱ではないことから見て、姉の名は「康子」または「資子」であったかもしれない)
 なお竹鼻績氏は、承徳2年(1098)記事の「故神祇伯女」を仁子であろうと見なし、当時堀河天皇の子を懐妊したことから典侍に任官されたのではと推測している(『今鏡(下)全訳注』)。ただし竹鼻氏は悰子の生年を同年とするが、『要記』に従えば悰子誕生は翌承徳3年(1099)であり、この「故神祇伯女」が悰子母であったとしても、3月ならばまだ懐妊していなかった(または懐妊が判明していなかった)ことになる。また先述のように、位階から見ても承徳2年に典侍となった「故神祇伯女」と源仁子が同一人物とは考えられない。この点については『平安時代史事典』が「康資王女」を姉妹二人としたのは妥当と思われる。
 なお康資王は長久2年(1041)生まれとされる(赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考」)ことから見て、姉妹の生年は少なくとも康平4年(1061)以降と見てよいだろう。また悰子内親王が生まれたとされる康和元年(1099)当時、父堀河天皇(1079生)は21歳で、同年女御藤原苡子(24歳)が流産していること、また当時堀河後宮にいた皇妃は苡子と中宮篤子内親王(40歳)の二人のみであったこと、そして堀河天皇の男子3人(鳥羽天皇、寛暁、最雲法親王)がいずれも悰子より年少であるとされること等から、悰子は堀川の第一子である可能性が高い(堀河天皇は皇子女が少ないが、元々後宮に皇妃が少なかった上に、中宮篤子内親王は年齢差が大きすぎて子が望めず、一方女御苡子は出産で早世と、不運の連続だった。さらに加えて、堀河自身も病がちで短命であったことも一因であろう)。従って悰子母は堀河と同年代かやや年長と考えるのが自然であり、当時20代前半から半ばかと思われる。
 また竹鼻氏は堀河天皇崩御の際、素服を賜った中の「典侍二人<讃岐・伯>(『中右記』嘉承2年7月24日条)の「伯」を源仁子であるとするが、増補史料大系本『中右記』では「典侍二人<讃岐・伯耆>」となっている(なお大日本古記録本『中右記』は「伯(源仁子)」とする)。「伯耆典侍」は他に記録がなく詳細不明だが、いずれにせよ堀河朝の典侍であることは確かなことからやはり仁子とは別人であり、「伯(典侍)」が正しいとすればこれも姉の「故神祇伯女」であろう。

 ところで『今鏡』(8・腹々の御子)は悰子母が「かの大宮」の女房であるとしており、この「大宮」については竹鼻氏が24代斎院令子内親王(鳥羽准母、1134~1144太皇太后)とする。一方、『史料綜覧』や国史大系本『今鏡』は悰子の母が仕えた人物を藤原寛子(後冷泉皇后、1074~1127太皇太后)としており、上記『平安時代史事典』で悰子母とされる「大夫典侍」を四条宮寛子の女房とするのも、これに拠るものと思われる。また歌人として名高い康資王母はかつて四条宮寛子に仕えた女房であったから、92歳という長命であった寛子の晩年に康資王の娘が祖母の縁故により出仕していた可能性もないとはいえない。
 しかし寛子は25代斎院禎子内親王(令子の同母妹)を猶子としてはいたものの、記録を見る限り禎子の兄である堀河天皇との接点は少なく、特に堀河即位後は都を離れて宇治に滞在することが多かった。また寛子は周知のとおり「四条宮」の通称で知られ、『今鏡』でもほぼ一貫して「四条宮」と呼ばれており、寛子を「大宮」とする箇所はない。よって悰子母が仕えた「かの大宮」も、太皇太后寛子を指すとは考えにくい。
 一方令子内親王は承徳3年(1099)に斎院を退下した後、頻繁に内裏に出入りして弟堀河天皇と親しく交流しており、また鳥羽天皇即位にあたっては准母立后、即位式では高御座で幼い鳥羽天皇と同座する等、同母のきょうだいの中でも堀河天皇とは特に親密な関係であった。このことから、令子に女房として仕えていた「故神祇伯女」が堀河天皇の目に留まり寵を受けた結果、悰子を産んだ可能性は十分に考えられる。
 もっとも悰子の生年は令子の退下と同年であり、6月に退下した令子がすぐに参内したことで悰子母と堀河が出会ったとしても、年内の皇女誕生はありえない。上記の通り仁子は鳥羽即位で初めて典侍になったとあるので、承徳2年(1098)の姉の典侍任官をきっかけに仁子も斎院令子の使い等で宮中へ参内するようになり、そこで堀河に見初められたものであろうか(そもそも天皇直属の女官でもない女房が帝寵を受けるとは考えにくいが、通常あり得ない例外だからこそ『今鏡』もわざわざ「かの大宮の女房の生みたてまつれりける」と記したのではないか)。またあるいは姉の「故神祇伯女」が始め康和元年(1099)に皇女を産んだが夭折、その後妹の仁子が悰子を産んだ結果、両者が混同された可能性も考えられる。
 ともあれ「大宮」については、悰子の叔母禎子の養母でしかない「四条宮」寛子よりも、直接の伯母でありまた父堀河天皇の最も親しい姉でもあった「二条大宮」令子と見なすのが適切かと思われる。

 さてここでもう一つ、堀河天皇崩御~鳥羽天皇即位当時の記録として、公家日記以外に国文学で著名な『讃岐典侍日記』に注目したい。
 著者の藤原長子(讃岐典侍)は堀河天皇に女官として仕え、その死後も鳥羽天皇の即位式で源仁子と共に褰帳の大役を担った人物であった。しかし日記では仁子についてはまったく触れられておらず、それ以外でも堀河朝に長子と同僚であったはずの仁子の姉「故神祇伯女」に関する描写もない(ただし姉については、素服を賜った「伯耆典侍」が別人だとすればそれ以前に既に死去していたのかもしれず、そうであるなら大治元年(1126)に死去した悰子母でもないことになる)。これは既に諸注等でも指摘されていることだが、源仁子が悰子内親王の生母またはその姉妹であることは殆ど注目されていない。
 なお仁子は左の褰帳、長子は右の褰帳で、当時仁子は典侍になったばかりでやっと従五位下、一方長子は康和3年(1101)暮に典侍に任じられていたから、確実に五位以上であった(『讃岐典侍日記』下巻)。しかし左右の格式から言えば左の方が上で、なのに位階でも職歴でも明らかに長子に劣るはずの仁子が、この時は左である点がやや不審である。
 後に康資王の子孫は「白川伯王家(伯家)」と呼ばれ、同家は女子が代々褰帳女王を担ったことでも知られている。そのため諸注でも仁子を「褰帳女王」と見なしているが、当時はまだ神祇伯を世襲する「伯家」自体が成立しておらず、当然こうした慣例も定着していなかった(藤森馨「即位儀礼と白川伯王家」)。また当時の一次史料である『中右記』に「源朝臣仁子」と明記されており、即位式記事でも「褰帳典侍二人」としていることから見ても、この時の仁子は褰帳「女王」ではなく源氏(=臣下)の「典侍」としての任務であったことが伺える。従って、源仁子が堀河天皇乳母を姉に持つ長子より格上とされたのは、王氏の女王であることが理由でないのは明らかだが、ならば何故仁子はこの時、左の褰帳という大役に抜擢されたのか。
 ここで考えられるのが、源仁子は新帝鳥羽の唯一の姉皇女(悰子内親王)の母であることから鳥羽朝の典侍とされ、さらに褰帳に任ぜられたのではないか、という可能性である。
 よく知られるように、長子は日記の描写から堀河天皇と男女関係にあったことはほぼ間違いないとされている。とすれば、もう一方の褰帳典侍が同様に堀河の寵を受けた女性であったとしても不思議ではない。また仁子が始め令子内親王に仕える女房だったとすれば、鳥羽即位と同時に准母立后した「皇后宮」令子内親王を天皇付きの女官として補佐する役割を期待された可能性も考えられる。
 ちなみに堀河の子を産んだ女官は他にも典侍藤原宗子(宰相典侍。皇子寛暁母)や藤原時経女(最雲法親王母)がいたが、藤原宗子は堀河崩御の頃には史料に名前が見られず、既に出仕していなかったらしい。また時経女は長子の従姉妹(長子の父顕綱が時経の兄)にあたるが、官名や侍名も不明(守屋省吾氏は「堀河帝の後宮」で「伊勢掌侍」かとする)であるところから見て、官位は低く出仕期間も短期だったようである(なお増田繁夫氏は「岐典侍日記の御乳母・典侍・掌侍たち」で、「御子の母が女房として後宮にあっては秩序を乱すことにもならうから、その官を退いたり、里にさがるといったことになるのではなからうか」と推測している)
 しかし宰相典侍宗子はともかくとして、堀河の生前は長子よりはるかに格下の六位に過ぎなかった源仁子が皇女を産んだばかりか、同僚とはいえ新参の(しかも位階では掌侍にも劣る)典侍でありながら長子よりも格式高い左の褰帳を務めたのである。これは長子にとっては、はなはだ面白くない(はっきり言うなら屈辱的な)事態だったのではないか。
 さらに日記によれば、本来は鳥羽天皇の従姉にして乳母である藤原実子(大納言乳母)が褰帳を務めるはずだったのが、父の大納言公実の急死で服喪となったために急遽長子に白羽の矢が立てられたという(この点は史実の記録と日時が合わないため、作者の改編とする説もあるが、そもそも公家日記のような記録を目的とした「日記」ではないので、単に筆者の記憶違いかもしれない)。しかもそれは堀河院崩御からまだ半年も経たない時のことで、素服を賜りひたすら故院追慕の涙に浸っていた長子には、白河院からの「堀河院の御素服賜りたらば、とく脱ぐべきなり」という宣旨だけでも不本意極まりなく、その上褰帳としても格下に置かれたとすれば「あぢきなくはづかし」と感じたのも当然であろう。

『中右記』(嘉承2年(1107)7月25日条)で堀河院の素服を賜ったとされる女官たち(13名)は皆侍名による記載だが、乳母3名「帥三位(藤原家子)、伊與三位(藤原兼子、讃岐典侍の姉)、紀伊三位(源師子)」・典侍1名「讃岐(藤原長子)」・掌侍2名「因幡(藤原惟子)、肥後(高階基子)」は本名が判明している(『平安時代史事典』ほか)。一方、先述の典侍「伯耆(伯?)」と女房6名「出雲、新少納言、大和、陸奥、衞門、備後」は素性不明だが、『讃岐典侍日記』によれば「出雲」を始めとする「女房六名」が中宮篤子内親王の元で一周忌まで仕えていたという。人数も一致することからこの6名は素服を賜った女房たちと見られ、鳥羽天皇に出仕した源仁子とは別人であろう。よって残るのは問題の典侍「伯耆」のみだが、この「伯耆」が「伯」の誤りだとしても、既に触れたようにこの「伯典侍」に該当しうるのは、堀河朝に典侍となった姉の「故神祇伯女」である。よって源仁子は堀河天皇崩御の際、素服を賜った女官の中には含まれていなかったと見てよいだろう(※なお堀河天皇乳母の内、弁三位藤原光子(待賢門院璋子の母)も入っていないが、光子は東宮宗仁親王(鳥羽天皇)の乳母または後見であり、『讃岐典侍日記』によれば当時は東宮につききりの上に自身の病もあって、堀河天皇の臨終には立ち会っていなかった。また崩御後の宮中は新帝即位と人手不足で煩瑣を極めたらしく、白河院の肝いりで長子に再出仕を促したのも光子であるから、堀河天皇乳母としてより鳥羽天皇後見としての立場を重視されたものか)
 これも『中右記』において嘉承2年(1107)11月の除目で掌侍高階業子が「先朝掌侍」、また12月の即位式では典侍藤原長子が「元典侍」とされる一方、源仁子については何も触れられていない。仁子がいつどのような理由で六位となったかは不明だが、『今鏡』の「やがてかの大宮の女房の生みたてまつれりける」という記述からも、やはり本来仁子は堀河天皇に仕える女官ではなく、あくまで前斎院令子内親王の私的な女房であったために、素服を賜ることもなかったのであろう。そして鳥羽天皇即位により、初めて正式に女官として出仕したものと思われる。

 藤原長子にとって雲の上の高貴な存在である(即ち対等な同性としての嫉妬などありえない)中宮篤子内親王とは異なり、源仁子は長子と同じ女房階級の人物であった。そして仁子が悰子母であるなら、堀河天皇の寵愛を受けたと自負する長子からすれば、帝寵を争うライバルでもあったのかもしれない。
『讃岐典侍日記』で「もろともに八年の春秋(堀河天皇に)仕うまつりしほど」と語られていることから、長子が初めて出仕したのは康和2年(1100)とされ、その翌年暮に典侍に任じられているので、この時従五位下に叙された可能性が高い。さらに掌侍の高階業子が嘉承2年に正五位下であれば、典侍である長子は最低でも正五位上にはなっていたはずである(なお職歴では高階業子の方が長く、寛治8年(1094)には既に掌侍であったから、年齢も長子より上であろう)。しかも天皇寵愛の女官となれば、乳母並みの三位までは及ばずとも四位には至っていたかもしれない。御子にこそ恵まれなかったものの、長子の心中には主君堀河天皇を失った悲しみの中にも、高位の典侍としてのみならず、故院の寵愛を受けた存在として素服を賜ったことへの密かな誇りと優越感もあったであろう。
 それが白河院の院宣で強引に服喪を差し止められたばかりか、褰帳では堀河朝生え抜きの女官ですらない、たかが従五位下の仁子との立場までも逆転することとなった。これは長子にとってはただでさえ意に染まぬ出仕に加えて、新帝即位式という最大の晴れの場において、まったく思いがけない敗北を喫したようなものだったのではないだろうか。日記の上巻で縷々書き綴ったように、自分こそがあれほど誰よりもお傍近くで日夜看護し、帝も自分を愛し頼りにしてくださり、あまつさえその最期を看取りまでしたにもかかわらずと、仁子への敵愾心もさることながら、無理やり自分をこのような場に引き出した白河院に対する恨みさえ覚えたかもしれない。
 とはいえ、長子が褰帳という名誉な任にあったことは、当然ながら即位式に参列した公卿以下の宮廷社会では周知の事実であった。長子の亡き堀河天皇への愛情が真実のものであったにせよ、それだけに天皇から愛されまた白河院からもじきじきに出仕を望まれた高位の女官としての自負心と顕示欲もあったからこそ、それを日記にも認めて、ごく限られた数人には読んでほしいと考えたのであろう。となれば当然、即位式についてまったく触れずに済ませることなどありえない(本人はあくまで不本意な出仕であると再三強調しているが、典侍とはいえ乳母でもない女官としては素服も褰帳も非常な名誉であったことは、兄から「あはれ、男の身にて、かく言はれまゐらせばや」と羨まれていた描写からも伺える)。その結果、密かな不本意を抱えて記した即位式の描写が素っ気ないほど簡略なものとなり、形ばかりの役目の空しさを言い訳に仁子の存在も黙殺されたと想像するのは穿ちすぎであろうか。

 無論、この憶測はあくまで褰帳の「典侍源仁子」が悰子内親王母と同一人物であることが前提であり、現存史料からはそれは断定できない。また堀河天皇以前の即位式において、後一条天皇から白河天皇までの五代で左の褰帳を務めたのはいずれも本来の規定通りの女王であったから、源仁子の場合も厳密な意味での「女王」でこそないものの、それに準じる源氏出身であることから(恐らくは他に適格者の女王がいなかったこともあって)選ばれた可能性も考えられるだろう。
 ただし『中右記』他の史料から見て、典侍源仁子が康資王女であることはほぼ疑いなく、仁子が悰子母本人でなかったとしても、その姉妹である可能性は極めて高い。また鳥羽天皇即位に伴って仁子が典侍に任官、従五位下に昇叙されたのも確かである。よって源仁子は、讃岐典侍藤原長子にとっては同じ女官とはいえ、本来明らかに「格下」の存在だったことは間違いない。
 先述のように仁子の姉は長子よりも先に典侍となり、長子と同時期に堀河天皇に仕えていたはずだが、同僚として特に問題のない相手であれば、その妹に対して(恐らく殆ど初対面にもかかわらず)ここまで素っ気ないというのも不自然である。堀河崩御の頃に「故神祇伯女(姉)」が存命だったかは不明だが、そもそも長子は「故神祇伯女(姉)」ともそれほど親しい関係ではなかったのかもしれない(あるいは「故神祇伯女(姉)」は長子と入れ違いに辞職しており、同僚として勤務したこと自体なかった可能性もある)。いずれにせよ、即位式で左の褰帳という輝かしい晴れ舞台に立った仁子の姿は、(たとえ仁子が悰子母本人でなかったとしても)長子としては敢えて詳細に書き留めておきたい記憶ではなかったのだろう。

 その後の仁子の消息については、『朝野群載』(巻6)で保安2年(1121)2月30日付の『石清水臨時祭定文』に「典侍仁子」の名がある。姓の記載はないが、鳥羽朝の典侍で他に「仁子」という諱の女官は知られていないので、恐らくこれが源仁子であり、長く女官として鳥羽天皇に仕えていたらしいことが伺えるが、他に「故神祇伯女」の名は史料には見られない。
 そしてさらに5年後、『中右記目録』(大治元年(1126)7月26日条)は斎院悰子内親王が「母喪」により退下したとする(『山槐記』(治承2年1月7日条)にも「依母喪退出」とあり)。『中右記』本文には悰子母の氏名も当然記載されていたと思われ、欠落が惜しまれるが、『群載』の記述や『十三代要略』から見ても、やはりこの「悰子母」は典侍仁子であった可能性が高い。生涯女官として職を退くことなく死去したのかはわからないが、ともあれその年齢は40代半ばから50前後には達していただろう。

 ところで仁子の甥にあたる顕広王が神祇伯に任官されたのは、応保2年(1162)の悰子内親王薨去から3年後の永万元年(1165)のことであった。そして同年7月、六条天皇の即位式において顕広王の娘信子女王(10歳)が褰帳に任ぜられ、これが「白川伯王家」としての褰帳「女王」の始まりとなった(※『天祚禮祀職掌録』によれば、後白河天皇即位時(久寿2年(1155))の左の褰帳となった顕子女王も顕広王の娘とされるが、当時顕広王は正親正であった)
 なお藤森馨氏は顕広王の代から白川伯王家が「王氏長者」として躍進した理由について、康資王の娘所生の堀河皇女が鳥羽院の兄妹で顕広王の従兄妹であることを指摘、さらに白河院の祖母陽明門院が伯家と同じ冷泉院系であること等から、顕広王以前に同家の発展の基礎が築かれていたと推測している(「白川伯王家の成立」。同論文では、堀河皇女の名を「綜子内親王」とする)


参考論文:
・稲賀敬二「讃岐典侍日記の死と生――典侍腹の御子たち――」
 (『國文學解釈と教材の研究』10(14), 1965)
 ※『稲賀敬二コレクション6:日記文学と『枕草子』の探究』(笠間書院, 2008)収録
・守屋省吾「堀河帝の後宮――讃岐典侍日記形成の背景――」
 (『平安文学研究』(47), p115-127, 1971)[国立国会図書館デジタルコレクション]
 ※『平安朝日記2』(有精堂出版, 1975)収録
・藤森馨(※旧姓・小松)「白川伯王家の成立」(『神道宗教』(116), p22-45, 1984)
 ※『平安時代の宮廷祭祀と神祇官人』(大明堂, 2000)収録(改訂増補・原書房, 2008)
・藤森馨「即位儀礼と白川伯王家」(『神道体系月報』(87), p5-8, 1989)
 ※『神道体系/論説編・伯家神道』(神道大系編纂会, 1989)付録
・増田繁夫「讃岐典侍日記の御乳母・典侍・掌侍たち――付・歌人肥後のこと――」
 (『論集日記文学 日記文学の方法と展開(木村正中編)』p509-525, 1991)
・赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考―伯家成立前史―」
 (『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』(15), p268-253, 2015)
 [機関リポジトリ全文あり]
・太田たまき「『讃岐典侍日記』―内侍司女官から見た天皇の崩御と即位―」
 (『中央大学国文』(62), p1-16, 2019)
 [機関リポジトリ全文あり]
・太田たまき「『讃岐典侍日記』鳥羽天皇即位儀「右の典侍」から見た「帳あげ」全景」
 (『群馬高専レビュー』(38), p1-12, 2020)
 [機関リポジトリ全文あり]
参考資料:
・芝野眞理子「悰子内親王」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
・大森展美「大夫典侍(1)」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
・大森展美「源仁子」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
参考図書:
・曽根研三編『伯家記録考』(西宮神社社務所, 1933)
 [国立国会図書館デジタルコレクション]
・神道大系編纂会編『神道大系・論説編11:伯家神道』(精興社, 1989)
・竹鼻績『今鏡(下)全訳注(講談社学術文庫)』(講談社, 1984)
・玉井幸助『讃岐典侍日記全註解』(有精堂出版, 1969)
・森本元子『讃岐典侍日記全訳注(講談社学術文庫)』(講談社, 1977)
・小谷野純一『讃岐典侍日記全評釈』(風間書房, 1988)
・石井文夫ほか『和泉式部日記. 紫式部日記. 更級日記. 讃岐典侍日記(新編日本古典文学全集)』(小学館, 1994)
・小谷野純一『讃岐典侍日記への視界(新典社選書)』(新典社, 2011)
・岩佐美代子『讃岐典侍日記全注釈』(笠間書院, 2012)




崇徳天皇
史料 月日 記述
十三代要略
帝王編年記
殿記
保安4年
(1123)
8月28日 【悰子内親王、斎院に卜定】
『十三代要略』
 鳥羽院 諱宗仁(中略)
 保安四年
  八月廿八日 卜定賀茂斎王。<琮子堀川院女>

『帝王編年記』
 崇徳院
  斎院悰子内親王<堀河院皇女保安四年八月廿日卜定 大治元年七月廿六日依母喪退出>
中右記目録 保安5年
[天治元年]
(1124)
3月27日 【斎院(悰子)御禊の前駈を定める】
 御禊前駈定、
永昌記 天治元年
(1124)
4月7日 【斎院(悰子)のこと】
 參院、申齋院事等付爲重、(後略)
永昌記
中右記目録
天治元年
(1124)
4月14日 【賀茂祭】
『永昌記』
 今日白雨間降、參院、<源中納言同車、>賀茂祭御見物御幸也、本院(白河院)新院(鳥羽院)有別車儀、美作守顯輔調新院御車、<立板堀透金銅唐草、下簾縫物、自餘彫鏤之美不能勞記、>臨期御同車、新院御烏帽、二藍二重織物御奴袴、御隨身右將曹季俊、左番長厚忠冠胡●、壺脛巾、下臈等如恒、<左將曹右番長權輩、>本院御車後御隨身公種祇候、<年來前關白家御隨身、今朝初被召、布衣、>御車副八人、<二藍上下、紅打衣縫物、牛綱糸村濃、有金物、牛童裝束又調縫物、左衛門尉(直衣)後騎有官無官武者所衛府濟々焉、攝政(藤原忠通)御車、右大臣(藤原家忠)渡御々棧敷之後退出、>内大臣(源有仁)、按察(藤原経実)、藤大納言(宗忠)、治部卿(源能俊)、民部卿(藤原忠教)、源納言(顕雅)、侍從(藤原実隆)、別當(藤原実行)<着冠御見物強事歟、>藤中納言、<顯隆、近年云行幸云御幸不騎馬、今日別仰云々、>新源納言、左兵衛督(徳大寺実能)、宰相中將(藤原宗輔)<束帶、>皇后宮權大夫(源師時)、左大辨、<爲隆、>右兵衛督(藤原伊通)<已上直衣、>殿上人頭中將以下六位以上兩方昇殿輩<已上衣冠、或打衣、雜色裝束皆盡花美、>前駈、三條御所出御西門、令過宮御所門給之間有御見物、更立次第人馬拏攫塵合煙連、自洞院東大路至二條、自西洞院至一条、寄御車於假床、<殿下御領先年所被儲久不渡御、今有其仰、錦縁座、供唐錦茵、兩院御座如此、但二行鋪之、障子入鏡色紙形翠簾、押金文、引唐綾色々幔、其西立五間錦幄爲公卿座、立床敷高麗帖二行十枚、御所東西引二色幔、大路南柳樹纐纈幔、御車渡御之間公卿下居、兩大臣殿下參御之間公卿不動座、無禮節歟、>御棧敷前半物車一兩、雜色六人被渡之、<其裝束鏤綺羅金銀、雜仕乍[不?]着笠、渡懸伏籠入鏡、>先山城騎兵渡、<五人、>次看督長渡、次檢非違使爲先下臈、府生行友、經則、志有定、成國、明兼、<不入尻鞘、>尉頼兼、正弘、資遠、<二藍下襲雜色淺黄上下、>盛兼、「齋王不令渡給之時廷尉不參云々、」(右傍書)大夫尉光信、盛道、<巻纓、紺地平緒、渡懸地劔、>次山城介車、<先例可尋、>次皇后宮(令子内親王)使車、<已上八葉、>次馬寮使車、<網代、着金銅文錦文并蝶、>次近衞使車、<其風流甕頭竹葉階底簫薇詩也、>次山城介廣定、<馬副下尻、觀物解頤、>次所小使、<藏司近衞府馬寮等狼藉也、>次馬寮使權頭(平)忠盛、<馬副紺褐、手振?塵、雜色取物、二藍襖、已上付金銀蝶丸、>馬副取口引馬、<内府隨身府生國重、番長重近取之、新院御馬、笠同付蝶丸、銀、以錦付菱形、>近衞中將成通、<院御馬、新院御隨身兼近、厚忠取口、腹帶着鈴、腹■是也、引馬口、番長季忠近衞公昌取之、馬副八人、縁◆雜色八人、此外加長二人着狩衣帶、院御所被留之、唐笠綺付竹葉、取物、已上濃蘇芳縫物、>次皇后宮使權亮實兼、馬副取口、不具引馬、<雜色取物二藍縫物、▲物唐笠、菅引物古錦頗以別樣、>次内藏寮助ヽヽ、<取物雜色蘇芳、>次女使、次内侍以下車、<典侍、師頼卿女、自中宮(藤原璋子)借給女房舊衣云々、如何、>申斜還御、

『中右記目録』
 賀茂祭、<無還立、>

●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
◆=縿(糸+參。こちらを参照(字源))
▲=窠(穴冠+果。こちらを参照(字源))
中右記目録 天治元年
(1124)
8月12日 【権大納言藤原宗忠、斎院(悰子)上卿に】
 初斎院上卿奉行、大神寶作始日時勘申、
中右記目録 天治元年
(1124)
8月13日 【斎院(悰子)(御禊?)について沙汰】
 斎院(悰子)事沙汰始、
中右記目録 天治元年
(1124)
8月15日 【斎院(悰子)御禊について沙汰】
 斎院(悰子)御禊沙汰、
中右記目録 天治元年
(1124)
8月19日 【斎院(悰子)女房の装束について沙汰】
 斎院(悰子)女房裝束沙汰、
中右記目録 天治元年
(1124)
8月26日 【斎院(悰子)女房の裝束について】
 斎院(悰子)女房装束功事、
中右記目録 天治元年
(1124)
8月29日 【斎院(悰子)御禊を定める】
 斎院(悰子)御禊定、
中右記目録 天治元年
(1124)
9月24日 【斎院(悰子)御禊定】
 斎院(悰子)御禊定、同出車定、
中右記目録 天治元年
(1124)
9月29日 【斎院(悰子)奉幣】
 斎院(悰子)奉幣有、
中右記目録 天治元年
(1124)
9月30日 【斎院諸司のこと】
 斎院諸司、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月2日 【斎院(悰子)女房の装束について沙汰】
 斎院(悰子)女房裝束料、六位國沙汰、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月4日 【斎院(悰子)御禊について沙汰】
 斎院(悰子)御禊沙汰、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月12日 【斎院(悰子)御禊の日について沙汰】
 斎院(悰子)御禊日沙汰、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月17日 【斎院(悰子)御禊の日時を占う】
 斎院(悰子)御禊日時勘申、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月18日 【斎院(悰子)御禊点地】
 斎院(悰子)御禊点地、
中右記目録 天治元年
(1124)
10月25日 【斎院(悰子)御禊(初斎院入り)】
 斎院(悰子)御禊、
中右記目録 天治元年
(1124)
11月6日 【斎院相嘗祭】
 相嘗、<斎院(悰子)、>
中右記目録 天治2年
(1125)
1月11日 【斎院行事始】
 斎院(悰子)年首行事所始、
中右記目録 天治2年
(1125)
2月9日 【斎院(悰子)御禊の日について沙汰】
 御禊日次沙汰、
中右記目録 天治2年
(1125)
3月23日 【斎院(悰子)御禊の前駈について沙汰】
 御禊前駈内々沙汰、
中右記目録 天治2年
(1125)
4月5日 【斎院触穢のこと】
 斎院史為頼犬死穢行事不替、
中右記目録
公卿補任
天治2年
(1125)
4月7日 【斎院(悰子)御禊前駆定、斎院司除目。藤原親隆を斎院長官に任命】
『中右記目録』
 斎院(悰子)前駈定、斎院司除目、女官除目、

『公卿補任』
(保元3年)
非參議 從三位 藤親隆<六十>(中略)
<(前略)天治二三月廿八日任上總介(申請修理齋院并調進女房装束等功)。同四月七日任齋院長官。(後略)>
中右記目録 天治2年
(1125)
4月13日 【斎院(悰子)御禊点地ほか】
 御禊點地、次第日時■(定?)、紫野院御装、
中右記目録 天治2年
(1125)
4月14日 【斎院奉幣】
 斎院(悰子)奉幣、
中右記目録 天治2年
(1125)
4月19日 【斎院(悰子)、紫野本院に入る】
 斎院(悰子)初入本、
中右記目録 天治2年
(1125)
4月20日 【賀茂祭】
 賀茂祭、雨下、
中右記目録 大治元年
(1126)
4月17日 【斎院(悰子)出車定】
 斎院(悰子)出車定、<斎院御衰日不忌、>
中右記目録
年中行事秘抄
大治元年
(1126)
4月22日 【斎院(悰子)御禊】
『中右記目録』
 御禊、<三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)御見物>

『年中行事秘抄』
 四月朔當酉時禊祭用下午酉例
  大治元四廿二禊 廿五祭
中右記目録 大治元年
(1126)
4月25日 【賀茂祭】
 賀茂祭、<使左少將(藤原)季成、三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)御見物、>
中右記目録
山槐記
帝王編年記
歴代皇紀
大治元年
(1126)
7月26日 【斎院(悰子)、母の喪により退下】
『中右記目録』
 斎院(悰子)遭母喪、俄退下

『山槐記』
(治承2年1月7日条)
 大治元年七月見■方、
 同月廿六月賀茂齋内親王諒[悰]子依母喪退出、

『帝王編年記』
 崇徳院
  斎院悰子内親王<堀河院皇女保安四年八月廿日卜定 大治元年七月廿六日依母喪退出>

『歴代皇紀』
 崇徳天皇(斎院)
  悰子内親王 堀川院皇女保安四年卜定大治元年退出
中右記 大治4年
(1129)
2月22日 【前斎院(悰子)、千日講結願】
(前略)今日二條前斎院性子[悰子]千日講結願、以少僧都忠尋爲講師、題名僧六人、
長秋記 長承2年
(1133)
5月27日 【前々斎院(悰子?)合爵】
(前略)資信下宣旨、前々齋院合爵請文也、可給位記云々、
長秋記 長承3年
(1134)
5月2日 【前々斎院(悰子?)所領のこと】
 以資憲被仰別當云、昨日自北院宮有被訴事、爲仲能、房僧被陵礫事也、仍今致其沙汰之間、彼宮遣■■人等被損亡仲能之間、資財舎藏堂塔後園樹等一切不殘、其中所寄申前々齋院所領公驗等、皆被引失云々、件文書、齋院所尋給之由、所被示也、(後略)
近衛天皇
史料 月日 記述
山槐記 仁平2年
(1152)
11月1日 【前斎院(悰子)、日吉社に参詣】
『山槐記』
 前斎院(悰子)令参詣日吉給云々、
本朝世紀
山槐記
仁平2年
(1153)
11月5日 【前斎院(悰子)故大宮御所、火災】
『本朝世紀』
 有焼亡。火起自冷泉北堀川東小屋、故大宮御所遭其殃<二条北堀川東也>。件所前斎宮<妍子>、前斎院<悰子>、同居給也。

『山塊記』
 大宇焼亡。<二條堀河>
一代要記 応保2年
(1162)
11月3日 【前斎院(悰子)薨去】
 堀河天皇
 皇女 悰子内親王 斎院、応保二年十一月三日薨年六十四



史料 記述
十三代要略
堀川院
(皇女)
 悰子内親王<母神祇伯康次三[王?]女。> 典侍仁子

鳥羽院
 保安四年 八月廿八日。卜定賀茂齋王。<●子堀川院女。> 

●=琮(王+宗。こちらを参照(字源))
一代要記
堀河天皇
(皇女)
 悰子<賀茂齊、/應保二ー十一月三日薨、<六十四>>

崇徳天皇
(賀茂)
 悰子内ヽヽ[親王]<堀河第二女、号清和院齋院、康保二ー十一月三日薨、<六十四、>>
帝王編年記
堀川院
(皇女)
 悰子内親王<賀茂齋院/号大宮齋院>

崇徳院
(齋院)
 悰子内親王<堀河院二皇女保安四年八月廿日卜定/大治元年七月廿六日依母喪退出>
二中歴
(齋院)
 悰子<堀川女大宮齋院 保安四年>
皇代暦
崇徳天皇
(齋院)
 悰子内親王 堀川院皇女保安四年卜定大治元年退出
本朝皇胤紹運録
(堀河院子)
(291)悰子内親王[齋院。號大宮齋院。保安四八卜定。母神祇伯康資王女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
悰子内親王 保位四年卜定。堀河院第三御女。母康資王女。大宮齋院。
賀茂斎院記
悰子内親王
堀河院第三皇女也。母神祇伯康資王之女也。
保安四年卜定。
号大宮斎院。
今鏡
(8・腹々の御子)
 堀河の帝の宮達は、山に法印など聞え給ひし、(中略)
女宮は大宮の斎院(悰子)と聞え給ふおはしき。やがてかの大宮(令子内親王)の女房の生みたてまつれりけるとなむ。また前の斎宮(喜子)も、堀河の院の御娘と聞え給ふ。まだこの頃もおはするなるべし。
新古今和歌集
  • (哀傷)禛子内親王(25代斎院)かくれ給ひて後、悰子内親王かはりゐ侍りぬと聞きてまかりてみれば、何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて女房に申し侍りける
          中院右大臣(源雅定)

(827)ありす川おなじ流はかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ


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