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16代斎院 選子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
せんし のぶこ 一品
両親 生年月日 没年月日
父:村上天皇(926-967)
母:中宮藤原安子<贈皇太后>
  (927-964,師輔女)
応和4年(964)4月24日 長元8年(1035)6月22日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
円融(969~984,同母兄)
花山(984~986,甥)
一条(986~1011,甥)
三条(1011~1016,甥)
後一条(1016~1036,甥孫)
卜定:天延3年(975)6月25日
   (陸奥守平貞盛
    二條万里小路宅)
初斎院:貞元元年(976)9月22日
   (大膳職)
本院:貞元2年(977)4月16日
退下:長元4年(1031)9月22日
老病
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
規子(949-986,異母姉)
 父:村上天皇
 母:女御徽子女王
卜定:天延3年(975)2月27日
初斎院:貞元元年(976)2月26日
   (侍従厨家)
野宮:貞元元年(976)9月21日
群行:貞元2年(977)9月16日
   (長奉送使:藤原顕光)
退下:永観2年(984)8月27日
天皇譲位
済子女王(従姉妹)
 父:章明親王
 母:藤原敦敏女?
卜定:永観2年(984)11月4日
   (中河家)
初斎院:寛和元年(985)9月2日
   (左近衛府)
野宮:寛和元年(985)9月26日
群行:なし
退下:寛和2年(986)6月22日
密通
恭子女王(984-?,姪)
 父:為平親王
 母:源高明女
卜定:寛和2年(986)8月8日
初斎院:不明(宮内省)
野宮:永延元年(987)9月13日
群行:永延2年(988)9月20日
   (長奉送使:藤原道兼)
退下:寛弘7年(1010)11月7日
父薨去
当子(1001-1023,甥孫)
 父:三条天皇
 母:皇后藤原娍子
卜定:長和元年(1012)12月4日
   (大和守藤原輔尹
    六角町尻宅)
初斎院:長和2年(1013)8月3日
   (宮内省)
野宮:長和2年(1013)9月27日
群行:長和3年(1014)9月20日
   (長奉送使:藤原通任)
退下:長和5年(1016)1月29日
天皇譲位
嫥子(1005-1081,姪)
 父:具平親王
 母:為平親王女
卜定:長和5年(1016)2月19日
   (染殿)
初斎院:長和5年(1016)9月15日
   (宮内省)
野宮:寛仁元年(1017)9月21日
群行:寛仁2年(1018)9月8日
   (長奉送使:藤原能信)
退下:長元9年(1036)4月17日
天皇崩御

略歴:
 応和4年(964)(1歳)4月24日、誕生。


4月29日、母中宮安子崩御。


8月21日、内親王宣下。
 康保3年(966)(3歳)8月25日、著袴。
 康保4年(967)(4歳)5月25日、父村上天皇崩御、兄冷泉天皇践祚。


10月11日、冷泉天皇即位。
 安和2年(969)(6歳)8月13日、兄冷泉天皇譲位、兄円融天皇践祚。


9月23日、円融天皇即位。
 天延2年(974)(11歳)11月11日、清涼殿にて初笄。


11月13日、三品に直叙。
 天延3年(975)(12歳)6月25日、斎院に卜定。
 貞元元年(976)(13歳)9月22日、初斎院(大膳職)に入る。
 貞元2年(977)(14歳)4月16日、紫野院に入る。
 永観2年(984)(21歳)8月27日、兄円融天皇譲位、甥花山天皇践祚。


10月10日、花山天皇即位。
 寛和2年(986)(23歳)6月23日、花山天皇譲位、甥一条天皇践祚。


7月22日、一条天皇即位。
 寛弘8年(1011)(48歳)6月13日、一条天皇譲位、甥三条天皇践祚。


10月16日、三条天皇即位。
 長和5年(1016)(53歳)1月29日、三条天皇譲位、後一条天皇践祚。


2月7日、後一条天皇即位。
 万寿元年(1024)(61歳)1月13日、一品。
 長元4年(1031)(68歳)9月22日、老病により退下。


9月28日、出家。
 長元8年(1035)(72歳)6月22日、薨去。

号:大斎院
同母兄弟:承子内親王(948-951)
     冷泉天皇(950-1011)
     為平親王(952-1010,一品式部卿)
     輔子内親王(953-992,斎宮,二品)
     資子内親王(955-1015,一品)
     円融天皇(959-991)

斎院別当:藤原懐忠(天元5年(982)4月5日~寛弘6年(1009)3月(懐忠致仕)以前)
     藤原行成(治安元年(1021)10月28日~万寿4年(1027)12月(行成薨去)以前)
斎院長官:紀忠道(正暦2年(991)9月7日以前~長徳2年(996)?)
     源為理(長徳2年(996)1月25日長和5年(1016)7月1日(為理卒去))
     源光清(寛仁2年(1018)3月以前~治安元年(1021)4月16日以降)
     平以康(長元4年(1031)4月20日以前~同年9月22日(退下))

村上天皇第十皇女。
 母藤原安子は、父村上天皇の従兄弟・右大臣師輔の娘。
 (※村上生母穏子と、師輔の父忠平が兄弟)
 斎院長官源為理は光孝源氏で、選子の曽祖父宇多天皇の兄是忠親王の曽孫である。娘に斎院中将・斎院中務の姉妹がおり、親子で選子に仕えていた。

          ┌─────┐
          |     |
醍醐天皇=====藤原穏子  藤原忠平
 |    |         |
 |    |         |
 章明   |         師輔
 |    |         |
 |    |         ├────────────┐
 |    |         |            |
 済子  村上天皇=======安子           兼家
 (斎宮)   |     |                |
 ┌────┤   ┌─┴┬────┬────┐     ├───┬───┐
 |    |   |  |    |    |     |   |   |
 |   規子   為平 ◆選子 冷泉天皇 円融天皇===詮子  道長  超子
 |   (斎宮)   |       |        |     |   (三条母)
 |     ┌──┤    ┌──┴─┐      |     |
 |     |  |    |    |      |     |
 具平===為平女 恭子  花山天皇 三条天皇   一条天皇===彰子
    |     (斎宮)        |          | [上東門院]
    |               |          |
    嫥子              当子       後一条天皇
    (斎宮)              (斎宮)

 村上天皇と中宮藤原安子の第七子として生まれるが、母安子は選子誕生後5日で産褥死、次いで父村上天皇が5年後の967年に崩御。外祖父師輔も既に960年他界しており、両親の没後は伯父藤原兼通の室・昭子女王(有明親王女、醍醐皇孫で選子の従姉妹)に養育された。11歳で宮中・清涼殿にて初笄の際も、裳の腰結役は昭子女王が務めている(なおこれにより、昭子女王は正二位に叙爵された)

 12歳で卜定、歴代初のいわゆる后腹内親王の斎院となる(※この後19代禖子内親王まで、4代連続で后腹内親王が斎院となり、歴代8人中の半数がこの時期に集中している)。以後68歳まで在任期間5代57年にわたり、歴代最長の斎院であることから「大斎院(おおさいいん、だいさいいん)」と呼ばれ世間の尊崇を集めた。選子のサロンは当時文芸豊かな社交場としても知られ、村上天皇女御徽子女王(斎宮女御)、一条天皇皇后定子、同中宮彰子(上東門院)らと交流のあったことが『斎宮女御集』『枕草子』『紫式部日記』等の記録に残る。
 なお、選子サロンの活動を伝えるものとして歌集『大斎院前の御集』『大斎院御集』があり、また『発心和歌集』も選子によるとされる(近年異説あり)。その他、勅撰集に入集した選子関連の和歌には『前の御集』『御集』に含まれない作も多く、このことから他にも選子サロンの歌集が存在した可能性が高いとされる(安西奈保子「大斎院選子サロン考」「大斎院和歌考」、久保木秀夫「大斎院御集原態試論」、石井文夫・杉谷寿郎『大斎院御集全注釈』)

 ところで選子の卜定(天延3年(975)6月25日)から初斎院入り(貞元元年(976)9月22日)までは1年3ヶ月かかっており、これは初斎院入りの年月日が判明している歴代斎院の中で最も遅い異例の初斎院入りであるが、この2年間は事件と混乱の相次いだ時期であった。
 選子卜定からわずか5日後の7月1日、日本史上初と言われる皆既日食が起こり、大々的な恩赦が行われた。また翌天延4年(976)5月11日には内裏が焼亡、選子の兄円融天皇始め中宮、東宮も避難した。さらに追い討ちをかけるように、6月から7月にかけて大規模な地震が頻発して八省院・豊楽院等が倒壊、とうとう7月13日に改元が行われた。このような中で選子より一足先に卜定された斎宮規子は、天延4年(976)2月26日に侍従厨へ初斎院入りしており、内裏焼亡と大地震の後も9月の野宮入りまで引き続き留まっていたようだが、円融天皇は内裏造営にあたり7月26日に堀川第へ行幸している。こうした世相の混乱が、結果として選子の初斎院入りの遅れにも繋がったのであろう。

詠歌:光出づるあふひのかげを見てしかば年へにけるもうれしかりけり(後拾遺集)
   春知らでおぼつかなきにうぐひすの今日めづらしき声をきかばや(新後拾遺集/巻7雑春)
   ごふつくす御手洗川の亀なれば法の浮木にあはぬなりけり(拾遺集/巻20哀傷)
   思へども忌むとて言はぬことなればそなたに向きてねをのみぞ泣く(詞花集)

参考論文:
・安西奈保子「大斎院選子サロン考――徽子・定子・彰子サロンとの比較を中心に――」
 (『平安文学研究』(69), p148-163, 1983)
 ※[国立国会図書館デジタルコレクション]
・安西奈保子「大斎院和歌考―出典未詳歌から他の「大斎院御集」の存在を考える―」
 (『平安文学研究』(72), p40-60, 1984)
 ※[国立国会図書館デジタルコレクション]
・所京子「大斎院選子の仏教信仰」
 (『斎王和歌文学の史的研究』国書刊行会, 1989)
・河北騰「左経記と栄花物語」
 (『立正大学文学部論叢』(98), p25-48, 1993)
 ※[機関リポジトリ全文あり]
・久保木秀夫「大斎院御集原態試論―栄花物語「殿上の花見」年次考証から―」
 (『和歌文学研究』(79), p12-22, 1999)
 ※[国立国会図書館デジタルコレクション]
・中周子「大斎院選子内親王」
 (後藤祥子編『平安文学と隣接諸学(6)王朝文学と斎宮・斎院』竹林舎, 2009)
・所京子「篤信の「大斎院」選子内親王」
 (『斎王研究の史的展開―伊勢斎宮と賀茂斎院の世界』勉誠出版, 2017)
参考図書:
・『斎宮女御集注釈』(平安文学輪読会, 塙書房, 1981)
・『大斎院御集全注釈(和歌文学注釈叢書 ; 2)』(石井文夫・杉谷寿郎, 新典社, 2006)
・『大斎院前の御集全釈(私家集全釈叢書 ; 37)』(天野紀代子・園明美・山崎和子, 風間書房, 2009)
・『発心和歌集/極楽願往生和歌新注(新注和歌文学叢書 ; 22)』(岡﨑真紀子, 青簡舎, 2017)

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録55.村上天皇 巻3』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※選子内親王については111~124コマにあり





【選子の斎院在任が長期に渡った理由について】
 選子内親王は卜定当時既に両親が他界しており、従って退下理由のひとつである「父母の喪」は始めからなかった。また斎院は斎宮と異なり、天皇の代が変わっても交替しないことが多かったという不文律や、斎王交替の際に服喪中の皇女・女王は卜定されないこと(天皇崩御による退下の際は大抵、一年以上置いてから次の斎王が卜定されるが、母の喪で退下した斎王の場合は次の斎王卜定まで間がないことが多く、よって先代の同母姉妹が新斎王となることはない)、何より選子自身の長年の在任による存在の重さもあったろうが、当時内親王の人数自体が減少していたことも考えられる(※以下、年号は簡略化のため西暦のみとする)

・卜定時(975年)
 選子が斎院に選ばれた当時、候補となるのは朱雀天皇(在位930~946)・村上天皇(946~967)の皇女たちである。
 朱雀天皇の一人娘昌子内親王(950生,26歳)は、この時既に冷泉天皇(当時は上皇)に入内していた。また村上天皇の皇女たちで、選子以外に30歳未満かつ未婚で斎王未経験であったのは、保子内親王(949生,27歳)と同母姉の資子内親王(955生,21歳)の二人であったと見られる(盛子内親王(951生,25歳)は既婚の可能性が高い)
 しかし資子内親王はこれより前の972年に一品に叙され、姉妹の中で最も優遇されていた。一品内親王が斎院に卜定された例は後の29代禧子内親王のみで、この場合資子は始めから候補としては除外されていたと見られる(なお後世の斎宮・斎院卜定についても、同母姉妹の内親王は長女が優遇され卜定されない例が多い)。また年長の保子は既に卜定年齢の上限に近く(平安中期から後期を見ても、年齢の確かな人物で30歳を過ぎて斎王に卜定された例はない)、後に藤原兼家に降嫁した(986以降?)。

天皇皇女年齢(975)履歴
朱雀昌子(950-999)26三品(961),冷泉中宮(963入内)
村上 承子(948-951)--
理子(948-960)--
保子(949-987)27藤原兼家室(986?)
規子(949-986)27斎宮(975~84)
盛子(951-998)25藤原顕光室(977以前)
楽子(952-998)24斎宮(955~67)
輔子(953-992)23斎宮(968~69),二品
緝子(?-970)--無品
資子(955-1015)21一品(972)
選子(964-1035)1216代斎院(975~1031),一品(1024)


・円融・花山・一条朝前半(975年~996年)
 村上天皇の皇女たちが候補から外れたのち、新たな斎王候補となったのは選子の同母兄・冷泉天皇(967~969)の皇女たちである。
 冷泉天皇には、選子の前の15代斎院である次女尊子内親王(966生)の他、長女宗子内親王(964生)と三女光子内親王(973生)の二人の娘がいた。特に選子と同年の宗子は前斎院尊子の同母姉であり、975年の卜定では恐らく服喪中(同年4月に生母懐子が死去、このため妹尊子は斎院を退いた)のため選ばれなかったが、のちに選子との交替もありえたかもしれない(当時斎宮は代々女王が多く続いたが、対して斎院は内親王を優先することから、次代の斎院候補に想定されていた可能性は高い)
 しかし975年、選子卜定の翌日に光子が夭折、宗子も986年に23歳で死去し、二人の内親王は相次いで候補から消える。さらに次の円融天皇(969~984)・花山天皇(984~986)にはいずれも皇女がなく(厳密には花山天皇に女子が二人いたが、出家後にもうけた娘で生母の身分も低く内親王宣下を受けていない)、このため986年から996年まで、次代の斎宮・斎院候補となる「内親王」は全く存在しなかった。

天皇皇女年齢(975)履歴
冷泉 宗子(964-986)12二品
尊子(966-985)1015代斎院(968~75),
円融妃(980入内),二品(981)
光子(973-975)3--
円融なし----
花山皇女二人--宣下なし
(一人は上東門院彰子女房)


・一条朝後半・三条朝(996~1011)
 一条天皇(986~1011)の代になり、ようやく中宮定子(のち皇后)に脩子内親王(996生)・媄子内親王(1000生)が相次いで生まれる。40歳に差し掛かった選子にとっても、久々に後継者となるだろう斎王候補の誕生だった。定子が崩御した1000年末から1001年にかけては服喪のため支障があったが、それ以外の時期、特に1002~1007年の間に選子が強く望めばあるいは斎院交替もあったかもしれない。
 しかし長女脩子は1007年に12歳で一品となり、この時点で事実上斎王候補から除外されたと見られる(のち1024年に29歳で出家)。残る次女媄子は有力な斎院候補であったかもしれないが、不幸にも1009年に10歳で夭折してしまった。

 一方この頃、東宮居貞親王(のちの三条天皇、1011~1016)にも二人の娘が相次いで生まれていた。
 このうち長女当子内親王(1001生)は、1012年に三条天皇の即位で斎宮となる(当時12歳)。先代の斎宮恭子女王(在任986-1010年、一条朝のほぼ全期間の24年)の後継として、久々の内親王斎宮であった。
 しかし次女禔子内親王(1003生,当子の同母妹)は、この時唯一の斎院候補内親王であったにもかかわらず、何故か父の譲位・姉の退下後も斎王となることはなかった。『栄花物語』では、三条天皇が在位中に禔子を道長の息子頼通に娶せようとしていたといい、禔子が卜定されなかったのはこのためとも考えられる(しかしこの縁談は結局成立せず、その後禔子は1026年に24歳で頼通の弟教通と結婚した)
 また即位後に生まれた三女禎子内親王(1013生、母は道長の娘妍子)は1023年に11歳で一品となり、1027年に15歳で東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の妃となった。この結婚については東宮妃嬉子(道長の娘、禎子の叔母)の急死がなければ実現しなかった可能性が高いが、禎子内親王は道長鍾愛の孫娘でもあり、恐らく一品に叙された時点で斎王候補となる可能性も完全になくなっただろう。

 この結果、実に天皇4代50年に渡り皇女が斎院に立つことなく終わるという、異例の事態となったのである。なお禎子内親王が結婚した1027年、選子は過去最高齢の斎院であった14代婉子内親王(64歳で退下)と同年に達していた。元々選子はかねて仏道に心を寄せており、後世のためにもさすがにこれ以上在任を続けるのは不本意であったらしい(このことは上東門院彰子の出家に際して贈答した和歌からもうかがえる)

天皇皇女履歴
一条 脩子(996-1049)一品(1007)
媄子(1000-1009)--
三条 当子(1001-1023)斎宮(1012~1016)
禔子(1003-1048)藤原教通室(1026)
禎子(1013-1094)一品(1023),後朱雀皇后(1027結婚)


 ついに後一条天皇(1016~1036)の代に至り、1031年選子内親王は68歳で老病を理由に自ら退下、その後を継いだのは後一条の次女馨子内親王(1029生,3歳)だった。なお馨子内親王には同母姉章子内親王(1026生,6歳)がいたが、父後一条に鍾愛された章子は1030年に5歳で早くも一品となっており、当時既に斎王候補から除外されていたと見られる。その後章子内親王は1037年に従兄弟の親仁親王(後朱雀天皇第一皇子、のちの後冷泉天皇)と結婚、斎院は章子の従姉妹にあたる後朱雀の娘たちが担い、さらに後三条の娘たちへと受け継がれた(以後11人の皇女のうち、斎王に選ばれなかったのは既に一品内親王だった2人だけである)

天皇皇女履歴
後一条 章子(1026-1105)一品(1030),後冷泉中宮(1037結婚)
馨子(1029-1093)17代斎院(1032~36),
二品准三宮(1032),後三条中宮(1051結婚)
後朱雀 良子(1030-1077)斎宮(1036~45),一品(1042)
娟子(1032-1103)18代斎院(1036~45),一品(1042)
祐子(1038-1105)准三宮(1040)
禖子(1039-1096)19代斎院(1046~58)
正子(1045-1114)20代斎院(1058~69)
後冷泉なし--
後三条 聡子(1050-1131)一品准三宮(1069)
俊子(1056-1132)二品(1069),斎宮(1070~73)
佳子(1057-1130)三品(1069),21代斎院(1069~72)
篤子(1060-1114)三品(1069),
22代斎院(1073),堀河中宮(1091入内)


【補足】
 選子内親王の時代に内親王が少なかったことは既に述べたが、同様に親王全体の人数も醍醐天皇・村上天皇等の時代に比べると大きく減少しており、これに比例して各親王の子女も少なかった。

天皇皇子皇孫(女王)
朱雀なし--
村上広平なし
憲平(冷泉)--
致平なし
為平婉子(972-998,花山女御:984入内)
具平親王妃(995以前に結婚)
恭子(984-?,斎宮:在任986~1011)
昭平藤原公任室(990結婚。母・高光女,道兼養女)
昌平なし
守平(円融)--
具平隆姫(995-1087,藤原頼通室)
敦康親王妃(1013結婚)
嫥子(1005-?,斎宮:在任1016~36,藤原教通室)
永平なし
冷泉師貞(花山)--
居貞(三条)--
為尊なし
敦道なし
円融懐仁(一条)--
花山明登なし
清仁信子女王(藤原能長室,1057以前に結婚?)
一条敦康嫄子(1016-1039,後朱雀中宮:藤原頼通養女,1037入内)
敦成(後一条)--
敦良(後朱雀)--
三条敦明(小一条院)栄子内親王(1015-?)
儇子内親王(1018-1097,藤原信家室,1037?結婚)
嘉子内親王(斎宮:在任1046~51)
斉子(23代斎院)
敦儀なし?
敦平敬子(斎宮:在任1051~68)
師明(性信)なし
(小一条院)敦貞なし
敦昌なし
敦賢淳子(斎宮:在任1073~77)
後朱雀親仁(後冷泉)--
(後三条)--
後冷泉なし--
後三条貞仁(白河)--
実仁なし
輔仁守子(1101-1156,斎宮:在任1123~42)
怡子(30代斎院:在任1134~59)


 以上の通り、女王については記録に残らなかっただけとも考えられるが、冷泉天皇以降は総じて少ない。また村上天皇皇孫で斎宮となった恭子女王(為平親王女)、嫥子女王(具平親王女)はいずれも三姉妹の末娘であり、姉たちは早い時期に結婚しているところから見て、女王もまたこの頃斎王候補不足に陥っていた可能性が高いと考えられる。





村上天皇
史料 月日 記述
日本紀略 応和4年
[康保元年]
(964)
4月24日 【選子誕生】
 中宮(安子)産皇女選子。
日本紀略 応和4年
[康保元年]
(964)
4月29日 【母后安子崩御】
 中宮藤原安子崩于主殿寮。<年卅八。皇太子母也。>産生之後。有此事。
日本紀略 康保元年
(964)
8月21日 【皇女選子、内親王宣下】
 定内親王。選子皇女。<年一。>
日本紀略 康保3年
(966)
8月25日 【選子着袴】
(前略)今日。選子内親王著袴。
日本紀略 康保4年
(967)
5月25日 【父村上天皇崩御、冷泉天皇践祚】
 依天皇不豫。詔大赦天下。但常赦所不免者不赦。巳刻。天皇崩于清凉殿。春秋四十二。在位廿一年。皇太子受天祚於凝華舎。戌刻。右大臣(源高明)行警固事。所司奉木契松脂等。
円融天皇
史料 月日 記述
親信卿記
日本紀略
天延2年
(974)
11月11日 【選子初笄】
『親信卿記』
 着裳腰結昭子女王<太政大臣(藤原兼通)妻>、理髪典侍(大江)皎子朝臣、事おはりて送物を賜はしむ

『日本紀略』
 選子内親王<先帝第十皇女。>於清涼殿初笄。
日本紀略 天延2年
(974)
11月13日 【選子、三品に叙品】
 除目。選子内親王敍三品。昭子女王正二位。<元正三位。>大江皎子從四位上。<元從四位下。>
小右記
日本紀略
天延3年
(975)
6月25日 【選子内親王、斎院卜定】
『日本紀略』
 卜定賀茂齋王。先朝(村上天皇)第十選子内親王也。以陸奥守(平)貞盛二條万里小路宅爲潔齋所。

『小右記』(長元4年9月28日条)
 中納言(藤原資平)云、(中略)大外記(小野)文義進賀茂斎内親王卜定例并次々雑事日記、天延三年例也、以可行斎院事之上御、依彼時例可被行也、彼例尤吉、被撰上御、可被令行卜定事等者也、彼時済時為中納言、件日記残頭辨、関白帰洛之後可奉行之由、同示遺了
年中行事秘抄 天延4年
[貞元元年]
(976)
4月22日 【斎院(選子)御禊】
 四月 四月朔當酉時禊祭用下午酉例
貞元四四廿二禊 廿五祭
日本紀略 天延4年
[貞元元年]
(976)
4月25日 【賀茂祭、斎院(選子)供奉せず】
 賀茂祭。齋王(選子)未入本院。仍无供奉。(後略)
日本紀略 貞元元年
(976)
9月22日 【斎院(選子)、初斎院に入る】
 賀茂齋院(選子)入御大膳職。
日本紀略 貞元2年
(977)
4月16日 【斎院(選子)御禊、紫野本院に入る】
 賀茂齋院選子内親王從大膳職禊東河。入紫野院。今日。凶會日也。中納言(藤原)爲光為前駈。
日本紀略 貞元3年
(978)
4月16日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
年中行事秘抄 天元2年
(979)
4月22日 【斎院(選子)御禊】
 四月 四月朔當酉時禊祭用下午酉例
天元二四廿二禊 廿五祭
日本紀略 天元3年
(980)
4月22日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 天元4年
(981)
4月15日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 天元5年
(982)
3月22日 【斎院御禊奢侈禁制】
 宣旨。賀茂齋王禊祭之間。陪從人等著綾羅之事。殊可禁制者。
類聚符宣抄 天元5年
(982)
4月5日 【藤原懐忠を賀茂斎院別当に任命】
 左中弁藤原朝臣懷忠
左少弁藤原朝臣惟成傳宣。中納言藤原朝臣濟時宣。奉●。件人▲爲賀茂齋院(選子)別當者。
    天元五年四月五日   左大史大春日朝臣良辰<奉>

●=勑(來+力。勅の異体字。こちらを参照(字源))
▲=冝(ワ冠+且。宜の異体字。こちらを参照(字源))
小右記
日本紀略
天元5年
(982)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
<御禊、作物所犬死穢沙汰、>(右頭書)
 參殿、傳聞、作物所板敷下有犬死云々、參内、於陣外問案内、又依宮使令奏不籠候之由、爲中使藏人(藤原)孝忠被遣太相府云々、被奏云、唐鞍皆悉觸穢、仍以馬寮平文鞍爲唐鞍伐[代]、兼又召在王臣家之走馬鞍可相具、至于執物雖不具有何事者、無仰以前、以下官被奏此趣、歸參大相府、
<上卿參議等不參、以弁懷忠上代、>(右傍書)
晩景爲見物向一条邊、依日暮不遂見物歸宅、傳聞、亥時許齋王(選子)被向河頭云々、今日上卿及參議不參齋院、依以左中弁(藤原)懐忠爲上伐[代]、令行其事云々、事已希有、奇驚了、今朝召賀茂・松尾等禰宜、被祈申祭平安之由、世間謡言云々如雲、依昨夕以女房所令奏也、

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊也。上卿中納言(藤原)濟時。參議(源)伊陟申故障不參。被催他卿相之間。日景空暮。遂不參。仍左中弁(藤原)懐忠朝臣可爲上卿代之由。被仰外記畢。臨于亥剋。齋王向禊所。又今日内裏有犬死穢。不御覧斎王御●牛。自陣外被奉之。

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
小右記 天元5年
(982)
4月23日 【内裏の触穢により、大祓を行う】
(前略)
<賀茂祭、古跡内裏穢大秡、以弁爲上代、>(右頭書)
今日有大秡事、賀茂祭間内裏有穢之時、前例被行大秡云々、上達部不參入、仍以右中辨爲上代」被行云々、

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p183に解説あり。
小右記 天元5年
(982)
4月24日 【賀茂祭】
<賀茂祭、廃務、 賀茂祭、>(右頭書)
 儲所[諸卿カ]饗[後カ]處來問、人ホ[余]未時許參宮、覽唐鞍・引馬等、申時許有禊事、禊了向一条大路、於上東門騎唐鞍馬、權左中弁(源)致方・民部少輔(源)時通・修理亮(藤原)孝忠來會相訪、差府生(下毛野?)公助、
<馬寮使服、仍以次第使助爲使、>(右傍書)
遣内藏寮、令受葵桂等、酉時許渡一条大道、宮姫使於式御曹司理髪、於其邊騎馬、寮使(藤原)正光忽有服身之假、<今日兄念禪亡、>仍以次第使左馬助(藤原?)保信爲馬寮使、仍無次第使、皇[太脱カ]后宮(昌子内親王)依穢不被立使、東宮(師貞親王)依御服又不被立、酉終着下御社宿所、戌時許參社頭、令奉御幣、可參上御社、即參御幣、了歸宿所、<件宿所在河東、号御社政所、>
<納言不參齋院、參議二人行事、>(右傍書)
今日大相府(藤原頼忠)・左府(源雅信)被見物、今日納言不參齋院(選子)、唯參議二人參入、依仰爲上代行云々、
小右記
公卿補任
永観2年
(984)
4月14日 【斎院(選子)御禊】
『小右記目録』
(御禊事)
同年(永観2年)四月十四日、御禊事、

『公卿補任』
(寛和3年)
非參議 從三位 藤道長<二十二>(中略)
<天元三正七從五下冷泉院御給<十五>。同五十昇殿。同六正廿七侍從。永観二二一右兵衛權佐。四月十四禁色此日爲斎王前駈。(後略)>
小右記
日本紀略
永観2年
(984)
4月17日 【賀茂祭】
『小右記目録』
(賀茂祭事)
同(永観)二年四月十七日、賀茂祭事、
同年月十八日、祭使還立事、

『日本紀略』
 賀茂祭。
花山天皇
史料 月日 記述
日本紀略 永観2年
(984)
9月5日 【斎院(選子)交替なしを賀茂社に奉告】
 天皇幸建禮門。幣帛於伊勢大神宮。告來十月十日可即位之由。遷宮之後。於宜陽殿奉幣帛於賀茂社。齋院選子内親王依舊不改之由。使參議(藤原)公季卿。宮内大輔源朝臣公貞等也。
小右記
日本紀略
永観3年
[寛和元年]
(985)
4月20日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
 依召參殿(藤原頼忠)、仰云、昨日夕方出納來云、奉借齋王(選子)之牛、依例可奉借者、未得其心、仍令申返事、所在之牛二頭也、一頭灸治、今一頭甚短少、不可當彼料、若可奉時、兼有仰事、殊勞飼者也、而忽有此仰、何奉仕乎、奏聞之後、又無仰事、參陣外可取案内者、參内、相逢藏人(藤原)擧直、令奏案内、仰云、昨日(藤原)元命云、例以第一人牛令懸齋王車、若有其障、仰次々卿等者、仍所仰遣也、

『日本紀略』
 賀茂齋王禊。
日本紀略
本朝世紀
寛和2年
(986)
4月20日 【斎院(選子)御禊】
『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。

『本朝世紀』
 今日賀茂齋院(選子)御禊日也。權中納言藤原顯光卿著斎院行事。未剋。一條大路度給。
一条天皇
史料 月日 記述
日本紀略
百錬抄
永延2年
(988)
4月20日 【斎院(選子)御禊】
『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。

『百錬抄』
 齋王(選子)御禊。攝政被向左府(源雅信)棧敷。院(冷泉院)三四兩親王(為尊・敦道親王)同渡御。其儲不可數言。各有贈物。以攝政所帯之蒔繪之劔。被送左府。
小右記
日本紀略
永延3年
[永祚元年]
(989)
4月20日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
 早朝參攝政殿、令申罷着齋院之由、被仰云、無懈怠可催行者、仍參齋院、<巳時許、>着客殿座、<東向、以北爲上、座後旋斑慢、上卿座高麗端疊上敷茴、參議座同端疊敷円座、今日上卿有障不參、>先是右大弁(藤原)在國在座、<件座在母屋坤角間、迫柱敷高麗疊・円座等也、件座个[今?]新定敷●、大弁座不◆、太相府爲大弁之時被行此事、是自中弁被行齋院事之間、俄通祭間被任大弁、依有事煩所被行也、其外無他例、今彼例又所被行也、而其座不詳、公卿皆在西庇、大弁在母屋無便、當前駈座坤、>前駈座在母屋、其饗用臺盤、南北相對、<高麗端疊敷円座四枚、>垣下殿上人座在北庇、所衆座在東庇、外記座在南庇、午時從藏人所被送左府(源雅信)牛、肥牛等<山城・近江、>即令引廻見之、各令頒行、藏人所前駈參入着座、雜色右近將監源信 參着次第使右馬允文室重基下、右大弁在國之前々有論事也、藏人所前駈六人着衛府前駈下、然而雖藏人所前駈又是公家之所被差遣也、雖衛府前駈事又相同、何更着次第使下乎、邑上先皇御時各有所論、仍着垣下藏人所衆座、信可着垣下座之由大弁教喩、仍起座着垣下座、今廻盧[慮]、行事人非可仰事●、午終事具了、未始寄御車、余及弁列立、御於梅樹下、蔵人所前駈寄御車、乘給了余及弁・史等相率退出、余見物、是先跡也、行事人爲見糺次第之違▲[濫]、未終許齋王度給、見了即歸、今日饗内藏寮、上達部前高坏大弁以下皆執而已、

『日本紀略』
 賀茂齋王禊。上卿不參。參議行之。

●=欤(こちらを参照(字源))
◆=りっしんべん+送。慥の異体字。
▲=にすい+尓+皿
日本紀略 正暦2年
(991)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
 今日。定賀茂齋内親王(選子)禊前駈次第使等。
日本紀略 正暦2年
(991)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
法住寺相国記 正暦2年
(991)
7月9日 【斎院長官のこと】
(『大日本史料』による)
 申一刻、參入、暫在淑景舎、
同二刻、中納言藤顯光卿、令奏宣命、(中略)
四五獻後召録事 春宮亮藤棟政朝臣、右近少將源理、<辨少納言、>散位藤原朝臣伊相、齋院長官紀朝臣忠道、<史外記、>各自南簀子敷進、候階間、仰各可奉仕録事之由、奉仰退出、(後略)
日本紀略 正暦3年
(992)
4月19日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 正暦3年
(992)
11月9日 【斎院に強盗が入ったため、御卜を行う】
 召神祇官有御卜。去四日齋院強盗事。
日本紀略 正暦3年
(992)
11月26日 【斎院に強盗が入ったため、賀茂社に奉幣】
 奉遣使於賀茂社。被申齋院強盗事也。
小右記 正暦4年
(993)
4月12日 【斎院(選子)御禊】
 御禊云々、斎王(選子)申時許向河原云々、行事左衛門督(藤原)顕光・(藤原)公任。
本朝世紀 正暦5年
(994)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
 午後。大納言藤原朝光卿參著左仗座。被差定來十三日齋内親王(選子)御禊前駈。參議依不參。以右中弁源俊賢朝臣爲參議代。
日本紀略 正暦5年
(994)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 長徳元年(995) 4月18日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊也。上卿權中納言源伊陟卿。依傍親服不參。參議藤原實資卿行之。今日。前駈等觸關白(藤原道隆)家穢之由雖令申。無許之。齋王輿過堀河之間。雷電霹靂。時人云。穢氣人供奉之所致也。頃時晴畢。齋王還御之後。降雹。大如栗。

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p109に解説あり。
同月10日に関白道隆が薨去、これにより前駈らが触穢となったがそのまま供奉した。
長徳二年大間書 長徳2年(996) 1月25日 【源為理を斎院長官に任命】
(※大日本史料による)
(齋院司)
長官從五位下源朝臣爲理[政イ](中略)
    長徳二年正月廿五日
日本紀略 長徳2年(996) 4月12日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 長徳3年(997) 4月13日 【斎院(選子)御禊】
 御禊。
日本紀略 長徳4年(998) 4月18日 【斎院(選子)御禊】
 御禊。
小右記 長保元年(999) 11月11日 【斎院相嘗祭料を下行させる】
(11月9日条)
 權辨(藤原説孝)來云、齋院相甞祭料以見物可下行由、可下責宣旨、於大藏省者、即仰下了、
(11月11日条)
 入夜權弁朝臣來云、相甞祭料物事答聞、即被仰遣左府、覆奏云、以見物可下給由、早可被仰大藏卿(藤原)正光朝臣、若無其勤、左右只可被行者、
権記
日本紀略
長保2年
(1000)
4月11日 【斎院(選子)御禊】
『権記』
 罷出、參左府(藤原道長)、未剋許與右中辨同車見物、左馬頭(藤原相尹)相共見之、一条大宮辻列見、年來例也、而御一条院之間、依無便宜、於左近馬駐南列見、齋院供奉之者、於大宮路下馬、到堀河橋東、更騎馬、<即宜旨也、>

『日本紀略』
 賀茂齋内親王(選子)禊。
権記
日本紀略
長保3年
(1001)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
『権記』
 御禊也、依御物忌不覽牛并所陪從等、
權左中辨(藤原説孝)來示云、雑色(藤原)定輔者煩●病、然而爲不闕公役相待平愈、今日當日也、而令束帯之間已發動、即行事藏人(源)頼貞奏此由、仰云、今日縦雖闕怠、祭日可令奉仕、但前駈人有如此慮外障之時、以垣下令奉仕、而今日垣下一人不參云々、如此爲之何、即令奏事由、召遣少監物(橘)惟弘了、酉剋許不見、依齋院催、未剋許遣前駈等了、今日陪膳、宿、

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。

●=𤷅(病だれ+兒。こちらを参照(字源))
日本紀略 長保4年
(1002)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋院(選子)禊。
日本紀略 長保5年
(1003)
4月11日 【斎院(選子)御禊】
 齋院(選子)御禊。
御堂関白記
権記
日本紀略
長保6年
[寛弘元年]
(1004)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 午上従内罷出、後右衛門督(藤原斉信)来云、仰事、祭間調童・雑色人等、奉供者数多随身可制止者、早召官人可被仰者、又見物者有車新、同可制也、申家馬者左衛門佐(源)兼貞・右衛門佐(藤原)孝忠・左衛門尉(源)頼信・右衛門尉[守]守親・左兵衛佐(藤原)朝任、所御前、木工允(橘)俊孝・平明範等也、為見物、

『権記』
 御禊、參左府(藤原道長)、與侍從中納言(藤原隆家)同車見物、

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。
小右記 寛弘2年
(1005)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
(未入力)
小右記 寛弘2年
(1005)
4月8日 【左衛門権佐(令宗)允亮に絹を送る】
(未入力)
小右記 寛弘2年
(1005)
4月10日 【斎院(選子)申請文】
(未入力)
小右記 寛弘2年
(1005)
4月15日 【斎院(選子)御禊点地勘文】
(未入力)
小右記
権記
日本紀略
寛弘2年
(1005)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
(未入力)

『権記』
 御禊、御前兵衛佐(藤原伊成)出立、

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)御禊。
小右記 寛弘2年
(1005)
4月21日 【斎院(選子)女房の装束】
(未入力)
御堂関白記 寛弘2年
(1005)
5月5日 【中宮(彰子)、斎院(選子)に薬玉を贈る】
 糸所者藥王[玉]持来、賜禄、従中宮(彰子)齋院(選子)被奉藥王[玉]云々、(後略)
御堂関白記
権記
寛弘3年
(1006)
4月2日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『御堂関白記』
 時々雨下、着左丈[仗]座、定御禊前駈、

『権記』
(前略)申剋左大臣(藤原道長)被參、被定申禊日前駈、(後略)
御堂関白記
権記
日本紀略
寛弘3年
(1006)
4月11日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 御禊如常、出立右兵(藤原頼宗)・左兵衛佐(藤原顕信)等、見物、

『権記』
 參内、詣左府(藤原道長)、見御禊、

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。
権記 寛弘4年
(1007)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
(前略)參内、權中納言被定申御禊前駈事、左府(藤原道長)有御障、仍當日上卿被定申、右衛門佐(藤原)周家四位也、(藤原)中尹去年奉仕、依天慶六年例、奏事由、差兵庫頭聞了、左衛門權佐(平)隨時天慶四年被差、而依申障差替他人、同五年隨時敍位四位、差佐、同六年隨時猶爲權佐、而差兵庫(平)齊章、例也、
御堂関白記
日本紀略
寛弘4年
(1007)
4月16日 【斎院(選子)御禊を延引】
『御堂関白記』
 御禊、依觸穢延、供奉諸司等皆以乙也、

『日本紀略』
 齋院(選子)禊延引。昨日内裏有犬死穢之故也。
御堂関白記
権記
日本紀略
寛弘4年
(1007)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 御禊見物、右兵衛佐(藤原)道雅着織物袍如赤包[色?]、衆人頗奇、前駈右衛門佐代内匠頭藤原理邦、次第使本者申障代右馬助孝義、右衛門佐(藤原周家)依四位、本人不奉仕、

『権記』
 參斎院(選子)、御禊也、

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。今日警固。
御堂関白記 寛弘5年
(1008)
4月9日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
 着陣、定禊日前駈、罷出、雨下、
御堂関白記
日本紀略
寛弘5年
(1008)
4月16日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 見禊、上達部多被来、(藤原)顕信・(藤原)能信等奉仕前駈、家馬十一疋給人、不申馬人雖他所皆是本我馬也、

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)禊。
御堂関白記
日本紀略
寛弘5年
(1008)
4月19日 【賀茂祭】
『御堂関白記』
 祭使所舞人下重・疋絹料等送、午時件[許?]、外記(惟宗)成親来云、候齋院間、申云、馬寮使(相尹)申病由、奏聞事由、爰仰云、付家可仰此由者、奏聞云、只今為云如何、猶可被仰奉仕相尹由、即參入、仰云、非可事闕、可能様行者、前駈諸大夫中侍諸司長官等中、以有仰者、可奉仕代官、仰云、以圖書■[頭脱](藤原)則孝可奉仕者、仰此由外記令奉仕、一宮(敦康親王)見物、同東度[渡]事戌時、

『日本紀略』
 賀茂祭。中宮(彰子)依御懐孕不被立使。東宮(居貞親王)依華山院事不被立使。左馬寮使頭(藤原)相尹朝臣忽申本病發由。奏聞之處。以圖書頭藤原則孝爲代官。長官依遭妻喪。掃部頭藤原成親爲代官。如此之間。齋王(選子)出御及秉燭。希代之事也。
御堂関白記
権記
日本紀略
寛弘6年
(1009)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 雨下、御禊如常、渡給聞雨止、見物、

『権記』
 御禊、出車奉之、

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)禊。
御堂関白記 寛弘6年
(1009)
7月7日 【斎院(選子)、中宮(彰子)に琵琶・琴を贈る】
 夜半許、従齋院(選子)中宮(彰子)琵琶・琴等被奉、是其
(裏書)七形也、<入>腹中扇等、使者仁久るを捕畄給禄云々、
御堂関白記 寛弘7年
(1010)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
 參太[大]内、着左丈[仗]、定御禊前駈、(後略)
御堂関白記 寛弘7年
(1010)
4月21日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
 <齋内親王(選子)禊事、>
小右記 寛弘8年
(1011)
3月22日 【斎院(選子)奏状】
(未入力)
小右記 寛弘8年
(1011)
3月26日 【斎院近辺で殺人】(27日条)
(未入力)
御堂関白記 寛弘8年
(1011)
4月7日 【斎院(選子)御禊前駈定】
 參太[大]内、着右丈[仗]座、定御禊前駈并上達部分配、(後略)
御堂関白記 寛弘8年
(1011)
4月10日 【斎院長官病により代官供奉】
 左中弁(藤原朝経)来門外云、齋院長官(源)為理[政]日来有所勞不參院、令申云、所悩猶重、非可供奉祭者、令奏事由、仰可然以可為代官、依物忌重、申明日定、
御堂関白記
権記
日本紀略
寛弘8年
(1011)
4月15日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 <斉王(選子)御禊、>
終日雨降、従内罷出、侍従中納言(藤原行成)兵衛佐(藤原実経)許送随身裝束・馬、見物、此間雨降、甚雨也、

『権記』
 御禊也、實經供奉前駈、右宰相中將被過、亦左京大夫、<(源)長經、>後侍從<(藤原)資平、>來臨、諸大夫數輩、申剋見物、與相公京兆同車、齋王前駈、左衛門佐平孝明、右權佐藤原中尹、左兵衛佐實經、右佐藤原通範、左衛門少尉源頼國、右同頼範、左兵衛少尉橘義通、左藤原敦親、次第使右馬助源頼職、左允菅野數遠、齋院長官代清原爲成、<雅樂頭、>實經騎左府御馬、<號平緒、>随身四人、<二人物節着褐衣、二人着蠻繪并下襲等、其裝自左府給、使實國被褂一重、>童六人、<二人二藍狩衣指抜、紅打衵袴、二人靑朽葉茜打衵袴、二人赤色蘇芳染衵袴、其狩衣指貫並毎雙有淺深、衵有金吾被送、袴二腰前陸奥守道貞朝臣調送、四腰以絹令惟通朝臣調之、狩衣指貫又以了繼令理義朝臣調之、指貫可作単、而作合、後日左相府命云、作単是例也、>雜色廿四人之中、長四人、舎人四人、歸來之時給禄、共人馬●右近府生秦正延絹三疋、別給二藍下襲半臂、<即今日所着、>番長多爲重二疋、別給衵一、<又今日所着也、>副童之者、左府生秦延命、物部武士並絹二疋、馬舎人二疋、居飼手作布二端、借随身二人各疋絹、

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。仰外記云。一條院北至于堀河。例年禊祭供奉之人皆以下馬。但今年不可然。皆可騎馬者。

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
三条天皇
史料 月日 記述
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月3日 【斎院(選子)御禊雑事定】
(未入力)
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月7日 【斎院(選子)の奏状を奏する】
(未入力)
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月8日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
(未入力)
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月14日 【斎院(選子)御禊により、絹米等を弁備】
(未入力)
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月16日 【斎院(選子)御禊祭行事等を奏する】
(未入力)
小右記
日本紀略
寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月19日 【斎院(選子)交替なし。賀茂社に御禊を祈る】
『小右記』
(前略)臨暗大外記(菅野)敦頼朝臣來云、依召參内、頭弁傳仰云、齋院(選子)不奉替之事、前例被申賀茂之程并使何人乎者、令奏云、斎宮立給之時、同被申此事、若不然之時、初行幸建礼門之日被載御幣宣命、近則天慶例迫祭期被立其使者、廻愚案、件事早不被申極奇々、御禊以前可被申之事也、御禊以後被立御使不可然事也、彼天慶九年四月廿二日(※村上天皇即位、斎院婉子留任)午御禊式日幸建礼門、奉幣諸社之次被申此事、仍■[未日]有御禊事、理可然、又去年相嘗祭以前可被申者也、(後略)

『日本紀略』
 大外記(菅野)敦頼勘申伊勢齋王帰京賀茂齋院(選子)不改之例。
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月20日 【斎院(選子)御禊祭日時を奏する】
(未入力)
小右記
日本紀略
寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)御禊。
小右記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
4月24日 【斎院(選子)交替なしを賀茂社に奉告】
(未入力)
御堂関白記 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
5月1日 【斎院(選子)の夢想】
 參大内、候宿、右大將(藤原実資)相語云、賀茂祭雖有觸穢事、神御心尚可有祭也、是則齋院下部并院御夢催事度見給云々、以之云之、前年小野太政大臣(藤原実頼)夢想同之、為恐不少、又祭間無殊事、被行為吉、
小右記目録 寛弘9年
[長和元年]
(1012)
10月10日 【斎院(選子)御悩】
(未入力)
御堂関白記 長和2年
(1013)
4月7日 【斎院(選子)御禊日時・前駈定】
 着左丈[仗]座、定斉内親王(選子)禊日前駈、右衛門佐一人云[去]年奉仕、一人觸穢、仍代官以侍従(源)顯基差定、凝[擬]階奏、仰可申次々人由外記退立、候御前宿、
御堂関白記
小右記
長和2年
(1013)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 従巳時許雨、太皇太后宮大夫(源俊賢。皇太后宮大夫の誤り)子侍従(源)顯基童六人下衣・袴送之、申馬人々給之、奉斉院御牛、皇太后宮大夫随身子被来、見馬・童・雜色等覧、中宮(妍子)人々見物、依物忌不出、従申時許雨頗止、

『小右記』
(未入力)
小右記 長和3年
(1014)
3月29日 【斎院(選子)御禊祭料ほか】
(未入力)
小右記 長和3年
(1014)
4月7日 【斎院(選子)御禊祭行事定】
(未入力)
小右記 長和3年
(1014)
4月9日 【斎院(選子)御禊前駈定】
(未入力)
小右記 長和3年
(1014)
4月12日 【斎院(選子)御禊祭行事宰相のこと】
(未入力)
小右記
日本紀略
長和3年
(1014)
4月15日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)禊。
小右記 長和3年
(1014)
4月16日 【御禊祭行事のこと】
(未入力)
小右記
日本紀略
長和3年
(1014)
4月18日 【賀茂祭】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂祭。
小右記 長和4年
(1015)
4月6日 【斎院(選子)御禊雑事定】
(未入力)
小右記 長和4年
(1015)
4月9日 【斎院(選子)禊祭料未進勘文を進めさせ、出車出馬等を定める】
(未入力)
小右記 長和4年
(1015)
4月10日 【斎院(選子)月料米未進により、宣旨を播磨に下す】
(未入力)
小右記 長和4年
(1015)
4月11日 【斎院修造のこと】
(未入力)
御堂関白記
小右記
長和4年
(1015)
4月13日 【斎院(選子)御禊前駈定。右中弁藤原定頼、触穢により祭行事弁を交替】
『御堂関白記』
 着左丈[仗]座、定禊日前駈、(後略)

『小右記』(4月14日条)
 早旦大納言(大江)使至孝朝臣被消息云、定頼依被戒仰不觸火處、又自其處(※改行なし)
『童女燒死、仍禊祭弁定頼可相替事』(右傍書)
令乘車之間、其行事、計女等數、童女<年十三、>不見、尋求近邊、遂不」出來、問女等、云、件童女寢臥之間、火已迫來、不驚彼童經營出者、只今火滅之後令見、已有死骸、仍定頼爲穢者、<件童女左衛門督妻(藤原教通室、公任女)乳母子、>祭行事弁事可奏請、仍呼遣藏人右少辨(藤原)資業、只今報來向由、辰刻許來、弁事先申左相府(藤原道長)、隨彼命奏達、有被定仰之人者、且召仰史之後可來示之由相合了[含キシ]、徃還之間依可引時刻、大略左少弁(源)經頼朝臣●、他弁皆有故障、近則資業東宮使也、史(紀)行信申云、右中辨朝臣有觸穢、不可奉行事之由を[令シキ]申也、又下御社司申請慥作者、奏状改直進之、又直正朝臣給大嘗會▲化[悠紀キ]爵者也者、仰云、弁事自此以前令奏了、大略」被定仰左少弁經頼●、社奏状被定行事弁之後、付彼可令申上、直正朝臣不聞世間者也、行信申云、經頼朝臣昨日宅有犬死穢者、經頼外又無弁[迄キ]、返來十七日、不可及禊祭日●、面召仰雜事、又齋院長官(源)爲理朝臣來云、但馬禊祭料絹明日可進由、國擧法師出逢院使令申也、院中修理以何物可令奉仕哉、禊祭外無可充修理之料、但客殿屏三間・御前通垣等、今有左大臣仰、可令奉仕者、是▲似所陣[陳カ]、
『定御禊前駈事』(右頭書)
今日左府被定御前前駈云々、又可有官奏、而停止、主上御目猶不快●、是資業所談也、

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
▲=愗(こちらを参照(字源))

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p71に解説あり。
小右記 長和4年
(1015)
4月15日 【賀茂祭行事弁を左少弁源経頼に替える】
祭行事被仰左少辨經頼了、右少弁資業仰史行信、〃〃今旦來申云、經頼朝臣申云、至
『當月以前任[妊]者夫可奉行禊祭事』(右傍書)
十七日有犬死穢、但有五箇月孕者、承行禊祭事如何者、答云、非當月有何事、又雖當月、於荒垣外行雜事可無憚、何況五ヶ月乎、猶有所憚、不入垣内可宜●、帥出門事問以書状、報了[云カ]、無事出門了者、

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p29に解説あり。
小右記 長和4年
(1015)
4月18日 【斎院(選子)御禊点地、斎院の嘗屋鳥居等を修造】
(未入力)
小右記 長和4年
(1015)
4月19日 【斎院御禊の路橋宣旨を山城に下す】
(未入力)
『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p103に解説あり。
小右記 長和4年
(1015)
4月20日 【禊祭料未進について、検非違使に催促させる】
(未入力)
御堂関白記
小右記
日本紀略
長和4年
(1015)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 送遣人々申馬、奉斉院(選子)御車・牛、參大内、退出、渡挾食[狭敷]見物、帥中納言(藤原隆家)罷申參大内云々、召御前、賜御衣并御馬云々、又被加一階、権大納言仰云、候御前上達部権大納言・源中納言(俊賢)・左右大弁云々、(後略)

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。
小右記 長和4年
(1015)
4月23日 【斎院童女の馬と、藤原能通第焼亡による触穢のこと】
(未入力)
御堂関白記
小右記
日本紀略
長和4年
(1015)
4月24日 【賀茂祭】
『御堂関白記』
 度狹食[敷]見物、人遣人〃申馬、近衛府使(藤原)道雅許下<舞人(傍書)>重并褂一重送之、(後略)

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂祭。
後一条天皇
史料 月日 記述
小右記
左経記
長和5年
(1016)
2月7日 【後一条天皇即位式】
『小右記』
(未入力)

『左経記』
 有御即位、儀式如常(後略)
御堂関白記
小右記
左経記
日本紀略
長和5年
(1016)
2月25日 【斎院(選子)交替なしを賀茂社に奉告】
『御堂関白記』
 齋王卜定之由奉幣、源中納言(俊賢)行之、又不改齋院(選子)由賀茂告文奉幣、使(源)頼定宰相、辞別文云、有天變度々由也、辞別文無賀茂告文、示案内入之、申時使立、

『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)差源宰相(頼定)、被告申賀茂齋内親王(選子)不替之由、有宣命、無奉幣、

『日本紀略』
 奉幣伊勢賀茂兩社。
小右記 長和5年
(1016)
3月16日 【斎院修造の宣旨を下す】
(未入力)
小右記 長和5年
(1016)
3月28日 【斎院長官源為理、次官以下を奏請】
(未入力)
小右記
左経記
長和5年
(1016)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)午剋按察大納言(藤原斉信)被着陣、被定御禊日前駈、并次第使等、<右大辨(藤原朝経)執筆、>書了命僕奏、<入筥、>僕持參左府(藤原顕光)御宿所、令覽了奉下上卿、々々召外記令[給?]之退出、(後略)
小右記 長和5年
(1016)
4月11日 【斎院(選子)御禊のこと】
(未入力)
御堂関白記
小右記
左経記
日本紀略
長和5年
(1016)
4月15日 【斎院司除目、斎院(選子)出車出馬定】
『御堂関白記』
 中宮(妍子)遷西對給、參早朝雜事置退出、按察大納言(藤原斉信)以資業令奏大嘗會可初行事所日時勘文、廿八日者、即返給、仰可初彼日由、皇太后宮大夫(源俊賢)以資業下給被請齋院々司等文并山城國司申請掾文等、令除目山城掾、可奉供賀茂依無極[掾?]也、不候式部丞、不下給云々、出東河不奉幣由解除、參院、西對御裝束了、以戌時渡給、御自晝御座方、上達部・殿上人有饗、又女方衝重・待[侍?]饗等同之、心地不宜内、依有方忌退出、大外記(小野)文義下給除目公卿給等、尋前例、攝政時公卿給、攝政兼大臣時即下給、不兼大臣時候除目送大臣許令下、即■[其]人行直物、今余兼大臣、仍下之、可然日以參入上卿可令行也、御禊前駈右兵衛佐(藤原)通範申觸穢由、仍改定同府佐經定、

『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)右兵衛權佐(藤原)通範、被定齋王(選子)禊日前駈先了、而近曾奉死穢假文、其替以同府權佐源親定令補如何者、仰依請、即召外記被仰此由、次皇太后宮大夫(源俊賢)有召參入、於陣腋以大夫外記文義參入之由、被申攝政(藤原道長)<文義蒙仰依令召也、>右少辨(藤原資業)蒙仰、於陣腋邊傳仰大夫、<是齋院次官、并山城掾等、可被任也云々、>(後略)

『日本紀略』
 今日。齋院司除目。
御堂関白記
小右記
左経記
日本紀略
長和5年
(1016)
4月17日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『御堂関白記』
(前略)按察大納言(藤原斉信)(源)經頼令申左衛門権佐(藤原)資業申親服由、御禊前駈以誰人可仰差哉者、仰云、以侍従(藤原)基房仰可差由、右大弁(藤原朝経)来借前駈雜物、事勿[忽]不堪中、件基房日来有悩事、雖然先可致用意也云々、

『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)仍午剋許參内、按察大納言(藤原斉信)被參仗下、令余奏云、左京[衛?]門權佐(藤原)資業、依(橘)道貞朝臣(4/16没)服、辭申御禊前駈、其替隨仰可差定者、被仰云、以侍從藤原基房可着者、<右大辨(藤原朝経)二男、>即申大納言、大納言即召官、令召外記文任、被仰資業申障替可差侍從基房之由、文任蒙仰退出、(後略)

『日本紀略』
 定大嘗會主典代等。又定御禊前駈等。
御堂関白記
小右記
日本紀略
長和5年
(1016)
4月21日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 早申馬人々給之、四府佐・左衛門督尉(藤原)公政・右衛尉(藤原)國光等也、辰時女方相共渡狭食[敷]、未時(藤原)資平頭来云、所衆前駈皆參入者、即參内、令御覧、牛等相送院(選子)、三宮(敦良親王)奉乘車、行狭食[敷]、殿上人直衣、於前駈者有其数、従此前左大將(藤原頼通)參院次来、而依随身馬不宜、以家改之乘、自及前駈等、渡狭食[敷]前見之、上達[部脱]兩三来、源宰相(頼定)家有狭食[敷]西、有前駈車来入家、是右大臣(藤原顕光)年来間、彼宰相妾女御(藤原元子)有勘當不相合、此嫁宰相後已数年、而今日件家狭食[敷]右府来云々、甚能事也、其後人々来、只今無障上達部十八日人来、殿上人又来、事了日入程也、見物甚能程也、其後御三宮女方車、入従北陣給、

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)御禊。
御堂関白記
小右記
日本紀略
長和5年
(1016)
4月24日 【賀茂祭】
『御堂関白記』
 皇太后宮使(藤原)行任・中宮使(藤原)定頼・近衛府使(藤原)兼房、馬二疋、春宮(敦明親王)使(藤原)周頼一疋、所前駈五人各一疋早朝送遣、渡狹食[敷]、午時許(藤原)資平来、所前駈等申參入由、即參入、令覽之後、奉乘三宮(敦良親王)車、行式部卿宮(敦康親王)、乘車到狹食[敷]見物、上達部悉来、従申初許渡初、見物間給兼房随身近衛秦近年狩衣・袴着織物、又同使童狩衣裏着織物、奇見、以随身召近年給、右衛門権佐(藤原)章信令彈之、(検非違使)別當(藤原実成)有同見物、相示云、檢非違使等如此不見人衣裳、先日所示相違、事了有日間、式部卿宮乘大將(藤原頼通)車返給、我三宮与我參太[大]内、兼房父宰相(兼隆)従人早立、件相公兼云、童令着織衣無便事也、須畄童等、而有殊用意所免也、非可着織物者、而如此有事、似白物、

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
(未入力)
御堂関白記
日本紀略
長和6年
[寛仁元年]
(1017)
4月14日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 依物忌籠居、以(源)經頼、攝政(藤原頼通)送消息云、今明固物忌侍を、御覧所御前、不候可無便、為之如何、又一條院北祭日供奉者可乘馬、典侍御前等如何、示云、物忌固者不參有に何事あらん、藏人頭等候宜歟、又典侍御[前脱?]乍乘渡可能事也、

『日本紀略』
 賀茂齋院(選子)御禊。
御堂関白記
日本紀略
長和6年
[寛仁元年]
(1017)
4月17日 【賀茂祭】
『御堂関白記』
 早朝渡夾食[狭敷]、未時許攝政(藤原頼通)三宮(敦良親王)奉渡、殿[上]人束帶宿衣、御前有其数、申時許事初、渡(源)經親朝臣、近衛府使送舞人下重并絹卅疋、典侍許車副・手振等送之、事了還来る、皇后宮(藤原娍子)・東宮(敦明親王)使不立、稱觸穢、是不合云々、

『日本紀略』
 賀茂祭。
御堂関白記
左経記
小右記
寛仁元年
(1017)
7月2日 【群盗、斎院に入る】
『御堂関白記』
(前略)攝政(藤原頼通)被来云、今夜斉院盗人入云々、仍奉遣奉云々、右大弁(藤原朝経)来云、齊院事實也、被申瀧口者々、又云、今夜在家内老女無殊死去、仍不能着座者、示云、行攝政許、可示瀧口事、又左大弁(源道方)除院御服、早可參入由可示送者、

『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)右大■■■[弁朝経?]被申云、去夕齋院入群盗、破御藏■■等並入人々曹司、取雜物者、仍自今夜賜瀧口武者等、●可令宿直者、即被仰余云、始從今夜、<令瀧口二人宿直彼院者、即參内、召一勞是助、仰從今夜、>彼院宿直可差奉之由畢、

●=蹔(斬+足。暫の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 寛仁元年
(1017)
7月3日 【斎院長官源為理の葬送】
 早旦源大納言(俊賢)御消息云、去一日齋院長官(源)爲正[理]朝臣葬送云々、(後略)
小右記
左経記
寛仁元年
(1017)
7月4日 【斎院(選子)、滝口の宿直を奏請】
『小右記』
(未入力)

『左経記』
(前略)被仰云、明日於齋院可令行解謝祓者、<是院司等依觸長官爲正葬也、>予仰■■■■■■■■旨於神祇官、、<是料物宣旨也、>余宿侍、
小右記 寛仁元年
(1017)
10月11日 【斎院奏状、並びに国々の召物のことを命じる】
(未入力)
小右記 寛仁元年
(1017)
11月6日 【斎院賀茂禊祭料等宣旨を催すことを申す】
(未入力)
小右記 寛仁元年
(1017)
11月22日 【斎院辺小屋で火災】
(前略)陣官・雜人等、申北方有火由、不知陣内外、下人走躁無所言、見參返給了、此間隨身等云、齊院邊小屋燒亡者、(後略)
小右記 寛仁2年
(1018)
3月19日 【斎院長官源光清、斎院(選子)の奏上を持参】
(前略)今朝齊院長官(源)光清持來院(選子)奏、仰可付弁之由、<前安房守(大江)時棟、禊祭三年一請物不請院勘畢、勘文構候文云、進下開加階可被召凡奏状也、>
御堂関白記 寛仁2年
(1018)
4月3日 【斎院(選子)行事を改定】
(前略)右大將(藤原実資)依服、以源大納言(俊賢)為齊院行事云々、
小右記
左経記
寛仁2年
(1018)
4月7日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『小右記』
(未入力)

『左経記』
 右府(藤原公季)被參着左仗、有直物事、此次有小除目并叙位、又被羞[定?]御禊前駈云々、
御堂関白記
小右記
日本紀略
寛仁2年
(1018)
4月19日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 人々申馬、仍送之、渡狹食[敷]見物、人々被来、

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。
御堂関白記 寛仁2年
(1018)
閏4月2日 【斎院(選子)消息により斎院長官・次官を召す】
(前略)入夜女方(源倫子)従内參中宮(妍子)、従齋院(選子)有御消息、長官(源)光清与次官(藤原)榮光問、各有申、相定者、各召之等令問、有皆申事、仍召(藤原)宗相・(紀)宣明、令日記、
御堂関白記 寛仁2年
(1018)
閏4月3日 【斎院にて長官・次官の従者闘乱】
(前略)入夜女方(源倫子)従中宮(妍子)退出、(藤原)宗相等持来日記、々云、(源)光清・(藤原)榮光等従者院中闘乱、榮光従者面并所々被打破、後光清此事相定間、榮光引従類參院、光清従者死許令打者、仍前兩人従者下手者令進、
小右記 寛仁3年
(1019)
4月10日 【斎院(選子)御禊前駈定】
(未入力)
小右記
日本紀略
寛仁3年
(1019)
4月19日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。
小右記
日本紀略
寛仁3年
(1019)
4月22日 【賀茂祭】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂祭。
御堂関白記
小右記目録
日本紀略
寛仁4年
(1020)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
『御堂関白記』
 <齋院(選子)禊、>

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。
左経記 寛仁4年
(1020)
6月5日 【斎院前宮主占部仲遠、皇太后宮宮主と闘乱】
(前略)傳聞、依御體御卜事、神祇官々人等、參會官、欲忌籠之間、皇太后宮(藤原妍子)々主爲政、與齋院(選子)前宮主(占部)仲遠、忽以闘亂、爲政爲仲遠被刄傷於官中、已可及死去云々、仍忽令持出云々、御卜之間有血、甚不便事也、

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p24に解説あり。
小右記 寛仁4年
(1020)
閏12月10日 【斎院長官(源光清)、次官(藤原相通)の名簿を斎院に上げる】
(未入力)
小右記 治安元年
(1021)
3月19日 【斎院長官(源光清)、斎院の修理を申す】
(未入力)
日本紀略 治安元年
(1021)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
小右記 治安元年
(1021)
4月16日 【斎院長官(源光清)、遅参により恐懼に処される】
(未入力)
類聚符宣抄 治安元年
(1021)
10月28日 【藤原行成を賀茂斎院別当に任命】
 正二位行權大納言藤原朝臣行成<件宣旨尋先例不見。只可行禊祭事之由以口宣可仰其人歟>
權左中弁藤原朝臣経頼傳宣。左大臣(藤原頼通)宣。奉●。件人▲爲賀茂齋院(選子)別當者。
    治安元年十一(見せ消ち)十月廿八日   左大史小槻宿弥貞行<奉>

●=勑(來+力。勅の異体字。こちらを参照(字源))
▲=冝(ワ冠+且。宜の異体字。こちらを参照(字源))
日本紀略 治安2年
(1022)
4月19日 【斎院(選子)御禊】
 齋院(選子)禊。
小右記 治安3年
(1023)
4月3日 【斎院(選子)御禊前駈定】
(未入力)
小右記 治安3年
(1023)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
(未入力)
小右記 治安3年
(1023)
9月28日 【斎院庁町倉代に盗賊入る】
(未入力)
小右記
日本紀略
治安4年
[万寿元年]
(1024)
4月13日 【斎院(選子)御禊】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。
左経記 万寿2年
(1025)
4月9日 【斎院(選子)御禊雑事定】
 參關白殿(藤原頼通)、次參齋院、權大納言(藤原行成?)同被參、於客殿定出車女騎馬等、付院司令催之、<車六兩、馬四疋、>本院聊儲酒肴粉熟等、進上以下、又進禊祭料未進勘文、上覽之後、余給之下史令催、次上以下退出、余依爲分配、(後略)
左経記
日本紀略
万寿2年
(1025)
4月10日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『左経記』
 參關白殿(藤原頼通)、次參内、及未剋左府被參入、於左仗座定御禊前駈次第使等、令權辨奏、了下外記、(後略)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊前駈定。
左経記 万寿2年
(1025)
4月15日 【斎院(選子)卜部のこと】
 齋院卜部來觸云、右兵衛督(藤原経通)、被申故障不奉車者、即申權大納言、改宛皇太后宮權大納[夫?]、余即書宛文給下部令催、即有奉命云々、
左経記 万寿2年
(1025)
4月16日 【斎院長官以下、鴨河に御禊地を点定】
 史(大宅)恒則、齋院長官以下、陰陽寮相共、以午剋鴨河點定御禊地、書勘文持來、即持參權大納言(藤原行成?)御許、令覽之後、申關白殿(藤原頼通)、次奏内下奉大納言(藤原斉信)、即給下史恒則、(後略)
左経記 万寿2年
(1025)
4月19日 【斎院(選子)御禊】
 巳剋許參齋院(選子)、催行懈怠雜事等、頃之宰相上被參着、覽鞋子着走童御車牛并兩國樂等、<各牛飼童牽也、>臨申剋出御、及酉剋御々禊幄、先供御膳、此間余外記史以下着官厨幄、厨羞飯盃、次率外記史移着御所南幔内、<所司迫幔敷座、東上北面、次着前駈幄、而臨昏黒之中、前駈一人不着、仍直着北座、>次膳部三人取御禊物、自南方進、御西[斎]院長次官等自北方進出取傳供之、次宮主御禊了[之?]大麻授膳部、々々授長官、々々供之、<件御禊物等於簾中、女房傳供之>次膳部等撤御禊物、<長官等撤傳如羞儀、>御禊間辨史外記候御所南方、事了還御、次前駈并辨以下賜禄有差、垣下侍臣傳取授之、
左経記
日本紀略
万寿2年
(1025)
4月22日 【賀茂祭】
『左経記』
 及巳剋臨使少將出立所、<別納、>次參院行雜事、頃之上宰相被參入、覽鞋子着走童并餝馬等、<十二疋、自藏人所被送也、本院装束馬場東幄、主殿以班幔覆上、所司幔立日面并引幔、又南方ニ御前幄、>余赴官厨家■座、率外記史以下候御所南方、<幔中所司敷座、北面東上、>臨昏黑駕腰輿參社頭、<先自此近衛府使、於社頭奏可可舞參上社、>余率史外記向神立宿、所司御所南七[立?]十許間幄、其廻引幔北四間、辨、次外記、次史生、次官掌、皆以幔爲隔、厨家儲饌、深更齋王(選子)御坐神立、件御所五間檜皮葺屋一宇、<子午爲妻、>四面本院懸御簾、并敷々設、御所屋北在三間四間板屋、即爲御膳所、<院司宿此所、>御所巽■在十間板屋、以南五間爲檢非違使宿所、自余典侍以下供奉之人々無宿所、仍女官乍車<藏人以蚊車上所司立絹屋、>之向中中宮使<右馬頭、>大宮使<藏人兵衛佐(源)資通、亮替、>宿、召口取者被物、次束帯參御所行雜事、所司兼五間絹屋立南庭、山城屋中構棚備饌、所司其東西立床子、<北對屋、諸宮近衛馬寮使座也、内藏使南面横座、件座不依使位階、只依本所臈次也、>御所屋西方立五間幄一宇、<追御所屋立之、>敷辨以下院司等座、<辨西面南上、次外記史與辨絶席、院司東面南上、次所前駈所司供饌、>但今日甚雨、仍余并使等不着幄座、忽仰所司、装束檢非違使宿屋北方五間、<辨西面北上、次外記史使東面北上、次所前駈、>及未剋内藏使近衛府使着座、<自余雖頻催不着、依雨歟、>於座南三間哥舞、了賜禄、<院司授之、>次還御、御禊所装束、(後略)

『日本紀略』
 賀茂祭。
左経記 万寿2年
(1025)
4月23日 【斎院(選子)帰院】
 甚雨、及申剋齋王(選子)還本院、近衛府使率哥舞人、於客殿北砌發哥笛、<無所便、乃不舞、>院司立禄辛●於南中門内、垣下侍臣臨門下取禄、授使以下各分散、<依雨不召御前、>臨使少將還立、三獻了賜禄如恒、次於北方召陪從官人、賜禄有差、事了神立本院作法申民部卿(源俊賢)、民部卿被答云、前年爲行事辨之時、依雨石本院舞、其年依此咎、院有御悩、後日被行東遊、被謝■、後年雖甚雨、於東屋南妻<在一間北庇、>有哥舞、<舞人四人許立之、>是如形事也、頃之歸宅、

●=樻(木偏+貴。櫃(ひつ)の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 万寿3年
(1026)
4月3日 【斎院御禊前駈定】
 權大納言(藤原行成?)消息云、只今參關白殿(藤原頼通)可申、參内定御禊前駈欲内覽之處、只今自御堂、有今日御願文可清書仰事之間、早難入内、可令參御堂給之由、若然物内覽於御堂可有歟、隨仰可進止者、仰云、事倚神事、御堂無便歟、雖不見給早可被奏也者、及午剋大納言共參内、於左仗被定前駈、<余執筆、>令持外記進御所、被奏下、(後略)
日本紀略 万寿3年
(1026)
4月5日 【御禊祭定】
 賀茂禊祭定。
左経記
日本紀略
万寿3年
(1026)
4月12日 【斎院(選子)御禊】
『左経記』
 御禊如常、

『日本紀略』
 齋院(選子)禊。
左経記
日本紀略
万寿3年
(1026)
4月15日 【賀茂祭】
『左経記』
 朝間降雨、及巳剋陰雲忽晴、雨脚快止、及午剋之間參斎院(選子)、催行雜事、及申剋出御、使依遲來向時剋推移、着河原之間漸及秉燭、月蝕、<三分之一、>齋王(選子)向社頭之間、余率史等向神館宿、

『日本紀略』
 賀茂祭。酉時。日食。<十五分之十。>
左経記 万寿3年
(1026)
4月16日 【斎院(選子)帰院】
 及未刻齋王(選子)歸院、雜事如常、
小右記
日本紀略
万寿4年
(1027)
4月5日 【斎院御禊前駈定】
『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 賀茂禊定。
小右記 万寿4年
(1027)
4月12日 【斎院(選子)御禊】
(未入力)
左経記 万寿5年
[長元元年]
(1028)
2月21日 【斎院臨時爵申文を奏す】
 參關白殿(藤原頼通)并内、奏下中宮(威子)臨時被申爵、并齋院(選子)被申爵等名簿、(後略)
左経記 万寿5年
[長元元年]
(1028)
3月22日 【右大臣実資、斎院の御車料の牛を献ず】
 關白殿(藤原頼通)仰云、齋院(選子)御車●牛、年來從家令獻、而今年依爲重服不可獻、右大臣(藤原実資)可被奉之由可相示也、則詣右府申此由、承了之由被申、(後略)

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
左経記
小右記目録
日本紀略
万寿5年
[長元元年]
(1028)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『左経記』
(前略)書除目、令奏下畢、<依無兵部丞下給外記、後日可給兵部之由有仰、即被着御禊前駈者、>(後略)

『小右記』
(未入力)

『日本紀略』
 齋院(選子)禊前駈定。
左経記 万寿5年
[長元元年]
(1028)
4月8日 【源経頼、斎院で御禊の準備】
 參齋院、頃之右衛門督(藤原実成)被參入、於客殿被定出車午馬等、<余執筆、>下院司、本院儲酒肴粉熟等、事畢參内、(後略)
左経記
日本紀略
万寿5年
[長元元年]
(1028)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
『左経記』
 爲[將?]及午刻、參齋院催行雜事、未刻覽走童十人屐子着十四人、次覽牛十一頭、<御車●、右府(藤原実資)家牛、自余近江、山城各五頭、>及申刻齋王(選子)出御、酉刻着河原、御禊了入夜還御、於客殿前駈辨[并?]外記史等賜禄、<諸衛佐紅衾一帖、尉白單衣一領、余白褂一領、(小槻)貞行宿禰同單重一領、外記紅衾一帖、>今夜右衛門權佐(平)雅康、左衛門權佐(藤原)定任、左右衛尉等之外不歸參、仍不賜禄云々、<垣下殿上人取五位等禄、院次官以下取六位禄、>長官取余禄、次官貞行宿禰、判官外記禄、<長官字以此行可書註也、>

『日本紀略』
 賀茂齋王(選子)禊。

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
左経記
日本紀略
万寿5年
[長元元年]
(1028)
4月20日 【賀茂祭】
『左経記』
 上卿於客殿雨間覽走童十人屐子着十四人、次覽童女女騎馬四匹、并粧馬十二匹、及申刻寄御輿、上卿以下立東屋南廂下、乘輿欲出御之間、上卿以下先退出、於列見辻整行次第、予率史外記趣社頭、先着官行事幄、飲食畢、齋王(選子)着御休所之後、予率外記史等參入着御在所、南幔下座申行雜事、齋王乘輿參社後、余率史以下趣神立宿、<厨家儲饌、>今日降雨殊甚、而乘輿出御之後、天晴雲明已無雨氣、是神意霊驗已明也、大裏命婦藏人依甚雨諸車不儲馬、仍●司一人乘馬、余命婦藏人不乘度畢云々、内藏寮<使助仲康、>右馬寮、<頭(源)守隆、>右衛府、<權中將(源)實基、>春官、<大進(高階)成行、>各皆儉約、敢不過差云々、

『日本紀略』
 賀茂祭。

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
左経記 万寿5年
[長元元年]
(1028)
4月21日 【斎院(選子)帰院】
 厨家儲饌、巳刻率史外記參齋王(選子)御在所、示外記令催使々、午刻使々參着幄下座、近衛府歌舞、畢院司等使以下賜禄、次寄御車、余率史以下參院、穀倉院儲饌如常、齋王還御之後、院司南庭敷座、召使以下云々、依例着座、穀倉院賜衝重、兩三巡之後、<垣下勧盃、>近衛府使起座、率陪從舞人等、於南庭歌舞、了垣下并余取禄賜使以下、余執禄雖不可然、依爲院別當所執也、不可爲例、余禄白綾褂也、有權威[衍?]儀所被行歟、
小右記 長元元年
(1028)
10月13日 【栄爵を募り、斎院を造進】
(未入力)
日本紀略 長元2年
(1029)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈定】
 齋王(選子)御禊前駈定。
日本紀略 長元2年
(1029)
4月18日 【斎院(選子)御禊】
 賀茂齋王(選子)禊。
日本紀略 長元3年
(1030)
4月3日 【斎院(選子)御禊前駈定】
 今日。齋王(選子)禊前駈定。
左経記
日本紀略
長元4年
(1031)
4月5日 【斎院(選子)御禊前駈定】
『左経記』
 參殿并内、有召參朝干飯方、奏承雜事、及未剋右府(藤原実資)被參入、被定御禊前駈、<左大辨(藤原重尹)執筆、>入筥令藏人辨奏之、<先内覽次奏云々、>返給召外記給之、<件文取開納筥入定文令奏給、返給之後、加入取出文書等給外記也、>外記給之退出之次、跪左大辨後、取重硯筥退出、次右府退出云々、

『日本紀略』
 御禊前駈定。
左経記 長元4年
(1031)
4月17日 【斎院(選子)御禊】
 禊祭事可行之由、從左大辨(藤原重尹)許有消息、<昨日以前觸穢不被仰歟、>仍午許參齋院、着客座、暫藤中納言<定(定頼)>、被參入、内藏寮羞饌、依無垣下院長官勸盃、<寮官人執瓶子、>次見牛、次見院并一二車女從等、次左衛門權佐(藤原)家經着座、次藤少納言勸盃、巡行之儀、上擬余、々辨、々擬左衛門權佐、權佐大夫史(惟宗)義賢、々々擬外記、及申剋上以下起座、列立御前、御車之後、上余同車、於列見■[辻?]整次第渡給、了各歸宅、
左経記 長元4年
(1031)
4月20日 【賀茂祭】
 及午剋參齋院(選子)、先是藤中納言被參入、余參入之間、史外記不下、若是兼依上卿座歟、暫院司等着粉熟、次覽粧馬十二疋童女馬三疋、<今一疋遲參、仍且覽之、>次覽從女、了長官(平)以康朝臣申上卿云、從今朝御心地不例云々、度々有御祓、万事雖具了、因之暫懈怠者、又々可有御祓之由有仰、及申剋御心地復例之由云々、仍上以下列立南庭、寄御輿、々々之後上余同車、於列見辻整、次第令渡、及酉剋渡了歸宅、
左経記 長元4年
(1031)
7月13日 【宮主某が拘留、斎院(選子)が関白(頼通)に訴える】
(前略)參殿申云、今朝齋院(選子)御消息云、宮主紀伊[桁?]ム丸稱相撲人、被召籠左近府了、仍近來不行脚祓、爲之如何云々、仰云、未知案内、抑件男前年爲相撲人已了、何以相撲人爲宮主哉、頗不穏事也、抑相尋追可令申事之由、須之退出、
左経記 長元4年
(1031)
9月20日 【斎院(選子)出家を希望】
 及亥剋齋院長官(平)以康朝臣來向云、院(選子)御消息云、依年來本意、來廿五日許欲遁去、而關白(藤原頼通)聞給、此院(選子)女院(上東門院彰子)御共、彼日可詣石清水等、若有如然之事、甚無便歟云々、仍縮彼日、明後日可遁世也、令申承了之由、愚案、是不可奉抑留、人事皆有其運歟、就中前日、今年可吉之然有夢相之由有仰、神慮難知、何申左右乎、
左経記
小右記
長元4年
(1031)
9月21日 【斎院(選子)不例】
『左経記』
 齋院(選子)御消息旨申關白殿(藤原頼通)、被仰云、前日甲斐前守(平)範國朝臣侍語此事、仍可令過廿五日給之然[旨?]、以彼朝臣令申也、而明後日可令吉給之由、有御消息者、雖不可妨申、但事甚卒爾也、猶女院歸給、來月朝[朔?]比宜歟、以此趣可洩申者、參結政、而召使等遲參、仍不着座、下立觸史入内、史等引相從入内、次參齋院、申殿被仰之旨、仰云、須如殿仰、過院御物詣之後可遂本意也、然而月來心地不例之由、近來甚以難堪、若及重病者、恐難遂本意歟、仍所怠[恩?]思也、有次可申此然[旨?]者、參殿申此由、仰、不可申左右云々、次申云、爲院別當已及多年、此時不致愚忠、期何時乎、仍明日出御之間、欲參仕如何、仰云、夜中密行、他人不可知、計也[之?]有何事乎者、

『小右記』
 或云、斎院内親王(選子)、今月廿五日可被出院云々、関白(藤原頼通)聞其告云、不可拘留久、
左経記
小右記
日本紀略他
長元4年
(1031)
9月22日 【斎院選子内親王退下】
『左経記』
 及晩參殿、仰、今夜齋王(選子)可被退出之由依有云々、汝可參彼院之由、昨日有相示、倩思此事、頗無便歟、就中明日明後日共重複日也、仍今夜中可奏事由歟、其間事汝參彼院無人沙汰歟者、仍不參入歸宅、有障之由令申院、其使歸云、亥剋以大僧正(深覚)御車、秘藏可令渡室町給云々、及深夜、頭辨(藤原経任)被示云、齋院今夜被退出之由、只今聞食、實否如何、返報云、只今奉此■參入欲令奏事由之間也、事々自可申者、即參内、相逢頭辨云、賀茂齋王日來有所勞之由、此兩三日依殊重、今夜密退出、隨傳聞所令奏也者、辨奏此由、仰食聞由、次語云、今夜中仰右大臣(藤原実資)、可令勘先例者、只今可詣右府也云々、余參殿、又申事由歸宅、

『小右記』
 従中納言(藤原資平?)傳関白(藤原頼通)御消息云、廿五日斎院親王(選子)可被辞遁之由、先日有云々、(中略)
今夜俄可被出於院、驚寄[奇]無極、至今可任彼御情有遂者、今日宜日也、明日・明々日有重・復井御衰日等忌、内々以大外記文義可令勘申前例並可准據之例等宜、但出給自院之後、被問案内、一定之後、以頭弁可被仰下官、随則可仰外記者(後略)

『日本紀略』
 夜。賀茂斎院選子内親王依有老病。私以退出。天長八年有此例之由。外記勘申之。
小右記
左経記
日本紀略
長元4年
(1031)
9月28日 【選子出家】
『小右記』
<齊院御出家事>(右頭書)
 前齊藤院(選子)今夜出家云々、(後略)

『左経記』
 傳聞、今夜齋院(選子)御出家、大僧正(深覚)奉授受戒云々、

『日本紀略』
 今日。選子内親王落餝為尼。
左経記
日本紀略
長元4年
(1031)
10月11日 【斎院(選子)退下により、賀茂社に奉幣】
『左経記』
 參結政、先此左大辨以下參着入内云々、仍入内着使座、左衛門督(源師房)兼被着外座、大内記(橘)孝親令覽宣命、見了入筥給之、孝親取之立北庭、上起座、進弓場奏、了歸座、内記奉文、上開見、了取副笏、以筥給内記、々々取之退出、上卿起座、出自敷政門、參賀茂、<草令奏先了云、>於侍從所●上下社幣、立西垣下、<次官中務少輔高階、>件幣被謝申齋院被退出之由云々、(後略)

『日本紀略』
 奉幣賀茂社。被申齋院(選子)退出之由。

●=褁(裏の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 長元4年
(1031)
閏10月2日 【前斎院(選子)受戒】
 入夜參前齋院(選子)、覺超僧都參入、奉授十戒、及深夜退出、
左経記 長元4年
(1031)
12月5日 【前斎院(選子)に初斎院の雑事を尋ねる】
 参前齋院(選子)奉間初斎院間雜事<是依内并宮仰也>、次■[參?]殿權辨<(藤原)経任>申云、齋院式云、定齋王了即卜宮城便所、爲初齋院云々、内匠寮式云、斗帳二具<一具染塗、一具白木>、賀茂初齋院并野宮装束●云々、然者以諸司可謂初齋院也、仍件御帳等并雜具、令入諸司給之日可奉渡歟、而前齋卜定日、立件帳等<白木神殿●、漆塗齋王●>、之由有仰云々、為之如何、殿(藤原道長)仰云、誠有疑之事也、慥尋可申行也、又以此旨等可示右府(藤原実資)并民部卿(藤原斉信)等、聞有傳聞可被示予、權辨■右府令參内、以被院仰旨、令申内并宮、又參殿、權辨云、右府被申云、如式已爲初齋院●之分明也、而前齋院已卜定日可立由有命云々、當時無見彼間事之人、兩端疑忽難決、又々被尋行歟云々、民部卿被申云、依式文被行何難之有乎云々、余申云、前齋院卜定日、神殿等御帳可立之由仰之由、案同院式、於初齋院三年畢、其年四月參神社云々、就此文尋先例、婉子齋院承平元年十二月廿五日卜定、同二年九月廿九日入右近衛府、三年四月十二日入野宮云々、然者以里第可謂初齋院、又定齋王了、即卜宮城便所爲初齋院云々、即宗能可參歟、其■者[有?]卜定齋王、則可入諸司可、然者内匠寮以御帳等、可立其諸司■立里第、又不可懐運諸司、仍所仰之式歟、而擇日次之間、自然經廻里第、如然之間、不可不■神殿、仍早不入諸司之時、猶里第可立神殿御帳等歟云々、

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 長元7年
(1034)
7月13日 【前斎院(選子)、源光清(前斎院長官)の復位を関白頼通に依頼】
 先日前齋院(選子)令余申關白(藤原頼通)(源)光清可被復本位之由、殿仰云、先年平致頼復本位之例密々可尋者、仍尋之、長保元年依合戰配流、同三年有所念召返、同四年九月八日有定、被復本位、<是依流星變、除名輩復本官本位云々、>頭辨(藤原経任)令史生致正、■[脱字?]有奉幣使定可參之告、<左金吾(源師房)被參云々、>(後略)
左経記 長元8年
(1035)
6月11日 【中宮威子、斎院(馨子)へ行啓を希望】
 參殿、被仰中宮御祈事等、(中略)
次申云、前日宮(中宮威子)仰云、欲行啓齋院(馨子)、有使之時、可申事由者、爲知先例、今朝案内先齋院(選子)、御報云、任者三月廿余日退出者、爲之如何、仰云、未定間候、及三ヶ月之比退出歟、宮御事大一定歟、然者行啓尚不穏歟者、頃之參内先此結政了、(後略)
左経記 長元8年
(1035)
6月15日 【前斎院(選子)病悩】
 入夜參先齋院(選子)、御悩危急云々、没後事令注置給之由有仰、入道中將被候、可然之事一向中將被申契云々、(後略)
左経記
日本紀略
ほか
長元8年
(1035)
6月22日 【前斎院選子内親王薨去】
『左経記』
 先齋院(選子)申剋卒去給云々、

『日本紀略』
 前斎院一品選子内親王薨。<年七十二。>
左経記 長元8年
(1035)
6月25日 【故選子内親王葬送】
(6/24条)
 早旦參先齋院(選子)、謁入道中將、昨日依重日不參之由、并他雜事小[等?]聞了、歸家、
(6/25条)
 及晩景參先齋院、戌剋出自北門、<判官光兼秉燭乍布衣着當色、>亥剋許到蓮臺廟、<件所御故被點云々、>先去葬所一許町備葬體、<車張雨革、輪巻手作、先火、次幡六人、(皆着當色)、次御車(行障九基、官吏生、内藏史生持之)、藏御車、>次入道中將以下祇候、迎火七人秉燭、分立鳥居左右、<迎火人史生等余所催也、皆衣冠、藏史生頭所隨身也、>先鳥居外立御車、<懸榻、>導師、<法橋祈統、>咒願<前大僧都文慶、>了兒御車、奉入葬所、余示前伊賀守(源)光清、以車給咒願、以牛給件導師了、内藏頭阿波守相共、祇候外鳥居西邊、及曉歸京、御骨光清朝臣持之、入道中將相共持向、三井寺、可奉置可立御堂之處云々、葬所作法、外垣引調布、鳥居懸手作、内垣鳥居引懸生絹、又火屋上覆同絹、事了件材木絹布等施給蓮臺廟聖云々、
左経記 長元8年
(1035)
6月28日 【故選子内親王の薨奏】
『左経記』
 (平)以康朝臣來云、室町殿<先齋院(選子)御在所、>加賀前司限四千石可給留之由、申定了、即直散用中大僧正、大略所定如此、令申事由可改定者、薨後善事方、千三百余石、御四十九日間僧供女房等雜用三百余石、三井寺御堂作●千石、殘二百九十余石者、相示大底不悪、因之可被分充者、

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 長元8年
(1035)
6月29日 【故選子内親王の服喪について】
 大外記(清原)頼隆眞人云、去廿六日有政、<上宮内卿(源道方)、>衙後右衛門督(藤原経通)被參入、依無忌催左中辨、<(藤原)經任、>大膳大夫<敦頼、>等、復任申行之、同日各申行齋院(選子)御薨奏、依少納言不參、金吾進弓場云々、遁世之人有御服之時薨奏、先齋院不可有御錫紵、而外記所申行如何者、余■[答?]云、於親王者不論入道幼稚、雖無御服奏云々、入夜解除矣、
左経記 長元8年
(1035)
7月27日 【故選子内親王の五七忌法会】
(類聚雑例)
 參殿、及午後參先齋院(選子)、五七御法事也、供養佛像六觀音、并法華經一部、關結心經各一巻、阿彌陀經十巻、觀無量壽經一巻、講師眞範已講、々經畢例時、●等給布施云々、

●=僧(人偏+曾。僧の異体字。こちらを参照(字源))
左経記 長元8年
(1035)
8月4日 【故選子内親王の六七忌法会】
(類聚雑例)
 參殿、頃之參先齋院(選子)、六七日也、仍令源泉闍梨供養佛經云々、
左経記 長元8年
(1035)
8月11日 【故選子内親王の七七忌法会】
(類聚雑例)
 調講師前、備僧等非時、送前齋院(選子)、又清書御願文<右少辨作、>加署同奉之、今日七々日御法事也、依定考自不參入云々、



史料 記述
十三代要略
村上天皇
(皇女)
 選子内親王<母同上(皇后安子)。天延三年六月廿五日/爲齋院。長元四年九月辭退。>

圓融院
 天延三年<六月以選子内親王爲齋院。>
一代要記
村上天皇
(皇女)
 選子内親王<齊院、天延三ー、   母安子、中宮>

円融天皇
(賀茂)
 選子内ヽヽ[親王]
 <村上四[十]女、天延三ー卜定、>

華山院天皇
(賀茂)
 選子内親王<元、>

一條院天皇
(賀茂)
 選子内親王<元、>

三條天皇
(賀茂)
 選子内親王<元、>

後一条天皇
(賀茂)
 選子内親王
 <號大斎院、長元四ー九月竊出本院出家、依老耄也、歴五十七年、同[八年脱]六月廿二日薨、>
帝王編年記
村上天皇
(皇女)
 選子〃〃〃[内親王]<母同上(皇后藤安子)/賀茂齋院>

圓融院
(齋院)
 選子内親王<村上天皇第十女/天延三年六月廿五日卜定>

華山院
(齋院)
 選子内親王<如故>

一條院
(齋院)
 選子内親王<如故>

三條院
(齋院)
 選子内親王<如故>

後一條院
(齋院)
 選子内親王<如故/長元四年九月廿二日竊出本院爲尼依老耄>
二中歴
(齋院)
 選子<村上女號大齋院天延三年(奉遇)五代帝治五十年>

(歌人・女房)
 選子内親王<大齋院>
皇代暦
円融天皇
(齋院)
 選子内親王 村上七女

花山天皇
(齋院)
 選子内親王 如故

一条天皇
(齋院)
 選子内親王 母故

三条天皇
(齋院)
 選子内親王 如故

後一条天皇
(齋院)
 選子内親王<元>
長元四年九月竊出本院出家依老耄也同八年六月廿日薨
本朝皇胤紹運録
(村上天皇子)
(267)選子内親王[齋院。號大齋院。歴五代。<六十五。>母同(中宮安子。師輔公女)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
選子内親王 天延三年卜定。村上天皇第十皇女。母中宮安子。師輔公女。<號大齋院。歴五代朝。五十年。>
賀茂斎院記
選子内親王
村上天皇第十皇女也。母中宮安子。藤原師輔女也。
円融院天延三年六月二十五日卜定。以陸奥守貞盛二条万里小路宅為潔斎所。
貞元元年四月二十五日賀茂祭。選子未入本院。仍無供奉。
九月二十二日。選子入大膳職。
二年四月十六日選子禊于東河入紫野院。中納言藤原為光為前駈。
天元五年三月二十二日宣旨。賀茂斎王禊祭之間。陪従人等着綾羅之事事可禁制。
四月二十二日賀茂斎王禊也。上卿中納言済時。参議伊陟。称有故障而不参。被催他卿相之間。日即暮矣。遂不参。仍命左中弁懐忠為上代。外記伝宣。亥刻選子向禊処。今日禁中有犬死穢。御料牛自陣外被奉之。
永観二年八月花山院受禅。九月五日遣参議藤原公季于賀茂社。告斎王不改之由。
寛和二年七月一条院即位。斎王不改。
正暦三年十一月五日強盗入斎院。依是諸卿参彼院。二十六日遣幣使于賀茂社。
長徳元年四月十八日斎王禊也。上卿権中納言源伊陟。以有傍親服而不参。参議藤原実資行之。今日前駈等触関白家穢之由雖申之。内許之。選子輿過堀河之間。雷電霹靂。時人云。穢気之人供奉之所致也。頃之晴。選子還院之後。降雹大如栗。
寛弘四年四月十六日斎院禊延引。昨日内裡有犬死穢之故也。仰外記云。一条院北至于堀河。例年禊祭供奉人皆以下馬。但今年不可然。皆可騎馬。
三条院即位之後。斎王不改。
長和元年四月十九日大外記敦頼献伊勢斎王帰京。賀茂斎院不改之勘文。
後一条院即位之後。斎王不改。
長元四年九月二十二日選子依有老病私以退出。天長八年有此例之由外記勘申之。
是月二十八日選子落飾為尼。
選子在斎院之間。凡歴五代。当時称大斎院。選子善詠倭歌。嘗遣人于上東門院。請見新奇之草子。於是上東門院命紫式部。新撰源氏物語以遣之。
長元八年六月二十二日薨去。<年七十二。>
枕草子
(85段)
【中宮定子、斎院選子内親王と贈答】
 局へいととく下るれば、侍(さぶらい)の長なるもの、柚(ゆ)の葉のごとくなる宿直衣(とのゐぎぬ)の袖の上に、青き紙の松に付けたるを置きて、わななき出でたり。
(清少納言)「それは、いづこのぞ」
と問へば、
(侍)「斎院(選子)より」
と言ふに、ふとめでたうおぼえて、取りてまゐりぬ。
 (中宮定子は)まだ大殿籠りたれば、まづ御帳(みちょう)にあたりたる御格子を、碁盤などかき寄せて、ひとり念じ上ぐる、いと重し。片つ方なれば、きしめくに、おどろかせたまひて、
(中宮)「など、さはすることぞ」
とのたまはすれば、
(清少)「斎院より御文のさぶらはむには、いかでか急ぎ上げはべらざらむ」
と申すに、
(中宮)「げに、いととかりけり」
とて、起きさせたまへり。御文あけさせたまへれば、五寸ばかりなる卯槌(うづち)二つを、卯杖(うづえ)のさまに頭(かしら)などを包みて、山橘、日かげ、山菅(やますげ)など、うつくしげにかざりて、御文はなし。ただなるやうあらむやは、とて、御覧ずれば、卯杖の頭包みたる小さき紙に、

(選子)
 山とよむ斧の響きを尋ぬれば祝ひの杖の音にぞありける

 御返り書かせたまふほども、いとめでたし。斎院には、これより聞えさせたまふも、御返りも、なほ心異(こと)に、書きけがし多う、御用意見えたり。御使に、白き織物のひとへ、蘇芳なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるにかづきてまゐるも、をかしう見ゆ。そのたびの御返しを、知らずなりにしこそ、くちをしう。
栄花物語
(1・月の宴)
【選子内親王誕生と中宮安子崩御】
 そこらの内外(うちと)額(ぬか)をつき、おしこりてどよみたるに、御子(選子)いかいかと泣きたまふ。あなうれしと思て、のちの御事どもを思ひ騒ぐほどぞいみじき。「や」とののしる程に、やがて消え入らせたまひにけり。かくいふことは応和四年四月二十九日、いえばおろかなりや。思ひやるべし。内裏(うち)の宮たちもよべぞ出でさせたまひつる。
 此たびの宮(選子)、女にぞおはしましける。宮たちまだ幼くおはしませば、何とも思したるまじけれど、おほかたのひびきにいみじう泣かせ給ふ。(中略)
 さてやはとて、今宮(選子)は、侍従命婦かねてもしか思ししことなれば、やがて仕うまつる。
「あはれ、例のやうに平らかにおはしまさましかば、こたびは心ことにいかにめでたからまし」
と言ひつづけて、殿ばら、女房たち泣きどよみたる、ことわりにいみじき御事なりかし。(中略)

 かくて宮たち内裏に参らせたまふに、今宮も忍びておはしますを、あはれに悲しと見たてまつらせたまふ。(選子は)いみじうおかしげにめでたうおはします。御五十日(いか)は里にてぞきこしめす。御衣(おんぞ)の色ども、ひたみちに墨染なり。(中略)

 女十の宮(選子)、この(円融天皇の)御時に斎院にゐさせたまひにけり。
栄花物語
(3・さまざまのよろこび)
【一条天皇朝の斎院】
 帝はかはらせたまへど、斎院には同じ村上の十の宮(選子)におはします。
栄花物語
(4・みはてぬゆめ)
【斎院選子内親王、藤原斉信へ弔問】
 (太政大臣藤原為光の)御忌のころ、この中将(斉信。為光の子)のもとに、斎院(選子)より御とぶらいありける。かくなん、

(選子)
 色かはる袖には露のいかならん思ひやるにも消えぞいらるる

 あはれなることども。
栄花物語
(8・はつはな)
【斎院選子内親王、道長に返歌】
 小忌(おみ)の夜は宰相の五節に童女の汗衫(かざみ)、大人のかしづきにみな青摺をして、赤紐をなんしたりけるといふことを、後に斎院(選子)聞しめして、をかしうもと思しめして、召したりければ、御覧じて、げにいと今めかしう思しめして、青き紙の端にて袂に結びつけて返させたまへり、

(選子)
 神代より摺れる衣といひながらまた重ねてもめづらしきかな

(中略)

 中宮(彰子)の若宮(敦成親王=後一条天皇)、いみじういとうつくしうて走りありかせたまふ。今年は三つにならせたまふ。四月には、殿(道長)、一条の御桟敷にて若宮に(賀茂祭の)物御覧ぜさせたまふ。いみじうふくらかに白う愛敬づき、うつくしうおはしますを、斎院の渡らせたまふをり、大殿、これはいかがとて、若宮を抱きたてまつりたまひて、御簾をかかげさせたまへれば、斎院の御輿の帷より、御扇をさし出でさせたまへるは、見たてまつらせたまふなるべし。かくて暮れぬれば、またの日、斎院より、

(選子)
 光いづるあふひのかげを見てしかば年経にけるもうれしかりけり

御返し、殿の御前、

(道長)
 もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のしるしなるらん

とぞ聞えさせたまひける。
栄花物語
(25・みねの月)
【三条院皇后娍子の崩御・葬送】
 (雲林院の)西の院には、その日(娍子の葬送の日)になりぬれば、さるべき御有様、日一日(ひひとひ)いそがせたまふ。西の院の戌亥の方に築地つきこめて、檜皮葺の屋(や)いとをかしげに造らせたまひて、そこに納めたてまつらせたまふべきなりけり。院(小一条院)などの一夜(ひとよ)も今夜も歩ませたまふぞ、おろかならず見えさせたまふ。御念仏の僧など数知らず多かるなかにも、四の宮(師明親王)の御方より、奈良、仁和寺などより参りこむ。あはれなる御けはひも、(紫野から)遠からぬほどを、斎院(選子)に御耳とまりて、とみに御殿籠らず、よろづ思し知らせたまふ。

※皇后娍子(せいし/すけこ)の「せい(すけ)」の字は、女偏+成。こちらを参照(字源)。
栄花物語
(27・ころものたま)
【上東門院彰子出家、斎院選子内親王と道長の贈答】
 (上東門院彰子が出家して)日ごろ過ぐさせたまふままに、内(後一条天皇)にも、東宮(敦良親王=後朱雀天皇)にも、ゆかしき御有様を、いつしかと心もとなく聞えさせたまふ。斎院(選子)よりかく聞えさせたまへり。

(選子)
 君すらもまことに道に入りぬなり一人やながき闇にまどはん。

 この御返り、殿の御前(道長)聞えさせたまふ。

(道長)
 あとをたれ人みちびきにあらはれてこの宮仕惑ひしもせじ

と申させたまへり。
栄花物語
(31・殿上の花見)
【斎院選子内親王の退下】
 斎院(選子)は、村上の十の宮、ゐさせたまひて年久しくならせたまひぬるが、おりゐさせたまひぬれば、二の宮(馨子内親王)ゐさせたまふべし。(中略)

 斎院(選子)おりゐさせたまひて、御せうとの入道の兵部卿宮(致平親王)に対面(たいめ)せさせたまひて、聞えさせたまひける、

(選子)
 今日ぞ思ふ君にあはでややみなまし八十余りの年なかりせば

 いみじうこよなきほどの年月なりかし。いと若くて院にならせたまひ、兵部卿宮かたちことにならせたまひにしかば、いかでかは見たてまつらせたまはん。御はらからにぞおましましける。
 まことや、殿上の人々も花見、関白殿も御覧じけるに、斎院より、

(選子)
 残りなく尋ぬなれども注連(しめ)のうちの花は花にもあらぬなりけり

と聞えさせたまへりければ、東宮大夫(頼宗)の御返し、

(頼宗)
 風をいたみまづぞ山べを尋ねつる注連結ふ花は散らじと思ひて

 この歌の返しは、かくこそ集には、

(選子)
 残りなくなりぬる春に散りぬべき花ばかりをばねたまざらなん

と聞えさせたまへり。
大鏡(上)
村上御記曰、応和四年四月廿九日、辰刻使蔵人文利問中宮(安子)、兼令問止産養否之由、
還来申、伊尹朝臣申云、自今暁寅刻、気息雖纔通、不可敢存坐、更不可被行他事、
即令召惟賢、々々参来、令文利申云、中宮気已絶、但聞、御身頗暖、依有事疑、不能参上、
兼通朝臣有令申所、為之如何、令仰云、若未終給以前参来者、早可参上、
惟賢参上、申云、兼通朝臣令申、候宮諸司官人等、若可被忌御穢者、不可令通、随仰将進止、
令仰云、聞此由悲嘆不知所為、宮人暫不可令通内裏、又遣文利問、中宮巳刻崩、文利還来、申云、中宮已崩、加持僧等皆退下(後略)

 母后(安子)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝(円融天皇)・冷泉院とうみたてまつりたまへる、いとやむごとなき御宿世なり。御母かたの祖父(おほぢ)は出雲守従五位下[上?]藤原経邦と言ひし人なり。(中略)
 中后と申す、この(安子の)御ことなり。女十宮(選子)うみたてまつりたまふたび、かくれさせたまへりし御嘆きこそ、いとかなしくうけたまはりしか。村上御日記御覧したる人もおはしますらむ。ほのぼの伝へうけたまはるにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなくさぶらふな。そのとどまりおはします女宮(選子)こそは、大斎院よ。

 さて、この御腹(中宮安子)におはしましし、女宮一所(承子内親王)こそ、いとはかなく、うせたまひにしか。(中略)
うみおきたてまつらせたまひし度の宮こそは、今の斎院(選子内親王)におはしませ。いつきの宮、世に多くおはしませど、これはことに動きなく、世にひさしくたもちおはします。ただこの御一筋(師輔流)のかく栄えたまふべきとぞ見申す。
 昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませたまひけれど、この宮(選子)には仏法をさへあがめたまひて、朝ごとの御念誦かかせたまはず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせたまふめれ。いととうより神人(かみびと)にならせたまひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼへさぶらふは、賀茂の祭の日、一条の大路に、そこら集まりたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせたまひけむこそ、なほあさましくはべれ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせたまはぬか。御禊よりはじめ、三箇日の作法、出車(いだしぐるま)などのめでたさ、おほかた、御さまの、いと優(いう)にらうらうじくおはしましたるぞ。

 今の関白殿(頼通)、兵衛佐にて、御禊に御前せさせたまへりしに、いと幼くおはしませば、例は本院に帰らせたまひて、人々に禄などたまはするを、これは(賀茂川の)河原より出でさせたまひしかば、思ひかけぬ御ことにて、さる御心まうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面(おんたいめ)などせさせたまひて、奉りたまへりける小袿をぞ、かづけたてまつらせたまへりける。入道殿(道長)、聞かせたまひて、
「いとをかしくもしたまへるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやりたまはむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せたまふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」
とぞ申させたまひける。
 この当代(後一条天皇)や東宮(敦良親王=後朱雀天皇)などの、まだ宮たちにておはしましし時、祭見せたてまつらせたまひし御桟敷の前過ぎさせたまふほど、殿(道長)の御膝に、二所ながら据ゑたてまつらせたまひて、
「この宮たち見たてまつらせたまへ」
と申させたまへば、御輿(みこし)の帷(かたびら)より赤色の御扇のつまをさし出でたまへりけり。殿(道長)をはじめたてまつりて、
「なほ心ばせめでたくおはする院なりや。かかるしるしを見せたまはずは、いかでか、見たてまつりたまふらむとも知らまし」
とこそは、感じたてまつらせたまひけれ。

 院より大宮(中宮彰子)に聞こえさせたまひける、

(選子)
 ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積みけるもうれしかりけり

御返し、

(彰子)
 もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ

 げに賀茂明神などのうけたてまつりたまへればこそ、二代までうちつづき栄えさせたまふらめな。このこと、
「いとをかしうせさせたまへり」
と、世の人申ししに、前(さき)の帥(そち/藤原隆家)のみぞ、
「追従(ついそう)ぶかき老狐かな。あな、愛嬌(あいぎゃう)な」
と申したまひける。
無名草子
 また、
「昔のやうの宮ばらの御ありさま、あまたうけたまはる中に、大斎院(選子内親王)こそ、めでたくおはしましけむとおぼえさせたまへ。ただ今の時の后にておはしまさむ御方々は、華やかに今めかしくも、また、心にくくもおはしまさむ、ことはりなり。
 これ(選子)は、いつもめづらしからぬ常磐(ときは)の蔭にて、有栖川の音より外(ほか)は人目稀なる御住まひにて、いつもたゆみなくおはしましけむほどこそ、限りなくめでたくおぼえさせたまへ。
 さりながら、御年なども若くおはしまさむほどは、ことわりなりや。むげに老い衰へ、御世も末になりて、そのかみ参り慣れてはべりけむ人もをさをさなく、今の世の人もはかばかしく参ることもなき末の世になりてしも、九月十日余日(よひ)の月明(あ)かかりけるに、雲林院の不断の念仏の果てに参りたりける殿上人、四五人ばかり、帰さに、本院の御門(みかど)の細めに開きたるより、やをら入りて、昔より心にくく言はれさせたまふ院のうち、忍びて見むと思ひけるに、人の音もせず、しめじめとありけるに、御前の前栽心にまかせて高く生ひ茂るを、露は月の光に照らされてきらめきわたり、虫の声々かしがましきまで聞こえ、遣水の音のどやかにて、船岡の颪(おろし)、風冷ややかに吹きわたりけるに、御前の簾(す)少しはたらきて、薫物の香(か)、いとかうばしく匂ひ出でたりけるだに、今まで御格子(みこうし)も参らで月など御覧じけるにやと、あさましくめでたくおぼえけるに、奥深く、筝の琴を平調に調べられたる声、ほのかに聞こえたりける、さは、かかることこそと、めづらかにおぼえける、ことわりなり。
 さて、かかる御ありさまを、見けると、知らせたてまつらざらむ口惜しさとて、人などの参る方へ立ち回りたまへりける、そこにも女房二三人ばかり、物語してもとよりはべりけるに、いとをかしくて、琴など弾き遊びて、明け方になりてこそ、内裏(うち)に帰り参りて、めでたかりつることどもなど語りたまひけれ。
今鏡
(1・子の日)
 三年の正月十九日太皇太后宮(彰子)御さまかへさせ給ひき。后の御名もとどめさせ給ひて、上東門院と申しき。四十だにまだ満たせ給はぬに、いと心かしこく世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも聞えさせ給ひき。
 大斎院と申ししは、選子内親王と聞えさせ給ひし、この御事を聞かせ給ひて、詠みたてまつらせ給へる御歌、

(選子)
 君はしも真の道に入りぬなりひとりや長き闇にまどはむ

 この斎院は村上の皇后宮(安子)の生みおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三条殿(兼家)の御妹なれば、この入道殿(道長)には御伯母にあたらせ給ふぞかし。
古今著聞集
(5・和歌)
【150・斎院選子内親王、花見の殿上人に柳の枝を賜ふ事】
 嘉保三年(1096)正月三十日、殿上人船岡にて花を見けるに、斎院の選子より柳の枝をたまはせけり。人々これを見ければ、「いとのしたには」と書かれたりけり。他の人その心を知らざりけるに、(源)雅通たまたま古歌の一句をさとりて、返事を奉りけるにこそ、人々の色なほりにけれ。紙のなかりければ、直衣を破(や)りて書き侍りける、

 ちりぬべき花をのみこそ尋ねつれ思ひもよらず青柳の糸

 その夜の事にや、殿上人斎院へ参りたりける、御用意なからんことをはかりたてまつりけるにや。さるほどに、寝殿より打衣きたる女房あゆみいでて、笙をもちて殿上人にたまはせけり。雪にて管をつくり、たるひ(垂氷=つらら)にて竹を作りたりけり。すなはち内裏へもちてまゐりて(帝に)御覧ぜさせければ、ことに叡感ありて大宮へ奉らせ給ひけり。人々後朝(きぬぎぬ)に斎院へ帰りまゐりたりければ、酒肴をぞまうけられたりける。用意ありける事にや。

嘉保3年は選子の没後。源雅通は、宇多源氏(雅信子、1017没)であれば選子と同時代で、村上源氏(顕通子、1118-1175)はまだ生まれていない。なお「ちりぬべき」の歌は『玉葉集』に藤原頼宗(993-1065,道長子)の詠歌として載る。
斎宮女御集
  • 女御(徽子女王)うせさせたまひてのち、さい院(選子内親王)より御とぶらひの御かへりに、さい宮
(4)影みえぬなみだのふちのころもでにうづまくあわのきえぞしぬべき(規子内親王)

  • さい院(選子内親王)にきこえたまひける
(202)いはでのみしのぶのしげき野のよしを風のたよりにたづねつるかな(徽子女王)
    (伊勢へ)くだりたまへるころ、かの宮より
(203)あきぎりのたちてゆくらんつゆけさにこころをつけて思ひやるかな(選子内親王)
    おほむかえり
(204)よそながらたつあきぎりにいかなれやのべにたもとはわかれぬものを(徽子女王)
大斎院前の御集
  • 二月十三日、紫野にて朱雀院の御子の日せさせ給ふに、院の人々見せさせ給ふ。野に車ども立て並(な)めたるに、この車をとどめて、(藤原)実方の少将見おこするほどに、言ひにやる
(44)紫の雲の下(お)りゐる今日さへや小松たなびく霞立つらむ
    少将、返し、
(45)紫の雲のたなびく松なれば緑の色もことに見えけり(実方)
    またの夜、夜うちふけて、殿上人あまた参れり。(源)為理
(46)いづこより立つ初春ぞ東(こち)風にとくる氷やしるべなるらむ
    延正
(47)初春の風に氷もとけぬらし汀に波の今や寄すらむ
    (源)忠理
(48)
春風に氷とけては水の面(おも)に降りつむ雪ぞかひなかりける

  • 四月、禊ぎの夜、河原にて神のいたう鳴りければ、
    右近の君の乗りたる車にいひやる。進
(71)常よりも禊ぎを神の受くればや鳴りぬ[る脱?]つらの空に見ゆらむ
    右近
(72)川神もあらはれて鳴る御手洗に思はむことをみな禊ぎせよ

  • 実方の兵衛の佐、車のもとに立ち寄りてものなどいふ
(73)なかれても語らひ果てじほととぎす影みたらしの川とこそ見め
    兵衛の佐
(74)よそにても偲ぶる声はほととぎす祈る斎垣(いがき)の垣根ばかりを

  • 祭のまたの日、宰相のもとに、進
(75)つみしかばねぞなかれにし木綿襷(ゆふだすき)かけ離れたるこしのあふひは
    返し
(76)木綿襷かけ離れたるあふひ草何のつみともおもほゆるかな(宰相)

  • 神館にて左大将殿(藤原朝光)の大夫の君のもとに、
    葵に懸きて、進
(77)今日ばかりこそあふひかざさめ
    大夫
(77)たちかへるあしたのほどのわびしきは
    といととくようのたまへり

  • つごもりの日、御祓へ参らせたるに、例は大幣は参らするに、
    紙をかしげに懸きて参らせたれば
(113)かからねどかみの木綿(ゆふ)とは見えぬるを(選子内親王)
    とのたまはするを、進
(113)立つ月ごとに禊ぎするかな
    大幣とくまかでむと請へば、なほ、進、
(114)今宵しも大幣とくと請ふなるは夏越の月になりぞしぬらし
    と聞こえさすれば
(115)朝夕に大幣懸かる標(しめ)のうちはつねに夏越の月かとぞ思ふ(選子内親王)

  • 四月二十日、禊ぎの河原に送りたる人、宰相の君を、下り給へとあれば
(147)なほみたらしの川とこそ見め
    とあれば、進
(147)禊げどもかひなき恋の苦しきに
    とあり

  • 風の吹くは、川波いといたうするを御覧じて
(148)年を経て禊ぎ川波立ち返りいくたびかかる影を見つらむ(選子内親王)
(149)禊ぎしてねぶる河原に影見れば神さびにける心地こそすれ

  • 御阿礼(みあれ)の日、宰相の君、賀茂に詣(ま)で給へるに、
    きよげなる車のありけるに、葵をやるとて
(150)知らねども神の御生(みあ)れにあふひ草
    とあれば、いととく
(150)祈るしるしのなかりけりやは
    とうちつけて、車走らせて往(い)ぬ。誰なりけむと
    おぼつかなかりしは、春宮(懐仁親王)の宮内の乳母なりけり

  • 二十八日、鎮魂(ちこん)の祭せさせ給ふに、人々行きて見るに、
    木綿鬘(ゆふかづら)入れたるを、皆人々とりて掛くる折に、宰相
(227)神人とつねは見えねどゆふかづら掛かる折にぞ思ひ知らるる
    進、数のうちにもあらねば
(228)八少女(やおとめ)にあらぬ人さへちはやぶる神■■[さび?]けれと今こそは知れ
    (選子内親王?)の御魂結びする糸を見て、宰相
(229)君が代の玉の緒延べて神人の千歳の影を結びとどめむ
    使の民部
(230)世々を経て結びとどむる玉の緒は幾千代(いくちよ)長き君が御代(みよ)なり

  • 十一月あやむべ(相嘗)の日、去年(こぞ)の日蔭の赤くなりにたるにさして、左衛門の督(源重光)
    (※約二行分空白)
(244)さしはへて見る今日よりもまばゆきは去年(こぞ)の日蔭の赤きなりけり
    返し、忘れて

  • 汗殿ににはかにまかでてあるに、雨のいみじう降りてわりなきを
    思ふに、相撲草(すまひぐさ)の蓬の中にありけるを取らせて、宰相
(265)白露のかかる野中にすまひ草雨に乱れてうなだれにけり
    民部(みぶ)
(266)相撲草雨に打たれていとどしく数置く露に濡れやますらむ
    梨のかりもりして汗殿に賜へるに、書きつく。民部
(267)かりもりに会はずなりぬる
    とあれば、宰相
(267)秋霧の晴れせぬ空に鳴きわたる

  • 進の、親のもとよりおこせたる言の葉のいとあはれなるを見て、
    遠しなどいへど、あるは文にて見れば慰む、あはれなるは限り
(308)生きたるは遥けき道もなかりけりなぞや死出路(しでぢ)はよみも通はじ
(309)たらちねのなきを恋ふればむばたまのよの常よりもあはれなるかな
    (選子内親王が)これを聞こしめして、おはしましけむ御さまも思ほえぬはいみじ
    など宣はせて
(310)よそにても聞けば頼もし悲しきはそことも知らぬ別れなりけり(選子内親王)

大斎院御集
  • 二十四日、また子の日なるに、「船岡のかたに、車なむ行く」といふほどに、ふみにさし置かせたり。
(11)神垣に止まる心もあるものを今日の禊ぎは夕かけてせむ
    返し、尋ねて、追ひて、つかはす。
(12)夕かけてたが子の日する野べならむ霞のみこそまづはたなびけ

  • 雲林院の花見に、殿上人ども行きて、高松殿の中将(藤原頼宗?)、中門のもとに入りたまひて、
(15)われこそ見つれ花の匂ひを
    とあれば、
(15)ほどもなく移ろふ色を春のうちに
    また、「花見に行く。」と聞けど、この度は参る人もなければ、いみじう長き柳をもて、「糸のもとには」といはせたれば、
(16)散りぬべき花をのみこそ見にきつれ思ひもよらぬ青柳の糸

  • (藤原)定頼の君(公任男)、行事(かうじ)なりしを、四月、祭の日、にはかに替りて、神館の車に入れさせ給ひける、
(19)人の上と今日の葵を見つるかなかけてもよそに思はざりしを
    返し、
(20)待ちかけし神の葵にことよせておなじ山にと思ひしものを
    中納言(藤原頼宗?)、御車の出だし車なるに、結ひつけてある、
(21)この車ものいひ車ゆめよゆめめくらわらて人に乗るらな
    返し、結ひつけさせて、やる、
(22)君に似て車の口はあしくともこの輪に乗らむ人のなきかな

『小右記』(長和4年(1015)4月14日条)によると、右中弁定頼が触穢のため賀茂祭の行事弁を替わっており、この時の贈答とされる(橋本不美男『王朝和歌史の研究』p434、『大斎院御集全注釈』p44-45)。

  • 賀茂までける人々入りきて、十月ばかり、御前なる紅葉を見て、いみじう愛でて、「色しばし」といはせたれば、榊に書きて、
(45)標(しめ)の榊は色も変はらじ
    二日ばかりありて、青い榊に破(や)りなして、色々の紙に包みて、参らす。
(45)飽かざりし袖の雫は数しけり
    また、これを、人々残して、
(46)飽かずといふ袖の時雨かすめはほどなく人の帰らましやは

  • 霜月、あべべ(相嘗)の祭といふもの、せさせ給ふ。五日は、若き人々、豊の明りなどをかしがるほどに、中務、異なれば、くちをしがりて、中将に御前のものやるとて、
(56)秋山に身隠(みごも)り生(お)ふる日陰草さしはへる日はまばゆかりけり(中務)
    「中務は、めづらしげなし。」とて、右の大殿(藤原公季?)の中納言の君(藤原実成?)
(57)ほのかなる森の日陰のさやけきに神の御山を思ひこそやれ(中納言)

長和・寛仁年間に右大臣の子息で中納言であったのは、藤原公季(長和6年(1017)3月右大臣、治安元年(1021)7月太政大臣)の子実成(長和4年(1015)10月権中納言、治安3年(1023)中納言、長暦2年(1038)除名)のみ。従って、この贈答は寛仁元年(1017)~同4年(1020)の間か(『大斎院御集全注釈』p104-107)。

  • 中務の典侍、祭の使ひにて、神館に参らせたる。「親など斎院の人なりけるを思ふに、葵かけし
(71)昔より祈りそめてし木綿襷(ゆふだすき)おなじ御山(みやま)のかざしを■さす(中務典侍)
    返し、
(72)年をへむかざしの草のしるしこそおなじ山べに隠れざりけり

  • 霜月の九日、あべべ(相嘗)の祭に、その豊の明りに、宣旨(せじ)のさぶらひし、まかでて、消息ありしを思ひて、中務、
(88)神山の日陰は見しに変はらねど君や袂の色にくるらむ(中務)
    返し、
(89)かきくらす涙の闇の雲間にも豊の明りは思ひいでぞせし(宣旨)
藤原頼宗集
  • 三条院御時殿上人上卿子日せんとてしけるに斎院(選子内親王)女はうなとものい[ミ]むとせしほとに事ともあまりにてとまりにしかはそのつ[ト]めてさいゐに
(3)とまりにしねのひのまつもけふよりはひかぬためしにひかるへきかな
(とまりにし子日の松も今日よりは引かぬためしに引かるべきかな)

  • 上卿はなみるとて観音院のかたより雲林院をなかめてかへりほとにさいゐのくるまいてゝものみてすくるほとにふ[ミ]ありみれはしめのうちのはなははなにもあらぬなるらしとありしに
(8)かせをいたみまつやまへをそたつねつるしめゆふはなはちらしとおもひて
(風をいたみまづ山辺をぞ尋ねつるしめ結ふ花は散らじと思ひて)

『玉葉和歌集』に選子内親王と堀河右大臣の贈答として載る。なお詞書によると、頼宗の返歌は関白(頼通)に代わって詠んだものであるという。

  • ゆきのいみしうふりたりしに月あかくてさいゐにまいりて
(13)つきかけのあかさりつれはゆきめくりなかむる人をたつねつるかな
(月影の飽かざりつればゆきめぐり眺むる人を尋ねつるかな)
詞花和歌集
  • (雑歌)賀茂の斎(いつき)ときこえける時、西に向ひてよめる
          選子内親王
(410)思へども忌むとていはぬことなればそなたにむきて音をのみぞ泣く
後拾遺和歌集
  • (雑歌)後一条院幼くおはしましける時、祭御覧じけるに、斎院(いつき)の渡り侍けるをり、入道前太政大臣(藤原道長)抱きたてまつりて侍けるを見たてまつりてのちに、太政大臣のもとにつかはしける
          選子内親王
(1107)ひかり出づるあふひのかげを見てしかば年へにけるもうれしかりけり

  返し      入道前太政大臣(道長)
(1108)もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のしるしなるらん

  • (雑歌)後一条院御時賀茂行幸侍りけるに、上東門院(藤原彰子)御輿に乗らせ給ひて紫野より帰らせたまひにける又のあした、聞えさせ侍りける
          選子内親王
(1109)みゆきせし賀茂の川波かへるさに立ちや寄るとぞ待ちあかしつる
千載和歌集
  • (雑歌)いぶかしく思し召されける人のむすめの、女房の局にゆかりありて忍びて方違へにまいれりけるを、あか月とく出でにければ遣しける
          選子内親王
(968)逢ひ見むと思ひし事を違ふればつらきかたにも定めつるかな

  • 選子内親王に侍ける右近、後の斎院(17代馨子内親王)に参りて御禊の出し車に乗ると聞きて、又の日つかはしける
          大斎院中将
(969)みそぎせし賀茂の川波たちかへり早く見しよに袖は濡れきや

  • 祭の使にて神館の宿所より斎院(選子)女房につかはしける(984-994頃)
          藤原実方朝臣
(970)ちはやぶるいつきの宮の旅寝にはあふひぞ草の枕なりける

実方が左近衛少将に着任したのが永観2年(984)2月であり、祭の近衛使となったのはこれ以降か。


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