3B 2022/04/27版
第3回
日本文化における俗芸術 その1ー中世穢土 畏敬と畏怖
密教の怖い仏像、ストリート・アート、仏教とヒンドゥー教の闘神 風流芸術、穢土と浄土、鬼と地獄
エンターテーメントとは、ポップ・カルチャーであり、俗の芸術の一部である。
この講義では、日本独特の芸術の有り様を、俗の芸術史の一部として読み説くことを試みる。絵画や彫刻といった美術だけでなく、歌舞伎などのダンスや演劇、衣装、あるいは草表紙などの文芸や文学までを網羅して、俗芸術の文化と歴史を明らかにする。これにより、どのような影響から、俗の芸術が派生して、進化していったかを探る。
キーワードとなるのは、「仏教」「大陸の影響ーインド」「穢土から江戸へ」「かぶき者」「いき」「見立」と「うがち」、「アメリカ文化の移植」、「ヤンキー」と「かわいい」、そして、鬼や悪しきものに向けられた「畏怖と畏敬」である。
これら日本の文化が熟成してきた独特の感性と表象について論考を行う。
当講義の目的
今回から4回に渡り、「日本美術における畏敬と異様の系譜—俗の芸術史」について講義を行います。第一回目は、中世、およそ奈良時代から室町時代の終わりまでについて。続く第二回目は、安土桃山時代から江戸の終わりにかけて発生した「日本美術史における俗—庶民の間に成立した芸術」について検証を行います。
美術は、ハイ・アートと、そうでないものとして、これまで論じられてきました。一方で日本の美術は仏教の伝来移行、常に宗教美術を中心に語られてきた。しかし、そのような従来通り歴史の古い方から、並べられた芸術の歴史ではなく、現在の我々の芸術、ポップアートやポップ・カルチャー、とりわけマンガや、アニメや、ユース・カルチャーなど、身近に横たわっている美術や、作品から、日本の美術を逆挽き的に眺めてみると、かなり異なる芸術の歴史や、影響が見えてきます。
たとえば、現代のAKBなどのガールズ・ユニットや、イケメンのアイドル・ユニットが、歌舞伎の創生期を彩った女郎歌舞伎や、野郎歌舞伎と、よく似た性質を持っていたり、マンガの表現で、背景に描かれる炎が、仏像の光背と等しく、闘神像の髪形である怒髪天が、無敵となった変身ヒーローの髪形として採用されているなどが、その一例です。
これらの例が示すように、現代の芸術やメディア的表象(イメージ)に影響を与えた日本の芸術、文化、風習を読み直していくことから、日本のメディア芸術の歴史を再構成していくのも本講座の目的のひとつです。
中世から江戸末期までを扱う講義に続く、第3回めの講義では、鎖国が説かれ西洋文化が押し寄せてきた、明治期から現代までを論考します。
そのほとんどは昭和の時代の俗カルチャーと文化的変遷についての論考です。皇国として戦争を闘い、敗戦後、民主化とアメリカ西洋文化の洗礼を受け、さらに高度成長期を越えていった昭和の時代に、どのように現代的日本の文化、芸術が成立したのか、あるいはそれまでの歴史と分断されていったのかについて検証を行います。
講義のタイトルは、「ヤンキー芸術論」と命名しています。
ヤンキーという言葉をあえてタイトルに使用するのは、本講義が試みる我々の時代の俗芸術を紐解く上で、もっとも日本的なもの、あるいは日本的文化の根本的な姿勢、普遍的な日本の俗芸術の活動が、この「ヤンキー」という言葉に集約されていると考えるからです。
そのような思考の中では、オタクや、カワイイや、ギャルも、広義的にヤンキーという概念に内包されます。それはオタクVSヤンキーや、普通VSヤンキーとして括られる素行の悪い連中といった、対峙する概念ではなく、日本文化の総体をヤンキーという「俗」の概念で読みとする試みが、本講義の目的だからです。
日本の芸術史、ヤンキー、たしかにヤンキーは怖い。でもそういう訳で、この「怖い物」を全体テーマに掲げる、この授業に含めているだけではありません。詳細はのちに論じますが、日本の美術や、仏教の美術、または「俗」の語に集約される、日本の美術の根底には、恐れを表そうとする意識、または怖さを模倣する意識が、通底していると考えています。そのような「畏怖畏敬の俗の美学」そのものが、怖さと深く繋がっているからです。
そのような中世と近代に栄えた俗の芸術が、再び開花したのが、アメリカとの戦争に敗戦してからバブルの時代までという昭和の時代でした。1950〜1990年代という年代です。この昭和のヤンキー的美意識は平成へと受け継がれて、さらにカワイイやなど、様々な俗の美意識へと転化されていきました。この美意識はいまも、我々が生きるこの時代の「日本の芸術文化」の根底に鎮座しています。
当講義では、そのような歴史的に関連性を語られて来なかった、「日本の古層」から、現代へと通底し続けている、日本文化における、畏敬と異類の芸術の系譜を、もう一つの日本のメディア芸術として論考していきます。
不動明王像の光背は炎
現在のマンガにおける背景と
共通の関連性をもつ
ヤンキーとは特別な人々ではなく、純度の高い日本文化の継承者だ。(次回説明)
はじめに ☆須佐之男命の神話からアニメの世紀へ
永く他の文明と接する機会がない孤立した文化では、技術や思想の多面的進化がおこらないまま、文化の促進が停滞すると考えられるが、その一方で伝統的技術や思想が洗練されていく。(*参照:加藤周一「日本その心と形」P24)
日本に流入した大陸文化で、決定的な影響を与えたのは、水稲技術と米の栽培、金属器の導入―銅剣、矛(ほこ)と、のちに神器として用いられる銅鏡の製造)、そして仏教の伝来、鉄砲と火薬、さらに黒船による開国であろう。本書ではこれに第二次世界大戦の敗戦によりもたらされたアメリカ式民主主義と生活スタイルの変化を含める。
縄文の時代から現代に至るまで、日本は極東にある閉鎖された島国という地勢により、孤立、あるいは海外文化の影響を最小限に留めるようにして、得意な文化を創り出してきた。それを洗練と呼ぶか奇抜と呼ぶかはさておき、独特の文化を形成してきたというのは疑いようがない。異文化の技術や思想は日本独特の捉え方で、アレンジされていった。
青銅器の例で言うと、もともと鋭利な武器として使う目的で細く作られていた銅剣は日本では幅広で長いものとして作られるようになった。武器であるよりも権力の象徴的役割を担うようデザインを変えたのだ。鏡は神道の神具として祭礼で使われ、のちにご神体となって神社に置かれた。その後、剣と、玉と、鏡は天皇家の象徴とされた。仏教も、それまで信仰されていた古来の宗教と習合して日本独自の信仰となった。(※参照:加藤周一「日本その心と形」P32)
日本の独自性とは、モンスーンの風土や、極東という地勢的条件だけでなく、その得意な文化状況により成立していった。すなわちたぐいまれな物事をすべて日本的にアレンジしてしまうか、日本的に適合させてしまう日本的気質によるところが大きいのではないだろうか。はガラパゴスと揶揄される状況もあるが、そうであったとしても、この日本的な独特の文化の生成こそ、文化、しいては日本の芸術の特徴といってよいであろう。
そして日本ほど庶民の文化が脈々と受け継がれ、後生に受け継がれていった文化はない。アジアの大陸の国々、あるいは西洋のキリスト教社会や、インドなどのヒンドゥー教の国々、中東を中心とするイスラーム教の国々、または中国など大陸の仏教国と比べて、貴族、王族、武士といった支配者階級の文化はあるが、それと並んで浮世絵や歌舞伎などの庶民の文化や芸術が、日本では成立した。 錦絵、浮世絵、着物の柄、または歌舞伎に代表される日本の芸術と芸能とは、庶民文化で開花した。
・怖い
それら日本の芸術には、独特の怖さがある。その怖さとは、力に対する信仰・崇拝であったり、自己を同化習合させようとする意識が読み取れたり、他者への威嚇であり、さらには六道絵や地獄絵のように怖れ不安がる気持ちが表した芸術である。
庶民だけでなく永く戦国の時代が続いたこの国では、皇族や貴族という支配階級とは別に、サムライというもうとつの武闘派勢力が、長期にわたって国を支配していた。
サムライが台頭した鎌倉、室町の時代、戦国時代、安土・桃山と江戸の時代にかけて、彼らは独特の怖さを自分に引き寄せるような意識が成立させ、兜や、刀、または武士道しかり、怒りのデザインといっていいような芸術と思考を熟成させた。
・畏敬と畏怖の日本美術
おもてなしなどという、後付された美学だけが、この国の美学ではない。
「いき」や、「婆娑羅」など、古い日本の芸術は、思う以上に怖さを讃えている。
神道は荒ぶる神々を祭り、表してきた。これほど怖い神々や表象を量産し続けている文化は他にないのではないか。
それは過去の話ではない、日本のアニメやマンガ、またはファッションや、芸能のジャンルでも同様の怖さの表象が繰り返されていく。実例をあげる
これから、怖さの表象―畏敬と畏怖を主軸として、日本の美術史を読み直し論考を行う。それらの関連性を指摘する。中世の仏像や、百鬼夜行や鬼といった民間伝承の奇談や、武家社会の信仰、鎧兜の威嚇のデザインや、江戸の庶民の風俗や大和絵・浮世絵・歌舞伎等を経由して、現代のアニメやマンガ、ヤンキーやオタク文化への波及と流用を調査するものである。(※参照:加藤周一「日本その心と形」P49)
日本の奢れる庶民美術のルーツを辿れば、中世に成立した風流の美意識、あるいは、あえて「風流」(現代の風流の意味とは異なる)の芸術運動と呼ぶべき、民俗活動。
歌舞伎の語源となったかぶき者、あるいは数奇者、かぶくという意識として集約される。
戦国時代から江戸初期におきた、庶民、とりわけ一般庶民の若者たちの間に蔓延した、ニヒリズム、刹那主義。
さらに明治期から積み重ねられていた抑圧的な帝国主義思想の果ての第二次世界大戦の敗戦によって、日本の帝国主義が崩壊したとたんに、積を切るように押し寄せてきた、敗戦後のアメリカ文化の影響。
それらが重要な要素であると考える。(このアメリカ文化の到来を筆者はこれを第二の開国と呼ぶ。)
昭和の戦後以降から始まる、いわゆる高度成長期における様々な要因も、同じく、本講が取り上げる庶民の芸術、とりわけ若者の美術に多大な影響を及ぼしている。
昭和の時代の、モータリゼーション、都市化、および郊外文化の誕生とともに、戦後期になってから「若者」という概念が書き換えられ、変化した。
そしてコンビニ店舗やドンキホーテ、ラジオの深夜放送といった夜の誕生によって、戦前までの日本の思想や美意識が塗り替えられ、熟成されていった。
昭和の時代とは、それまでの日本の庶民文化を蘇生させ熟成させていったが、その一方で決定的に本来の日本的なものとは異なるものとして、読み替えが行われた時代であった。それは古き文化の喪失ではなく、ヴァージョンアップ、または、読み替えであった。
本講義の前半は、今日の日本の美意識や創造の、根源的な感性や構造を形成した「中世」と、戦国時代以降から江戸の終わり―世界的にも類をみない庶民文化を成立させた「近代」までを2回に分けて紐解く。そして後半で明治から大正と昭和の時代を第二次世界大戦前と戦後から昭和が終わりまでの「現代」という3つの時代に区分けして検証する。
・中世—仏教と穢土、庶民の不安と恐れが創造した美術
A 密教の尊格と闘神の表象
A-1 仏教伝来とその後の日本の美術
・仏教の伝来
仏教が日本に渡来したのは六世紀中頃(飛鳥時代)と推定される。朝鮮半島から伝わった仏教が日本の宮廷に伝わり、やがて七世紀の早い時期に、聖徳太子(厩戸皇子 ルビ:うまやどのおうじ 574?~622年)によって、仏教は国教として推進された。
仏教は約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦によって提唱されて始まった。その後紀元前3世紀にインド初の統一国家となったマウリヤ朝による保護の下でインド全域に広がった。仏教は西北インドから中央アジアを経由して、シルクロードを東進して、紀元1世紀に中国へと伝播した。その後四世紀に朝鮮半島を経由して、日本に伝来した。
・飛鳥時代―静的で単純明快な仏像
日本にはそれまで本格的な造像の技術はなかったが、仏教とともに大陸の本格的な造像表現と技法が持ち込まれた。それゆえ、仏教の伝来とは、造形技術の到来であり、芸術の伝来に等しい。
→ 仏教とともに伝わった仏像や仏画によって、日本の表象が始まる。
飛鳥および白鳳(ルビ:はくほう〉時代の仏像を代表する仏像のひとつ法隆寺金堂釈迦三尊像(図*)には、実在する人物を感じさせるようなディテールやリアルさはない。謹直な姿勢で正面を向いている像で、均等がとれていて、左右対称のシンメトリーの形状である。面長な顔をしていて、身に付けている布は永く垂れて、魚のひれ状に広がっている。抽象的で、象徴としての神像という、神秘性と、スマートさを印象付ける。
A-2 威嚇する仏像 —中国、インドの影響
・密教―インドから伝播した密教における怒りの表象と畏怖の美術
密教とは大乗仏教の最終段階に登場した仏教における秘教のひとつ秘密仏教である。神秘主義的な性質を多分にもち、呪術的で、象徴的なイコンをもつ特徴をもつ。ヒンドゥ教と同じく、シヴァ神妃になぞらえられた女性的力動の概念シャクティ(性力)の教義を説く古代インドのタントリズムの精神や文化と深い関連性を持つ。(※参照:辻惟雄『日本美術の歴史』P87)
密教は大乗仏教の一つの流れとしてインドで始まった。七世紀から八世紀にインドの真ん中から南インドの地帯で隆盛したが、その後のイスラーム教の侵入を要因として一三世紀初頭頃にインドで消滅した。(※参照:松永有慶『密教』P5)
・密教の伝播
それまでの仏教が文字で記述された経典などから教えを得たのに対し、密教では根本経典の一つ『大日経』に標された瞑想などの呪法が重んじられた。体得である。さらに曼荼羅や法具類、儀式を伴う「印信」や「三昧耶形(ルビ:さんまやぎょう)」など象徴的なもの、法具などのシンボル的なものが崇拝の対象とされた。
・インド バラモン教の影響
不動明王などの尊格を安置し、護摩壇(ルビ:ごまだん)で護摩木を燃やしながら祈禱する護摩(ルビ:ごま)の儀式をはじめ、密教では多くの儀礼・儀式が行われる。護摩がインドの宗教において供物や犠牲、いけにえを意味するサンスクリットのホーマ(homa)の音訳であるように、密教の儀礼はバラモン教などインド系の宗教にルー ツをもつ。寺院に祀られる明王像や四天王の天部(ルビ:てんぶ)の仏像は、多面多臂(ルビ: ためんたひ)(顔と腕が多い)像や、忿怒(ルビ:ふんぬ)(激昂(ルビ:げきこう)した表情)のものが多く、それらの偶像は、バラモン教、さらに、インド・ヒンドゥー教と深い関わりや密接な繋がりを思わせる。
密教の経典には、他の仏教とは異なる呪術的な要素が散見される。六世紀頃に成立したとされる経典は、そのほとんどが呪法を標す内容で、日本ではそれを雑密(ルビ:ぞうみつ)経典と呼んだ。これに対して『大日経』(ルビ:だいにちきょう)と『金剛頂経』(ルビ:こんごうちょうきょう)が標されたのが純密(ルビ:じゅんみつ)経典と呼ばれるもので、七世紀には両方共ともにある程度の完成した経典として成立していたと思われる。(※参照:松永有慶『密教』P21)
密教の仏像・尊格の多くは怒りを表す。それらは魔障(ルビ:ましょう)(仏道の修行を妨げる悪魔の障害)を降伏させようとする意匠であり、その威嚇するような図像と彫像は、ヒンドゥー教を代表とする仏教以外の宗教から取り込まれたイメージである。(※参照:成田山新勝寺・種智院大学密教学会『総覧不動明王』P120)
これらの恫喝(ルビ:どうかつ)的な様相は、密教の仏像だけでなく、奈良時代から少なからず散見されていた。唐の様式の強い影響が見受けられる「八部衆像 阿修羅」(*図)(天平6年(734年)奈良興福寺)や、引き締まった肢体と、見開いた目と怒りの表情から力強さと迫力を感じさせる「執金剛神像」(ルビ:しつこんごうしんぞう)(*図)(8世紀前半、奈良、東大寺、法華堂)にも、密教仏につながるような傾向が伺えた。(※参照『日本美術史』P42)同じく「十二神将像 因達羅」(8世紀前半、奈良、新薬師寺)や、「四天王像 増長天」(*図)(8世紀前半、奈良、東大寺戒壇院(ルビ:かんだんいん))も同じく写実的な表現で、リアルで、実在する人物として存在しているような戦神・戦将の姿として表されている。これらの彫像はともに極彩色の彩色と切金文様がほどこされていて、作風に違いはあるが、密教伝来以前のインドの表象が中国を経由して日本にもちこまれていたことを伺わせる。
・四天王と十二神将像
不動明王を含む五大明王(*図)、降三世明王(ルビ:ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ルビ:ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(ルビ:だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(ルビ:こんごうやしゃみょうおう)、または持国天(ルビ:じこくてん)、増長天(ルビ:ぞうちょうてん)、広目天(ルビ:こうもくてん)、多聞天(ルビ:たもんてん)の四天王も、明王と同じく憤怒の表情で、眼光厳しく、動感にみちた表現が常とされる仏神である。
仏の住む世界を支える須弥山(ルビ:しゅみせん)の四方向を護る四天王にはそれぞれが守護する方角と持ち物が決められている。東方を守る守護神である持国天は別の名が提頭頼吒(ルビ:だいずらた)で、三昧耶形(ルビ:さんまやぎょう、仏尊を 表す象徴)は刀である。増長天こと毘楼勒叉(ルビ:(びるろくしゃ)は南を守護し、刀剣と戟(ルビ:げき)とを持っている。西方を守護する広目天の梵名はヴィルーパークシャで、サンスクリット語で「種々の眼をした者」または「不格好な眼をした者」という意味で、特殊な力を持った眼をもつ天部の仏神とされる。別名は毘楼博叉(ルビ:びるばくしゃ)で、三昧耶形は三鈷の戟である。四天王で多聞天(*図)とされる毘沙門天(ルビ:びしゃもんてん)は、北方向を守護する。仏敵を打ち据える護法の棍棒を三昧耶形として持つ姿が一般的である。その多くは革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風風に表され、邪鬼と呼ばれる鬼形の者を踏みつけている姿が多い。毘沙門天は独尊として広くアジアで信仰の対象されて きた武神で、室町時代末期からは日本独自の信仰である七福神の一尊とされている。さらに江戸時代以降は勝負事に利益を与えてくれる仏神として崇められてきた。
十二神将像(註釈)(ルビ:じゅうにてん)も、四天王と同様の天部の神々で、同様に甲冑を着けた武将の姿で表されてきた。十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいう。密教では十二神将像も四天王とともに重視されてきた。十二神将像は薬師如来(ルビ:やくしにょらい)と薬師経を信仰する者を守護する武神とされる。中国では十二支と結び付けて信仰されていて、敦煌の壁画にも作例が見られる。表情やポーズなどで個別の性質を表した彫像が多い。
奈良の新薬師寺におかれた十二神将像の素描が八世紀(奈良時代)に作られた国内最古の作例とされ、一般的にも知名度が高い。なかでもの伐折羅(ルビ:ばさら)大将像は日本の500円切手(*図)のデザインに使用されていて、もっともよく知られている塑像であろう。
「伐折羅」(ルビ:ばさら)とは、もともとサンスクリット語でダイヤモンド(金剛石)を意味する言葉である。密教の金剛曼荼羅や金剛力士像に用いられる金剛とは、究極的なもの、想像も及ばないもの、絶対的なものを表す言葉として使われていた。
他の十二神将像と同様に、伐折羅像も憤怒の表情をしていて、怒髪天(ルビ:どはつてん)と呼ばれる髪の毛が逆立つくらいの激しい怒りを表す髪型と形相が描かれている。これもマンガ「ドラゴンボール」における強さの表象などに繋がる。
・明王像
明王像も多面多臂の怪異な姿で描かれたものが多い。明王とは密教における尊格及び称号で、仏が説いた真言、呪文のことを指す。密教における最高仏尊大日如来の命を受けて未だ仏教に帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏尊を指す。あるいは如来そのものの分身が明王像だとされる。
インド・摩伽陀国(るび:まがだこく)の国王で、訳経僧であった善無畏(ルビ:ぜんむい)は、中国密教で三蔵法師の一人とされ、「善無畏三蔵」(ルビ:ぜんむいさんぞう)と尊称される善無畏(ルビ:ぜんむい)が、インドから中国にもたらした図像が明王像の原型となったと推測される。
・不動明王
尊格のひとつ「不動明王」は大日如来の化身とされ、アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ている。不動明王は五大明王の一員で、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王と共に祀られてきた。天台宗、禅宗、日蓮宗などの諸派では不動明王が本尊とされる。真言宗では大日如来の脇侍として祀られる。山にこもって修行を行うことで悟りを得ようとする日本古来の山岳信仰が仏教に習合した修験道でも不動明王が信仰されている。
不動明王もインド仏教においてどのようにして尊格となったのかあきらかでない。ただし不動明王も仏教本来のものではなくヒンドゥー教由来の偶像であることは、他の仏像とは異なる様態から想像できる。阿遮羅(Acala)という 梵名(ルビ:ぼんめい)(インドで使用されるブラーフミー系文字の漢訳名)から、類似する梵名をもつヒンドゥー教の「破壊/再生」を司る神シヴァと関係性があるだろうと推測される。(※参照:成田山新勝寺・種智院大学密教学会『総覧不動明王』P119)
その尊格は、もともとはインドの神々が仏教に取り込まれていく過程で成立し、おもに密教の尊格として伝わったと捉えるのが妥当であろう。そして日本に伝わったあとに山岳信仰や、神道の崇拝が混ざり合い、独自に発展していったイメージでもあった。
不動明王とはどのような尊格なのか。
盤石の上に安坐し、剣と羂索(ルビ:けんさく)を持って座った童子形の不動明王、その目は一目をして諦観(ルビ:ていかん)するがごとき形で唇をかみ、額にしわをよせ、頂髪は左肩に垂れ下がっている姿である。その背後には猛焰(ルビ:もうえん)が燃えさかっている。(※引用:成田山新勝寺・種智院大学密教学会『総覧不動明王』P120)
そのような不動明王の様相について加藤周一はこう書いている。
不動明王が隻眼(ルビ:せきがん)(左目がつねに閉じられている)で童顔であるのは、彼がもともと超越した存在ではなく、人間より下の存在から上へとつきぬけたためだ。すなわち不動明王は、衆生の下から上に向かう運動を助けるのである。この上昇は、人から煩悩を取り除く―煩悩の無明(ルビ:むみょう)から解脱(ルビ:げだつ)の光明(ルビ:こうみょう)への―過程となる。不動明王は右手の剣と左手の羂索(ルビ:けんさく)で煩悩を断つのであり、右の犬歯で下唇を、左の犬歯で上唇を噛む憤怒(ルビ:ふんぬ)の相は、その苛烈な戦いを象徴している。この世のいかなる悪をも打ち負かす不動明王の力の激しさは、つねにその背後に燃えさかる火焔(ルビ:かえん)の破壊力によって象徴され、またそこには、火の持つ浄化作用も見ることができる。(※引用:加藤周一は『日本その心とかたち』P64)
人々を帰依させる苛烈な闘いを引き受けるこの武闘派の神は、光背の火焔が表す火の浄化作用と破壊力で人々を怖れさせるが同時に安堵感を与え魅了した。
日本古来のアニミズム的宗教は表象的イメージ(偶像)や教義、社を持つものではなかった。神の存在は元々不可視なもので、依り代によって知ることのできるものとされてきた。それが仏教の伝来と共にもたらされた神像の造形表現によって表象が行われるようになった。仏教伝来とは日本の美術表現、とりわけ仏や神といった人の形状イメージのベル・エポック的な事件であった。
それ以降の仏像、尊格イメージの歴史は、中国の影響を受けなくなるにつれて、日本独特の特徴なりをもつようになるわけだが、祈りを通して、その力が振るわれるという不動明王しかり、大衆的な嗜好で選択されるように信仰されてきた日本の仏像は少なからず怖さを主張するものが少なくない。
仏教はそれまで崇拝されていたあるいは日本的土壌の影響を受け、日本的な信仰として変容した。日本の土着的信仰の方も、新たな宗教や文化へと変わりながら存続したわけだが、それらの地場的な神々の偶像や図像を創造するよう仏教は機能し続けてきた。
仏教習合の歴史とは、まるで外的生物の侵入によって、ガラパゴス的土壌で、駆逐と淘汰、あるいは交配的融合が進んでいったのと等しく。優性的であって適性をもつものが残ったとか、その生存している環境に耐久性がある動物が残るといった生物的な適応性はいっさい当てはまらない。それよりも、人々に受け入れられたかどうか、すなわち、時代の流れの中で、支持されたかどうかの方が重要な要素であろう。むろん、みための図像だけではなく、思想的的確さといった様々な条件によって決まる問題であるのは当然なのだが、そうであったにしても、
なぜ、インドの影響を多分に受けた不動明王がこれほど永い時間、変わることなく愛され続けたのか… おそらく、その理由は、アジア、とりわけ日本的アニミズム、恐れの精神と怖さに憧れる思考が介在しているのではないだろうか。すなわち、日本というアジアのモンスーン的風土や、世界に対する姿勢が、深く関与しているのではないか。むろん、それは中国、インドを中心に据えた東南と東アジア地域全体にいえるのだが、アジア独特の感性、さらに極東の日本の風土や環境によって生成された美意識や、尊格に対する態度として捉えるべきであろう。
A-3 モンスーンの信仰―和辻哲郎「風土」論
倫理学者の和辻哲郎(一八八九~一九六〇年)は、著書『風土―人間学的考察』(一九三五年)で世界の風土を「モ ンスーン」「砂漠」「牧場」の三つに分けて、人類の文化を論じた。
自然の恩恵に溢れている「モンスーン」気候の、日本や東南アジアの人間にとって、自然は崇拝するか、絶対視する対象である。豊かさを与えるだけでなく、時に荒ぶるモンスーンの自然の中で生きる人間は、自立性が弱く、自然に対して畏敬の念を抱き、共存を願う思想を形成する。
比べて「砂漠」の人間は、過酷で敵対的な自然の中に置かれているため、逆らいようのない絶対的な力をもった自然と対立するが、支配的な存在としての「神」を想像するようになる。
神教的世界観はそのような砂漠的風土によって生みだされた。一方でヨーロッパの「牧場」の風土は、モンスーンのように恵みが豊かではないが、砂漠ほどは過酷ではない。そのため人間は、理性を働かせれば、自然は制御できるのだと考えるようになる。それゆえ牧場的な風土に住む人間は、理性と人間中心のヨーロッパ的思想を生みだしたと和辻は論じている。(※参照:佐々木成明『砂漠芸術論―環境と創造を巡る芸術人類学的論考』P13)
風土と環境は、我々人間の文化に大きな影響を及ぼすものであるが、人間の芸術的活動や、芸術嗜好、または宗教的思考性においても多くの影響を与える。日本は和辻が論じた「風土論」の三分類のひとつ「モンスーン」に位置するが、人間個人としての自立性を確立しにくい反面、地縁で結びついた村集団や、信仰を共にする共同体を成立する傾向が強く、自然に対して畏敬の念を抱き、自然崇拝―アニミズムの信仰を形成してきた。すなわち「触らぬ神に祟りなし」ということわざが表すように、紳とは環境そのものであり、与えると同時に一瞬で奪い去る、わかり合える対象ではないという思いが信仰の根底にあって、恐れながら祀るといった姿勢で神との共存を願う宗教観を形成してきた。
むろん、そのようなモンスーン風土に根ざした文化を形成してきたのは日本だけでなく、中国やインドを含む広域のアジア・モンスーン気候の地域全域で、同様の宗教的指向性が指摘できる。ヒンドゥー教や、古代インド系の宗教、中国に根ざした道教しかりであろう。そうでありながら、日本の宗教や芸術における、他のアジア地域、大陸と異なる特性がある。
「孤立した文化に特徴的なのは、、技術的な停滞ではなく、むしろ伝統的技術の洗練である」(*引用:加藤周一「日本その心と形」P24)と加藤周一は書いたが、同様に思想も洗練され極度にその特異性を際立たせていく。密教の不動明王や闘神の彫刻群、または見放すようでありながら聡明さや崇高さをアピールする観音像などが、その最たる例ではないだろうか。
またこのガラパゴス的芸術の土壌は、古来から京都圏の一極集中型の文化圏を中心で成立していて、大陸から届く情報や美術の輸入のルートも、延々と同じルートでもたらされてきたという得意な構造におかれてきた。そのことは、リファレンスとなる前史を参照しつつ、つねにこれを拡大していくか、根底に貯蔵されている文化への回帰を忠実に繰り返す。(これについては最終章で詳しく論考していくが)丸山眞男が「古層論」によって明らかにしようとした日本文化の構造とは、これら宗教、その尊格の表象と美意識にも同等に機能してきたのではないか。
本講が論じる怖さを模倣するようにして創造されてきた日本独特の畏敬と怒りの表象の萌芽のひとつが、この密教と不動明王を初めとする威嚇する尊格の歴史に辿ることができる。
密教がインドや中国で滅び、日本とチベットにのみ存続したという事態を踏まえて、日本が密教の奢れる神への信仰とその美意識を存続させ、得意な怖さを讃えた美意識をもったというのは性急すぎる。インド・ヒンドゥーは仏教を習合させるようにその信仰を現代に繋げてきた。ビシヌス神をはじめとするその特徴的な神々を表す表象や、勇敢な神々の闘いの物語を語り継ぐ神話も、日本の密教に散見できる表象と同一の怖さを伺わせる。そうでありながら、密教が信仰を集めた平安時代以降から、しだいに強力な影響力をもつようになっていった武士の台頭などが、互いに影響を及ぼしながら、日本独自の怖さを讃える美術や趣向が、この密教の信仰と尊格の表象を出発点として、形成されていったのではないか。
中世の闘神・魔神のイメージが、ゲームやアニメに多大な影響を及ぼしている。
天地眼の相で、宝剣・羂索を持ち、岩座上に立つ。不動明王は本来、醜く肥った童子の姿につくられるが、本像は動きのない細身のからだで、着衣も身体からはあまり離れず、全身から静かに滲み出る怒りを表現している。裳には華麗な彩色文様がほどこされ、衣文に添って截金(きりかね)の線が見られる。
高野山金剛峯寺 根本大塔
巨大ロボなんてものが、科学的に現実的かどうか問うよりも、
我々のイマジネーションの中にある鬼などの虚像・怪物の具現化が科学と結びついた造形として捉えてみては…
B 浄土教の普及と穢土の不安—鬼、地獄、死の恐怖*平安後期―乱世の時代の中で―末法の世の死生観 中世の不安が創造したペシミステック・アート
◇穢土とはなにか? 中世の怖れの思想とイマジネーション
仏教の用語で、穢(けがれ)に満ちた不浄な世界のことをさします。仏教は本来、徹底した厭世(えんせい)観をもっていました。世俗の世界を否定的に考え、涅槃(ねはん)の境地を理想としました。
そのような現実を否定する姿勢をもつ大乗仏教、とくに浄土思想では、苦悩や矛盾に満ちた現実の世界を否定して、死後に訪れる安楽に満ちた理想的な別の世界(浄土)を求めます。
そのような世界観を強くもつ中世の人々は、穢れや、恐怖を怖れ、その一方で、穢れや恐怖や不安に打ち勝つために、強いものや、荒ぶる力をもつものを崇め、自らの味方に変えようとする、信仰や崇拝の思想が成立しました。
そのような「畏怖と畏敬」の念が、鬼や、不動明王、闘神といった、悪しきヒーローや、心身の強さをもつもものたちを想像し、イメージを作り上げていきました。
B-1 浄土教の世界観
B-2恐れの美術
B-3 鬼 見えざる力 武家―もののふの鬼退治ともののけ、妖怪 ~浄土、仏、地獄(九相)思想に支えられて登場した妖怪と鬼、もののけ
・鬼に集約する怖さのイマジネーション
中国語の鬼は日本の霊と同義の言葉であり、鬼籍というように、元々は霊魂のような存在を我々は鬼と称していた。
鬼は口頭神話で表される存在だけでなく、平安から鎌倉に至る時代に、鬼は絵画や物語として広く知られていて、さらに怖いもの、不吉なもの、畏怖の対象として知られていた。
鬼とは一般的に邪悪なものとして捉えられるが、仏教、またはヒンドゥの神々や天部の中にも、風神・雷神、竜王や明王など、畏敬の姿で表される鬼神的な神格なども含んで考えるなら、超人的な能力や身体特性をもつ存在を、我々の祖先は鬼と表した。怒る神、「触らぬ神に祟りなし」というように、両義的な神々の悪しき姿、あるいは裏側の姿が鬼なのかもしれない。
・土蜘蛛草子と酒呑童子
『大江山絵巻』(逸翁美術館所蔵)(*図)で描かれている鬼の酒呑童子がそうであるように、鬼は「童子」と名付けられる場合がある。これは子供ではなく、成人したあとも、元服後の髪型にならないで、子供のようなざんぎり頭のままであるためだという。人里離れた場所に「かつて鬼が棲んでいた」という伝説が残されている、あるいは表されるように、鬼は人がいない場所に住まう異形異様なもの、「邪しき神」として、古くから怖れられてきた。一方で「鬼武者」という表現がそうであるように、孤高のもの、達人を指すのも鬼である。
頭髪がちぢれていて、二本か一本の角が生えている。口に牙があり、鋭い爪をもつ。色は赤・青・黒などで、虎の皮のふんどしや腰布をつけていて、金棒を持った大男というのが典型的な鬼の様相として、永く伝えられている。地獄で亡者を責める獄卒としてのイメージも定着している。いずれにせよ、人智を越えた、目に見えない力のような存在を我々は鬼と称してきた。
「大江山絵詞」(ルビ:えことば)は、大江山に住む酒呑童子(ルビ:しゅてんどうじ)という名の鬼を源頼光(ルビ:みなもとのよりみつ)(948~1021)が退治する話で、頼光が知恵と武力で敵を討ち取るという、優れた武士のありようが描かれている。
実在した頼光の方はというと、都の中流貴族的な人物で、財力で摂関家と繋がりをもっていたような経歴が伝えられている。そんな人物がこのような奇伝英雄伝として後の世で描かれたのは、その父親源の満仲(ルビ:みなもとのみつなか) (912~97)の嫡男(ルビ:ちゃくなん)―長男であったためだと推測される。そして同じ清和源氏の家系である武家政権を打ち立て、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となった源頼朝(ルビ:みなもとのよりとも)と同じく室町幕府の初代征夷大将軍となった足利尊氏(あしかが たかうじ)の武威と高貴な血筋を表すためであっただろう。
これの他に頼光を主人公とした武勇伝としては「土蜘蛛草子」(ルビ:つちぐもそうし)(*図)がある。こちらは頼光 が家来渡辺綱(ルビ:わたなべのつな)(954~1025)と共に京都郊外のあばら家で、次々と妖怪を退治する鎌倉時代に書かれた冒険物語である。
・桃太郎 あるいは丸と名付けられる子供、わらじ(子供)は聖なる存在とされた
だれもが知るおとぎばなしの桃太郎の物語も鬼退治の物語だ。家来を連れて鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く若サムライの初陣物語と言っていい。口承話としての原型は室町時代末期から江戸時代初期頃とされる。(※参照:加原奈穂子 「昔話の主人公から国家の象徴へ―「桃太郎」パラダイムの形成―」 『東京藝術大学音楽学部紀要』 36巻 東京藝術大学音楽学部、51–72頁、2010年。 NAID120005607395)ただし、その時代の桃太郎は武家的装束を身につけた人物でなく、他の動物たちも家来的な役割よりも仲間のような存在として登場するものであったとする説も散見される。
中世の酒呑童子退治の武勇伝だけでなく、桃太郎の鬼退治は昭和の時代の大東和戦争では、軍国主義化の国威高揚、敵国憎悪のためのプロパガンダに利用されていた。「鬼畜米英」という鬼を成敗する子として、桃太郎は、親孝行・正義・仁如・尚武・明朗を体現する国民的英雄として利用された。(※参照:野村純一他編 『昔話・伝説小事典』 みずうみ書房、1987年、254-255頁)
さて、鬼退治の物語でサムライの武勇伝が成立するためには、敵であって、成敗されて当然とされる鬼の存在がなくてはならない。前述したとおり、鬼とは、古くから特別な力をもつものを実在の存在として表したイメージで、怖さとともに、にくさ、その裏腹に、孤高の存在や、力あるもののたとえでもあった。
怖いものが与えてくれるトラウマ的なイマジネーションは、その反対に、怖いものへの同化や模倣も成立させる…
・キールティムカ―ヒンドゥの聖獣
屋根瓦に添えられる「鬼瓦」がそうであるように、鬼は、シャチホコや、狛犬と同じく、魔除けとして用いられてきた。鬼瓦は唐の文化を積極的に取り入れた奈良時代から急速に全国に普及したという。
ヨーロッパの建物に見られるガーゴイルや、古くはローマ帝政時代のパルミラ(現在のシリア)で髪の毛が蛇の怪物メドゥーサが厄除けとして設置してあったり、あるいは魔除けの聖獣キールティムカ(Kirtimukha)と呼ばれる獅子とも鬼とも思われる像も、同じように悪しきものから守護してくれる鬼面として、インド以東の広範囲の南アジアとの国々で散見される。
ヒンドゥー教寺院建築と仏教建築の図像であり、巨大な牙と、口を開けたどう猛な顔だけの聖獣である。インドネシアなど東南アジアではしばしばカラと呼ばれ、 中国では「 貪欲 」という意味のタオティーとして知られている。
キールティムカは大きな目、まるい団子鼻で、大きく開いた口から歯がむき出していて、その多くは顎がない。顔だけの鬼、キルムーティカとは、インド神話に登場する食欲旺盛な怪物で、自らの手、足、体を食い尽くして、顔面だけになってしまうのだが、シバ神が、その激しい性格を讃えて、「ほまれ高い顔」を意味するキールティムカと名付けたと伝わる。
そのような逸話が残るキールティムカも鬼と同じく、怖しい存在、畏怖の対象、魔除けの力をもつ聖獣でありながら、威厳や、栄誉を表す象徴で、中国や日本で鬼として捉えられているものと等しい。繰り返しになるが、憤怒の表情で知られる不動明王や、鬼瓦も、キールティムカと繋があるし、祇園祭における「牛頭天王」の信仰や、「馬頭観音」や、「観音菩薩」とも深く関連性をもつとされる。(*参照:立川武蔵『聖なる幻獣』P52)
・鬼 まとめ
前章で触れたとおり、密教の尊格を通して、いかつさをもって、邪悪なる者をけちらす、日本的な怖さを讃えるイメージが成立していった。闘神信仰によって培われた美意識や美術である。
畏怖の念がどのように,その後の日本的美術や、畏敬のイメージを成立させたかについての論考は後述となるが、その資源的な密教仏、闘神の表象と比べて、本章が扱った浄土教の仏尊は優しさと慈愛にみちている。これらの仏像が誘う浄土というユートピアへの憧れと背中合わせに、穢土的な現世や、地獄や、暴力や、死についての人々の怖れ―ペシミステックな想像力が生み出したイメージの数々が、この時代に数多く描かれた。
鬼への怖れをその一つとして挙げられる。
一方で鬼などの悪しきもの―ビランを退治する武家というヒーロー物語が成立したのもこの時代の特色のひとつといっていい。
悪しきもの、しかし力強い、絶対的な、浄土とは異なる、メタ現世といっていいような世界観を、一身にひきうけたのが鬼であった。
鬼とは人ならざる人である。ホラー小説の作家平山夢明(ルビ:ひらやまゆめあき)は、「人間は〈人間の形をした人間でないモノ〉を怖れる反面、〈人の形をしていない怪物〉は、そこまで怖がらない」と書いていた。フランケンシュタインやゾンビやピエロやエイリアンに比べて、植物や煙など不定形の化け物はそれほど怖くないのだという。鬼とは確実に前者〈人間の形をした人間でないモノ〉である。平山はその理由として、「人間に似た怪物というのは、つまるところ変容した人間〈完全な不完全〉だかれではないか」「自分たちとそっくりでありながら、自分たちとは異なる存在」であると論じる。(*参照:平山夢明『恐怖の構造』P26「」括弧内は原文から*引用)
鬼も同様で、「自分たちとそっくりでありながら、自分たちとは異なる〈人間の形をした人間でないモノ〉だろう。
中世の時代に表れた鬼への恐れは、その後様々な形で鬼への信仰や、強靱なもの、孤高の存在を鬼と喩える独自の文化を成立させてきた。武芸の達人を「鬼武者」と呼び、強い酒を「鬼ごろし」と喩え、 人間とは思われないほど優れた才能を「鬼才」(ルビ:きさい)と称する。
鬼は忌み嫌われる怖くて、非常なだけのものでなく、どこか俗世を離れて生きていく、人間離れした意思や肉体をもつ人物への賛美でもあったのだ。そのような日本的な意識がいつ頃から成立したかは不明であるが、ここに挙げた通り中世の時代に、山岳信仰などそれまでの原始的宗教と、仏教が習合化され、さらに戦乱・災害・飢饉などの社会不安の中で頻出する人死にや行方不明といった惨事を説明するために、あるいはその原因を擬人化するために鬼は必要不可欠な対象であった。
鬼とは中世の人々の恐怖を具現化したものであって、現在に至るまで怖い物の代名詞として怖れられている。(*参照:吉成勇編 『日本「神話・伝説」総覧』 新人物往来社〈歴史読本特別増刊・事典シリーズ〉244-245頁)
◇まとめ:穢土時代のイマジネーション 荒神とインドの神々
このような、鬼や、不動明王、日本の古い神と結びついた牛頭天王(ごずてんのう)への信仰は、インド由来、ヒンドゥー教の神のひとつとされるブッダ(仏教)と日本の原始宗教(古神道)の深く結びつきによって成立しました。
京都の祇園祭りで祭られる牛頭天王、悪しき鬼、あるいは、怒りや恐怖で毛が逆立つ猫などと同じく髪の毛が逆立つ怒髪天など、その多くはインド・ヒンドゥー教の神々や神話にそのルーツをもつものといってよいでしょう。鬼は、異国の人間や、荒れ地に住む他民族を表象したものでもありますが、そのようなものも、多くは、インドに発端をもつイメージと深く結びつきをもちます。
スサノオ(スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神。『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、と記される。すさむとはアラっぽいの古語
荒神谷遺跡から出土した青銅器
C 風流
C-1 キッチュ、作り物の美意識
・庶民による俗美術の登場
風流(ふりゅう)とは、中世に高揚した民衆の美意識である。 風流は平安時代から江戸時代に至る、おおよそ900年も続いた庶民による祝祭の文化運動だった。
現在の時代に風流と言えば、月を見たり、桜をめでうとった、どちらかといえば、自然を愛好して、その風情を楽しむ行為や、そのような行いで受ける感慨を指す美意識として使われているが、中世ではかなり異なる概念であった。それこそ数奇ないでたちや意匠、奇抜で人を驚かすような振る舞いを指す概念で、それこそ本稿が論考する「民衆の日本美術史」をのものを表すような言葉であるといっても過言ではない。
この章では、本書籍のテーマである現代のヤンキーやギャルに通底する畏敬の美意識が、時代を超えて、創造を繰り返していくための、必修条件であった、世界的に類を見ない、日本の民俗文化の、特殊な美意識の相対である風流について論考する。風流とは、日本の民俗的美意識をのものであり、その独特の美意識を受け継ぎ、熟成させるための受け皿のようなものであった。
・風流の発生と熟成
中国から入ってきた概念、言葉でであるが、「風流」の語は日本語になって、「ふりぅ」と綴られていた。意味も異なっていて、ふりぅとは、見た目が派手な装飾や、そのような嗜好を表す言葉として使われていた。のちに、これが転じて、前述したような鎌倉時代の「風流」、すなわち豪奢なもの、祭礼で使う華やかな傘や鉾(ルビ:ほこ)など、デコレーション要素が強い装飾の物品を風流と呼ぶようになった。(※参照:尼ヶ崎淋『いきと風流―日本人の生き方と生活の美学』P72)
風流は固有のものを指すだけでなく、形容詞であり、金や銀を使い、得意な作りを施した豪奢な工夫や、美麗な様子を意味する言葉として使われていた。さらに「風流者」(ルビ:ふうぎもの)という言い回しもされていた。(※註釈=備考:『大鏡』)
その後「ふりぅ(風流)」は、特別な紛争で練り歩いたり、踊る様子や、そのような集団や、祭りの様相を表す言葉として使われた。豪華なもの、色とりどりなもの、驚愕するべきもの、または異様さもの、ストレンジな扮装や、装飾を指す言葉として使われるようになり、中世を経て、江戸に至るまで、永く同様の意味で使われていた。
風流という言葉で括られるようなカーニバルや、ページェント的なもの、または非日常的なものは、祇園祭りや、盆踊りといった、庶民を中心とする文化として今日まで脈々と受け継がれている。もともと風流には「みやび」とふりがなを振る言葉であったと書いたが、現代の我々が古い日本の宮廷・貴族文化を表す言葉として使う今日の「みやび」とは真逆の、庶民的な派手さなどを表す、対極の言葉として使われていたのだ。そして「風流」は、「わび」や「さび」といった、美意識とも対極にある美意識であった。
中世の風流は、趣向を凝らした「つくりもの」であったり、芸能のありようであったりと多面的で、明確に定義を定めるのは難しい。しかし、それは確実に庶民の側で成立した文化であって、支配者階級によって牽引されるだけではなかった。
それゆえ俗側の文化運動そのものを表す言葉であったと言えなくもない。広く捉えるならば、「風流」とは「中世における民衆芸術」そのものすべてを表す総合的な概念であった。
風流は民衆による芸能や美術・建築など、広範囲に用いられた言葉で、さらに、庶民の生活や宗教的行事の骨幹によこたわっていた。その嗜好は「俗の側の芸術運動」と類型するべきもので、風流は室町以降に表れる「数奇者」や「ばさら」さらに「かぶきもの」といった、庶民だけでなく貴族や武士までを取り込んで成立した風習や芸術的行為の骨幹に通底する、もっとも日本的な芸術の総体的概念であった。
すなわち、本書が論考を試みる「オラオラ的なる芸術志向、畏怖と豪奢の美学」におけるもっとも重要な概念である。
C-2 芸能としての風流
・すべての芸能の根源としての風流
日本の伝統的芸能と、宗教儀礼として奉納される神事の多くは、中世時代の風流に由縁をもつ、あるいは影響を受けているものが多いといってよいだろう。
「巫女神楽」、「湯立神楽」、「獅子神楽」などの神楽神事(ルビ:かぐらしんじ)や、「猿楽」(ルビ:さるがく)と習合しながら「能楽」(ルビ:のうがく)の源流となった「田楽」(ルビ:でんがく)や、三河万歳(ルビ:みかわまんざい)などの語り物や祝福芸能、祭礼行列(お練り)、さらに、念仏を唱えながら踊る伝統芸能「念仏踊り」や、僧侶が寺の祭礼行事で演じる「延年」(ルビ:えんねん)など、芸能的要素が見受けられる祭礼行事も、風流から派生し、現在に受け継がれている祭礼芸能である。
そのような「風流」の趣向は、猿楽・能・狂言など他の芸能に大きな影響を与えた。そして、江戸期に成立する歌舞伎の萌芽にも深く関連性をもつものであった。
・風流の造形
ところで、風流という芸能は、嗜好を懲らした作り物を掲げ(ルビ:かか)、仮装して囃し(ルビ:はや)し踊るものであった。ことに囃しが特徴的だったので拍子物と呼ばれることもある。これが、盂蘭盆会(るび:うらぼんえ)における死者追善の念仏と結びついたのが、いうところの念仏風流・念仏拍子物(囃子物)なのである。奈良や京都の都市市民の間でことのほかにもてはやされ、その流行は、当時、全国を席巻する勢いがあった。(※引用:守屋穀『日本中世への視座 風流・ばさら・かぶき』P146)
「風流踊り」は、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。『豊国祭図屏風』に描かれている慶長9年(1604年)の豊臣秀吉七回忌における豊国神社の風流踊がよく知られているが、室町時代後期から江戸時代初期にかけて大流行して、風流と言えば風流踊を指すほどであった。江戸時代になると、一回性の趣向を凝らすといった奇抜さがなくなり、固定化された踊りとして各地の農村に定着していった。現代に受け継がれている盆踊り、花笠踊、祇園祭、やすらい花(葵祭)など、多くの民俗芸能、民俗行事、祝祭催事の源流が、この時期の風流踊りの影響を受けているといわれる。(※参照:尼ケ崎淋『いきと風流―日本人の生き方と生活の美学』P146)
「拍子物」と呼ばれた笛や太鼓の伴奏と流行の歌謡がつきものであった。この時代では「おどり」は「踊」の字ではなく、 「跳」や「躍」の字が当てられていたという。それは現在の「舞う」ような踊りではなく、「跳躍」するようなものであったと推察される。(※参照:尼ケ崎淋『いきと風流―日本人の生き方と生活の美学』P171)
風流踊りには「ひとつもの」と呼ばれた仮装(コスプレ)の集団がつきもので、町衆はみな知恵をしぼって、どのようにして華美でありながら人を驚かせられるかを競い合ったという。(※参照:尼ケ崎淋『いきと風流―日本人の生き方と生活の美学』P174-A)
・盆踊りへ
とくに盆の風流(踊り)は「念仏拍子物」と呼ばれ、祖先の霊を念仏で供養していた農村的な信仰と深く結びついていて、壮大な規模で執り行われていた。この時代の盆とは、旧盆(七月の一五日)の満月の日で、晴れていれば一晩中明るい。
京都の町で盆の風流踊りが流行するのは、応仁の乱、文明の大乱を過ぎた戦国時代初期であった。(戦国の世とはいえ、年中ずっと戦が続くわけではなかった。)(※参照:尼ケ崎淋『いきと風流―日本人の生き方と生活の美学』P171) 武士や公家の政治や事業にも愛想を尽かし、鬱積していた庶民のエネルギーがこのような祭で爆発していたのだろうか、そのような風流踊の流行は、民衆(京都の町衆)の豊かな経済力に支えられていた。そして派手な踊り子たちの衣装は、この時代に京都で作られていた工芸や染織の技術によるものであった。
平安時代の永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれる、春から初夏に至るまで続いた田楽の巨大催事が偶発的に発生した。その熱狂はすさまじいもので、庶民だけでなく、貴族や皇族までもが踊りに参加したという。(※註釈)
平安末期の久寿元年(1154年)の今宮社御霊会では傘の上に風流な飾りの花を掲げて唄い囃した「風流のあそび」が行われたと平安時代末期に編まれた『梁塵秘抄口伝集』巻14に記されている。
平安末期以後には、今日の祇園祭祭礼で曳かれる山車(ルビ:だし)や、その際に着る衣装や、花見などの宴席で施される華美な趣向を「風流」と呼ぶようになったという。そのような風流な嗜好を好む人を風流者(ルビ:ふりゅうざ)と呼んだ。さらに風流は庶民の芸能や美意識であったが、貴族階級にも普及していった。
平安時代には怨霊信仰が盛(ルビ:さか)んとなり、(※参照:上田正昭『日本の神々』 学生社 2003年 p.77 - 78)祟り神を慰めるための鎮魂祭である「御霊会」(ルビ:ごりょうえ)が数多く催されるようになった。スサノオを祀る信仰を習合したこの時代の御霊会が、現代も続く祇園祭の起源とされる。
*風流傘と天蓋の章は省略
C-3 風流—古式に反発する庶民の美意識の誕生
・貴族とは異なるみやびさ 俗とは新しさである。(尼ヶ崎P78)
風流は、当初は中国の歴史に倣い、才能豊かな人の様を表す言葉であった。その後「みやび」とよまれる言葉であった。しかし、その語の意味は、いつしか入れ替わっていったように思える。
というのも「みやび」の語源は「宮び」すなわち、貴族側の文化を表す側にあったのだが、いつしか「雅」の文字が当てられるようになった。それは美学の基準が「宮び」―ラグジュアリーか、「鄙び」(ルビ:ひな)ーいやしい、ではなく、「雅」か「俗」に移ったことに対応していると、尼ヶ崎淋は指摘している。
この「鄙び」とは、当時の言葉で田舎っぽいことをいうのだという。
さらに、この「雅」と対をなす「俗」とは、現代的なものなの、新しいものをさすのだと、尼ヶ崎は続ける。由緒がなく、歴st駅価値がないもの、といったところだろうか。
風流とはまさしく、このような、時代において、成立した価値感、流行的な、新しいものであった。ニャンス的であって、難しいが、少なくとも、最小に書いた通り、俗の側になった美意識の風流は、奇抜であり、~~なもの、あえて書くなら、貴族のみやびを模倣しながら、どこかずれていたり、アンチテーゼ的に奇抜さを含めた、庶民の美意識であlっつあだろう。それは貴族にしてみれば、いつもの自分たちの生活のパロディーであったり、逸脱であるから、庶民とは別の感覚で楽しめたのかも知れない。
江戸時代になると浮世絵や歌舞伎など民衆側に成立した美術と芸能がについての紹介と論考が急に行われるわけであるが、そのような町民文化が江戸期、および安土籾山の時代だけで急に成立したわけではなく、より古い時代から脈々と受け継がれてきた「俗の美学」が江戸期に爆発的なエネルギーで普及したと考えるのは妥当であろう。別な言い方をするなら、これまで美術史で語られてきた各時代のトピックからもそれら俗の美術を読み取ることが出来ると考えて本書は論考をおこなうものである。
月次風俗図屏風(つきなみふうぞくずびょうぶ)室町時代・16世紀
公家や武家、そして庶民にいたる様々な階層の風俗を描く。右端には旧暦正月の羽根つきや毬打(だきゅう)、二番目の画面には三月の花見、左端には十二月の雪遊びなどが季節や月ごとの行事を描かれている。伝統的なやまと絵画題である月次絵(つきなみえ)の形式。
能
「花下群舞図」
E 中世における恐れの信仰と、民衆の風流により始動した
日本的な「俗の美術」
密教の不動明王や闘神にみられる威嚇する仏像美術。
浄土教と穢土思想の挾間で成立した恐れの美術。
庶民たちの間で開花して、絶えることなく続いている風流の美意識。
婆娑羅における刹那なる武士と異類異形の人々の美意識。
この4つを柱として、日本の中世に萌芽した、独特の怖い物を崇め、また怖れ、さらに祝祭的な装いや祭礼を、日常へと持ち込んでいった庶民たちの美意識について検証した。
風流はは歌舞伎や盆踊りなど、日本的といわれる儀礼や芸能の根源である。
・後生へと受け継がれた日本の美意識 — 次回予告
これらの得意な美術的活動を、中世の歴史の中に内包した日本は、その勢いを消すことなく、戦国時代後の、安土・桃山を経て江戸時代へと受け継いでいった。
歌舞伎や、浮世絵など、世界的にも、他に類を見ない民衆の文化が、江戸の街で成立した。
その得意な文化は、外的な侵入を許さない、治安と、徳川幕府という300年も続く安定政権のゆりかごの中で熟成されていく。
イキや、粋(すい)、いなせ、などの美学、あるいは、かぶき者など、ストリートを闊歩した無頼の人々の文化や、風習や、思考へと受け継がれていった。
次回は、近代—戦国時代後のしらけムード、世界的に類を見ない江戸庶民の遊興文化、安土桃山のしらけムードとバブル感、かぶき者からイキの美学へ—出口なしの若者パワーと美意識、江戸庶民文化におけるポップアート — 歌舞伎と錦絵などを検証して、本講がテーマとする日本独自の美意識の成立と、その歴史的関係性について、引き続き論考を行う。
以上 15000文字
レポート提出と質問に関して(内容、〆切、提出先)
今回配信分(4/27)の授業の、小レポートの提出をお願いします。
150文字以上(長くてもよいですよ !)で、感想、質問、ご意見を書いて下さい。これで出席とします。
簡単な文章で構いませんし、長々書いて頂いてもOKです。読みます。 イラストやURL付きも大歓迎です。
提出期限は、当講義公開日から5日後の(5/01)の㈰曜日24時までとします。
*提出の〆切りは日曜になります。間違えないようにしてください!
トップページになるとおりのルールで、必ず、あなたの学籍情報を提出ファイルの冒頭に書いてください。
学籍番号+学科とコーズ名(メ芸か情デか)+学年+氏名+氏名のカタカナ表記+「授業が配信された日付」
「」は、—4/28 とか、そのデータが公開された日付です。
記載例 : 90417003-情報-情デ-5年-佐々木成明-ササキナルアキ-5/11 とか。
次週5月4日㈬は休講です。次回配信は5月11㈬です。