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「僕だけが知る神田沙也加」実名告白

「週刊文春」編集部

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1日15時間電話していました。

聖子さんと一緒に食事をした帰り道、

沙也加は「ありがとう」と言って涙を流し…

「遺骨の前、こっちを見て微笑んでいる遺影に向かって手を合わせた時に、やっぱり現実なんだというショックと、本当に沙也加いなくなっちゃったんだという絶望と。それと……もっともっと、俺に何かできなかったのかって」

 4月23日午後、小誌の取材に今の心境をそう吐露するのは、元俳優の宮田大三さん(42)だ。

「知り合って19年、お互いに一番の理解者でした。多忙になってからも誕生日や年末年始は必ず会っていた。コロナ禍以降は、彼女の立場を考えて、俺が沙也加に会うのを控えようと伝えていました。コロナ禍がなければ、もっと会えてれば……色々考えてしまいます――」

2017年12月21日、恒例の忘年会で(左が宮田さん)

 昨年12月18日、35年の生涯を閉じた神田沙也加。この日、主演ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の札幌公演初日を迎えるはずだった。

 宮田さんが言う。

「こんなに涙出るんだというくらい泣きました。あれから4カ月経ちますが、今も何も変わっていないです。今日も取材を受けるかどうか直前まで悩みました。あのような亡くなり方をしたので、沙也加はもともと悩みやすい人間だったと言う人もいると思います。でも、そうじゃない。沙也加は常に前を向いてきた人でした。だからこそ後ろ向きの感受性も強いんです。何かあれば、きちんと傷付くのです。俺にできることは、今も変わりなく沙也加に寄り添ってあげること。そう思って、最初で最後の機会として話すことにしました」

 宮田さんが沙也加と出会ったのは、芸能活動をしていた23歳の時。2003年にTBSで放送された学園ドラマ「ヤンキー母校に帰る」の撮影現場だった。2人とも生徒役として出演。当時16歳の沙也加は「SAYAKA」の芸名で活動していた。

「彼女にとってドラマ初出演だったと思いますが、しっかりしているなという印象でした。同世代が集まっていたのですぐ仲良くなりましたが、現場での沙也加はみんなでワイワイやるタイプではなく、一人黙々と台本を読んではセリフを何度も練習していました。仲良くなったのは、赤坂のTBSに向かう地下鉄の中で偶然会って話したのがきっかけでした。役者同士って、どこかライバル意識があるんですが、俺だけ未経験に近いド新人だったからか、壁が無かったのかもしれませんね。後になって、沙也加も『ダイさんとは自然と素で話せた』と言っていました」

 ドラマの撮影が終わってからも、友人としての付き合いは続いたが、沙也加は高校卒業を機に05年5月から芸能活動を一時休止。彼女はその理由をインタビューでこう明かしている。

〈仕事をしていく中で、自己を形成する時間がないという危機感があったから。「自分を見つめたい」などというまとまりがいい言葉では言い表せない、もっと荒削りな感情でした。生き方を見つける、あるいは、存在の仕方を考える、とでも言えばいいのでしょうか〉(「婦人公論」06年9月22日号)

「松田」も「神田」も名乗らず、ローマ字の「SAYAKA」で01年にデビューした沙也加。だが、CDデビューや映画のヒロイン抜擢など用意された“居場所”は、松田聖子と神田正輝というスターの両親の威光を否定できなかった。

母・松田聖子
父・神田正輝

 宮田さんが一番、沙也加の近くにいたのが、彼女が自ら立つ場所を見つけるためにもがいていた、まさにこの時期だった。

「俺も仕事や家の事情に迷っている時期でした。お互いの悩みを相談したり、1日15、6時間電話することなんていうのもザラにあって。充電しながら、携帯電話が熱くなって持つのが大変なこともありました(笑)」

 そうして2人の関係はいつしか「友人」から「唯一無二の親友」に変化していく。沙也加は自分に対して真剣に向き合う宮田さんに、こう言ったという。

「私が相談した時に、『うん、うん、そうだね』って、他の人はどこか遠慮があったり、核心を言ってくれなかったりするけど、ダイさんは、『それはお前違うぞ』とちゃんと叱ってくれる。だから信用できるんだよね。私は小さい頃から、周りが多少なりとも気を遣ってくれているのは、幼な心に分かっていた。だから、この人が真実を言っているのか、そうじゃないのかが分かるんだ」

「親子のイメージが変わった」

 そして、知り合って2年ほどが経ったある日の夕暮れ時――。

「沙也加の母です。うちの娘が本当にお世話になっています」

 二子玉川駅のそばにマネージャー、親族と一緒に現れた聖子は、宮田さんに丁寧に頭を下げた。沙也加にこの日、初めて母・聖子を紹介されたのだ。

「皆さんでお出かけの帰りでした。聖子さんがあまりに丁寧だったので、こっちも緊張してしまって、初対面なのにおかしな挨拶をしてしまった。その後、近くのパスタ屋で夕飯を一緒に食べた時は、すごく気さくにしてくれました。話し方も親子で似ているんです。特に相手の話を聞いている時、少し顔を斜めにして目を見ながら、うん、うん、と頷くところなんてソックリで。あぁ親子なんだなって。そして、この人が産んでくれたから沙也加はここにいるんだなって」

2011年、食事の席で宮田さんと

 聖子に、沙也加の好きなところを訊かれた宮田さんは「すごく優しいんです!」と答えた。すると、

「エー! そんなに優しいの!? どういうところが?」

 と聖子は面白がり、沙也加は、

「お母さん、ちょっとやめてよー!」

 と照れて笑ったという。

 2時間ほどの夕食はあっという間に過ぎた。

 聖子は別れ際、

「ワガママなところもあるかもしれませんが、沙也加のことをよろしくお願いします」

 と言って、車の窓から手を振りながら去っていった。

 宮田さんが振り返る。

「聖子さんは底抜けに明るい人で、すごく良い親子だと思いました」

 二子玉川駅まで沙也加と2人で歩いていると、明るかった彼女の顔が急に真剣なものに変わった。

「ダイさん、どう思った?」

 言葉の意味を掴みかねていると、こう続けた。

「やっぱりダイさんも、私のこと、松田聖子の娘だと思う?」

 彼女の胸の内を宮田さんが推し量る。

「母親を紹介することに色んな意味があったんだと思います。親友だから紹介したい。異性だけど大丈夫だよと伝えたい。でも、俺がどう思うのかも知りたかったんだなって。もちろん、沙也加の母があの松田聖子さんだってのは分かっていたけれど、この日親子でいる姿を見てイメージが変わったんです」

 宮田さんはこう伝えた。

「ゴメンな。言い方悪いかもしれないけど、俺、今日から“沙也加の母ちゃん”と思うようになったよ」

 それを聞いた沙也加から返ってきたのは、

「ありがとう」

 という言葉だった。

「泣いていました。それまではどこか、怖かったんじゃないですかね。この人も心の底では“松田聖子の娘”として見てるんじゃないか、と。でも、本当にその日、俺は“沙也加の母ちゃん”って感じたんです」

 沙也加は泣きながら歩き続けたという。

「ありがとう、ダイさん、本当にありがとう……」

 偉大すぎる母親の存在は芸能界で生きる沙也加にとって、逃れたくても逃れられない現実だった。だからこそ、素の自分と向き合ってくれる宮田さんの言葉が嬉しかったのだろう。

「私には、こういう人間でいなきゃいけないっていう世間からの理想がある」

 宮田さんは沙也加がそう漏らすのを幾度も聞いた。

 だが、宮田さんは、

「そう聞くと、囚われたり、縛られたり、と思いますが、彼女の場合はそうじゃなかった」

 と語る。沙也加はこう自分を捉えていた。

「私って実は真っ白い画用紙をもらって、好きに描いていいですよって言われると、案外何にも出てこないんだよね。でも、こういう絵があるので、好きなように色をつけて下さいとか、こうしてって言われたことには、ものすごく自分の力を発揮できるんだ」

 宮田さんはこう言う。

「作品には台本があって、役者がそこに色をつける。俺は沙也加には『絶対女優の仕事は向いてるよ』と伝えました。同時に、『もし他にやりたいものがあるなら自分が好きな方を選ぶと良いよ!』とも」

 06年12月、沙也加は敬愛する女優・大地真央主演の舞台「紫式部ものがたり」で、本名の「神田沙也加」として復帰する。舞台を自分の“居場所”と定めたのだった。

出待ちのファンに声を掛けて

 本番初日に呼ばれた宮田さん。舞台上の沙也加は、活動休止中、あれほど悩んでいたのとは別人のように光り輝いていた。

 終了後、約束の楽屋で待っていると、沙也加が戻ってきて抱き合った。

「私、やれたよ! あの1年半ムダじゃなかった」

 その後も舞台の初日には必ず呼ばれたが、次第に声がかからなくなっていったという。「もう大丈夫ってことだな!」と宮田さんはむしろ嬉しかった。

「忙しくなってからは、マネージャーが運転する車での移動中に俺が合流するということもありました。そんな時も、会話が止まったり、信号が赤になると、沙也加はセリフを言ったり歌の練習をしたりしていました。『求められることにとことん努力できることが、自分の持って生まれた才能だと思う』と言っていましたが、本当に超努力型の人間でした」

 宮田さんは沙也加の舞台を観て心配になったことが一度も無かったという。沙也加もこう言ってのけた。

「緊張するけど、舞台にバッと飛び出しちゃえば大丈夫」

 周囲の人間から「自分の存在を求められる」ということに何よりも喜びを感じていた沙也加にとって、女優は天職だった。

 公演後、会場近くで出待ちをするファンを見かけると沙也加は自ら進んでよく応対したという。そんな中に学生らしき子が遅くまで待っているのを見かけると、「終電大丈夫? 絶対に気を付けて帰るんだよ」と心配して声を掛けにも行った。

2008年、仕事中のオフショット

 その気持ちを宮田さんにこう話したという。

「もし私が彼女だったらすごく嬉しいんだよ。私、今それできるじゃん!」

 宮田さんと悩みを話し合った時期も「悩みを聞いてくれてありがとう」の言葉と同じくらい、「私に話してくれてありがとう」と沙也加は言った。忙しいだろうからと宮田さんが連絡を遠慮したりすると、

「ねぇ、ダイさん、そういうのやめて。なんで言ってくれないの。勝手にあいつ忙しいだろうなって決めないで。私頑張るから。好きな人には頼られたいんだよ」

 沙也加は恋人のほとんどを宮田さんに紹介した。異性の親友という誤解を招きやすい関係を、恋人に分かってもらうためだった。

 17年4月に沙也加は、舞台での共演をきっかけに9歳年上の俳優・村田充と結婚。宮田さんも直後に家庭を持った。互いの配偶者に紹介し合い、その後も厚い友情は変わらなかった。

「最後に会ったのは、コロナが流行する前。妻と子供を連れて都内で会いました。沙也加は妻に、俺の良いところを滔々と説明していました(笑)。『ゴメンねー、私、いっつもダイさんに頼ってて』と妻に謝ってもいましたね」

 笑顔の沙也加がそこにいたはずだった。

 ところが――。

沙也加が「もし、来世で…」

 最後に電話がきたのは、昨年12月のことだった。この頃、沙也加はメンタル系のクリニックで薬を処方してもらうなど、精神的に不安定なところがあると言われていた。宮田さんも、彼女の“危うさ”を感じていたのだろうか。

「悩みは誰にでもあります。彼女にも、俺にも。でもそれが今どれほどのものなのか。本人の辛さって本人にしか分かりません。例えば10年その辛さに耐えられることもあれば、一瞬の辛さに耐えられないこともあります。それでも、何かあっても、今の沙也加なら大丈夫だって信じていました」

 小誌既報の通り、当時、「マイ・フェア・レディ」で共演していた前山剛久(31)と交際していた沙也加。だが、2人は将来を巡ってトラブルになっていた。亡くなる直前、前山は彼女に「死ねよ」という言葉を何度も投げつけていたのだ。

前山(左)とは将来を誓い合っていたが……(東宝演劇部のツイッターより)

 前山は心身に不調を来し、治療に専念するとして1月5日に活動休止を発表。その後「FRIDAY」(3月18日発売号)が沙也加と前山の署名が入った婚姻届、婚約指輪が入った箱を持つ前山の写真などを報じた。一方、小誌の取材では、前山やその関係者から沙也加サイドに弔問についての連絡は行われていない。

 前山の事務所は「未だに先々のことを考えられる状態ではございません」などと回答した。

 宮田さんが「沙也加を想うすべての人に、伝えたい」と、言葉に力を込める。

「沙也加の仲間、幼馴染、ファン、そして家族。俺も含め、もう誰も沙也加に声が届かない。でもそれぞれの大切な想いだけは届いてほしい。沙也加はすべて本当のことを知って空から私達を見ているのだから、もうこれ以上、沙也加を悲しませるようなことは慎んで欲しいということ」

 沙也加に何度も言われた、こんな言葉を思い出すという。

「ダイさんだけは、何があっても私の味方でいてね」

 宮田さんが続ける。

「言われるたびに『大丈夫、俺は味方だよ』って言いました。今思えば、これは沙也加にとっての御守りだったんだなって。その御守りがちゃんと私の胸の中にあるよね、って再確認したかったんですよね。『私もずっとダイさんの味方だからね』とも言われました。私もあなたの御守りになれているんだよねって。好きな人に求められているって実感が欲しかったんですね」

 そしてもう1つ、たった一度だけ話した会話がずっと心に刻まれているという。

「ダイさん。もし、来世で生まれ変わったとしても、またサヤと出逢ってくれる?」

 宮田さんは、

「当たり前だよ。でも、もしかするとだ、すでに前世でも出逢っていて、その前世でもこれと同じ約束をしてたのかもよ?」

 と答えた。すると、

「そうだよね!」

 沙也加の顔がパッと明るくなり、「じゃあ今の1日1日を仲良くしないとね!」と言って、こう呟くのだった。

「この想い、いつか自分の歌にしたいな」――。

 宮田さんの頭の中には今も、彼女の美しい歌声が響いている。

アナ雪で飛躍を遂げた

source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号

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