「何するの!」
駅前に女性の大声が響いた。2019年5月某日、広島市でのことだ。当時20代のまだ若い男性に対し、怒りを露わにしていたこの女性は、映画監督の河瀬直美氏(52)その人である。
河瀬氏といえば、今や日本を代表する映画監督だ。07年の「殯(もがり)の森」がカンヌ国際映画祭で最高賞に次ぐグランプリを受賞するなど、国際的な評価も高い。
東京五輪公式記録映画の総監督を務め、25年開催予定の大阪・関西万博においては、プロデューサーのひとりに就任。映画監督の枠を飛び越え、国家的イベントの大役に抜擢され続けている。4月18日に開かれた万博の構想発表会では「命の奇跡を伝えたい」と語った。
そんな名匠を襲ったのが昨年12月放送のNHK BS1スペシャル「河瀬直美が見つめた東京五輪」の、“字幕捏造”問題だった。
五輪記録映画の指揮をとる河瀬氏にNHKが密着した番組だったが、不審な場面が……。
「番組中、スタッフがとある男性を取材するシーンがあり『五輪反対デモに参加しているという男性』『実はお金をもらって動員されていると打ち明けた』と字幕が出た。事実なら衝撃的な内容でした」(放送記者)
しかし、字幕と男性が話す内容とが一致しないとの指摘が視聴者から噴出。
「NHKは慌てて調査し、2月に『字幕は誤りだった』と認め謝罪。関わった職員6人が処分された」(同前)
河瀬氏は「事実と違う描き方をされ、残念に思う」と語っている。
「NHKも『河瀬さんらに責任はない』としており、記録映画は6月、2部作で公開予定です。一方で放送倫理・番組向上機構(BPO)が審議を続けており、本当に映画関係者に責任が一切ないのかも含め、真相の検証は済んでいません」(同前)
4月12日には東京大学の入学式で登壇し祝辞。ウクライナ情勢に触れ、「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である」「『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」などと述べ、賛否を呼んだ河瀬氏。
その映画監督としての作風は、きわめてユニークだ。映画ライターが語る。
「尾野真千子を見出して主演に据えた出世作『萌の朱雀』(1997年)をはじめ、故郷・奈良の美しい風景にこだわった映像で知られます。それだけでなく、生き別れた実父を探すドキュメンタリーや、自身の長男出産の瞬間を撮った作品すらあります。いわゆる芸術家肌です」
演出手法も普通ではない。
「“河瀬組”は特殊です。自身が代表を務める奈良市の制作会社『組画(くみえ)』のスタッフが主要メンバー。カリスマとしての河瀬監督を中心に、参加者は世界観への没入を求められる。たとえば俳優が事前に役の通りに生活する『役積み』が有名。また、感性豊かな河瀬監督が即興的に思い浮かんだことを実現するのが、現場の最優先だそうです」(同前)
対談で河瀬氏自身もこう語っている。
〈心の言語が通じないと、一緒にモノは作れないです、特に河瀬組は〉(『週刊朝日』17年6月9日号)
そのこだわりが招いた事態だったのか――。
冒頭の場面は、20年公開の映画「朝が来る」でのものだ。同作の制作関係者が明かす。
「河瀬監督が、撮影スタッフに暴力をふるったのです」
「朝が来る」は小説を原作に、特別養子縁組をテーマにした映画だ。養父母、実母らの人間模様を描いており、永作博美らが出演した。
撮影は19年4月に開始。“事件”が起きたのは、日程も中盤に差し掛かった5月だった。
蒔田彩珠が演じる妊娠した女子中学生・ひかりが、浅田美代子演じる特別養子縁組支援者・浅見静恵と、広島駅前で落ち合うシーンである。
駅の地下からエスカレーターを上り、駅前広場へと歩いてゆく蒔田。大きな移動撮影用カメラを抱え、女優の背中を追うように撮っていたのは河瀬氏自身だ。
「シーンを撮り終えた河瀬監督は、カメラのファインダーを覗いたまま動揺している様子だった。最後にカチンコにカメラを向ける段取りだったのですが、方向がわからなくなったようです」(前出・制作関係者)
それを見かねたのか、撮影助手として後ろに控えていた男性Aさんが河瀬氏にさっと近付く。そして方向修正を伝える意図で、河瀬氏の体に手を触れた。
その瞬間――。
河瀬氏は、振り返って激高。そして「何するの!」と大声で叫びながら、Aさんの腹を蹴り上げたのだ。
「日中で人の多い駅前だった。スタッフはもちろん、エキストラや見物客、通行人の眼前でのことです。2人はそのまま口論になり、現場は騒然とした」(同前)
なぜそんな事態に至ったのか?
「撮影助手としては、良かれと思って体に触れたはずです。助手がカメラマンに触れて危険や軌道修正を伝えることは一般的ですから。ただ少なくとも河瀬組では感覚が違った。河瀬氏は突然のことに驚き、暴力に訴えたのでしょう」(同前)
同作の撮影チームは、撮影監督の月永雄太氏が率いていた。Aさんも月永チームの一員である。
「月永氏は40代。中堅カメラマンの中では抜きんでた存在ですが、河瀬組には初参加。最初から撮影手法が噛み合わず、ギクシャクしていたようです。河瀬監督は途中から月永氏を差し置いて要所を自分で撮影するなど、不和は明らか。それが頂点に達してこの“事件”になった」(同前)
授賞式に月永氏の姿はなく…
結局、「腹蹴り」の衝撃からほどなくして、月永氏はチームごと撮影監督を途中降板。この異例の事態に、急遽代役として榊原直記氏が立てられ、エンドロールには両名がクレジットされたのである。
撮影業界関係者が語る。
「ことを収めようと、当初は蹴られたAさん側が陳謝したといいます。にも関わらず、河瀬監督はすぐに自分の非を認めなかった。月永氏としては部下を守る形で、自分から降板を申し出たそうです」
公開後、高い評価を受けた「朝が来る」は、日本アカデミー賞の優秀監督賞に加え、優秀撮影賞も受賞。しかし……。
「河瀬氏、月永氏、榊原氏が連名で受賞者となったが、授賞式に月永氏の姿はなかった」(同前)
河瀬氏との対立に、現場を去るほかなかった月永氏とA氏。2人はその後、河瀬氏とは一線を画しつつも、今も映画業界の第一線で活躍している。A氏に事実関係や胸中を問うと、
「申し訳ありませんが、私からお話しすることはありません」
また月永氏は、A氏の意思を「最大限尊重したいと考えています」と回答した。
では河瀬氏自身はどう振り返るのか。質問状を送ると事実関係を否定はせず、主に次のように回答した。
「3年前に既に、当事者間、および河瀬組内において解決をしていることでございます。当事者同士、および組のスタッフが問題にしていない出来事についての取材に対して、お答えする必要はないと考えます」
東大の祝辞のような弁舌は聞けなかった。
source : 週刊文春 2022年5月5日・12日号